どこまでもあなたと共に

悠井すみれ

第1話

 寝台が微かに軋むのを感じて、彼は傍らに横たわる妻が眠っていないことを知った。


「どうした、楽しみで眠れないのか」


 遠出に胸を高鳴らせる子供のようだ、と。揶揄いを滲ませた夫の言葉に、妻は寝返りを打つと彼の胸に額を押し付けてきた。


「楽しみだなんて──貴方の豪胆さが羨ましくなりますわ」

「実際、楽しみで仕方ないのだよ。旅行は久しぶりだろう」


 彼の寝間着を掴む妻の手の力の強さ、そこに潜んだ不安は気付かぬ振りで、彼はわざとらしく明るく笑った。本当は、彼も安眠にはほど遠かったのだが。だが、彼が眠れなかったのは不安や恐怖のためだけではない。愛する妻との旅行を前に、彼の方こそ期待と喜びで高揚していた。

 夫の稚気に呆れたのかどうか。妻は苦笑すると雑談に応じるべく軽く身体を起こしてくれた。


「昨年も旅行したばかりよ。イングランドへ──貴方はまた狩りばかりで」

「そうだが、そうじゃない。久し振りで、そして初めてのことだ。貴女に隣にいてもらえる。公の場で。帝国の領土の中で!」

「ええ……」


 彼が力強く語るのとは裏腹に、妻が頷く時、その眼には暗い影が過ぎっていた。その理由もその思いも、彼は嫌というほどよく知っていた。


 彼と妻の結婚を祝福する者はごく少なく、ほとんどの者が止めるべきだ、考え直せと口を揃えたものだった。彼の身分に妻が釣り合わないという、時代錯誤かつ理不尽極まりない理由のために。由緒ある神聖な帝冠を継ぐ者の傍らに、たかだか伯爵令嬢は似合わないのだという。彼が愛し、彼を愛し、公私に渡って支え合いたいと願う女性は妻のほかにはいなかったというのに。

 頑迷な伯父皇帝が示した最大限の譲歩は、彼が将来帝位に就いた時も妻が皇后の地位を得ることはなく、子供たちにも帝位継承権は与えられないという条件だった。身分を越えた結婚の代償に交わしたその誓約のために、妻が公の場で彼に並ぶことは許されなかった。外国を訪ねた際は、同情を示して妻に相応の敬意が払われる場面もあったが、そもそも彼ら夫妻に外交の機会が与えられることも少なかった。夫婦同伴であるべき場に出るのに、彼には伴侶がいないというのがその理由だ。そもそも妻を認めなかったのは、頭の固い宮廷の歴々なのだろうに。長年にわたる冷遇は、気丈な妻も心をたわませずにいるのは難しいほど。彼女の心労のために、彼も憤懣やる方ない思いに駆られる場面は多い。


「十四年──ここまで来るのに十四年だ。晴れの席に、やっと貴女と並んで立てる。しかも、当日は私たちの結婚記念日だ。新婚旅行のやり直しのようではないかね?」


 だが、今回ばかりは話が違う。この度彼は、帝国の帝位継承者トロンフォルガ―ではなく軍の監察長官として視察に赴く。即ち、皇族ではなく軍人としての役目なのだ。彼が軍人としての職責を果たす場合にまでも、例の忌々しい誓約の効力は及ばない。彼と妻に屈辱を強いた皇帝自らが、妻を同伴することを勧めさえしたのだ。どうして浮かれずにいられるだろう。彼は妻を抱き締めると、熱心にその耳に囁いた。


「ええ、そうね。本当に素晴らしいことだわ」


 彼の腕の中、穏やかな笑顔で再び頷く妻は、彼があえて挙げないでいたことには触れないでいてくれた。


 多数の言語と文化と民族が混在する帝国は、決して一枚岩ではない。むしろ最近は、各地で独立を叫ぶ民族運動が燃え上がり帝国の屋台骨を揺るがせている。老皇帝は、臣民の尊敬と忠誠を一身に集めて辛うじて帝国を生き永らえさせているが、延命だけでは足りないのだ。一刻も早く各民族の不満を宥め、不穏な動きは排除し、帝国の威信を取り戻さなければならない。そのための改革案を、彼は幾つも考えている。必要ならば自治も認めるし、かつて皇帝がハンガリーに対して譲歩したように、帝国と対等の王国の存在を許す必要もあるだろう。

 だが、それはあくまでも帝国があってこそのもの。帝国からの完全な独立を主張する者はその程度の妥協アウスグライヒでは良しとしない。その手の思想の持ち主からすれば、帝国の帝位継承者などは軛と圧政の象徴でしかない。彼の訪問に対しては、暗殺の予告さえ為されている。妻の晴れの舞台のために、彼自身は一歩も退く気はないが──


「──恐ろしいなら、止めておくかね? 今からでも──」


 妻の身に危険が及ぶことは、彼としても決して本意ではない。まだ幼い三人の子供たちのためにも、妻が安全を選ぶというなら無理強いする気は彼にはなかった。


「いいえ!」


 しかし、妻は短くきっぱりと答えた。彼を見上げる目に不安や恐れはもはやなく、むしろ弱気を疑われた憤りが煌めいている。彼の妻とは、こういう女性なのだ。長年に渡って冷遇されても、決して心が折れ切ってしまうことはない。だからこそ彼は惹かれたし、傍にいて欲しいと望んだのだ。


「貴方をひとりで行かせてなるものですか。私は貴方の妻なのですもの。どこへでも、一緒に参ります」


 彼の背に妻の腕が回り、力が籠められる。そこに感じる深い愛情に、彼の胸に幸せがじんわりと広がった。妻が常に彼とともにいてくれるという確信そのものが、彼に力を与えてくれる。


「……皇帝陛下は、最愛の方と祝福されて結ばれたが、皇后陛下はあの方を置いて旅するばかりだった。従弟殿はどこまでも共に行ける女性に出会ったが、向かったのは死の国だった」


 美貌を謳われた皇后は、流浪の末に異国で暗殺者の凶刃に斃れた。皇帝の実子であり、本来は帝位を継ぐはずだった彼の従弟は、相応しからぬ身分の女性と情死して父帝を大いに嘆かせた。そのふたりに限らず、彼の一族には不吉な死の何と多いことだろう。だが、彼の本意は妻の不安を徒に煽ることではない。

 不幸な前例の轍を、彼ら夫婦は決して踏むまいという──決意を込めて、彼は妻に宣言した。


「共に同じ道を進んでくれる──同じ未来を見てくれる貴女と出会えたことを、本当に幸せに思う」

「私もよ。貴方ならばこの帝国を変えることができると信じています」


 腕の力を緩めると、彼は妻と見つめ合う。夜の闇の中でも、妻の意思と理知を湛えた目は輝いて見えた。その輝きを見て思い知らされる。不安は、彼の裡にも巣食っていたのだと。妻を宥め慰める体で、彼こそ妻の励ましを求めていたのだと。


「皇帝陛下はもうお身体もお心も弱られている。早く重責から解放して差し上げたいが」

「貴方が帝位に相応しいと認めてくだされば、きっと。……そのためにも、今回の視察からは逃げてはならないと思います」

「ああ、そうだな」


 妻との結婚に際して、皇帝は彼に愛と帝冠のいずれかを選べと迫り、彼はその両方を望むと答えた。皇帝の老齢を考えれば、彼が間もなく帝冠を手に入れるのはほぼ決まった未来だ。ならば残る望みは、愛する妻に関するものだけ。彼が至高の帝位に就けば、例の誓約を覆すことも不可能ではあるまい。皇帝の伴侶は、相応しい敬意をもって遇されなければ。


「愛しているよ、ゾフィー」

「ええ、フランツ」


 夫婦は微笑み合うと、どちらからともなく寝台に身体を寛げた。お互いの思いを確かめた今なら、安らかに眠ることができるだろうと、ふたりとも信じることができたかのように。



      * * *



 軍事演習の視察のためボスニア・ヘルツェゴビナはサライェヴォを訪れたオーストリア・ハンガリー二重帝国の帝位継承者フランツ・フェルディナント大公は、妃のゾフィーとともにセルビア民族主義者の銃撃を受けて暗殺された。犯行のあった一九一四年六月二十八日はふたりの十四回目の結婚記念日だった。

 大公の暗殺は第一次世界大戦の引き金になる。その終戦とともにハプスブルク家の帝国は崩壊し、帝国の枠組みから外れた中東欧諸国は、混乱と苦難の道を辿ることになる。

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どこまでもあなたと共に 悠井すみれ @Veilchen

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