野に消えた線路
濱口 佳和
野に消えた線路
ひとの記憶には、
それがどんな大切さなのか、どれほど大切なのか、本人はもう説明することはできないけれど、忘れないこと、忘れられないことが在ったことで、すでに別の何かに変容してしまった父に対して、わたしは彼を「ひと」として見ることができたのかもしれない。
父は、芸術家になりたかった人だった。十代の頃から、さる高名な趣味人の工房に出入りし、作陶に励んでいた。
その後──経緯はよく知らないが、「美」や「芸術」よりも「生活」や「ふつう」であることを選び、誰もが感心するような手堅い就職をした。同じ無機質の中に、異なる何かを見出したのかもしれないが、よくわからない。
母と結婚した頃、父はエンジニアとして将来を嘱望されていた。だから、わたしの知る父はエンジニアだった。
父の職場は、中央線のある駅から徒歩で三十分あまり。広大な敷地の中にあった。
小学生の夏休み、おそらく日曜日だったと思う。試験機の様子を見に、一緒に行ったことがあった。
炎天下の住宅が続く広い通りを歩き、ようやくたどり着いたのは壁。延々と壁が続き、やっと途切れると黒い鉄の門があり、門衛のいる受付に声をかけてから、わたしを手招いた。その姿は普段家にいる父と少し違って、不思議な感じがした。
父の職場は公園より広い敷地のなかに、研究棟やバラックのような低層の建物が分散してあり、そのほかは雑草が生い茂るだだっ広い原っぱと、昔からそこにあるのだろう雑木林、その合間にネットが下がった幾面ものテニスコート、所々に錆びた鉄のかたまりや部品のようなものが転がったりと、ひと気がないぶん、どこか緑に埋れていく廃墟のようでもあった。
予感は的中。父の試験機は、冷却水があふれて大騒動になった。
わたしは迷子にならないよう、背後を振り返りながら周囲を探検した。
誰もいない。あまり人も通らない、草の生えた建物と建物の間を進みながら、あちこちをのぞいた。
そうやってどれほど行ったのか、気がつくと目の前に線路があった。
確かに、線路あっても不思議ではない施設だったが、その様子があまりに唐突かつ自然で、まるで住み慣れた住宅地の真ん中に電車が走っていくような、タンスの中を通ったら雪の降る魔法の国に至ってしまったような、日常と非日常の境が夏の強烈な陽射しのなかにあって、わたしは右から左へと、来し方から行く末を、その
この線路は、どこへいくのだろう。
車輌は見えず、錆びかけた線路と枕木だけが、緩やかに左折して続いている。その先は陽炎がたって蜃気楼のようににじんでいた。
わたしは線路の上に立った。
まぼろしの音を聞いたような気がした。誰もいない原野を電車が走っていく音だ。
そう。『千と千尋』で千尋がカオナシと乗ったあの電車。あれを観た時の懐かしさは、この記憶だったのかもしれない。
振り返ると、半袖のワイシャツ姿の父が立っていた。
変化はゆっくりだった。
父は、いつの間にかどうでもよい些末な記憶を捨てていった。あの夏の日のことも、もちろん憶えていない。
それだけではない。残した業績も、膨大な資料も、エンジニアとして過ごした人生も、もうかれの中のどこにも存在しなかった。
代わりに、何十年も前の工房の話をよくするようになった。以前はほとんど話さなかった当時の思い出を、その趣味人御大のことを、自分がどうなりたかったのかを、なにを望んでいたのかを。
最後まで残った記憶は、かたちにならなかった夢だ。おのれの感性に諦めをつけたのか、生活を選んだのかわからないが、当時の希望に満ちた、みずみずしい夢の輝きだ。日常の微々たる記憶が洗い流されたあと、固い結晶のようにもりもりと盛り上がり、それが父を象っていった。
いまだからわかる。
だから、あの時、父はまた始めたのだ。
だから、定年後の夢に固執した。
だから、夢を持たず流されるままの子供たちが歯痒かった。
だから誰一人信じず、だからわたしたちも穏やかにあなたを信じなかった。
もしも、という言葉に意味はない。仮定は物語だ。物語は現実ではない。ただの夢想に過ぎない。
(夢と妄想との差はどこにあるのだろう)
それでも、時折思う。
あなたがごく平凡なひとだったらよかったのに。
あなたが自分のゆめではなく、日常に満足できるひとならよかったのに。
いいや、そんなこと思っていない。在るものは、在るようにしかならない。なにがどう変わろうと、本質は揺るがない。
わたしは、それを知っている。
むかし、むかし、ゆめに身を投じることができず、家族も捨てられなかったひとがいました。年老いてもゆめもかなえられず、おのれの家族を受容することもできず、記憶の砦が崩壊したいま、かれはやはりゆめに生きているのです。
いま、わたしたち家族は、おだやかに別の時間軸を歩んでいる。
お父さん、あなたがあなたの時間軸を放棄したとき、わたしたちはやっと楽になったのだと、知っていますか。
さようなら。お元気で。
野に消えた線路 濱口 佳和 @hamakawa
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