3-4.呪い返し

 翌日、月曜日。すっきりとはいかないまでも問題なく起床した胡古は、朝のルーティーンを一通りこなしてからパソコンと向き合った。無論、調べ物をする為だ。今日の集合時間は夕方だから時間はたっぷりとあるし、ネット上の情報というのは絶え間なく更新されていく。昨日一昨日とはまた違った情報が同じワードでも出てくるかもしれないし、昨日二加屋に聞いたおまじないについて検索をかけてみようとも考えていた。

 一先ずは昨日教えてもらった朝外中裏サイトのURLを入力し、直接サイトへと飛んでみる。普段ならばこんな事はしないのだが、何かあったら何かあったで、まあ、自己責任というやつだ。それにもし有害な何かが仕込まれていたとして、その場合とっくの昔に大騒ぎになっている。そういう考えから胡古はある意味何も考えずにそのサイトへと訪問してみたのであった。

 教えられた入室パスワードを打ち込んでサイト内へと進んでいく。真っ黒な背景に白字という如何にもそういった年頃の少年少女が特に好みそうな色相で組み立てられたその場所は、主に複数立てられている掲示板で交流を図る為の場所であるようだった。恋愛だの不満だのと様々にリンクが分かれており、そこから更にクラスや人物名などにリンクが分かれている。思ったより大分細かい棲み分けがされているようで、胡古は恋愛を迷いなくクリックし、その先にあるおまじないの項目へとカーソルを合わせる。

 開いた先は書き込んだ日時とID、ニックネームまたは匿名が分かるようになっていた。ざっと流し見た限り匿名は少なく、何かしらニックネームを使用している割合が高い。個人特定できそうなものを使用している者もおり、それはなるべく見なかったふりをしようと心がける事にした。

 ここはどうやら大分盛り上がっている場所のようで、流石に今の時間帯の新規書き込みは少ないが、夕方や深夜といった時間帯の書き込みは正直全て見るのが難しいほどの量だ。取り敢えずはざっと流し見て、気になった書き込みをコピペしてメモ帳にでも貼っておこう、とマウスを動かしていく。

 どうやらこのおまじない、昔から存在しているもののようで、ここ最近急激に認知度が上がったようである。書き込みの日時から推測するに試してみた、という報告の書き込みが増加し始めたのが今年の四月頃、そして何かを切っ掛けにして夏休み前くらいからその人数が急増したようだった。七月前後の書き込みをよくよく探してみるも、しかし切っ掛けらしき書き込みは見当たらない。それより以前に何かあったか、裏サイトではなく学校の方で何かあったかのどちらかと考えられるが、そうなると何故その時期に急増したのかを今ここで見つける事は難しいだろう。

 裏サイトから退室し、次は検索フォームに朝外中、おまじないというワードを入れた。瞬く間に現れた検索結果にはワードが一致した投稿があるSNSのアカウントやブログなどが並び、胡古は次いでSNSを別のウィンドウで開く。そこで同じワードを入力し、話題の検索結果をざっと流し見た。それから別ウィンドウでブログやサイトを次々と閲覧していき、メモ帳や表計算ソフトに文字や数字を記入していく。それを何度も何度も繰り返し、時間は刻々と過ぎていった。

 暫くして出来上がったデータに、胡古はふうん、と小さく声を漏らした。自分用のものだから多少とっ散らかっていて、色々と間違いも多いだろうが、それはどうでも良かった。現れた結果は胡古がある程度予想していたもので、だがそうなると何故これが爆発的に流行り始めたのかが不明なものであった。かつかつとデスクに指を打ち付けて、もう一度データに目を通す。

 このおまじない自体は前々からあったもので、それこそ年単位でひっそりと囁かれ続けていたと考えていいだろう。裏サイトの書き込みログを大きく遡っても似たような手順のまじないの話が時折出ていたからだ。そしてそれが今年の四月頃からじわじわと認知度を上げていき、夏休み前に急上昇した。裏サイトの書き込みログやブログ、SNSといったものへの投稿内容に、そのおまじないについて触れているものの単純な数を表計算ソフトに打ち込んで、ざっくりと数字を算出した結果からも確実だと言える。

 そして肝心のおまじないの効力だが、これも表計算ソフトに頼って比率を出してみたところ、叶ったという投稿が四割、叶わなかったという投稿が六割で、冷静に考えれば若干信憑性に欠けるおまじないではないか、と踏み止まれそうな数字であった。しかし叶ったと宣う投稿の殆どに"夢の中で黒髪青目の子供に出会った”という一文が書き方こそ異なれど明記されており、それがおまじないの信憑性を上げているのだと思われる。こういうのは実際に夢に出たとか出なかったとかは本人にしか関係がなく、おまじないをしたら恋が実ったから、覚えていなくてもじゃあきっと夢に出たに違いない、という後付けでも構わないからだ。何故なら本人からすればわけで、おまじないのお陰なら、と思考が操作されるからだ。

 ちなみに恋が実ったと投稿している人々のうち、更に何割かはおまじないをした、という事実に後押しされて行動に移した結果、無事に成就したというものも当然ある。だがそれも、ここ一か月ほどは黒髪青目の子供の夢を見てから行動した、という内容の方に掻き消されてしまっているようだった。

 それから他に得られた情報として、どうやら朝外中の卒業生もこのまじないブームに乗っかっているようだ、という事がある。どうにも在校生の知り合いに聞いた人や、在学中に行っていた人などが興味本位に手を出しているようで、その人数もそれなりに多いと見てよかった。何せSNSの投稿検索で引っ掛かったアカウントの中、明らかに社会人や大学生だと分かるものが幾つもあったからだ。恐らくかつての学友と出会う事も視野に入れておまじないを行っている彼等は、それも目的の一つなのだろう。おまじないの約束事を守っているかどうかは不明だが、それを知る術を胡古は持たない。頭の片隅に置いておく程度でいいだろう。

 それらの情報を纏めているうちに昼時は大きく過ぎていたようで、時刻は間もなく十四時を差そうとしていた。軽く肩を回し、心なしか減っていたような気もする瞬きをぱちぱちと数度繰り返し、電源を落としたパソコンから目を離す。立ち上がって身体を伸ばし、遅いが簡単に昼食を摂ろうと台所へと向かった。

 冷蔵庫に残っていた昨晩の残りのカレーを食べ、出掛ける時間まで小説の構想を練ったり、文章化してみたり適当に時間を潰す。時間が迫ってきたら着替えて軽く化粧を整え、荷物のチェックをして家の窓や勝手口の鍵を掛ける。やり忘れた事が無いかを一度確認して、胡古は家を出た。

 合流地点は昨日と異なり、浅目と遊佐が通う世平大学であった。朝外中から更に少し先にある大学はかつて胡古が通っていた場所であり、一番わかりやすいだろうと、移動距離が増える事を飲み込んで胡古が提案したのである。当然二人は胡古の移動が手間ではないかと言ってきたが、別の場所を決めたり、その場所を探したり調べたりがあまりにも面倒臭くて、胡古が押し切った。朝外中から更に先にあるとは言っても何十分と歩く距離ではないし、世平大学なら胡古もある程度勝手がわかる。外部の人間が入ってもいい場所も当然知っている為、大学で落ち合おうと意見を押し通してきた次第だった。

 とは言え大学までは徒歩ではなく、バスで最寄りまで移動するのだが。それを言ったら今度は交通費がと言い出しそうな浅目らの事を思い出し、胡古はバスの座席に座ってぼうと窓の外を眺める。数年前までこれを毎日のように眺めていたのだなと感傷に浸る、とまではいかないが擦れてどうでも良い記憶が掘り起こされた。時折、帰りのバスで篭宮のオカルトスポット巡りに付き合うか否かの話をしたこともあったと、彼女は珍しく過去を振り返る。

 ざり、とそこで思考をやめた。外を眺めていたからか頭にノイズが走って、僅かに吐き気が込み上げてくる。典型的な車酔いだ、と冷静に判断して、胡古はペットボトルを取り出して水を一口、二口と飲み込んだ。ちらりと現在地を確認すれば後三つほどバス停を通り過ぎれば目的地で、そこまで目を閉じて視覚を遮断しよう、と瞼を下ろす。

 頭の中のどこかで、何かが警告を鳴らしていたような気がするが、それはきっと気のせいだろう。


 アナウンスが響き、車体が停まる。ぷしゅうとドアの開く音と共に胡古は座席から立ち上がり、ICカードを翳して運賃の支払いを済ませバスを降りた。世平大学前のこのバス停は胡古の他にも数人ほど降り、また道路の反対側には帰宅の為だろう学生の列が出来ている。その中に知っている顔がいない事を念の為確認し、胡古は大学の敷地内へ足を踏み入れた。

 数年ぶりの大学は変わったところがないようでいて、胡古が通っていたころは改修中だった施設が新築になっていたり、学生達の服装や持ち物が全く違ったりと細やかな変化を遂げている。そのどれもが気にしなければ気付かないような事で、思ったよりこの大学での日常は胡古にとってそれなりの思い出があるのだと改めて感じた。

 ゆっくりと歩いて周囲を見て回りたいところだが、今日はそんな時間はない。遊佐と浅目に到着した旨を伝え、近くのベンチに腰掛ければ、すぐに向かうという返信が来ていた。彼女らが来るまで、と目を閉じてしまえば聴覚が嫌でも鋭敏になり、そこここを歩く学生達の会話が耳を通り抜けていく。何か気になる言葉があればと聞き流し半分、聞き耳半分の状態で鞄を抱え込めば、やはり朝外中の事件はここでも噂にはなっているようだった。

 怖いだの早く終わるといいだのという会話が流れていき、しかしそれ以外は特に気になる単語は耳にしない。おまじないの話題でもしていれば耳をもう少し澄ましたのだが、さすがにおまじないをしたのしてないの、そんな事をこんなだだっ広い場所で話す人がいるわけもなかった。ここで収穫は得られそうにはないか、と胡古は聞き耳を立てる事をやめる。半分寝ながら遊佐らの到着を待とうと僅かに身体の力を抜いた。

 それから大体数分ほど経過しただろうか。軽く肩を叩かれる感触で瞼を開け、首を上げる。お待たせ、と遊佐と浅目が微笑み、胡古はそれに緩く首を横に振った。抱え込んでいた鞄を持ち直して立ち上がり、行こうか、と足並みを揃えて歩き出す。道中適当な会話を挟みながら大学を出、広くも狭くもない歩道を三人は息の乱れない速度で進んで行った。

 そういえば、と幾つかの話題が適当に盛り上がっては切れて、思い出したように胡古は珍しく自分から話を切り出した。どうしたんだい、と遊佐が少し顔色を窺ってきて、恐らく彼女は本当に他人というものを信用しきれない人間なのだなあとぼんやり思う。最近の体験でそうなったというよりは元々根っこの部分に滲み付いていたものが隠し切れなくなってきた、といった風で、今のように露骨に表情を窺ってくるのはこれまでなかった事だった。

 今朝方調べていた事を掻い摘んで話せば、遊佐は眉間にぎっちりと皺を寄せてしまったし、浅目は驚愕と不快さに目を見開いていた。恐らくは昨日伝えられたおまじないの手順と、今伝えられたおまじないの拡散状況を冷静に組み立てて考え、オカルト的にまずい事態になっているのではないか、と予測できたからだろう。オカルト事に詳しい遊佐はともかく、浅目からもそんな反応が得られたのは意外であった。いつもの面子の中で一番そういった事に疎いと思っていたのだが、存外そうでもないのかもしれない。

「……中学で、あんな、完全に危険な方の呪術としか言いようのないものが、そんなに広まっている、と?」

「ウン、まあ……、そう、みたい」

 曖昧な肯定をしたとて、胡古はそれが事実である事をきっちりとデータとして確認してしまっている。それが遊佐に伝わっていないはずがなく、彼女は非常に難しそうな、その奥底で憎悪を煮えたぎらせているような、不快さを覚えているのだと明確に分かる表情をしていた。唇を軽く噛んで何かを考えこみ始めた彼女はそこから暫く黙りこくってしまった。

「昨日からそのお話をなさっているという事は、装の件に関係がありそうだという事ですわよね?」

 今度は浅目の方を向いて首肯すれば、浅目は更に話を続けていく。どうやら昨日おまじないの情報を共有された時から考えていたらしい。その推理は胡古も、そして恐らく遊佐も考えている事であった。それも彼女は分かっているのだろう、どちらかというと確認するような口調で話しており、胡古と遊佐は静かに頷いている。

 浅目の推理はこうだ。普通ならば心理的なプラシーボ効果を与える程度に過ぎないだろうおまじないという行為に、何かしらの力が加わって本物になってしまった、というものだ。そしてそもそもこのおまじない自体"血""髪""名前"という術と人物の縁を強くするもの、"誰にも見られてはいけない"と言う呪術的タブーがしっかりと組み込まれているという事がある。その二つがこの推理を導き出したと言っても過言ではないもので、寧ろそれがなければ、ただ学校で流行っているだけのよくあるおまじないとスルーしていただろう。それがあったからこその推測であり、だからこそそれをより詳しく調べようと彼女は言うのだ。

 更に言えばおまじないの最後に出てくる"黒髪青目の子供"が、装や女子グループを襲った人物と特徴が一致しているという部分もあった。一致するだけならばいいが、浮澤海斗が証言した子供の容姿が明らかに異形と言っていい姿であったこともある。黒い髪のような、牙や目のついた触手、赤い糸が絡んで脚のようになっている下半身。もしおまじないの中に出てくる子供もそうであるならば、おまじないが装に害を為したと言い切れるし、そうでないのならばおまじないと重なっているのは偶々でしかないと割り切れる。つまりこれからの調査次第というわけだ。

 そうであっても若干思考が飛び過ぎているかもしれない、というのは彼女らも重々承知だ。しかし春、夏と連続して奇妙な経験(浅目は春だけだったが)をしており、かつそういった体験を幾度も繰り返しているのだろう遊佐がこの推理を否定しない時点で、少なくともおまじないが何であれ関わっているのだろうと仮定するには丁度よかった。単に止める人間がいなかったとも言うが、全く進展をせず立ち止まる羽目になるならば、ぶっ飛んだ推理から調査を行ってみてもいいだろうと浅目は息巻く。彼女にしてみれば正面から関わろうとしたところで警察やら何やらに止められるくらいならば、という考えも勿論あるだろうが。

「学校に着いたら、まず装君におまじないをした、もしくはそういった話を聞いた事が無いか、だな。おまじないをしたことを話してはいけない、というタブーは明記されていないから、何も考えずに手を出している子ならば教えてくれるだろう」

 淡々とそう述べる彼女の言葉はどこか侮蔑が混じっているようにも感じられた。子供だからこういった事に手を出しても仕方ない、という理屈は彼女の中に存在しないのだろう。きっと問うてみれば契約書に簡単に名前を書いてはいけないのは常識だろう、と返ってくるに違いない。彼女の過去でいつ、何がきっかけとなったのかは不明だが、彼女にとってオカルトというものがそれだけ脅威の対象であるのだろうとは窺えた。

 浅目が少しばかり眉を顰めたが、しかしそれ以上は反応を示さなかった。ただ遊佐の発言自体には同意を示し、どういった雰囲気の生徒にそれを聞くか、そんな事を相談し始める。一瞬だけ気温の下がった空気はすぐに元に戻り、和気藹々とは言わずとも、それなりに日常の空気が漂っていた。


 大学から朝外中は徒歩十五分ほどの距離で、今日はもう下校時刻を過ぎているのだろうか、朝外中の制服を着た少年少女らと時折擦れ違う。早く学校が終わった事に対してか、彼等は楽しげな表情をしており、耳を横切るのはこれからどこで何をしようかという予定についてばかりだ。

 そんな彼等と擦れ違いながら歩いていれば、昨日も見たフェンスと校舎が見えてくる。それに従って擦れ違う生徒の数やざわめきも急増し、ちらほらと警官も見受けられる中、胡古らは朝外中の正門に辿り着いた。遊佐は初めてここに来るようで、少しだけ辺りを観察している。ここで胡古は、そういえば彼女も自分と同じようにこの市で生まれ育ったわけではなかったな、と思い出した。

 正門にはホームルームが終わって帰るのみとなった生徒達が屯していたり歩き去って行ったりしており、彼等の表情を窺えば早く帰れる嬉しさ、放課後の課外活動の類が出来ない不満、そして何かに対する怯えと大まかに三種類ほどが見て取れる。それらすべてが現状全く可笑しくない感情であり、ぱっと見の表情だけでは当然生徒らの内心まで見通せるわけもなかった。

 明らかに外部の人間であり、かつ誰もの目を惹く美女である浅目、そしてそれなりに顔立ちの整っている謎めいた美人の遊佐という二人はどうしたって目立つ存在であった。正門に立っているだけで徐々に生徒や教師、近くを歩く人々の視線がこちらへと向けられ始め、胡古は無意識に前髪を撫でつける。長身な遊佐の影に隠れるように移動し、胡古は二人が情報収集をする様子を眺めていようと決めた。正直多数の目がある場で、自分の舌がまともに回るとは全く思えなかったからである。

 雰囲気や固まっている人数などから話を聞けそうな生徒を何人か見定め、遊佐らは数グループからちまちまと不審ではない程度に情報を得ていく。適度に話しては去り、別のグループに話しかけていく様子というのは下手をすれば不審でしかないが、そこは二人の容姿と話口調、そして生徒である浅目装の身内という事が良い方に向いたようだ。特に不審がられることもなく、着々と欲しい情報を入手していく。

 どうやらこの朝外中で流行っているおまじない、データ通りというか予想通りというか、多くの生徒が手を出しているらしい。グループ全員で試した人、個人で試して友人に話した人など様々にいるようだが、多くは一人で試してその体験を友人に話している人が多いようだった。特徴的だったのは手順をきっちりと守って一人でおまじないを行ったものはあまり怯えておらず、グループの人間で一緒におまじないを行ったものは約束事を破ったというごく普通の負い目から若干の怯えを見せていた事だ。話を聞くに襲われたという女子グループもグループの人間全員で一緒におまじないを行ったと声高に話していたらしく、彼女らとは別に複数人で一緒におまじないをしたという人は襲撃こそされなかったものの鏡に子供が映った、湯船に子供が映って寒気がした、などというホラーの鉄板のような恐怖体験をしたものもいるという。

 ここまで来ると昨日話を聞きに行った浮澤海斗がおまじないについて知らなかったとは思えないが、恐らくおまじないと今回の事件が繋がっているとは思っていなかっただけだろう。もし昨日話を振っていたら、と思わなくもないが、過ぎた話だ。仮に彼が知っていたとしても、彼がおまじないを行うような性格の人間には思えないから、詳細な情報は得られなかっただろう。

 暫くとそうして聞き込みを行っていると、逆に声が掛けられた。視線を向けると三、四人程の女子グループで、普段からつるんでいるのだろう、お揃いのキーホルダーが鞄で揺れている。彼女らは浅目の顔をまじまじと不躾に眺め、こそこそと何やら内輪で会話をし、それからようやくきちんと声を掛け直してくる。

「もしかしてえ、浅目くんのお姉さん……ですかあ?」

「あら」

 確信染みたその言葉に、浅目はあっさりと頷いて見せた。別段ここで身分を隠す必要もなく、すでに幾らかの人間に浅目装の姉であるという事は話している。それに聞き耳を立てられていようが、偶々耳に入っていようが、彼女にとっては何も問題ない事だ。半歩ほど足を回して彼女らと向き合い、その隣に並ぶように遊佐が移動した。胡古はというと、正直何だかこの女子達に認識されたくなくて、一等背の高い遊佐の後ろに隠れるように位置を変える。

 あっさりとした返事に、へえー、と四人は揃って声を上げた。つーかホントに話すのぉ?、でも話しておいた方が良くない?、でも共犯って言われたらやじゃね?、そんなの話してみなきゃわかんねーしさあ、等々、彼女らは三人を置き去りにして好き勝手相談をし始める。正直胡古だけならばこの時点で気配を殺して帰っているところだったが、今日は浅目と遊佐についてきているのだ。勝手に帰るわけにはいかないし、どうにもこの少女達、何かを知っているような素振りさえ見せている。それに対して興味がないわけでもない。完全に気配を殺して胡古は門に寄り掛かった。

 あーだのこーだの相談し、彼女らはようやく何を誰がどう話すのかを決めたようだった。四人の中で一番真面目そうな女子が名乗り出るように一歩前に出てきて、初めましてとまず挨拶をする。それに浅目と遊佐がにこやかに返せば、相談という名の焦らしで二人が機嫌を損ねていない事に安堵したようで、少し頬を緩めた。

「おまじないについて聞いて回ってたみたいですけど……、その、多分お姉さんが聞いて回ってるおまじないを流行らせたの、樹裏じゅりちゃん……、私達の友達の亜尾原樹裏あおはらじゅりって子なんです」

 おや、と遊佐が僅かばかり驚愕に声を上げた。まさか中心人物に近い人間がこうも早く、しかも向こうから来てくれるとは完全に予想外で、三人の注目が話をしている女生徒に集まる。その事に少し緊張したのか、次に出てくる言葉は震えが残っていたものの、言葉を続けていくうちにそれも収まっていった。

 彼女らのグループの中心的な人物であった亜尾原樹裏という女子生徒だが、元々浅目装に対して明確な恋慕を抱いていたという。それはグループの人間以外の人も気付く人は気付くだろうといったくらいのもので、しかし告白までは未だした事が無いらしい。本人曰くフラれたら暫く立ち直れないから、だそうだ。

 少し大人し目だが意思ははっきりとしていて、こうと決めたら頑固なところのある性格らしい亜尾原は、告白は出来ずとも様々なところで恋愛成就のお守りを買ったり、出来る範囲での自身の容姿を磨いたりと、かなり遠回しな事をしていたらしい。そんな彼女が最終的に行き着いたのが恋愛のおまじないだった。

 まあこの年頃の少女が行き着くには順当だろう、といった感じではある。彼女が最初に行ったのはもっと手軽で、儀式めいた事は一切ない可愛らしいものだったそうだ。一つに手を出したら後はあっという間で、手を変え品を変え毎日のように何かしらのおまじないを行うようになり始めたという。

 それが去年の夏頃の話で、今のおまじないを知ったのが去年の冬頃らしい。どうやらこの学校固有のおまじないがあるとどこかで聞いたようで、裏サイトや怪しいブログなどを一生懸命に探してようやく見つけたのだと、嬉しそうに語っていたそうだ。手順も用意するものも簡単だと、意気揚々とこのおまじないをするようになったのだと。

「でも……、四月くらいからかな、ちょっと変だなって思い始めたんです」

 見つけた当初に亜尾原が語っていたおまじないの内容には、血や髪といった少し恐怖を覚えさせる要素がなかったという。しかし今年の四月頃から彼女の様子がおかしくなり、手足に傷が増え始め、言動も何処か曖昧で不自然なものになっていった。不安に思って聞いてみれば、裏サイトでもっと成功率の高い方法を教えてもらったのだ、とそれはそれは嬉しそうに話したらしい。その時彼女が話したおまじないが今流行っているもので、彼女がどんな方法を使ったかは不明だが、その日から話が広まって試すものが増えていったのだとか。

 別にただのおまじない、少しホラー映画やホラー小説などで見かける要素が増えたからと言って、そんな事が現実に起きるわけがない。グループの皆はそう楽観視していて、事実怪我が増えた事と少し言動が妙になった事以外亜尾原に変化は起きなかった。周りの人達が同じようにおまじないを試していても、自分達の方が先に知っていて、かつ要素が追加する前のものも知っているのだという優越感が勝り、話がどんどん拡大していく様を寧ろ少し楽しんでいたらしい。包みの中にお守りを追加したとか、パワーストーンを容れてみたとか、そういった話もよく考え着くなあとスルーしていたと。

 それが少し、亜尾原が何かまずい事に手を出してしまったのでは、と思い始めたのが夏休みの事らしい。中学生の夏休み、宿題やら何やらをどう処理していくかは置いておき、グループの皆であちこち遊びに行く事も多かった。そのいつからかは分からないが、夏休みに入り、約束なんかをして日を開けて亜尾原と会うと、彼女の顔立ちがその度に可愛くなっていっていたという。始めはそれこそ気のせいだと思っていたが、SNSに上げる為の写真を会う度に撮り、それを見比べてみたら、気のせいとは言い難いほどの変化が見られたそうだ。どう見ても言い逃れ出来ないレベルで、しかし彼女だとわかる特徴は残したまま、顔立ちが整っていたのだと。

 初めは整形でもしたのかと思ったが、手術をしたなんて話は聞かされていないし、そんな時間もない程には頻繁に会って遊んだり宿題をしたりしていたそうだ。そしてその頃から彼女の様子はどんどん可笑しくなっていき、目が異様なまでのぎらつきを見せ始め、学校のない期間にも関わらずほぼ毎日おまじないをしに通っているのだとまで話したという。

 どう考えてもおかしいと、そこまできてやっと彼女達も思い始めた。その頃には夏休みも終わって学校も始まり、亜尾原の異変に気付くものも多かったという。が、容姿が以前より整っている事、言動が少し妙になっている事が重なり、夏休み前よりも遠巻きにされる程度で、面と向かって可笑しいと言ってくる人はいなかったそうだ。それも相まってか彼女はより一層熱心におまじないに熱を注ぎ、SNSや裏サイトなどで拡散した。彼女曰く、より成功率の高い方法を教えてくれた人が、おまじないを行う母数が増えればより確実性が高まると言ったそうだった。

 実際奇妙な事に、学校が始まったと同時におまじないの噂は誰もが耳にしているレベルの広まり方をしていた。どう考えてもこれが夏休み後から一気に増えたわけではなく、恐らく手順にある"誰にも見つからないように"を実行しやすい夏休み期間中におまじないが出来るようにと、その前から秘かに拡散されていたのだろうと分かるほどに。

 そこまで話して、女子生徒は俯いた。装におまじないをした、という話は夏休み前からぽつぽつとあって、学校が始まってから更に増えたという。それが今回の事件とどうにも無関係に思えなくて、と唇を噛み締めた。件の亜尾原は今日は休みであるらしく、学校に来ていないという。

「もし……、もし、樹裏ちゃんが犯人でも、その、許してあげてほしいんです。悪気があったわけじゃないし……」

 勿論、と浅目が頷こうとして、それを遊佐が制止させた。どうしましたの、と浅目が戸惑うのも当然で、彼女は少し冷たい目線で少女達を見る。背丈があるのと、かつ普段は涼やかで綺麗な容貌が裏目に出てか、少女達には威圧感を与えてしまったらしい。見るからに獅子の尾を踏んだような怯え方をし始めて、浅目が少し咎めるような目線を遊佐へと向ける。それを気にもしていないのか、彼女は唇から鋭い声音を吐き出した。

「悪気があったわけではない、という言葉は免罪符には成り得ないよ。……手を出した時点で、罪は罪だ」

 免罪符、という中学生には聞き慣れないだろう言葉の後に小さく続けられたそれに、少女達は一斉に一塊になった。身体を強張らせ、表情も青褪め、先程まで喋っていた女子生徒なんて真っ白になりながら唇を噛み締めて拳を握り締めている。

 その様子すら遊佐には響かないようで、いつもの淡々とした口調と表情で少女達を追い詰めるような言葉を続けていく。何だか彼女らしくない様な気がして、胡古は少し首を傾げた。確かに遊佐や胡古のような知識を持つ人間からすれば彼女らが放置していた事は少々厄介なもので、どうして止めなかったと言いたくなりはする。しかしここまでばっさりと、知らない人間に対して遊佐はきつい言葉をかけるような性格だっただろうか。

「その亜尾原という子がどれだけのめり込んでいたかは知らないけれど、可笑しいと思った時点で止めるべきだった。……結局、ここに来るまで信じてなかったと言いつつも、そうやって言っているという事は、心の奥底では下手に止めて自分に良くない事が起きたら、と信じていたんだろう。……」

 何か小さく呟いたが、それは胡古らの耳に届く事なく掻き消えた。重苦しい沈黙が一瞬流れ、この場所だけ氷河のど真ん中にいるような冷たい空気が充満している。少女らは完全に怯え切って震えており、浅目も空気に呑まれて遊佐の次の言葉を待つばかりだった。

 それから大きく、遊佐が息を吐く。ひ、と小さく少女達がか細い悲鳴を喉で鳴らし、身を寄せ合った。それを生み出した当の本人である遊佐はというと、暗く淀んだ紫でどこを見るわけでもなく、独り言にしてはやけに感情の乗った呟きを続けていく。

「君達は……、止めるべきだった。信じていないと言いながら、己の身可愛さに恐怖するくらいなら、君達は止めなければならなかった。……それでこんなことが起きているのなら、」

 鼎、とそこで浅目がようやく口を開いた。彼女は少女達と遊佐の間に立ち塞がるような位置に移動し、強く非難の意思を宿した目で遊佐を見やる。

「それは今、必要のないお話ですわ。わたくし達はここに、少し調査をしに来ただけです。何の罪もない子供たちを責め立てに来たわけではありませんわ」

 どんよりとした目が浅目に向いた。それを真正面から受け止めた彼女が何を思ったか、何を感じたのかは分からないが、浅目の方の意思は揺れてはいなさそうだった。もう一度鼎、と遊佐の名を呼び、その右手が軽く持ち上げられていく。

 ぱちり、と瞬きをして、遊佐は深く息を吐いた。それは先程の意味を持たないものではなく、自身の精神を戻すような音をしていた。深く息を吐き、瞼を閉じてゆっくりと開く。それから軽く頭を振り、遊佐は小さくすまない、と述べた。いいえ、と浅目が首を横に振り、持ち上げていた右手を下ろす。もしかしたら引っ叩くつもりだったのだろうか、と胡古はそこでようやく思い至った。

 どうやら落ち着いたらしい遊佐は、もう一度息を吐く。浅目はそんな彼女を見てから少女達の前から退いて遊佐の隣へと戻り、遊佐は心の底から申し訳なさそうな表情を浮かべて少女達を向き合った。凍っていた空気も自然と融解し、何だ何だとこちらを見ていた人々も、何もなさそうだと分かるや否やその視線を各々別の方へと向ける。

「怯えさせるつもりはなかったんだ。ただ……、その、そういった事にあまりいい思い出がないから」

 そう彼女が苦い笑みを浮かべた。少女達からほっとした雰囲気が流れ出し、もう少し話は長引きそうだな、と胡古はぐるりと首を巡らす。結構な時間話していた気もするが、正門には未だ多くの生徒がいた。こちらを眺めていたものも多くいたようで、そういった生徒達はすでに興味を失ったのか道へと出ていったり、友人との会話に戻っていたりしている。

 そんな中、胡古の目を偶々引いた生徒がいた。彼女も探そうとして見ていたわけではなくただ適当に辺りを見回していただけだったのだが、つい昨日、印象に残る別れ方をしてしまった人物だ。偶々ではあれ、目に入ったらつい視線で追いかけてしまうのも無理はない。

 彼は抜き足差し足、といった忍び足でゆっくりと、静かに歩いており、人の目を気にしているかのようにきょろきょろと辺りを見回している。まるで周囲の目から隠れるように歩いている彼は、やはりというかその表情に怯えを宿していた。その怯えも周囲の人間に対してのもの、というには何となく色が違うような気がして、胡古は彼の周囲を観察しながら首を傾げる。

 自分達の側をひっそりと通り抜け、カーブミラーのある道へと出た彼を見、浅目に伝えてみようか———、そう思って彼から視線を外した瞬間だった。どっと辺りの空気が冷たくなり、まるで真冬ではないかと錯覚するほどに寒くなる。余程の寒がりでもない限りまだ十月だからとそこまで厚着をしていないのはこの場にいる多くの人間に当てはまる事で、急に下がった気温に対して唇を真っ青にし、身体を擦ったり体操着の上着を着こんだりし始めていた。

 何が起きたのだろうか、そう思って周囲を見回したのは皆同じで、特に遊佐は奇妙に殺気立っているのが感じられる。それを気にしないようにしながらも、何か違和感のあるものはないか目線だけで探してみれば、視界の端で何かの明滅を捉えた。身体ごとそれを捉えた方へと向け、そして胡古は記憶の奥底に閉じ込めていた、二度と現れる事はないのだと信じていた恐怖が、蓋を抉じ開けてどろりと沸き上がってくるのを感じていた。

 ———それは、カーブミラーから発されていた。鏡面が底のない黒に染まり上がり、ぱちんぱちんと幾つもの青い目玉のようなものが、瞬きをするかのように明滅している。時折白いものがちらちらと揺れていて、それが何かと考える前にぶわりと、その黒が鏡面から質量を伴って溢れ出た。

 溢れ出たそれはまず、カーブミラーの縁を掴んだ。掴んだ瞬間、それは人間の手を形どり、しかしその指先は異様なまでに鋭利であった。そこから更に細い腕が形成され、肩、胸部、首、頭を形を整えながらカーブミラーの外へと出てくる。そして縁を掴んだ両手に力を籠めるとぐにゃりと粘土細工のようにカーブミラーの縁が歪み、ずるりと残りの下半身らしきものを力任せに這い出させた。どろどろとした黒いそれは途中から無数の赤い糸になっており、更に見る間に服のようなものと脚のようなものを模っていく。黒いノースリーブとドロワーズを繋ぎ合わせたような黒い服———もしかしたら全て胴体なのかもしれない———、切り裂かれたらたまったものではないだろう鋭利な指を持つ手、無数の赤い糸が絡んで脚のような、ハイヒールのようなものを成して地面へと着地し、ゆっくりと上げられた顔に張り付いているのは、にんまりと三日月を描く口元と、透き通る海のような真っ青な目。どろどろとカーブミラーから出てきた残りの黒は髪の毛のように頭部に追随しており、幾つか房となって分かれては牙のようなもの、目のようなものなど、髪の毛にあるはずのない器官を形成していった。

 その体躯はとても小柄で、容姿をはっきりと認識しなければ子供にしか見えない。だがそれは異様なまでの存在感と、"人に似た人ではない物体"という異様さによる恐怖感を、ただそこにいるだけで周囲の人々に植えこんだ。にまにまと笑っている口の中にはぎざぎざとした鮫のような鋭い歯が並んでおり、それも人間の恐怖を煽るのに丁度よい材料となっているようであった。

 ひゅう、と胡古は上手く息を吸えなかった。鏡の中の、黒と青。忘れたくても忘れられなくて、しかし彼女の現実を奪い去っていった存在と、今認識しているそれはよく似ている。幼かった頃、祖父母の家で偶々見つけた全身鏡を覗き込んだ時、うっかり目が合ってしまった、あれとよく似ている。

 あれもそう、ああやって青い目で品定めするように見てきて、その時は興が削がれたのかすぐに何処かへと行ってしまって、しかしという強い恐怖感を抱かせたあれと。毎夜悪夢を見続け、もうここが現実かどうかすらわからなくなった、そのきっかけのあれと。……とてもよく、似ていた。

 それは先程まで胡古が見ていた少年へとゆっくり近付いて行った。彼の顔色は真っ白になっており、完全に恐怖がその足を地面に植え付けているようで、がたがたと震える以外何も出来ていない。にまにまと笑ったままのそれは少年の側に辿り着くと、容赦なくその頭を片手で掴んだ。その際に鋭利な指先が頭部の薄い肌を切り裂いたのだろう、血がつう、と顔に垂れていく。そのまま髪の毛のような黒い触手で彼の身体を拘束すると、不格好な赤い脚で地面を蹴った。

 少年ごと宙に浮いたそれは彼を離す事なくどこかへと飛び去っていき、それが遠のいていくのと比例して気温が元に戻っていった。げほ、と胡古は咳をし、身体から寒さを払う為に軽く身震いしていると、隣にいた人物が走り出そうと数歩地面を蹴った音が聞こえてくる。見れば完全に無を宿した遊佐がそれの飛び去った方へと走り始めており、同時に胡古は停止していた思考が回り始めたのを感じ始めた。

 ちらと近くの様子を見れば浅目と少女らは完全に恐怖に対して委縮しており、全く身動きの取れない状態となっている。少し別の所を見れば金切り声を上げている生徒や地面に倒れている生徒、頭を正門に打ち付けようとして止められている生徒など異様な光景が広がっており、収拾のつかない状態となっていた。通報を思いつくものはいないようで、目に映る範囲でスマフォを手にしている者はいない。

 まずいな、と感じた胡古は走っている遊佐をまず止めようと追いかけ始めた。彼女の足は中々に速く、ただ走っているだけだったならば追いつくなんてことは出来なかっただろう。しかし今彼女は少年を連れ去った人外を追いかけながら走っており、リソースを追跡にも割いているせいで全力疾走というほどの力は出ていなかった。それが幸いしてか、二つほど角を曲がったところで遊佐の腕を掴む事に成功し、無の表情となっている彼女にぎろりと睨まれる。それは恐ろしいまでの威圧感を放っていたが、それにたじろいでいる暇はなかった。

「……、学校、収拾がついてない。……、通報とか、面倒だけど事情聴取とか……受けないと」

「そんな時間があると思って……!」

 奇妙なほどに焦っている彼女は、胡古の目を見てその先を続けなかった。何もなかった表情が何かを思案する表情へと変わり、彼女の心が戻ってきたのだと内心安堵する。目を伏せて数秒ほど考えた後、彼女は緩く首を振って胡古の手をそっと外した。

 すまなかった、戻ろう。小さくそう口にして、遊佐は元来た道を早足で辿っていく。胡古もそれに続き、乱れていた息を整えながら歩き始めた。道中どちらも話す事はなく、何となく居心地の悪い空気が漂ってしまう。普段ならば気にしないのだが今日は久しぶりに恐怖を思い出したからだろう、遊佐の表情が気になってちらりと彼女を窺った

 遊佐は唇を軽く噛み締めており、珍しく俯きがちに歩いている。先程までは完全に無しかなかった顔には後悔、憤怒、懺悔といった種類の色が入り混じって見て取れ、ああいった事態で昔何かがあったのだろうか、と推測してしまうほどに分かりやすく表面に出てきていた。固く握りしめられた拳は力を籠めすぎて小刻みに震えており、本当に最近の彼女は分かりやすいようでわからなくなってきてしまったと思う。

 角を二つ曲がって朝外中へと戻ってくれば少しだけ状況がましになっており、浅目が周囲の人に呼びかけながら錯乱している人の様子を見たり、勝手に帰宅しないよう足止めをしたりしている。どうやら浅目はあの後すぐに正気に返り、通報を行ったらしい。教師にも事情を説明して協力してもらいながら、今起きた事態を目撃した人物全員を学校に留めており、それを彼女一人に、一時的とは言え全て任せてしまった事に申し訳なさを感じた。

 浅目は戻ってきた胡古らを見るや否や怒ったような、安心したような顔つきになり、すぐさま二人にも指示を出し始める。よく見ればその顔は大分強張っており、気力だけで動いているのだろうと分かるほどに全身に力が入ってしまっていた。何をするべきか、何をしたらいいか、そういった事を聞いた遊佐は浅目にもう休むよう言うと、彼女を胡古の方へと押しやる。浅目がしていた教師陣との話を続けていくのを見て、胡古は浅目の背を撫でた。

 もう暫くすれば警察が到着しますわ、と彼女は小さな声で言った。大きく溜息を吐いて自分の身体を抱え込んでしゃがみ、その体勢のまま今までどこに行っていたのか、と問い掛けてくる。あれを追いかけて走り出した遊佐を連れ戻しに行っていたと答えれば、相槌が返ってくるのみだった。

「あれは……、何でしたの……。見た事のない、でも人間のような……」

 思い出してはその時の恐怖も戻ってきてしまうのだろう、所々つっかえながら先程の化け物について聞いてくる浅目は大分疲労しているようで、声も小さく覇気がなくなっている。胡古が答えずに隣に座り込めば、彼女も答えのない事は分かっていたようだった。沈黙がその場を支配し、周囲のざわめきが耳を擽る。

 そうしているうちに警察がやっと到着したようで、目撃者の多さから学校の一室を借りて事情聴取を行う手筈になったようだった。教師らと少し会話をした彼等は、目撃した人は校舎内で待機してくださいと呼びかけ始め、生徒達が続々と校舎に戻っていく。胡古らもそれに続きつつ、職員玄関の方へと案内され、スリッパを借り受けて職員室内で待機する事になった。

 帰れるのは何時頃になるだろうか、そうぼんやりと時計を眺めながら、胡古は再び恐怖に蓋をした。


 その日の晩。調査から異常現象の目撃から事情聴取からでくたくたになった身体で帰宅した胡古は、真っ先にテレビのニュースを点けた。途中コンビニで買ってきたおにぎりの包装を剥がしながら流れてきたのは当然ながら先程起きた事件についてで、おにぎりを口にしながらそれをぼうっと流し見ていく。

 事件についてはすでに調査が進んでいるようで、連れ去られた男子生徒の彼ももう見つかったらしい。遊佐が僅かながら追跡していた事、割と目立つ犯行で学校の外でそれを見たという証言が多く得られた事から行先がすぐに判明し、警察が乗り込んだようだ。行先さえわかればこうやってすぐに対処できるものなのだな、と胡古は場違いな感想を頭に浮かべる。

 だが続いた報道に、彼女は納得しつつも何とも言えない感情を抱いた。連れ去られた男子生徒、三胴作真みどうさくまは九亀湖に連れ去られたことが判明し、警察がそこに向かったそうなのだが、九亀湖にある林の中で遺体となって見つかったという。死因は大雑把に言えば絞殺で、細い紐のような痕が何重にも残っており、首を絞められた事による窒息か、首を絞められた事による首の骨折かのどちらかだろうと調査している最中らしい。

 九亀湖と判明したのは警察が朝外中からの通報を受けて捜索隊を組み、あちこちで目撃情報がないか走り回っていたところ、午後十八時頃に九亀湖近隣の住宅街に住むものから新たな通報が入ったからであった。九亀湖の方から変な笑い声が聞こえるという通報は、普段ならばそこまで重視されなかっただろう。しかしその時集まっていた証言を簡単に纏めると犯人が九亀湖に向かっていると推測が立てられた為、捜索隊の一つが湖へ急行した。その捜索隊が発見したのが林の中に放置されていた三胴昨真の遺体で、近くを更に捜索したもの犯人らしき影は見当たらなかったという。

 三胴昨真の遺体には頭部に数本の切り傷、首には絞殺痕だけでなく小さな切り傷や抉り傷のようなものもついており、彼が抵抗した痕跡が現在見受けられない為、彼が遠回しな自殺を図ったのではないかと推測されているらしい。抵抗しなかったのではなく出来なかったのだろう、と胡古やあれを見た人なら思うだろうが、警察もニュースキャスターもあの現場を見たものはいない。真実に到達する事はないのだろうな、と最後の一口を頬張った。

 ニュースを見終わったところでスマフォからバイブ音が鳴った。誰かから連絡が来たらしく、胡古はその相手の名を確認する。通知を鳴らしたのはトークアプリのグループの方で、篭宮が何か情報を掴んで共有しているようだった。のろのろとトークアプリを開いてそれを見てみれば、思ったより有益な情報が貼られていて少しだけ目を見張る。量は少ないが核心に至れる情報内容で、一体どうやってそこまで調べたのだろうか、と逆に手口と伝手が気になった。

 どうやら彼は別口で朝外中の生徒に話を聞いていたらしい。篭宮が接触出来たその人は装に生霊が幾つもへばりついているとSNS上に投稿していたらしく、何か知っていそうだと篭宮の勘が言っていたので話しかけてみたという。その投稿には胡古も覚えがあり、あの時随分ととんでもない事を言っているアカウントだな、と思った人であろうと予想が付いた。

 曰く、金曜日の事件と土曜日の事件、そしてニュースにこそなっていないがここそこで囁かれている様々な現象。それらは全ておまじないの術者か、おまじないの対象になった人物のどちらかなのだという。何故そう分かるのかと聞いたところ、意外にも論理的な答えが返ってきて、どうにも裏サイトでの報告投稿でそうと分かるようだった。匿名やニックネームなどを使用しているとはいえ、所詮は学校という小さなコミュニティに所属する人達が使用している場所だ。どれだけ隠そうとしてもある程度個人が特定できるもので、特に今回は恋愛関係のおまじないというところからより特定しやすかったらしい。そしてSNSなどで変な事が起きた、などと騒いでいる人ともほぼ合致する為、術者か対象になった人物だとその人は思ったそうだ。

 そしておまじないの術者がおまじないを行った事を吹聴しているのならば、"誰にも見られてはいけない"という禁を拡大解釈すれば破っている事になる。対象者だけでなく術者にも被害が及んでいるのは、恐らくそういう事なのだろうという推測も教えてもらったという。

 そうなると、と胡古はおにぎりの包装をゴミ箱に捨てながら思い至ってしまった。今日目の前で連れ去られた男子生徒、三胴昨真。彼もおまじないを行い、何かしらの禁を破ってしまったのだろうと。何せ彼はつい昨日、学校に忘れ物をしたと言いながらも人目を異様に気にしていたのだ。恐らくは"誰にも見られてはいけない”という段階のうちのどちらかまで来ていて、しかしそこで失敗してしまったのだろう。だから連れ去られ、そして助けは間に合わずに……。

 ぽんぽんと通知がトークアプリから次々にやってくる。どうやらあのどさくさに紛れて、浅目が亜尾原樹裏の住所と電話番号を入手していたらしい。それを利用して既に亜尾原宅に連絡を入れており、急な話ではあったが明日訪問出来るように話を通してきたという。朝外中自体も明日は流石に臨時休校となったようで、亜尾原樹裏が家にいる可能性も高い。他に誰か一緒に行かないか、と彼女は尋ねており、しかしやはりと言うか胡古以外は講義や仕事があって残念そうにそれを断っていた。

 他にいないのであれば、と胡古は再び浅目に同行する事にし、以前と同じように合流地点と時間を決めていく。同じく昼過ぎと予定が決まったところでトークアプリは沈黙した。

 ぼんやりと手にスマフォを持ったまま、胡古はどんよりとした目で真っ暗な画面を眺める。反射で映るのは自身の顔と背景となっている壁や天井といったもので、何の変哲もないものだ。何の変哲もない、ただの壁や天井。それをどこか、ほんの僅かに恐怖か、緊張か、そんな色を宿した目で、胡古は見つめていた。

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