第37話 利休の美、秀吉の願い



 きらめく矢尻の向こうで、女の砕いた玻璃を収めたような瞳が朝子を見つめていた——




  「無事か」


 指貫籠手ゆびぬきこてに黒い袴姿の女…女なのだろうか?美しい顔をしているので『女』だと認識したのだが、あまりに毅然として堂々した様子に朝子は目の前の人物の性別が分からなくなった。


 「腰を抜かしたか。この辺りでは武者崩れの野盗がおおいんだ」


 そう差し伸べられた手を見ながら、朝子はどう返事をしてよいか悩んだ。


そもそも、この方は高虎様のお味方なのか

果たして…東国の…敵方でいらっしゃるのか…


 「お助けくださりありがとう存じます…」


 迷いながら取った手に(この方は女だ)と確信する。骨が小さく優しげな女の手だった。ただ、その肌は硬く節が目立ち、日々厳しい鍛錬を重ねているのだろうとわかる。


 「…ずいぶん上背があるな、うらやましいことだ。

この坂東では見ないような輝羅綺羅しい掻取がよう映える。」


 朝子の白い柔らかい手を名残惜しげに離しながら、日に焼けた肌に化粧気がなくても美しい女に真顔で言われ、どう名乗れば高虎に迷惑がかからないか迷う朝子に


「お前は上方から来た遊行婦女であろう。」


「…。」


 そう女武者は言った。



「…いいか、舞うなら向こうの陣に行って、せいぜい高く買ってもらえ。

つまらぬ男のものになるなよ。」



 女武者は秋波を豊臣の陣の方に送り、最後にそう微笑すると深い坂東の森に消えていった。






 「朝子様…さきほどの女、私の見るところ成田の姫と思われます。」


 九助が表情をこわばらせながら言った。


 「成田の…ということはやはり北条方の」


 「治部少輔様石田三成が大変苦戦している忍城を守っているのはあの姫と母である氏長夫人であるとか。

忍城はいくつもの湖沼に囲まれ、水に浮かぶような攻めがたい城ですが、あの姫と北の方の軍才も相当なものでしょう」


 「治部少輔様が…」


 朝子はあの気難しい細面が苦戦にどう歪んでいるのか気になったし、その指揮官が女性だと知ったらどれほど驚くのかと少し興味が湧いた。


 「関東の女性は、まことにお強いのですね…」


 朝子は紅を塗った形の良い唇を誰にもわからないくらいの力で噛んだ。

 …とにかくあの勇姫に自分の素性が知れて夫の足手まといにならなくて済んだことに感謝しつつ、


 滅びゆくこの国が、武器をとって民を守ろうと奮戦する治者を持っている幸運を思った。



 野盗に襲われたことをおくびにも出さず挨拶をしながら、淀こと茶々に対面した朝子は茶々の暗い表情に気がついた。


 「淀の御方様…恐れながらご気色が悪う見受けられます…

慣れぬ土地で体調を崩されましたか?」


 秀吉の側に上がった頃から知っている朝子の優しい声に、ついに茶々は堪えていた涙をこぼした。


 「殿下が…殿下がおかわいそうで」


 朝子は合点がいかなかった。


 豊臣秀吉が…?

この北条征伐の際には帝が御所の表に出て馬上の人となった秀吉を見送るほど位人臣を極め、後継者の鶴松君もご誕生あそばし、


まさに豊臣秀吉の人生の春は今だと、歴史を知る朝子は思っていたから。


 「関白殿下に…何か…?」


 「殿下は、殿下は寂しいお人なのです…」


 茶々は錦の上に繍花がびっしりと咲く袖を涙で濡らして、絞り出した。


 「朝子さまは、佐渡守殿高虎が泣いているのを見たことがおあり?」


 「え…」


 「殿下は、夜になると泣かれるのです…」


 それは、家臣の死によるものではないかと茶々は言った。秀吉は、北条征伐で古参の部下を次々と喪っていた。

信長に仕えていた時代からの少ない禄を分けて雇った古参の一柳直末、清洲会議から同輩から家臣となった堀秀政…


 たしかに精神的に堪えると言え、これまで数々の戦場を駆け抜けて来た秀吉にとって、喪失はありふれたものなのではないか?といつも強い光を放つような秀吉の威風を思い出す。


 「余人は殿下のことを才気に溢れ抜け目のないお方だとお思いですが、

じつはお寂しいお人なのです」


 寂しい…それはなぜ?

聞こうとした朝子と茶々の間を侍女の声が割った。


 「宗匠様がお着きです。」


 そうだ、今日はあの千利休の茶席に呼ばれていたのだった。



 四畳半の茶室は特筆するようなゆかしさは無い。


むしろ暗くて寂しいとさえ思わせる空間で、そこに華やぎがあるとすればぽつんと佇む杜若だけだった。その紫を背に静謐な所作で茶を立てる男は千利休——茶聖として未来にまで知られた人物だ。


 利休の手の中には無骨な黒茶碗が在った。


 「お二方は、この黒茶碗をどう思われる」


 生まれながらの大名の姫の茶々にとって、轆轤ろくろを用いずに手でこねただけのようなその茶碗は見慣れないもので、


 「たいへんわびしい風情を感じさせます」


と、答えた。


 「黒は…初心に帰るような心地が致します。」


 朝子は、茶碗の磨かれぬ艶のない「黒」になぜか過ぎた日々が映るような心地がした。


 「左様、まさに黒は古き心…

人はこの茶室にては、ただの人に戻るのです。」


 その言葉に、陰影の狭間に現れる美の世界のすみを覗いた気がした。この侘しさが、利休の目指す志向の美なのだろうと思った。


茶席に亭主と客という役割があるが、それはただの仮の姿に過ぎず、ただ同じ時を過ごす…たまたま同じ世に生きる「人」同士に戻されるようだった。


 その証拠に、お腹様である茶々に対しても、言わば秀吉お抱えの茶人に過ぎないはずの利休という男は緊張すらしていない様子だ。


 (このお人は…一体…)


 大柄で頑強そうな体は文化人というより武将のようで、加えて人を圧するような存在感があるからか、朝子はこわい先生を前にして縮こまってしまう子供の頃を思い出すほどだった。


 

 ▽


 「そうか、利休居士の茶を馳走されたのか」


 夜、朝子は陣屋に帰った高虎に夕餉の給仕をしながら腹にたまらぬ話として千利休の茶席に招かれたことを話した。

もちろん野盗のことも、成田の勇姫のことも、茶々が秀吉の様子に嘆いていることは伝えずに。


 「利休様が黒は古き心、とおっしゃいました。

無骨な茶碗が印象的で…」


 高虎は険しい顔をした。


 「高虎様…何かございましたか?」


 「関白殿下が…

利休居士の弟子、山上宗二殿を斬首されたのだ。」


 「お首を…」


 「山上殿はもともと歯に衣着せぬ物言いをされる方であったが…関白殿下の茶事には利休居士の目指す侘しさが無いとまで言い放たれたそうだ。」


 高虎は戦場の外の争いに、複雑そうだ。


利休の弟子で茶狂いと称される山上宗二という男は、茶の湯に盲目的なあまり大名であっても決して物怖じしなかった。

それは天下人秀吉に対しても同じだったようだ。

しかし、大のお気に入りだった利休の弟子を殺すなど、異常と言える事態だった。


 (…豊臣秀吉の金の茶室は現代でも有名だったな…そして千利休の求めた侘び寂びの世界も…)


 たしかに、二人の理想郷は違うのだろう。

と朝子は今日の光景を思い起こす。そして、背中合わせのような大阪城や聚楽第の美を…


 (秀吉公の求める美は言わば極彩色の華やかさ、

 利休様の追う美は簡素さの中に現れる侘しさ…)


 堺の豪商の家に生まれ輝羅や豪奢を見慣れた千利休は、朝鮮や唐国で雑茶碗として扱われる焼物に惹かれた。


 (どちらかと言えば私は秀吉公の追い求めるものがわかる気がする…)


 農民の出から数々の戦乱を生き抜いてまさに血まみれになって今の地位を得た人物と自分を並べるのは恐れ多いが、

何も持たないおそろしさ、地位を得るための努力、そしてそれを喪った時のおそろしさ…


 つらさや悲しみのない花園のような世があれば…


 (茶々様が嘆かれていた秀吉公の様子も気にかかる…)


 茶の湯には亭主と客がいるが、そこに生まれ持った身分や勝ち取った肩書きは無い。

公の顔を捨てて

 ただ一期一会を繰り返す、究極の寂しさ、そこに立ち上る美しさ…

 欠けたるものを愛する心を、秀吉は嫌ったのだ。


 二つの世界は決して成り立たない


利休も秀吉も、それをじゅうぶんに分かっていた。





 淀からこぼれ落ちた涙が、どのように豊臣家に降り落ちるのか。未来を思って朝子は無性に悲しくなった。



《※》


利休居士…天正13年、豊臣秀吉が正親町天皇に茶を献じた禁裏茶会において、茶頭として出仕した利休に天皇から与えられた号。利休号は、すでに春屋宗園と古渓宗陳によって与えられていて、禁裏茶会に際して改めて勅賜されたともいわれる。

以後、利休は名実ともに天下一の茶の湯者となりました。


久しぶりすぎる更新すみません。

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OLが正室になる話 琴太郎 @kototarou

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