フィンガー・リトル・キス ②
駅のトイレで手を洗った後、フクロウを模したアクリルキーホルダーを射的で取って貰った。あまりアニメグッズは普段使いにしない派だけど、これならマスコット枠でいける気がした。
「よくわかんないけど、これアニメのやつ?」
「うん、主人公の相棒のフクロウなの。知恵と幸福をくれる子だよ」
「おっ、もっと知恵が必要だって自覚あるんだな。俺も取った甲斐があったわ」
「うるさーい! どうもありがとうございました!」
さっそくフクロウをカゴ巾着に付けた私を見て、田端くんは「ご機嫌だな」と言って笑った。
あなたに取って貰ったものだから、嬉しいんだよ……とは、言えなかった。
マユリと決行する予定だった食べ歩きにも付き合わせて、ほぼ全メニューをシェアするうちに「リンゴ飴は酸っぱくて食べられない」という田端くんの弱点を発見した。
金魚すくいは飼えないからやめておこう、なんて言いながらも隣のカブトムシに心惹かれている彼は、イメージとのギャップが凄くて、とんでもなく可愛かった。
どうしよう。デートみたいで、すごく楽しい。
「実は俺、夏祭り初めてなんだよな」
急に、田端くんが呟いた。この町に住んでいたらまずありえない発言に、思わず「うっそお」と返してしまう。私と違って、誘われる事も多かっただろうに。
「今の時期は毎年、通ってた学習塾の合宿だったし、遊んでる暇はなかったな」
「うわー、さすが学年一の秀才さんだ」
「高校行ったら凡人だったけどね、大学受験も一浪してるし。でもそれで、やっと自分の身の程を知った気がするよ」
「えー、
田端くんの自嘲を止めたくて、彼が進学した県立トップ校の名前を出すと、彼は苦笑いを浮かべた。
「カナメは大学生なの?」
「大学生っていうか、短大生」
「おっ、じゃあ来年には社会人だな。就職したら何か奢れよ、今日は俺がラムネを奢ってやるから。それともビールの方がいい?」
「私、まだ十九歳」
「あー、十月生まれだっけね。じゃあ飲むのはその後だな。俺いま京都の大学だから、誕生日は祝ってやれないんだけどさ」
そう言って、田端くんはラムネを買いに走って行った。
私の誕生日、知ってるんだ……しかも、飲むのはその後って言った。就職したら奢れ、って。
田端くんの「付き合ってやる」って、今日だけのことじゃなかったんだ。
私を縛らない、優しい約束。とても彼らしい気がして、頬が緩んだ。
広場のベンチに座ってラムネを飲んでいると、カナメちゃん、と私を呼ぶ声がした。
振り返ると、マユリと村松くんがいた。揃って私の方へと駆け寄ってくる。私の視線を追った田端くんが、村松、と小さく呟いた。
「どうして田端とカナメが一緒なんだよ」
村松くんは、あからさまに不機嫌だった。
この人は昔、私に向かって「田端に好かれてるからって調子のんなよ!」と教室で叫んだ事があった。私みたいなぼっち属性の女が、田端くんみたいに求心力のある人と親しくするなんて、やっぱり今でも許されない事なのだろうか。
「カナメお嬢様が一人でフラフラしてたから、捕まえた」
「何、カナメの保護者を気取ってんの?」
「俺は事実を言ってるだけ」
「だいたい、何で田端がここにいるんだよ?」
「夏休みで帰省中」
同じ教室にいた頃の二人とは、空気が違った。
あの頃は、村松くんが田端くんに憧れているのが丸わかりだったのに、今の彼らは険悪な雰囲気に見えた。
「カナメの友達カップルって、お前らのこと?」
「別にカップルじゃねーよ」
「うん。私たち、同じコンビニでバイトしてるだけだよ……今日、カナメちゃんを誘ったのはね、村松くんに頼まれたからなの」
マユリが申し訳なさそうな声を出し、村松くんも否定しない。
つまり、マユリは、私と遊びたいって思ったわけじゃなかったんだ……やっぱり私は、友達と長続きしないどころか、そもそも友達を作るのに向いていない。
「この前、カナメちゃんがお店に来た時、村松くんもいたのね。同じ短大だって言ったら、話をする機会を作って欲しいって……昔の事を、謝りたいって」
「私は話したくない」
何かを考えるよりも先に、私の唇は答えを出した。
村松くんと話したいことなんて、何もない。できれば二度と会いたくなかった。
「お願い、話だけでも聞いてあげて。村松くんはね、ずっとカナメちゃんのことを――」
「ごめん、本当に聞きたくない。それから先は、もっと聞きたくない」
マユリが言い掛けた言葉の先を想像すると、この子が
でも、と食い下がろうとするマユリを、田端くんが止めてくれた。
「そういうのは、カナメの気持ちを確認してからの方が良かったな」
「だって村松くん、本当に反省してるんだよ? もう許してあげてもいいと思うの」
「許すかどうかを決められるのは、カナメだけだ。綺麗事で追い詰めるなよ」
初対面のマユリが相手でも、田端くんは言葉を加減したりはしない。そして村松くんが相手なら、もっと容赦なんかしない。
それがわかっている村松くんは、視線を向けられただけで顔をしかめた。
「お前さ、本気でカナメが嫌がっても、悪口止めなかっただろ。お前がカナメにしてた事は、俺のしてた事とは違うよ」
「……ああ、確かに違うな。俺は言葉だけだったけど、お前は暴力振るってたよな。毎日カナメの背中を殴って、面白がって遊んでたよな!」
村松くんの言葉に、マユリが「ひどい」と呟き、そして田端くんは黙り込んでしまう。
この場所に人目がなければ、この手で村松くんを殴りたかった。きっとマユリは私を軽蔑するだろうけど、そのくらい強く憤っていた。
村松くんは「暴力を振るわない」という選択をしたわけじゃなく、ずっと「カナメ菌がうつる」と騒ぎ立て、物理的な接触を拒んでいただけなのだ。
私が運んだ給食を三日連続で拒否して、担任に叱られた事も忘れたんだろうか。意地になって運び続けた私も私だけれど……そう言えば、あの給食を受け取ったのも、結局は田端くんだった。
そして田端くんは、暴力というほどの強さで私を叩いていたわけじゃない。あざが残った事もなければ、もちろん怪我をした事があるわけでもない。
どうして叩くのかと問えば、ただ「暇そうな背中をノックしてるだけ」と笑い、反応しないでいると「具合でも悪いか?」と耳打ちしてくるような人だった。
いつだってひとりぼっちで、ずっと机に伏して寝たフリをしていた私は、彼がいなければ顔をあげることさえできなかった。いないもののように扱われる教室は心の墓場だったし、存在そのものを否定する言葉は、刃物よりも痛い凶器だった。
言葉だけだから軽い罪、手をあげたから重い罪、そんな単純なものじゃない。
誰も触れてくれなかったあの場所で、田端くんの指先だけは、私の存在を認めてくれた。
この人がそばにいてくれたから、私は学校に通い続けることができたんだ。
「私、田端くんには怒ってないよ」
「何でだよ。カナメ、田端だけはやめとけって」
急に会話の流れを変えられ、意味を捉えかねている私に、村松くんは畳み掛けるように言葉を繋げた。
「あんなことされて、どうやったら好きになれるわけ? 顔に騙されてるだけだって、本性知ったら絶対にカナメもドン引きだからな?」
「やめろ村松」
「田端はな、お前を殴って興奮してただけのサディストだ!」
「やめろって言ってるだろ!」
周囲の人が注目するほどの剣幕で、田端くんが村松くんの言葉を遮った。
勢いに圧された村松くんが黙り込み、田端くんもそれ以上は口を開こうとしない。
あの頃の私たちだったら、こんな時はどうしていただろう……それ以前に、あの頃の村松くんは決して、田端くんを悪くなんか言わなかった。
今の村松くんはもう、田端くんに憧れてはいない。それどころか、蔑んでさえいるように見える。
田端くんが繰り返した自嘲の意味が、少しだけわかったような気がした。
「カナメ、最後まで付き合えなくて、悪いな」
田端くんがベンチから腰をあげ、飲みかけのラムネだけを手にして歩き出す。何一つ弁明することもなく、じゃーな、と片手をひらひら振って。
彼の背中が遠ざかる。
これが私たちの別れだ、おそらく二度と会えなくなる。彼が私へ声をかけることは二度とない、私の背中に触れることも――私は、そんなの、嫌なのに!
「田端くん、待って!」
「このサイコパスがっ、二度と筑原に帰ってくんな!」
私の叫びは、村松くんの罵声に掻き消された。
足を止めて振り返った田端くんは、冷めた笑顔だけを残して、住宅地側に抜ける路地へと曲がって行った。
「だいたいアイツ、調子に乗りすぎなんだよ。本当は全然大したことなかったくせに、ちょっと顔が良いからって偉そうにさぁ……」
村松くんが延々と、田端くんの悪口を言い続けている。本当なら、親友だった村松くんこそが、彼の理解者であるべきなのに。
初めから田端くんは「王子様」なんかじゃなかった。人目を引く容姿のせいで、幻想を押し付けられていただけだ。
偉ぶっているわけじゃなく、自分を偽らないだけなのに。
誰にも努力を悟らせず、ずっと一人でもがき続けてきたのに。
自分が罵声を浴びせられるより、田端くんを侮辱される方が、私にとっては耐え難かった。
「どうして、村松がわかってあげないのよ!」
私は手にしていたカゴ巾着で、村松くんの頭を思いっきりぶん殴った。バゴンと派手な音がしたけど、知るものか。
「私も暴力ふるっちゃったー! カナメ菌付けちゃって、どーもごめんなさいねぇ!」
「カナメ、菌……?」
「詳しくはそいつに聞いて、ごめんねマユリ!」
いてぇ、と呻く馬鹿を無視して、私は田端くんを追った。マユリには申し訳ないけれど、このままにしておくわけにはいかなかった。
本当に、これでサヨナラなのだとしても。
あの指先に、私がどれだけ救われたのか――それだけは、どうしても伝えておきたかった。
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