言葉にならないほど深いノスタルジアを感じました。
約2000字で表現された物語の他に、この親子には、こんなこともあったのではないか、あんなエピソードもあったのではないかと、色々に想像が広がりました。
幼い頃、どこかで見た一瞬の景色が、ビビッドな記憶となって蘇るような、そんな感覚を味わいました。
将来、自分がどんな記憶を残し、それに対して周囲の人がどんな判断を下すのか、それは自分にも分かりません。
家族も友人も知人も、この場で創作活動をなさっている多くの書き手の皆様も、どんな記憶を残して人生を送っていくのだろう、ふと、そんなことを思いました。
「代わりに、何十年も前の工房の話をよくするようになった」の一文を"再度"目にしたとき、思わず胸に迫るものがありまして──。
最初、記憶の砦が崩壊したあとの父は、芸術家になりたかったあの頃を繰り返しているのだろうなぁなどとぼんやり思っていたのですよ。それが、かれの記憶の中で最も輝いていた頃だから。輝きを目指していた頃だから。
ただ、件の一文が目に入ったとき、はたとこう思いまして。父が、最も自分らしく在れた頃として繰り返しているそれは、云い換えれば良くも悪くも"家族に縛られていなかった頃の自分"なのではないかと。"わたし"の知る父はとうにエンジニアだったわけですから。
それゆえ、"わたし"の立場からすると中々に感じ入ってしまうものがあり──。
「だから、夢を持たず流されるままの子供たちが歯痒かった」の一文にしても、固執する父の姿が、かえって"わたし"をはじめとする子供たちの生き方をそちらへと傾けてしまったのではないかと、推し測ることもできるわけでして。
諸所の理由から私は夢や人生の目標必須ではない派なのですが──それでも、歩みを止めないひとは美しいと思うのです。それが、たとえおだやかなゆめのなかでも。
余談。"わたし"の目前に線路があらわれたシーン、嗅覚に関する描写がないにもかかわらず、夏の匂いを感じました。息をするのもやや億劫なあの感じ。余白で魅せるとはこういうことなのだろうなぁと改めて。粋ですね。