フィンガー・リトル・キス ③
カラコロと下駄の音をたて、人波を縫うように走る。
田端くんの姿はもう見えなかったので、彼の家を目指した。お祭りのエリアから離れて、住宅地へ続く坂道を駆け上がってゆく。
この丘の上には、私たちが通っていた中学校や、田端くんの進学した県立高校がある。彼の家は中学校の近くだ。
夜の住宅街、風船やビニール玩具を手にした家族の群れ。緩やかに伸びる坂道の途中で、やっと田端くんの姿を捉えた。
全てに拒絶され、そして全てを拒絶しているような、そんな背中。
今度は私が、この人を孤独から解き放つ番だ。
「田端くん!」
周囲の視線も構わずに、大声で彼の名を呼び、一直線に駆けた。
振り返った彼は目を丸くして驚き、また正面へと向き直ってしまう。無視して歩き出すかと思ったけれど、その足はずっと止まったままだ。
慣れない下駄の鼻緒が擦れて、足の指がじんじんと痛む。
なりふり構わず汗だくになって駆け寄った私を、彼は見ようともしない。ボディバッグから煙草を取り出して、慣れた手付きで火を点けた。
「煙草、吸うんだね」
「……中学の頃から、吸ってたよ」
田端くんは振り返らないまま、煙だけをこちらに流す。近寄るなと言われているみたいで、悔しくて、私は更に距離を詰めた。
何も言わずに立ち止まっている私たちの、すぐ横を家族連れが追い越して行く。子供の手を引く母親が、あからさまに嫌な顔をしていた。
「なんで、わざわざ追っかけてきたの」
私の顔を見ないけど、まだ会話はできる。本当に興味を失くしたのなら、この人は話しかけたりなんてしない。
そういう事を、私はちゃんと知っている。きっと村松くんよりも、教室にいた他の誰よりも、私は本当の田端くんを知っている……そんな風に、今だけは自惚れていたい。拒絶されないと信じて、ありったけの勇気を振り絞りたいから。
「話、したい。村松くんの話だけじゃ、よくわかんないし」
「ふーん。あの話、そんなに興味ある?」
「興味っていうか……本当の事を、聞きたいだけだよ」
「悪いけど、こんな道端で話すような事じゃないな」
不機嫌な顔で振り返った田端くんは、私の手を強く掴んで、強引に引いた。
「付いて来て。一応先に言っておくけど、村松は嘘をついたわけじゃないから。それでも、来る?」
「うん、行く」
迷わず返事をした私に、田端くんはそっか、と溜息を吐いた。
彼に強く手を掴まれたまま、丘の上へと坂道を上っていく。
指先に力がこもる度、彼の痛みが伝わってくるような、そんな気がして仕方なかった。
田端くんは、私を自分の家に連れて行った。古臭い私の家とは全然違う、お洒落で綺麗な一戸建てだ。
夜遅い時間に女の子なんか連れて来て、家の人には何も言われないのだろうか。私の家なら父親が大激怒だし、田端くんの親が放任だとも思えない。
玄関の前で、思わず足を止めてしまう。
「お家の人に、叱られたりしないの?」
「明後日まで誰もいない。いいから、入って」
強く手を掴んだままの田端くんは、強引に私を家の中へと引き込んでしまった。彼の唇が耳元に寄せられ、熱い吐息が首筋にかかる。
「夜は長いし、村松の言ってた事、直に確認してみてもいいけど……する?」
「うわぁ?!」
思わず叫んだ私を見て、くははは、と田端くんが笑い転げた。わたあめの時と同じだ、完全にからかわれている……さっきまでの不機嫌は、いったいどこに行ってしまったというのだ。いや、不機嫌なままも困るけれど。
「冗談だって。話が済んだら送ってくよ、何時までに帰ればいい?」
田端くんは玄関の扉にチェーンをかけながら、靴箱の上へと視線を向けた。切子細工の置き時計が二十時半を指している。
今日は、帰らなくてもいい。いつもなら日付が変わるまでには帰れと言われるけれど、今日はマユリとオールでカラオケにいくつもりだった。親にもそう伝えて家を出たし、このまま田端くんと語り明かしても、誰にも何も言われない。
時間を理由に話を打ち切られるくらいなら、覚悟を決めてしまうのも、アリだ。
「今日は……帰らなくても、いい」
「え、お前んち、そんなの絶対許さないだろ?」
「マユリと朝まで遊び倒す予定だったの」
「ふーん……そっか」
田端くんは真顔で黙り込んでしまい、コチコチと秒針の音だけが響いている。
何を言えばいいのか、わからない。
正直に「帰りたくない」と言えばいいだけ、そんな気もする。本当に語り明かしてくれるのかもしれないし、もしかしたら冗談抜きで「直に確認」することになってしまうかもしれない。
だけど田端くんは、そんな事を望んでいるのだろうか。私には何も言わないだけで、恋人がいるかもしれないのに。
お祭りの間だけちょっと構うつもりが、あんなややこしい事になって、私が追いかけてしまったから、仕方なく相手をしているのだとしたら?
孤独から解き放つだなんて、私の勝手な思い込みで、この人はひとりを望んでいるのかもしれない。
これ以上、沈黙に耐えられなかった。
「でも、帰れないってわけじゃないから……今日は、帰るね」
下駄がカランと音をたて、それをきっかけにするみたいに、田端くんが私の手を掴んだ。痛くはなかった。
「帰らないでよ」
すがるような声。そして、泣き出しそうな顔をしていた。
今までにこの表情を見たのは、たった一度だけだ。
高校受験を控えた冬の朝、村松くんが教室で絡んできた時も、今みたいな顔で私たちを見つめていた。
田端に好かれてるからって、調子に乗るな――その言葉を認められずに、そんな事があるわけないじゃないかと、みんなの前で笑い飛ばしていた私を。
この顔を見せたくなかったから、ずっと振り向かずにいたのだろうか。
村松くんに浴びせられた言葉を、どんな気持ちで聞いていたんだろうか。
胸の奥が痛くてたまらなかった。
「いてもいいなら、帰らない……帰りたく、ない」
思い切って、本音を口にした。この人にとって迷惑じゃないのなら、本当の気持ちを伝えたかった。
きっと普段の田端くんなら「お?」とか「ふぅん?」なんて茶化してしまうのに、今の彼はただ真っ直ぐに、私のことを見つめている。
この想いは、きっと、届いたんだ。
「俺の部屋、行こっか……」
擦れる声で紡がれた誘いに、迷う事なく頷いた。どういう意味なのかくらい、わかってる……それが私の勘違いでも構わない。傍にいたいと思ってくれるなら、それだけでいい。
田端くんに促され、下駄を脱ごうとした途端、両足に強い痛みを覚えた。親指と人差し指の皮が剥け、鼻緒の周りが血に染まっている。まだ履き慣れていない下駄で、坂道を駆け上がったせいだ。
視認した途端、傷口がジクジクと痛み出した。
「うわ、俺のせいだな。ごめん、もうちょっとだけ我慢して」
田端くんは、私を軽々と抱きかかえた。その距離にまで近付いて、ようやく気付いた事があった。
変わってないのは綺麗な顔立ちだけで、そして変わったのは、高くなった身長だけではなくて……今の彼は、すっかり大人の男の人だ。
よく見ればわかる髭の剃り跡、目立つようになった喉仏。少しだけ広くなった肩幅、厚くなった胸板――彼自身が放つ、男の人の匂い。
私の知っている田端くんは、どちらかと言えば、中性的な男の子だったのに。
いつの間に、こんなにも男の人になってしまったんだろう。
切なくなってしまった私は、彼に掴まるふりをして、思いっきり抱き付いた。
田端くんは私を抱えたまま階段を上がり、二階にある二室の、奥側の部屋へ入った。そして私をベッドの上に降ろすと、救急箱取ってくる、と部屋を出て行ってしまう。
なんとなく、部屋の中を眺めた。今は家を出ているせいなのか、思ったより物がない。目についた本棚には、何やら高尚そうな文芸書や難関大学向けの参考書が並んでいて、漫画や雑誌は一冊も見当たらなかった。
救急箱を持って戻ってきた田端くんは、私の前に屈み込んで、そっと右足に触れた。
「痛む?」
「少しピリピリするけど、平気」
「そっか。大した事はなさそうだけど、一応消毒しとく」
彼の態度はどこかぎこちなくて、頬が赤くなっているように見えた。
村松くんの言葉を思い出して、これはそういうことじゃないでしょうと、頭の中で何度も打ち消してみる。
だけど脱脂綿が傷口に触れた時、刺激でびくんと跳ねた私の足を見て、田端くんは慌てて視線を逸らす。
真っ赤な顔で、身体を強張らせて、絞り出すような声で「ごめん」と呟いた。
「カナメ……確かめて、みる……?」
その声は熱を帯びていて、確かめなくてもわかってしまう。
田端くんは息を荒くしたまま立ち上がり、チノパンを脱ぎ捨てて、そっと私の手を取った。トランクスの中にあるそれは熱くて、硬くて、跳ねる魚のようにびくびくと動いている。
「触るの、はじめて?」
「はじめて……」
「そっか。俺ね、いつもはここまで硬くない」
「……熱い、ね」
撫でてみると、彼の唇からは大きな吐息が漏れた。不快にはならなかった。むしろ、こうして私を求めてくれる事への、誇らしさの方が大きかった。
田端くんは私の隣へ座り、切なげに「おいで」と言った。
「こっち向いて、膝の上に座って……もっと近くで、カナメの顔が見たい」
言われたとおりに座ると、浴衣の裾ははだけてしまって、太腿まであらわになった。
下着がなければ直に触れ合ってしまうような体勢にひるんで、つい腰を浮かせてしまう。田端くんは「逃げないでよ」と囁きながら、私の腰を掴んで強引に座らせた。
何度も繰り返し擦り付けられて、部屋に湿った音が響く。
田端くんの手が、何かを確かめるように、背中を繰り返し撫でてくる。
「ごめん、カナメ、許して」
懇願するような声を出した彼が、私をぎゅっと抱きしめて、そのまま背中を強く叩いた。
呻き声とともに、独特の匂いが鼻をつく。消毒液の匂いを掻き消すように。
あの頃のノックとは、違う。それでも私は嬉しかった。
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