フィンガー・リトル・キス ④
田端くんは潤んだ目で私を見つめて、腰をひときわ強く押し付けてくる。意味のある言葉になれないままの声と、飲み込みきれなかった唾液の糸が、だらしなく開いた唇から零れていた。
私なんかで、こんなに興奮してくれる。その事が嬉しくて、頬が緩むのを隠せない。
彼は痛いくらいに強く私の肩を掴み、大きく息を吐いた。そして身体を捻るように、私をベッドへ押し倒す。
されるがままの私を見て、嬉しそう、と呟いた。
「カナメがそんな顔するから、俺、普通になれない……他の子じゃダメだったんだ、普通のセックスじゃ足りなかったんだ」
その時の田端くんは、とても複雑な表情をしていた。どこか蕩けているようで、だけど泣きそうにも見えたし、困っているようにも、怒っているようにも思えた。
「村松の言うとおりなんだ。俺はカナメに、酷いことをしたいんだよ……ずっと忘れたかったのに、思い出さないようにしてたのに、どうして今更会っちゃうんだよ……!」
喉を絞ったような、細い声。だけど確かに、それは叫びだった。
「その、ひどいこと、してもいいよ」
彼にとって正しいセリフはわからないけど、私にとっては、これが正しいセリフだった。どんな気持ちも、それが私の事を好きだという証なら、その全てを受け入れてあげたかった。
田端くんは苦しそうに目を伏せて、畜生、と呟いて、私の首に両手をかけた。
「自分が何を言ってるか、ちゃんとわかってるの?」
両手に、少しだけ力が込められた。首を絞めているというほどの強さはなく、そっと動脈を圧迫されているような感じだ。
彼に与えられる息苦しさよりも、その表情から伝わる苦しみの方が、私にはよっぽど辛かった。
「あー、失神するまで締めちゃおうかな……きっとカナメは、嬉しい顔をするから……それでさ、カナメに、俺のしたいことを……全部、勝手に……」
彼の目からは涙が零れて、唇からは、できもしないような言葉が漏れた。私を怖がらせようと思って、こんな酷い事を言ってるんだ。そうに決まっている。
だけど、もしも本気だとしたら、私はどんな表情になるんだろう。
田端くんは自分を「普通になれない」と言ったけど、もしかして、本当の意味で普通じゃないのは、私の方ではないのだろうか?
頭がぼおっとして、お腹の奥が熱い。
息苦しさとは別の理由で、私は言葉を出せなかった。
「嘘だよ、しないよ、そんな事……できるわけ、ないんだ」
田端くんは私の首から手を離して、甘えるように身体を預けてきた。
狂乱の魔法が解けるように、ゆっくりと興奮が醒めていく。
「怖がらせて、ごめん」
「ううん、怖くなんか、ないよ」
私は、彼の背中へ手を回しながら、耳元でそっと囁いた。
怖がったりするわけがない。私はちゃんと、田端くんのことを知ってるんだ……私が本気で嫌がる事は、絶対にしない人だってことを。
「田端くんが、背中をノックしてくれたおかげで、私はひとりぼっちじゃなかった。今だから許せるとかじゃなくて、大げさに言ってるわけでもなくて……救われてたし、嬉しかった」
さっきまでの雰囲気、二人でしていたこと、その何もかもを無視して、私は懸命に言葉を紡いだ。この場で伝えておかないと、永遠に伝える機会は来ないような気さえしていた。こうして会えたことだって、奇跡みたいなものなのだから。
あの行為は間違いじゃなかったのだと、どうしても伝えておかなくてはいけなかった。
「変なヤツ。叩かれても首絞められても、嬉しくなっちゃうわけ?」
「うん……田端くん、だから」
「おっ、言うねぇ?」
田端くんは昔のように茶化してから、ありがとう、と言った。その声の柔らかさに、私もちょっとだけ緊張が解けた。
身体を起こした彼は、私のことも抱き起こし、すっかり乱れた浴衣を軽く直して「着替え貸すよ」と立ち上がった。
「シャワー浴びといで。着替えは何でもいい? 前の彼女が置いてったやつなら女物もあるけど」
「それは……遠慮、しとく」
「そっか。捨て忘れてただけなんだけどね」
田端くんはクロゼットを漁っている。その背中を眺めている私は、ショックを受けるような立場にはいないのに、一人で勝手に傷付いている。滑稽だ。
彼女がいたんだ。そりゃそうだ。あの田端くんだ、ずっと一人だなんてありえない。この部屋に来ていたのだって、別に不思議なことじゃない。
この部屋で、このベッドで、彼女のことを抱いていたんだ。
彼が「足りない」と言った、普通のセックスを、ここで。
よくよく考えたら、生きる世界が違うとすら思っていたこの人と、今日の私はなんてことをしているんだろう。
私はクラスの底辺にいた。そして田端くんは、一番上のまぶしいところにいた。こんな事を知ったら、みんなはどう思うんだろう……彼の価値が、下がってしまったりしないだろうか。
「なんでそんな顔してるの?」
我に返ると、田端くんは私の隣に腰を下ろして、心配そうに顔を覗きこんでいた。その手には黒いジャージと白いシャツが握られていて、筑原高、と刺繍がされていた。筑原高校のジャージだ……すっごく頭がいい人しか、着られないやつ。
「彼女の話を出したの、嫌だった?」
「ううん。彼女くらい、いたよね」
「まぁ、高校卒業と同時に別れて、そのまま音信不通だけど。俺も特に好きだったわけじゃないし」
当然の事みたいに、田端くんは言った。
それならどうして付き合ってたのか、私には不思議だった。田端くんは「彼女持ち」というステータスに固執するようなタイプじゃないと思うから、余計に違和感があった。
考え込んでいると、彼は首をすくめた。
「じゃあどうして付き合ったんだよって、呆れてるんだろ?」
「そ、そんなことはっ」
「あるある、カナメは嘘つけないんだって。思いっきり顔に書いてあるからな」
田端くんは笑いながら、利害の一致、と言った。
「俺はカナメの事を忘れたかったし、彼女は人に自慢できるような、見た目のいい彼氏が欲しかった。高校限定の恋人ごっこ、どっちにも距離を乗り越えるほどの情は無かった。ただそれだけ」
「そ、そういうこと、あるよね!」
必死に同意する私に、くははは、と田端くんが笑う。
「だからね、そういうの全部バレちゃうの。無理にわかろうとしなくていいよ、それが俺の大好きなカナメなんだから」
俺の大好きなカナメ――その部分だけが、頭の中でぐるぐる回る。きっと顔にも出てるんだろう、田端くんはニヤニヤと笑っている。顔を覗き込まれて、彼の視線から逃れられない……頬が、熱い。
「好きって言われて、嬉しくなっちゃった?」
「う、うるさい……だいたい、カナメ菌を好きだなんて、変っ」
彼の言葉は、本当に嬉しかった。それなのに、素直に嬉しいって言えなかった。今日だけは本当の気持ちを届けたいって、そう思っていたはずなのに。
五年も前の事なのに。
何も気にする必要なんてないのに。
私はいつまでこうやって、自分を否定し続けなくちゃいけないんだろう。
「ねぇ、カナメ。同じ班になったばかりの頃さ。数学のテストで、班ごとに満点の答案を作れって言われたの、覚えてる?」
そう言えば、そんな事もあった。二学期最初の実力テスト、まだ田端くんが背中を叩き始める前のこと。
クラスの平均点があまりに低すぎて、先生が怒り狂ってたから、とても強烈に覚えている。
「あの時、俺は一問だけ間違えてた。村松とカナメは七十点を超えてて、後の連中は話にならなくて。で、俺が間違えた問題を解いてたのは、あの班ではカナメだけだったんだけど」
その先は、言われなくても思い出せる。怒り心頭の先生が「自習だ」と言い捨てて出て行った教室で、村松くんが「バカは口出すな」って、私の答案を破ったんだ。
「あの時カナメは、俺に破れた答案を渡して、この二人で満点作れるじゃんって言ったんだよね。村松に向かって、アンタいらないじゃん、ってさ。あれ、俺すげー笑った。カナメをバカ呼ばわりしといて、本気で何の役にも立ってないんだもんな。俺だけいれば全部できると思ってたんだよ、アイツ」
色々と思い出したのか、田端くんはしばらく笑っていた。俺ホントはアイツ嫌いだったんだよね、とまで言った。
「そうなんだ……親友だって、ずっと村松くんは言ってたけど」
「んー、幼馴染ではあったんだけどさ。高校に入った俺が、有象無象の中の一人になっていくにつれ、俺をバカにするようになっていったよ。多分、自分の価値も下がった気がしたんじゃない? 俺の知った事じゃないけど」
田端くんは、私の手をぎゅっと握った。酷い話をしているのに、何故かずっと楽しそうだ。
「カナメは誰にも負けないし、媚びるくらいなら孤立を選ぶし、他人を利用したりもしない。あの教室にいた誰よりも、カナメは格好良かったから、卑屈になったりしなくていいよ」
「え、そ、そんなこと……」
「自分の価値を高めるためじゃなく、普通に俺へ惚れるヤツもいるんだって、自信、貰った。カナメも俺を救ったんだから、胸張ってよ」
思いもよらない田端くんの言葉に、脳が溶け出してしまいそうだった。
なんだかふわふわした頭で、ぼおっと目の前にある顔を見つめていると、くはは、と彼の笑い声が聞こえた。
「俺たちさ、条件付けが済んじゃってるよね。俺はカナメじゃないとダメだし、カナメも俺じゃないとダメ。そう思わない?」
「……うん、思う」
「だろ? だからさ……二人でさ、ずっと一緒に生きていけばいいんじゃない?」
田端くんは、真剣な顔をしていた。
ずっと一緒に生きていけるのなら、私も彼も幸せだろうな、と思う。
そんな願いは叶うだろうか。五年ぶりの再会で、たった一日過ごしただけで、人生は決まってしまうのだろうか。
確かなのは、いま断れば、永遠に叶わないという事だ。
「一緒に、生きていけたら、いいね」
「ね。だから、ちょっと頑張ってみよっか。大丈夫でしょ、俺とカナメなら」
私が頷くと、田端くんはすごく嬉しそうな顔で、わしわしと頭を撫でてくれた。
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