3-3.契約不履行
朝外中学校は市立の中学校で、学区内にいる子供達が大勢通っている場所であった。浅目の家と浮澤の家はその学区内にあり、もしかしたら篭宮も通っていた可能性がなくはない。誰もが想像し得るごく普通の中学校で、フェンスで囲まれた敷地内には石灰で描かれた楕円形が薄れてるグラウンドが良く見える。建物は校舎と体育館、倉庫やゴミ収集場、使われているのか分からない焼却炉などが並んでおり、それらはまだ建て替え等をしていない為、見るものに大分古ぼけた印象を与えた。
鉄格子の外側では制服を着た警官らが入り口になりそうな場所全てに立っており、こっそりと中へ入る事はかなり難しそうである。立っているだけでなく巡回している者もおり、金曜日の事件が如何に衝撃的なものだったのかを示すかのようだった。
胡古らは怪しまれない程度にフェンスの外周を回り、何かおかしなところがないかと探してみる事にした。警官に見つかって説明を要求されても面倒なのでなるべく遠目で様子を見、しかしそれで何かが分かるほどのものは見当たらない。このまま一周して終わるのだろうか、と校舎の裏手辺りまで回ってきたところで、二人はおやと声を上げた。明らかに警察関係ではない人がいたのだ。
その人物は長袖のシャツに薄手のジャケット、青いジーンズといった無難な格好をしており、周囲をきょろきょろと、まるで人目を気にするかのように見回している。彼の目の前には当然ながらフェンスがあるのだが、その下に都合よく足を乗せられそうな大き目の石が置かれていた。確かにあれを使えばフェンスをよじ登って、学校の敷地内に入ることが出来るだろう。
気が付けば隣にいたはずの浅目がその少年の方へと歩いて行っており、胡古は慌ててその後を追いかける。周囲に人がいない事を確認して石に足をかけた彼に、浅目はそこの貴方、と声を掛けた。当然ながら少年はうわあっと大声を上げかけ、自分で自分の口を塞ぐ。その慌てっぷりはどう見ても、今から悪い事をしようとして見咎められた反応そのものであった。
「貴方、どうしまして?何故そんなところから入ろうとしていますの?」
「え、や……、そのお……」
少年は自身に声を掛けたのが目を見張るような美女であったからか、その頬を上気させてもじもじとし始めた。ちらちらと浅目の顔を見ては逸らし、という仕草を繰り返し、彼女に見惚れているのがはっきりと分かってしまう。
変に照れてしまったせいで何とも言えない返事ばかりをする少年に対し、浅目は逆に不信感を募らせたらしい。普段は穏やかな目尻を吊り上げ、腰に片手を当てる。今度は少し低めに同じことを問い掛け直せば、少年は目の前の美女が気を損ねていると判断できたらしい。上気した頬が一気に青褪めて、ひえ、と情けない声を上げた。
美女ではあるが今はむっすりとした浅目に、表情のない胡古。逃げ場のなくなってしまった少年は僅かに身を震わせると、情けなくか細い声でようやく問い掛けに答えた。
「え……っと……、そのお……、ちょっと忘れ物、しちゃって、それで……」
「あら、貴方こちらに通う生徒さんでしたの?それならば外にいる警備の方に……」
「それじゃあ!……あっ」
彼の返事に不思議そうに人を呼ぼうとする浅目へ対し、少年は大きな声でそれを遮った後、いやその、とまた不明瞭な言葉ばかり繰り返し始める。浅目が不思議そうになるのも今回は無理はなかった。ここに通っている生徒で、単に忘れ物をしただけならば外にいる警官に一言告げて中に入ればいいだけの話である。それなのにこんな裏口とも言えない場所から入ろうとする当たり、彼はかなり不審であった。
そ、それじゃあ、駄目……なんです、ともぞもぞ呟く彼の顔色には未だ羞恥が濃く出ているものの、その裏側に何かに対する怯えのようなものも見て取れ始めた。浅目はそれに気付いていないようで、どうして駄目なのです?と繰り返し聞き続けている。もぞもぞ、もじもじと口を開閉しては何も言わない彼は、暫くそうしていたかと思うとようやっと言葉を発した。
「あの、そのぉ……、駄目なものは、駄目、で……、昨日も、それで……」
「あら。昨日も?でしたら余計に大事なものなのでしょう?わざわざこんな所から入ろうとしなくても、きちんと頼めばよろしいのでは?」
そう言われても彼は駄目だの一点張りで、その理由を話そうともしない。話してはいけない様なまずい事情でもあるのだろうかとも考えられたが、忘れ物が単なる言い訳としても学校内でそんな離せない事が起きるだろうか。彼が虐められていて、という事も考えらなくはないが、周囲には他に生徒らしき影はないし、誰かに脅迫されて、という雰囲気も彼からは感じ取れない。つまり恐らくだが、この線は薄いだろう。
では何に怯えているのか?頻りに駄目だ、無理だと繰り返す彼はそれ以外を全く口にせず、徐々に浅目の表情も曇っていく。どうしましょう、とこちらを向いて問い掛けてくる彼女に対し、胡古は肩を竦めた。きっと少年は何も話さないだろうし、このまま放置して帰るしかないだろうと。
浅目は少年と胡古を交互に見、そうですわね、と頬に手を当てて溜息を吐いた。足元に気を付けてくださいね、と続けて二人が踵を返そうとしたところ、背後から君達、と声を掛けられる。振り返ればそこには警官がおり、胡古らと少年に疑念の孕んだ視線を向けてきた。
「こんなところで何を?」
明らかに胡古らに対して疑いを向けている警官に対し、浅目は少しだけ眉根を寄せた。すぐに表情を切り替えて愛想笑いを浮かべたが、自分が疑われるという状況に不愉快さを覚えたのだろう。次に発された言葉には棘が混じっていた。
「わたくし達、今回の事件の被害者の身内でして。犯人は現場に戻るとも言いますから、少しだけこの辺りを見て回っていましたの。そうしたら彼がここから中に入ろうとしていて、止めていただけですわ。だって中に入りたいのなら警官をお呼びすればいいと言っても聞かないんですもの」
「成程……?ああ」
そう説明された警官は少年の方を見ると、やれやれと少し呆れた顔つきになった。少年の方はというとびくりと身体を大きく震わせ、ちらと警官を見た後に俯いてしまう。
「君、昨日も来ていたよね。もしかしてまた別の忘れ物かい?」
「あ、ええと……、はい、その……」
「それならこのお嬢さんの言う通り、僕らに声を掛けてくれればよかったのに。じゃあ行こうか」
警官は少年を手招きし、あらぬ疑いをかけて申し訳なかったとこちらに謝罪した。そのまま少年の背を軽く押して正門の方へと去っていく。割と有無を言わせずに連れて行ったが、ここには他の警官もいる。問題は起きないだろうと二人は顔を見合わせた。
一先ず自分達も一度帰宅しよう。二人は互いに言わずとも同じ思考になっていたようで、元来た道へと足を向ける。帰宅してから入手した情報類を他の面々にも共有しよう、とその足を速めながら。
浅目の家付近で彼女と別れ、自宅の方へと歩を進めていく。金曜日の事件のせいか、日曜の昼過ぎというのに人通りは少なく、胡古は心穏やかに道を歩いていた。いつもとは少し違う道、というだけで何だか知らない場所のように感じるものだから、人間の知覚とは不思議なものである。
ぼんやりと形にならない考え事をしながらそうやって歩いていると、ぽん、と肩に軽い感触が伝わってきた。見ればそこには綺麗に整えられた爪を持つ手が乗っかっており、腕、肩、首、顔と順繰りに視線を流していくと、見慣れた二加屋の顔があった。彼女はにっこりと、いつもの良く分からない笑みを浮かべると胡古を道の端まで誘導する。
どうしたのだろう、と首を傾げていると、彼女の開いた口から出てきたのは、時間があるならお茶でもどうだ、という誘いであった。腕を持ち上げて時間を確認すれば、まだ帰宅するには早い時間帯で、胡古は二つ返事でそれを受ける。それに嬉しそうに目を細めた彼女は、近くにいい店があると先を歩き始めた。浅目よりもせかせかとした歩き方をする彼女を追いかけて、胡古は早足で歩きだす。
道中の会話は特になく、ほんの数分にも満たない時間で二加屋の気に入っているらしい店へと辿り着く。そこは住宅と住宅の間で、知っていなければ店だと思わず通り過ぎるような場所であった。だがしっかりと看板が出ており、駐車場はないにしろ本日のおすすめが描かれたボードが店先の邪魔にならない箇所に置かれており、きちんと見れば喫茶店なのだと一目で分かる風にもなっている。
二加屋が店の扉を開けて中に入ればドアベルが鳴り、少し経ってから店員と思しきエプロンを着た女性がやってくる。二人、禁煙で、と手短に伝える彼女に対し、店員は今日はお一人じゃないんですねえと声を掛けている様子からして、二加屋はここの常連なのだろう。案内する女性の後ろを慣れた風に歩いて行く姿は、この店にどこかぴったりと填まるようであった。
席にかけてメニューを見ながら、不審でない程度に店内を見回す。住宅と住宅の間という事もあってこじんまりとした造りではあるが、店長の趣味が良く窺える内装であった。木製のカウンターの後ろにはティーセット類や紅茶の缶、珈琲豆の入った瓶などが複数置かれ、それらを扱う為の器具も幾つか並んでいる。カウンターの奥には一枚扉があり、そこは恐らく調理場なのだろう。
店内の灯りは電球の入ったランタンで補われており、観葉植物が窓辺や座席の区切りなどに置かれている。家具の殆どが木製で統一されており、椅子や長椅子にはほどよい柔らかさのクッションが敷かれていた。灯りがランタンだけだからか、明るすぎない落ち着いた色を店内に与えており、それが胡古にとっては心地よかった。
二加屋はすでに注文を決めているようで、メニューを開く事もしない。胡古はいそいそとメニューを開き、目に留まってかつ好みに合いそうなものを選ぶ。胡古の様子を見て注文が決まったと分かったのだろう二加屋が店員を呼び、やってきたものに二人は注文内容を告げた。それは復唱されて間違いのない事を確認され、お冷と共にごゆっくりどうぞ、という言葉を残して去っていく。
さて、といつものように前置きをされて、胡古は視線を二加屋の顔へと向けた。やはりいつも通りにやつきを含んだ笑みを浮かべた彼女は、両手を組んでその上に顎を乗せる。何をしていたんだい、という問い掛けに対し、胡古は隠す必要もないと先程まで行っていた調査についてをざっくりと話した。
「それで君達は今度は子供のお化け探し、と」
「まあ……」
その物言いに何となく居心地が悪くなって、胡古は小さく身動ぎした。対して二加屋はふうむ、と息を吐いて何事かを思い出そうとしている。伏せられた目の睫毛の長さが何となく目に入って、長いなあと至って当たり前の感想を抱いた。
彼女が考え事をしている間に注文したものが届き、二加屋の前に珈琲が、胡古の前に紅茶が静かに並べられる。運んできた店員はもう一度ごゆっくりどうぞ、と唱えるとお盆を胸元に抱えて歩き去っていった。それを横目で見ていると二加屋がカップを持ち上げて珈琲を口にし、音を立てずにソーサーへと戻す。
「学校の近くで妙に怯えた生徒を見た、と言っていたね」
「うん」
肯定すれば彼女はにんまりと悪いことを思いついたような笑みへと変化する。どうやら二加屋には何か思い当たる節があるらしい。彼女が思い当たると言えばオカルト関係か、彼女自身が受けている依頼かのどちらかだと考えられるが、まさかそう都合よく情報が落ちてくるなんてないだろうと高を括った。
「そういえば知っているかい。最近あの学校で流行っているおまじない」
はて、と胡古は首を傾げた。学校でおまじないが流行るのはよくある事だが、朝外中でも何やら流行っているらしい。知らないと首を横に振れば、二加屋はにんまりとした笑みを崩すことなく話を続ける。
「今流行っているのは恋のおまじないだそうでね。ま、年頃の子供が簡単に手を出せるような、手軽なものなんだけれど、それが流行っているらしいよ」
再び両手を組んだその上に顎を乗せ、二加屋は胡古の目を見ようとしてくる。それだけは誰であってもどうしても嫌で、胡古は逃げ場を探して俯く羽目になった。カップの中で静かに光を反射し、自分の顔を写す琥珀色の水面がよく見える。
そんな胡古の様子などどうでもいいのだろう。二加屋は一拍置いてからそのおまじないについて詳しく話し始めた。学校で流行るおまじないの話など、一体どこから持ってくるのだろう。いつも思うが、彼女の情報源は謎に包まれている。ただまあ、中学校で流行る程度のものならば、学校の裏サイトやSNSといった場所で探せば簡単に出てくるのだろうが。
その呪いの方法はこうだった。まず準備するもの。半紙を一枚から二枚、墨汁、結ばれたい相手に纏わるもの(相手が写っている写真や、相手の持ち物など)、赤い糸、テープ、自分の血と髪。血と髪を使う辺り、大分まずいのではないかとオカルト知識を多少持っている胡古は思った。
次に方法。用意した墨汁に自分の血を一滴混ぜる。その墨汁を使って自分と相手の名を半紙に書き、良く乾かす。文字が乾いたら半紙を四つ折りか八つ折りほどにし、その上に相手に纏わるものと自分の髪の毛を乗せ、別の半紙で包む。中身が出ないようにテープなどで固定した後、包みを赤い糸で括る。その包みを誰にも見つからないように朝外中の裏手にある倉庫外に放置されている鏡に前に埋めて一日置く。———呪術の基本知識がたっぷり詰め込まれているな、とこの時点で胡古はよくよく感じた———それから次の日誰にも見つからないようその包みを回収し、別の場所に埋める。その後数日以内に黒髪青目の人間が夢に出てきたらおまじないは成功。出てこなかったら失敗。もう一度おまじないをするも良し、しないも良し、というものらしい。
手軽と言うほど手軽だろうか、と胡古はまずそこに首を傾げた。用意するものは確かに中学生でなくとも簡単に手に入るものだが、手順が面倒くさいというか、少し多いような気がする。そして誰にも見つからないようにだとか、別の場所に埋めるだとか、鏡の前だとか、何だか如何にも相手を呪います、と主張しているような工程が幾つもある。これはおまじないというよりも呪いではなかろうか。
そう胡古が考え込んでいるのが分かったのだろう。二加屋はカップを傾けてまた一口珈琲を飲み込んで、そう思う人間ってのは存外少ないのさ、と零した。
冷静というか冷淡にそう言ってのける二加屋の、突き抜けるような真っ青な目が窓の外を見た。左に流して三つ編みにしている髪も連動して動き、胡古の視点からすると一枚の絵のようである。彼女も黒髪青目だな、とまで考えて、胡古はおやと目を瞬かせた。浮澤海斗が見たという子供も、駅近くで襲われたという女子グループも、襲撃してきたのは黒髪青目の子供だった、と言ってはいなかっただろうか。
もしかして、と一瞬だけ思ってすぐさま否定する。二加屋の風貌は確かに事件の犯人と合致するが、子供に見えるほど身長が低いわけでも、童顔なわけでもない。ましてや浮澤海斗が言っていたような髪の毛のように見える触手やら、赤い糸が絡まって出来た脚やら、そんな要素も一切ない。有り得ない事だ、と胡古は線を外した。
「これについては学校の裏サイトにもう少し色々と載っているよ。……今でも裏サイトなんてあるもんなんだねえ」
そう言って彼女はスマフォを取り出して少し弄り、それと同時に胡古のスマフォが着信を告げた。開いて見てみれば二加屋とのトーク画面にどこかのURLが貼られており、そこが件の学校裏サイトとやらなのだろう。入室のパスワードやらなにやらまで続けて流れてくる。
本当にどこでそんな情報を持ってくるのだか。胡古は思わずじっとりとした視線で彼女を見やる。当の本人はにこにこと食えない笑みを浮かべているだけで、それ以上の事は全く読み取れない。きっと適当な伝手があるか、彼女自身がちょっと"詳しく"調べただけだろう。きっと深く考えてはいけない。
少年が怯えていた理由もそれかもね、とだけ付け足して、二加屋はカップの中身を飲み切った。胡古もそれに合わせて紅茶を飲み干し、伝票を持ってレジへと向かう。会計をして店の外に出ればもう随分と暗い時間帯で、それじゃあ、と二人は別れを告げて各々の帰路へと着いた。帰宅したらおまじないについて共有しようと決め、胡古は街灯がぽつぽつと照らす道へと足を踏み出した。
特に何か起こるわけでもなく、胡古は自宅へと戻って来ていた。手洗いうがいを済ませて鞄を自室へと置き、台所で適当に夕食を作って食べる。風呂掃除をして湯船にお湯を溜め、その間に天気予報やニュースを流し見て入浴の準備を済ませた。のろのろと体を洗って湯船に浸かれば今日の疲労が少しだけ緩んだような気がして、大きく息を吐く。ぼんやりと十分ほど浸かっていれば体温が上昇し、のぼせる前にと湯船から上がる。
バスタオルで身体を拭き、寝間着代わりのジャージへと着替えれば一日の終わりのようなものだった。台所へ寄って紅茶を淹れてから私室へと戻り、パソコンデスクの前に座る。スマフォを手にしてトークアプリを開き、最近よく使っているトークグループへ、先程二加屋から聞いた話を投下する。すぐに既読が付くはずもなく、そのままネットニュースを眺めていれば少しして返信が来る。それは篭宮からのもので、おまじないならこっちで調べてても怒られなさそう、と調査へ乗り気になった事が分かる。次に来たのは意外にも朽ノ屋で、彼はおまじないではなく子供の怪物の方に興味が湧いたようだった。
それから浅目、遊佐と順に反応が返って来て、ついでにと言わんばかりに浅目からは明日、夕方の下校時間が空いていればまた朝外中に行かないか、と提案される。篭宮と朽ノ屋は時間帯的に厳しいと返し、遊佐と胡古がそれに付き合う事になった。先日と同様、集合場所と時間を決め、トークグループは静まり返る。
一連の流れをもう一度見返して、胡古は紅茶を飲み切った。椅子から立ち上がってトイレへと向かい、用を足して手を洗ってから布団を整える。特にやり残した事もないな、と一日を振り返って潜り込み、リモコンで電気を落とした。
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