フィンガー・リトル・キス ⑤
それから私と田端くんは、いわゆる「普通の」セックスをした。
初めてで痛がる私を見て、田端くんは何度も堪えるようなそぶりを見せたけれど、酷い事は何もされなかった。叩く事も、首を絞める事も、痛がる私を強引に犯すような事もなかった。むしろ献身的ですらあった。
彼は繰り返し私の名前を呼び、刻み込むように「好きだ」と言い、身体中に優しく触れた。
特に、背中は何度も撫でてくれた。ノックされていた頃の事を思い出し、お腹の奥が熱くてたまらなかった。そんな私に気付いた彼が「やっぱ条件付け、できちゃってる」なんて、耳元でからかうように囁いた。
後ろ暗い淫靡さがあるわけでもなく、王子様が導く薔薇色の世界でもない。普通で、平凡で、ごくありふれたセックスは、私を幸せな気持ちにしてくれた。
もうひとりぼっちじゃないんだ、しあわせになってもいいんだ――そんな事を、蕩けた頭で考えた。
日付が変わった頃、シャワーを借りた後にスマホをチェックすると、おびただしい量の通知が残っていた。マナーモードにしていたせいで、全く気付いていなかった。
メッセはマユリ、着信記録は父親で埋まっている。嫌な予感を覚えつつ、先にマユリのメッセージへ目を通すと、とんでもない事が書かれていた。
『カナメちゃん、さっきはごめんね』
『今どこにいるの? マユリは駅裏のネカフェにいます』
『これを見たら連絡下さい』
『タバタくんと一緒ですか?』
『返事しなくてもいいから見て、村松くんがカナメちゃんのお家に行ったの』
『たぶんさっき揉めたこととか、タバタくんのこととか話してると思う』
『あんな人だと思わなかったの』
『止められなくてごめんなさい』
マユリの謝罪メッセは、その後も延々と続いている。父親からの着信は二十分前で途絶えていたけれど、どう考えても「じゃあ帰って来るまで待つか」というような性格はしていない。警察に通報しかねない人だ。
慌てて折り返そうとした私を、田端くんが止めた。
「いま連絡したら、多分あの子を出せって言われるよ。メッセに返事して、合流して……ああ、着替えに時間がかかるのか。いっそこっちに呼べば……」
田端くんの考えを遮るように、玄関の呼び鈴が鳴った。こんな時間に家を訪ねてくるなんて、絶対に普通の来客じゃない。
それと同時に、私のスマホに着信が入った。画面には「お父さん」と表示されていた。
玄関へ行こうとする彼を、咄嗟に引き止めた。
筑原高校のジャージを着て、濡れた髪の私が姿を見せたら、何の言い訳もできなくなってしまう。
「カナメ、時間切れだ。ここで居留守使ったら、たぶん次は警察沙汰だよ」
「でも、バレちゃったら田端くんが」
「いいよ、叱られたって」
「叱られるだけじゃ……済まないよね?」
「だろうね」
たぶん、ただ叱られて終わりにはならない。
私が……というより、私の家が絡む以上、この事は間違いなく大騒動になる。私たちは「二度と会うな」と言われるだろうし、私と引き離す為に、田端くんを町から追い出すような話にだってなりかねない。
私一人が叱られるだけで終わりたい。どうにかごまかす方法は、ないだろうか。
「今から駅まで走って、マユリと会ってから折り返せばっ」
「その足で走るのは無理だし、玄関通らなきゃ出られないだろ。今は諦めて」
「やだ、ダメだよ、会えなくなっちゃう……」
「二度と会えないわけじゃないから。ちょっと、スマホ貸して」
田端くんは私の手からスマホを取ると、自分のスマホと連絡先を交換してしまった。その間に呼び鈴がもう一度鳴って、ドアの向こうから「
「登録名、女子の名前にしておいて。連絡だけは取れるようにしてて、いい?」
「わかっ……た」
「じゃあ、ドア開けるよ」
「やだ、帰りたく、ない」
「俺だって、帰したくはないけど……今は我慢して、カナメ」
田端くんは、私を強く抱きしめた。
こうして彼に触れる事は、二度とないのかもしれない。そう思うと、涙をこらえる事はできなかった。
そこにいるのはわかっていると言わんばかりに、玄関のドアがノックされている。
私のスマホは、メッセと着信で延々と震え続けている。
その何もかもを無視するように、私たちは、そっと触れ合うだけのキスをした。
ひとりにしないよと、彼は言った。
私たちが予想した通り、翌日は大騒動になった。
田端くんのご両親は、経営する学習塾の合宿をわざわざ抜けて、私の両親に頭を下げに来ていた。
同席はさせて貰えなかったけど、引き戸の隙間からこっそり盗み見ていると、田端くんも無理矢理に頭を下げさせられて、遊びじゃありませんと食い下がり、おじさんに頭を殴られていた。
どうしてなのか、彼だけが悪者になっていた。私と彼は共犯だったのに。
村松くんのしてきた事や、みんなが私を無視していた事には、誰も何も言わなかったのに……こんな時ばかり、どうして責めるんだろう。
田端くんは、私のすべてを受け入れてくれた、たった一人のひとなのに。
途中で母親が席を立ったので、最後まで覗き続ける事は出来なかった。
田端くんから送られてきたメッセには、やっぱり二度と会うなって言われた、早くこの町を出るように言われた、と書かれていた。
村松くんの罵声を思い出して、吐き気がした。
親に勘当されそうだとも書かれていて、私のせいだと落ち込みかけていたのだけれど、最後に「祭りで会わなきゃよかったなんて思わないこと」と添えられていた。
三日と経たずに彼は京都へ戻されてしまい、私も親の監視が厳しくなったせいで、頻繁に連絡を取り合うのは難しかった。
少しでも彼の存在を感じていたくて、射的で取って貰ったフクロウのキーホルダーを、肌身離さず持ち歩いた。
知恵と幸福をくれるというこの子に、すがっていたい気持ちもあった。
◆
空港のロビーでマユリに会ったのは、短大を卒業した直後の事だった。
私に気付いたマユリが、カナメちゃん、と明るい笑顔を浮かべながら駆けて来た。やたら可愛いキャリーバッグが、ガラガラと音を立てている。
卒業旅行に行くとは聞いていたけど、今日出発だとは知らなかった。
「カナメちゃん! 空港で会うなんて奇遇だねっ、どこ行くの?」
小首を傾げるマユリに、卒業旅行に行くんだよ、と答えた。マユリはそっかあ、と一瞬だけ納得しかけて、それからジトッと私を睨んだ。
「私との旅行は断ったじゃない! お家の人が許してくれなかったって!」
「そうなんだけど、どうしても今すぐ京都に行きたくてさ、脱走してきちゃった」
「えっ、脱走!?」
大げさに驚いたマユリは、すぐにふんわりと笑って、カナメちゃんらしいね、と言った。
「マユリは沖縄行くんだっけ?」
「うん、クジラを見にいくんだよ! 楽しみなんだぁ♡」
「クジラかぁ、いいね。私は人力車とか乗ろっかな」
「わあ、素敵!」
喋っていると、少し離れたところから、マユリを呼ぶ声がした。いつも一緒に遊んでいた子たちだ。私にも気付いているだろうに、誰も私の名前は呼ばない。
マユリを通して喋っていただけだから、そんなものだろうな、と思う。
「ほら、みんな呼んでる。もう行きなよ」
「うん……あのね、カナメちゃん」
マユリは、私の両手をぎゅっと握った。
「あとで新しい住所、教えてくれる? 沖縄のおみやげ送りたいの!」
「あ、うん……って、マユリ?」
「大丈夫、ちゃんとヒミツにできるよ♡」
私の覚悟を見抜いたマユリが、またね、と笑って駆けて行く。そしてみんなに囲まれたマユリは、一度だけこちらを振り返って、小さく手を振った。
「バレちゃってるけど、平気?」
私の肩に、優しい手がそっと触れた。私をここから連れ出してくれる手だ。
「マユリだから、たぶん大丈夫……あの子とは、縁、切りたくない」
「そう。じゃあ、そのうち遊びに来て貰えば? 去年の夏の埋め合わせ、村松のせいで散々だったし」
狭いアパートだけどさ、と彼が笑う。
私との騒動のあと、彼は勘当を言い渡されて、奨学金とバイト代を頼りに大学へ通い続けている。決して楽ではない暮らしなのに、ようやく自由になったよ、と彼は言った。
「私の仕事が決まったら、広いお部屋に引っ越ししない?」
「くははっ、カナメは新卒カード捨ててるんだからさ、俺が就職するまで待てって」
「節約すればなんとか……ならないかなぁ」
「んー、今のアパートも引っ越したばっかりだしね。というか、カナメはまず自活の恐ろしさを知るべきだな、うん」
頭をわしわしと撫でられたところで、搭乗アナウンスが流れ始めた。行かなければとわかっているのに、ついつい足がすくんでしまう。
本音を言えば、怖いんだ。何もかも捨てて、彼のところへ行こうというのだから。
怖いけれど、行かなくちゃ。今のままじゃ、二人ともひとりぼっちのままだから。
私たちの事なんて、誰も気に留めないところで暮らそうって……たくさん話し合って、二人で決めたことなんだから。
「やっぱり、怖い?」
「怖くないよ!」
「お前、ホントに嘘つけないな。迎えに来てて良かったよ」
温かな手が、私の背中を撫でた。指先でキスをするみたいに。
私がどうなってしまうのか、わかってるくせに、こんなところで。
「カナメを傷付ける連中なんて、全部捨ててきていいんだよ……怖いだろうけど、少しだけ頑張ってみて」
「んっ、うん……っ」
「大丈夫、ひとりじゃないよ。カナメはただ、俺のことだけ見てればいいんだから」
甘く痺れてしまった頭で、何度も頷いた。
そうだ、私を否定したものなんて、何もかも捨ててしまえばいい。誰も助けてはくれなかった。受け入れてくれたのは彼だけだ。この人がいないと生きていけない、ひとりぼっちには戻りたくない……たったそれだけだ、それだけなんだ。
「……死ぬまでずっと、手放してなんか、あげない」
彼は耳元で囁くと、私の背中をそっと押した。
縛り付けられるような言葉が、たまらなく、嬉しかった。
(了)
フィンガー・リトル・キス 水城しほ @mizukishiho
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