九割九分の小飛翔虫

Kバイン

九割九分の小飛翔虫

 もし読んでいる途中にご気分が悪くなりましたら、すぐに読むのをやめていただくことを強くおすすめします。

作中の表現につきましては、小説上の演出であり、犯罪、差別を容認、推奨するものではなく、並びに作者自身の思想を表すものでも決してありません。



 私が東京に来てもう十年は過ぎただろう。こうして満員電車に揺られ、長年勤めている会社近くのS駅まで通うのが凡庸な日課となっている。どうあってもラッシュ時は狭く苦しいものだが、最愛の妻とわが子のことを思えば何と言うことではない。曇った窓ガラスの向こうに薄く流れる幾筋もの水滴が、外の天気が小糠雨であると伝えてくれている。その光景はいつも故郷の道を思い出させる。霧がかった早朝の、むせかえるほどの草木の香りが、燦と照り始める陽光を溶かして、小川と小鳥がそこに模様を描いていく、高校を卒業するまで通い続けた道……。現実に戻れば、人間の熱気が充満して、何かの拍子に形となって現れそうである。


 ――カンカンカンカン――ガタン、ゴトン――


 初めて東京に出たとき、テレビで見た景色がそのままそっくり広がっていることに痛く感動したのを覚えている。両親が、「お前は学があるから学びなさい」と言って、生活を切り詰めた痕の刻まれた一万円札数十枚を押し付けてくれたおかげである。我ながら割に苦心して、大学を卒業した私は妻と出会い結婚し、息子が生まれ、最寄りの駅が安アパート傍のT駅から、ようやく買うことができた我が家近くのK駅へと変わり、身の丈に合った幸せを享受する権利は容認されているのだろう。


 ――次は、Y駅……、次は、Y駅……――


 車内の混雑が捌けて、遅れた数人がグリグリと必死で隙間を縫い、再び人で満ちる。黒や紺や白、それと肌の色を主としている。サラリーマンがスマホでニュースを読み、学生が実に器用に参考書を読み、OLが吊り広告を眺めている。私も大半と同じように片手でつり革を掴み、もう片方の手でスマホを持っている。今日は部長と面談がある。もしかしたら昇進の話かもしれない。何せ、この間のプロジェクトが上手くいったのは君のおかげだ、と言われたばかりだ。お祝いに二人に何かプレゼント、なんてのは気が早いか……。


 ――The doors on the right side will open. Please change here――


 「この人痴漢です!」

 左後方からやっとの思いのような叫び声が聞こえた。驚いて、ぐるりと振り向くと、同じように振り向いた人たちの中に、有名校の制服を着た、大人しそうな、地味な顔つきの、女子が、いた。その、怯えて睨み付ける、瞳は、私のいる方向を、向いていた。


 「痴漢……です……」

 女子は、気迫を使い果たしたのか、ふらりと体重を後ろにいたOLに預けた。見事な演技だ。そのOLが私を睨み付けた。


 そこで私は初めて自分が痴漢冤罪にかけられたと分かった。途端にすう、と周りの空気が透明になった。次に瞬きをしたときには好奇の檻がすでに出来上がっていた。とっさに「私ではありません」ときっぱり否定した。しかし、どうやっても錠を外して向こう側へ行くことができない。


 「この犯罪者が!」

 どこかから現れた偽善を被った若者が私の両の手を押さえた。そして体重をかけて私を右の扉に磔にした。不思議なことにそこは満員電車の中であるはずだったが、扉へ向かうステップだけは、死へと誘うクレバスのように見事に切り取られていた。


 「待ってください! 私は何もしていない! 今から何も触らない! DNA検査をやってくれ! 誰か! 撮ってくれ! 私は何もしていない! 何も触らない! 誰か! 助けてくれぇ!」


 私は必死の、文字通り必死の言葉を喉奥から絞り出した。枯れかけた井戸から水を汲み出すように、口から砂利混じりの、ゴロゴロと乾いた空気を限界まで繰り返し使った。そうやって死神から逃れようとする私と、逃れられないことを知って手綱を離している私と、その両者を他人事のように眺める私がいた。頭は混乱で熱くなって、冷静に「ああ、どこかのサラリーマンが撮り始めた」と観察し、言葉は事前に録音してあったものが流れていた。次の駅までの数分、時間が無限のように長く、私に強い視線の刃を向ける女が見えて、ほんの一瞬で、気の毒そうに白旗を振る男が見えて、鼓動が速いのか、遅いのか、的にならなかったことに胸を撫で下ろしてから盾を構え直す男が見えて――駅に到着すると、私と、それから偽善者、加害者とその狂信者はすぐ近くのドアから吐き出された。


 電車からホームへ移るその最後のステップは、普段は気に留めることもない狭く細長い暗闇を、確実に跨いでいたはずであったが、片足の着地したホームは何故か奈落の底で、重く空気が淀み、ぬかるみ、分厚い暗幕が体中にまとわりついて、それでもしかし、力の入らない両足は揃ってしまった。その落下の刹那は濃密に希釈され、蒸し暑い幾多にも張り巡らされた格子の中で、冷血無道に操作された将来が見えてしまった。


 (ああ! 人生が、人生が、終わってしまった! 示談? 略式起訴? 有罪、前科? 何故だ! 私は何もやっていないのに! 何もやっていないのに、犯罪者か! 無実を訴える? 会社に知れる! クビだ! 直美になんて言えば、伸助が大きくなったらどう思うか! もう晴れ姿も見ることができないのか! 親父は心臓が悪いのに! お袋はあんなに自慢にしてくれたのに! ああ! 私が、私は、善良に、誠実に、生きて、生きていた! 何故、何故、私を狙った! 社会的に弱いからか! 身分が低いからか! 殺してもよい害虫に見えたか! ああ!)


 人だかりの中にはすでに断頭台が用意されていた。いつの間にか雨が激しく天井に叩きつけられる音が聞こえている。腐った肉、発酵したチーズ、黒カビ……、黄泉の臭いがどこからともなく漂ってくる。駅員が2人、執行のために待機している。


 「ちょっと駅員室まで来れるかな?」

 痩せた方の駅員によるその宣告は、無情にも行われた。それでも私は、私の実の部分は生きるための一縷の望みを掴むことを諦めていなかった。死ぬわけにはいかなかった。


 「撮れ! 撮ってくれ! 冤罪だ! 俺は何もしていない! Y○utubeに上げろ! Tw○tterで流せ! 売れるぞ! その女もだ! 今から私を殺す女だ! そうだ! 痴漢冤罪だ! 私のこれからの道を、これまでの魂を、殺す女だ! 罪人にされる! 殺される! 今か後かだ! 死んでしまう! 何も触らない! DNA検査をしてくれ!」


 「ちょっと、静かに。まずは駅員室まで」

 けれどもしかし、その糸は細すぎて、手をかすめていく。そこにあるかもしれない可能性はゼロではないはずなのに、それは立体映像のように手のひらをすり抜けて、自身が虚構の存在であるとせせら笑ってくる。離れていく……。


 「俺は! 何もしていない! 冷たく暗い社会の底辺で! お前が忘れても! 刑が終わった後も! 永遠に! みじめに! 泥を啜り、何を食ってでも! 覚えている! 死ぬまで! 死んでからも!」


 糸口、糸口……。焦点がぼんやりとずれていく。視界がだんだん暗くなる。脳を駆け巡る血液が振動するのを感じる。頭の中に、かつてどこかで聞いたパイプオルガンの曲が流れ出す。わずかに見える死刑執行人の口が止めを刺さんと形を変えている。


 「今からでもいい、嘘だと言ってくれ! 言ってくれぇ! 助けてくれぇ! 誰かぁ! 誰かぁ!」


 自分の口から出る音は、分かっているはずなのに、聞こえない。心臓が不規則に鼓動を打つ。肺が、横隔膜が、動かせない。五感が、苦しい。檻が、狭い。狭くなる……重い……押される……詰まる……、ゼヒッ、ゼヒッ……。


 (直美……、伸助……)


 あ。広がった。どこまでも薄く……。そうして私は事切れた。





 「それで、気が付いたらここにいたのですね」

 私は眼前のこの男に事の次第を語った。男は三日目にして初めて私を認識した人間であった。彼はホームの椅子に座ってタブレットでニュースを読んでいるふりをしながら私の話を聞いていた。記事の日付はあの日から既に一年近くが経っていた。

 男の年は、私より少し若いくらいだろうか、やや古めかしいジャケットスタイルであるが、活気溢れる都会のエネルギーに染まっており、どうも推測しにくい。どこにでもいるような、いないような、つかみどころがない。


 「はい。……あの、俺は死んだとばかり……。一体、何が?」


 「続きは向こうで」

 男は小声で簡潔に言うと、線路と外を仕切るフェンスの、ちょうど背の高い木が近くにある場所を指し示した。この駅と線路は数段盛り上がった場所に作られているが、その木の頭頂は仰いでも見ることができないほど成長している。確かに目印にするには都合が良いだろうが、その意図するところが分からない。


 「あの……」

 男は私の返事を待たずに改札へと向かう階段を上っていった。その背中を追いかけようとして、私は足を止めた。男のいた場所を不審そうに睨む、脂臭そうな脱色した白髪交じりの醜女がいたからであった。第一追いかけたとて、この駅から出ることはできない。何にしても、他に寄る辺はない。

 その男に従って、私はホームを降りた。急に静かになったような気がする。線路をまたぎ、バラストの上を歩いていく。電車が来ても轢かれるなどということは最早あり得ない。密に茂った雑草を避けて、行き止まりに着いてから沿うようにして数メートル進み、そこでフェンスによりかかって外の世界に背を向けた。爛々と輝く照明に隠れて星の姿を見ることができなかった。


 「お待たせしました」

 やや経って、向こう側に到着したらしい男の声が下から聞こえた。振り向いて覗き込むと、ちょうどそこは上手い具合に土手が窪んでおり、地の利のあるものでなければ気づかない場所である。男はそこに立って周囲の視線を回避していた。


 「あの、私は一体……?」


 「うーん……。詳しいことは分かりませんが、お兄さんの元の方、とでも言ったらいいのか……、その方はそのときに亡くなりました。お悔やみ申し上げます」

 元より知ってのことだったが、改めて聞かされても悲しさを感じることはなかった。ただ、客観的にそういった事実があると知らされているようだ。

 「それで、あなたはご本人の幽霊なのか、それとも、同じ被害に遭った、または遭うことを恐れている人たちの思念によるモノなのか……」


 「モノ? それは、どういうことでしょうか?」


 「妖怪、怪奇現象、都市伝説……、何なのか分かりませんが、そういうモノです。私には区別がつかないのです」

 男は説明口調で淡々と補足すると、話を続けた。

 「それで、先程も伝えましたが、あなたは有名なのです。と言うのもですね、この動画が電車に乗る男性たちのお守りになっているのです。万が一痴漢冤罪に巻き込まれたときに、あなたと同じ覚悟があると、あなたと同じ目に自分を合わせるのかと。すぐに再生できるように専用のアプリもありますよ、これですがね」


 男はスマホの画面を私に向けた。そこには私がつい先ほど語っていた場面が映し出されていた。禿げ頭とブロンドの隙間から私が苦しみもがいているのが見える。同時に降車した人物たちも、駅員たちも、モザイクで保護されている。


 「ああ。そうだ。それは俺だ……。誰かが流してくれたのか……。もう今となっては……、でも、同じ思いをする人がいなくなるのなら……。そうだ! 妻は、子供は、どうなったか、分かりませんか?」


 「ええと……」

 男は私から視線を逸らすとスマホを何度か操作しだした。知りたいはずなのに、知ってしまったら、それがもし、悪い話だったら……。知るためには知らなくてはならないが、それが途端に怖くなる。息が荒くなる……。

 「週刊誌によると、三人ともひとまず経済的に不自由なく暮らしているようです」

 体が軽くなり、滑らかに満ちていく。良かった……。今の私にとっては、せめてもの救いだ。

 「ご家族には匿名の寄付が幾分かあるようですね。どうも事件に関心のある方からのようです」


 「ああ……、良かった。直美……、伸助……。三人?」


 「ええと……、生まれたばかりの、と書いてありますから、二人目のお子さんということでしょうか」

 言葉が出ない。わが子の誕生。これ以上ない喜びが押し寄せてくる。


 「あの、写真は? 名前は? なあ、教えてくれ!」


 「うーん、流石にそこまでは……、画像検索も……」


 男は何度となくスマホを操作していたが、私の希望を叶えるのは難しいようであった。

 「申し訳ありませんが」

 一旦押し寄せた波が引いてしまうと、後にはその大きさを語る痕跡だけが残っていた。親父とお袋も名のある人物ではない。調べてもらっても詳細は分からないだろう。職場は? そこまで何でも頼むものでもないだろう。この正体不明の男に。そこでようやく私はそのフェンスの向こうにいる男自体に興味を持った。


 「それで、あの、あなたは俺を退治するんですか? それとも、天国に?」

 私の問いかけに男は顎を触ると、わずかの間考えてから答えた。


 「特にそういうわけではありません。だから、まあ、後のことはあなた次第ですね。どうしたいのでしょうか」


 俺がどうしたいのか。家族は無事だった。二人目も生まれた。もう、思い残すことは……ある。ありすぎる。二人目の顔が見たい。名前が知りたい。子供たちの成長を見届けたい。一緒に酒を飲みたい。たくさんありすぎる。直美と一緒に年を取りたい。思い出を共有したい。孫の顔が見たい。親父とお袋にもっと孝行したい。ありすぎる……。

 そして俺は、俺自身ではないかもしれない。やがて消えるのかもしれない。それまでにすること……。家族に要らぬ期待を、再び思い出させるのを、よしなには思わない。思えない。それまでにすること……。


 「万が一……、万が一ですが……、俺が、万が一ですよ、あの女をどうにかしてやりたいと言ったら……、どうなります? 仮定の話、です。仮定の」

 机上の空論ということとして出現したこの考えに、男は驚きもせず、淡泊に反応した。


 「まあ、何を考えるも自由ですから。それにやったとて死後ですし、捕まらないでしょう。私がこうして言っているのも殺人教唆には当たりません。何分、裁判で因果関係を証明することができないのですから」


 「でも、俺を見ることができるのなら……」


 「まあ、別に正義のヒーローではありませんから。あなたたちを盲目的に始末して、人間を見境なしに守る作為義務もありません。大体そのような法はありませんし。要は、普通の大人が、大人だからといって、全ての子供を守るわけでも、守る義務があるわけでもないのと同じです。ただし――」

 その瞬間、茹だるような夜が吹き飛び、私は全身に氷水を撒かれて、吹き曝しの中に立っていた。

 「誰かに頼まれたら、身内に手を出したら、始末します」

 その男の目が初めて私を捉えたように見えた。冷たく容赦のない瞳だった。





 男には次の予定があった。私は男に礼を言ってからそこを後にして、再びホームに上った。それから椅子に座り、再び自分がどうしたいのかを考えた。考えて……、発端は……、考えて……、集約し……。その内、意識が途切れ途切れになって、瞼が重く、首に力が入らなくなり、眠ってしまっていた。


 次に気が付いたとき、私は同じホームの椅子に座っていた。目の前にはあの女がいた。花柄のピンクのパジャマを着ている。俺を殺したあの女だ。素足だ。俺の未来を奪ったあの女だ。寝癖が付いている。俺の身内を不幸にしたあの女だ。

 そして、ここが現実のホームではなく女の夢の中であると、二人ともすぐにはここから出られないと、分かってしまった。

 女と目が合った。


 「え……、何で……?」


 私が立ち上がると女は一歩後ろに下がった。足を前に一歩動かす。女が一歩下がる。その顔は困惑から恐怖へと表情を変えている。一歩進む。一歩下がった。進む。点字ブロックを跨いだ。進む。女の踵が空を踏んだ。


 「いやぁっ!」

 女は体の向きを変えると、ダッと走り出した。階段を駆け上がっている。追いかける。狩り、いや、そんな一方的なものではない。これは、強いて言えば、復讐だ。無実の罪を着せられた怨霊の祟りだ。なるほど、こういう感情だったのか。


 階段を上りきった女が右折して視界から消える。自然と眉間に皺が寄り、頬の筋肉が持ち上がり震え、犬歯の剥き出しになった口から生臭い空気が燻る。全身の毛が鋭く逆立ち、その一本一本が事を成し遂げんと燃え上がる。血液が激しく循環し、体は前のめりに形を変えて、至る所から黒煙が吹き出す。指の筋肉がこわばり、腹と背中の筋肉が熱く滾り、両足は階段を焦がさんばかりに踏み蹴って、視界に再び女が映る。追いかけて、距離は縮まり、コンビニの手前で、追いついた。


 「やだぁ!」

 女の服の襟を鷲掴みにして、引き寄せ、それに抵抗しようとする力もろとも床に打ち付ける。女の髪が暴れて、高級なシャンプーの匂いをまき散らす。鈍い音がした。手を離す。女が緩慢に両手で上体を持ち上げ、片膝を抱えて前に進もうとした。その腹に重く足を命中させる。「ヴゥッ」と口から音が鳴って、女は横向きにうずくまった。夢の中の感覚は現実にフィードバックされているのだろうか。そうでなくとも、記憶は残るだろう。


 「いだい……、いだいよ……」


 すぐ近くに通勤鞄ほどの工具箱が落ちていた。それを手に取って、なおも逃げようとする女の頭を振り抜く。「アダッ」と音が鳴る。倒れた女の背中にまたがる。ぬるい、弛緩した温度が尻に伝わる。工具箱からクイッククランプを出して、その足首の一つにはめる。握りこむ。わずかに柔らかい肉の抵抗を感じる。


 「ごめんなさい! 違うの!」

 握りこむ。握りこむ。硬い抵抗がミヂッっと軽くなった。握りこむ。女から生温かい液体が漏れて、花模様を毒々しく染め上げ、床を濡らし、得も言えぬ臭気を放った。クランプを無理矢理捻り外す。足首が内側に向いて、後ろから音が聞こえた。


 「ごめんなさい! もうやだぁ!」


 その言葉を口にしても、誰も蘇ることはない。体の向きを変えると、大きく見開いた瞳とそこから漏れる涙が見えた。あの目だ。片方の手を掴む。上等な石鹸で磨かれた、きめ細やかさを感じる。ラジオペンチを取り出し、整えられた爪と指の間にねじ入れる。パタパタともがくもう片方の手を踏んで、グリグリと進める。内側から赤く染まる。進める。引き抜く。


 「アギィ!」


 一本ずつ、一本ずつ……。女の顔は眉がひしゃげ、目の周りが盛り上がって細まり、そこから涙が、開いた鼻から鼻汁が、横に広がった唇の隙間から泡交じりの涎が漏れて、その白い肌の下が牡丹色に染まりきっている。人を殺すなら、殺される覚悟があるということだ。その指の関節を手の甲側に折り曲げる。一つずつ、一つずつ……。


 「アグッ!」


 口に金槌の柄を当て込む。膝でその両端を押さえる。並びの良い白い歯が見える。ペンチを当てる。女の充血した目が何かを請うている。追い詰められたネズミは、あらゆる手段を使う。追い潰された人間だってそうだ。挟んで、引っ張りながら手前に、奥に、強く握りすぎてヒビが入り、女の胴が跳ねようとして、手前に、奥に……。グラグラと揺れ出して、ブチッと抜けた。線の入った白い歯の根元には小さな肉片がこびりついていた。


 「ンムゥゥウ!」


 錐を取り出して、その先端を斜めに床へ当てて曲げる。女の口は血まみれで、目は虚ろに濁っている。鉤状になった錐の先を片目に当てる。膝に力を入れて、暴れ出そうとする女を押さえ込む。重みで口角が裂けていく。からかいや間違いであろうが、結果は変わらない。眼球と眼窩の間に錐を挿しこみ、その隙間を何度か回し動かしていく。女の四肢が不規則に跳ねだす。眼球がぐらついたところで、鉤を使って、取り出す。あっという間に眼窩に血が溜まっていく。


 「ァ……」


 反応が鈍くなる。しかし、女が姿を消さず、ここが元の駅ではないということは、女にはまだ意識があるのだろう。鋸を取り出す。片足で肩甲骨の間を踏み押さえる。女の、横向きになってこちらを向いている蒼白な肌に赤が映えた顔の、その頭部に、刃を当てる。ギコ……、ギコギコ……。髪の毛が絡まる。ギコ……、ギコギコ……。刃先が血と肉でぬめる。


 「――、――」


 女の喉が微かに動いているが、音は出ていない。ギコ……、ギコギコ……。俺のこれまでの、質実剛健に努めた生を、そこからの、素朴ながらも温もりのあったはずの未来を、返せとは言わない。言っても戻らない。ギコ……、ギコギコ……。相応の思いをしてもらえればそれでいい。ギコ……、ギコリ。抵抗が一様になる。刃を進めていくと、切り口の隙間から乙女色のヌラヌラした塊が追い出されるようにはみ出てきて、その動きに合わせるように女の体は下手なマリオネットそっくりに踊り出して――。



 不意に意識が薄らいできた。時間が来たらしい。


 「また明日」

 足元に転がっている赤い花柄の肉塊にそう告げて、目を閉じる一瞬の間に肉塊がピクリと反応したのを見ると、私はゆっくりと瞼を持ち上げた。





 (ああ、行ってしまった。年を取るとこれだ……)

 乗ろうとした電車を寸で逃した私は、小さく深呼吸をすると、ホームの空いている椅子に腰掛けた。年と共に歩くのが遅くなっている。忌々しい。ずっと昔のままでいられないものだろうか。

 それに、道があんなに変わっているとは思わなかった。おまけにバッジがとれかけたせいで信号を渡りそびれた。ハンカチを取り出して額の汗を拭う。ホームには人影がまばらにあるばかりだ。皆、先の電車に乗っていったのだろう。まあよい。夜も遅いとはいえ次の電車は直に来る。半端にできた時間は新聞を読んでいればいい。


 私はカバンから新聞を出して適当にめくると「ジガバチやスズメバチを襲うオニヤンマについて」という記事に目を落とした。ふと、後ろの椅子に座っていた若い女性二人の会話が聞こえた。


 「ねえアズ、ミンチさんって知ってる?」


 「え、何それ? 新しい料理?」


 「もう、違うよぉ。ほら、前にアレで死んだ人いるじゃん? ほら、コレ。……その人の幽霊がね、夜寝ているときに、その女の子を探しに、枕元に来るんだって。ペタ、ペタ――」


 くだらない。ありもしない話を持ち出して、嘘に決まっている。見た試しがない。誰でもわかることだ。目にしたと言う奴がいるのなら、そいつはペテン師以外に考えられない。


 「ちょっと、怖い話やめてよ、ネイのイジワル。夜電気消せなくなるじゃない。でも、どうしてミンチさんなの?」


 「それは、見つけたらミンチにするからじゃない?」


 「その発想が怖いってば。もう肉じゃが作ってやらないぞぅ」


 「ごめんごめん、お詫びに今日の夕食は私が作るから」


 「じゃあ、許しーますっ」


 「もう、アズ大好きっ。愛してるぅー」


 「ちょっとネイ、家の中以外でベタつかないって約束したでしょ」


 全く、理解しがたい。おかしな連中ばかりだ。今しがたもフェンスに向かって話しかける野郎を見たばかりだってのに。こういう連中はいつか犯罪を起こすに決まっている。そうなる前に例外なく刑務所に入れるべきだ。どうせ今まで碌なことをしてこなかったに違いない。

 大体、こういう連中は今まで周りにいなかった。いること自体がおかしい。一人二人がしゃあしゃあと出てくるものではない。連中は矯正されなければならない。そうやって社会は回って来たのだ。そうなればそのうち、ありがたく思う日が絶対にやってくる。


 「でも、でもね、もしネイが殺されちゃったら、私、悲しいよ。絶対そのお化け、許さないよ、多分……」


 「ただの作り話だよ。作り話。分かるけどさぁ。それにしても、お化けって。アズ……。もうかーわーいーいーっ」


 「だからくっつくなって、ネイ、人目っ、ステイっ」


 その気持ちだけは分かってやらないこともない。私も仮に、家族がそうなったら、何をしでかすか分からない。果たして綺麗事で済むわけがない。ただ、そんなことはあるはずがない。所詮他人事だ。私は社会を堂々と生きてきたのだ。関わるなどあり得ない。

 何だか早く家に帰りたくなってしまった。今日はちょうど、娘が贔屓にしていた店のフォンダンショコラも買ってある。子供の頃から食べている馴染みのやつだ。久々のことだし喜んでくれるだろう。


 聞き慣れた案内放送の後、閑散とした電車がやって来た。私はその電車に乗るとホームと反対側の席に腰を下ろした。間もなく電車は動き出した。逆行するホームの中に、先の若い女性二人が見えた。(終)



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