3-2.赤い糸

 翌日の日曜。午前九時頃に目を覚ました胡古は朝食などを済ませ、パソコンと向かい合っていた。浅目との約束までにまだ余裕があるので、日を跨いだからそろそろ新しい情報が出ているのではないだろうかと調べ物をする為である。寝起きだからか微妙に霞んだ目では画面が見辛く、目薬を点してから作業に取り掛かっていた。

 まずはSNSを開き、検索フォームに検索ワードを打つ。検索のワードは昨日と変わらず、出てきた結果は昨日とは少し変わっていた。今は浅目装への中傷染みた投稿が減っており、打って変わって学校側の対応について物申している人が増えている。主に上げられているのが生徒が二度も襲われているのに何故休校にしないのかとか、部活動の顧問への批判とか、そういったものだ。

 それが気になって別のウィンドウの方で朝外中のホームページを開いて見れば、トップページに臨時のお知らせというリンクがあった。クリックして開くと今回の事件について長々と申し開きをしており、他には様々な理由を述べ連ねて休校をしない事、調査の方は警察へ一任している事、事件解決までの学校運営についてなどが載せられている。ざっと流し読んでみたところ、これは確かに色々と言われてしまっても仕方がないような文章で、ついでに言ってしまえば大した情報は得られないものであった。

 ただ一つ気になったのが、朝外中に所属する生徒のうち、黒髪青目という組み合わせの色素を持つ生徒は存在していない、という一言である。学校側に提出する書類全てを確認したという事であるが、そうなると完全に外部の人間が学校へ侵入し、装やその他生徒たちに危害を加えたか、もしくは書類に偽装が施されている可能性が出てきてしまう。そちらも調査中との事だが、ただもし偽装だったとして、黒髪青目という容姿をわざわざ隠す理由が思い浮かばない。

 ホームページを閉じてもう一度SNSの方へと目を向ける。下へ下へとスクロールして目立つ投稿がないか確認していると、昨日の夕方襲撃された女子グループについて言及しているものがあった。それは文字数制限の為文章を幾つかに分け、前の投稿に繋げる形のものである。

 書かれていたのは襲撃の瞬間の事だった。朝外中の女子生徒グループが襲撃された時偶々近くにいた人物のようで、曰くトイレの鏡にそのグループが近付いた瞬間、辺りが寒くなったらしい。長袖を着ていたのにも関わらず肌を直接撫でるような寒気がし、辺りを少し見回してから鏡の割れる音がしたという。それからいつの間にか黒髪青目の子供がそこに立っていて、女子グループを攻撃したそうだ。

 その内容にはどうやら襲撃された本人達と思しきアカウントが同意しているものの、それ以外はホラー映画かよ、と冷めた反応ばかりである。若干炎上しかけているその投稿主はそれらの反応に対して慣れた風に放置しており、恐らくネット界隈に長らくいた人間なのだろうな、とは思った。

 その投稿以外で目に留まったのは次は自分かもしれない、と怯え切ったものである。その類の投稿は複数個、かつ複数の人物が述べており、異様なまでに怯え切った文面での投稿が連投されているようだった。何故そこまで確信めいた恐怖を抱いているのだろう、とそれらのアカウントのプロフィールや他の投稿を見てみるものの、共通点らしい共通点は朝外中と明記している人物が何人かいた程度である。趣味も性格も全員に共通する、と言えるものがそれ以外ほぼなく、それなのにおかしなくらい怯えているようであった。

 他にも何かないかとSNSの他にニュースサイトやブログなどを見て回ってみたものの目ぼしいものはなく、気が付けばそろそろ身支度をして家を出なければならない時間になっていた。ぱちぱちとウィンドウを閉じてパソコンの電源を落とし、部屋着から着替えて化粧や髪、荷物を整える。腕時計を身に着けた頃にはもう家を出る時間となっており、纏めた荷物を持って家を出た。

 浅目との合流地点は世平駅の近くにある世平図書館で、道の殆どはいつも二加屋の元まで行くものと同じである。家から二十分ほど歩いた距離にある駅前まで徒歩で向かい、更にその先へと歩を進める。常連と言うほどではないが図書館自体には定期的に足を運んでいる為、道が分からないという事もない。半分ほどぼんやりとしながらも道を進んでいき、駅前から十分ほどで図書館へと辿り着く。

 中に入り、入り口近くに設置されているベンチに座ってぼうっとしていると、軽く肩を叩かれた。のろりと首を動かせば今日も今日とて美しい浅目がそこに立っており、彼女はにこりと笑顔を浮かべる。お待たせ致しました、と肩を叩く為に屈めていた背筋を伸ばし、彼女は胡古の動きを待っていた。

 こちらも着いたばかりだと一言返し、胡古は座ったばかりの腰を上げて立ち上がった。浅目と横並びになって図書館を出、今から行く場所について彼女は話し始める。

 これから訪問するのは浅目装の部活仲間であり、幼稚園からの友人である浮澤海斗うきさわかいとという人物だそうだ。装の姉である飾ともそれなりに面識があり、彼から話をしたいと連絡が来たらしい。どうやら装が襲撃された瞬間を最も近くで目撃したのが浮澤だったようで、警察にはすでに話したものの信用されなかったと悔しがっていたそうだ。

 浅目の知る浮澤海斗という人物は、弟の装と非常に仲良くしている数少ない友人との事だった。どうやら彼女の弟である装は人当たりも愛想も良いが、基本的には他人に対して広く浅くというスペースを保っているという。友人としっかり紹介される人物はあまりおらず、その少なさ故に浅目も顔と名前、基本的な性格や印象をしっかりと覚えてしまうほどだそうだ。それは相手にとっても同じ……というか、浅目姉弟は良くも悪くも華やかで印象が残りやすい為、浮澤海斗は彼女の事をしっかりと覚えていたらしい。幾度か会話をした経験から、彼女ならば信じてくれるのではないか、と連絡が来たとの事だった。

 浅目としては弟である装がどんな人物に、どのような状態で襲撃されたのか、そういった事がわかるのならばどんな話でも信じるといった心意気のようで、流石に鵜呑みだけはしないでほしいと釘を刺した。彼女もそれは分かっていると少しぶすくれて、それでも疑うよりも信じる方を先に選びたいと小さく呟く。それはきっと彼女自身の人柄であり、強固な決意のようなものなのだろうと胡古は感じ取った。

 浮澤の家は図書館から駅へと戻り、駅から浅目の家へと向かう途中にあるらしい。そうと考えると浅目にかなりの手間をかけさせてしまった事になる。申し訳なさから謝罪すると、彼女は気にしなくていいと首を振った。こういう待ち合わせというものを体験してみたかったと楽しげに笑い、彼女が普段どのような方法で人と会っているのか、というのが透けて見えた気がする。まあお金のある家の娘だしな、と考えれば可笑しな事でもないのだろう。

 てくてくとそれなりに人通りのある道を進み、胡古達は一軒家が窮屈に並ぶ住宅街へと出た。浅目によると次の曲がり角を曲がってすぐの家が浮澤海斗の家だそうで、後数分も歩かずに目的地に辿り着けそうである。特に他愛のない会話をぽつぽつと続けながら歩いていればあっという間にその家の前まで到着し、浮澤と彫られた表札のすぐ隣に設置されているインターフォンを押す。ぴんぽん、とごく普通のベルが鳴り、ざざ、と少しノイズが入ってから女性の声が応答した。

『———はい、浮澤です』

「こんにちは、わたくし、本日御宅の海斗君に……」

『あ、飾さんですね。少し待っていてくださいな』

 用件を言い終わる前に浅目の声だけで分かったらしい相手がぷつりとインターフォンを切った。少し待っていると奥の玄関が開き、応答した女性———恐らく母親辺りだったのだろう———ではなく、少年と青年の狭間くらいの年に見える子供が出てくる。彼は駆け足でこちらまでやってくるとこんにちは、と言いながら門を開け、胡古の方へと目をやった。どうやら彼が件の浮澤海斗らしい。疑念を孕んだその視線に対し、浅目が自身の友人だと紹介すれば特に不審がられる事もなく自己紹介をされ、胡古も同じくそれを返した。

 海斗に案内されて家の中へと入り、靴を脱ぎ揃えて二階へと向かう。途中母親らしき人物が奥の居間辺りからひょこりと顔を覗かせ、胡古と浅目は挨拶をする。女性はそれににこやかに返すと、居間らしき場所の奥へと引っ込んで行った。

 彼の部屋は二階の奥で、散らかってるけど、と小さく呟きながら彼は扉を開いた。浅目、胡古の順に中に入り、海斗が最後に部屋の扉を閉める。後で母さんが来るかも、と言いながら彼は適当にクッションをクローゼットから取り出し、二人に差し出した。座布団代わりに使えという事らしい。

 散らかっている、と言われはしたが、想像したほどその部屋は散らかってはいなかった。精々が少し物を仕舞い切れない人間の部屋、程度のもので、仕舞う場所をきちんと決めているものはしっかりとその場所に収まっているようだ。まだ収納場所を決め切れていないものが少し所在なさげにあちこちに放置されているが、それも気になるほどの数はない。

 胡古と浅目が適当に座ると、海斗は壁に立てかけていた折り畳みテーブルを中央へと持ってくる。多分母さんがお茶持ってくるから、と言われると同時に扉が叩かれ、海斗が返事をする。一拍置いてから扉が開かれ、お盆に飲み物とお茶菓子を乗せた女性———海斗の母親が入ってきた。彼女は胡古らにもう一度会釈をすると、お盆をそのまま折り畳みテーブルへと乗せ、迷惑はかけないでよ、と海斗に念を押して去っていく。その背中に彼は小さく文句を零したが、すぐに胡古らの方へと向き直った。

「……ええと、胡古綴さん、でしたっけ。もう一回ですけど、俺が浮澤海斗です。今日は……、その。ありがとうございます……?」

 疑問符のついたその言葉に、胡古は内心首肯していた。正直胡古がここに来る理由なんてものはなく、単に浅目が一人だけで話を聞くと見方が偏るから、と誰かを誘い、それに応じたのが胡古だけだったというわけである。しかしそれをおくびにも出さず、胡古も今一度自己紹介をして場を繋げた。が、一瞬間が開いて、奇妙な沈黙が三人の間を流れていく。失敗したか、と胡古はぎゅうと手を握り締めた。

 動いたのは海斗で、そろそろと伸ばした手でグラスを掴み、ぐいとお茶を飲み込んで喉を潤す。それから数度もごもごと口の中で言葉を捏ね繰り回し、それから切り出しにくそうに話をし始めた。

「その……、飾姉さんには少しだけ話したと思うし、ニュースにもなってたんで……、二人とも知ってると思うんですけど、装が襲われたじゃないですか。それで今入院中で、それでその……」 

 彼はちらちらとこちらの顔色を窺いながら言葉を選んでいるようだった。警察には信じてもらえなかったと浅目から聞いているが、その事で臆病になったのだろうか。彼は胡古らが何も言わないのを見て少し悩むそぶりを見せたものの、そのまま話を続けていく。

 襲撃があったのは金曜日の夕方。部活動の休憩時間中の出来事だったという。部員は各々水分を取ったり、雑談をしたり、トイレに行っていたりと好きな事をしていて、装はトイレに行こうとしていたそうだ。海斗はそれを見送りながら水分補給をし、それから体育館の床を少しモップ掛けしようとしていたらしい。他の部員も別段可笑しな挙動をしているものはおらず、顧問は部長と共に打ち合わせをしていて、いつも通りの光景であった。

 モップを手に取ってからちらと装の向かった正面のガラス扉の方へと目をやった時、何の切っ掛けもなく急に辺りの気温が下がったらしい。運動をしていたから顧問以外の殆どのものが半袖ハーパンといった格好で、皆がきょろきょろと周囲を見回しながら腕を擦ったり慌てて上着を着たりとしていたそうだ。かく言う海斗もモップを一度壁に立てかけ、ジャージの上を取りに行こうと、ちょっとした荷物を置いている場所へと行こうとした、その瞬間だった。

 がしゃしゃあ、と何かが割れて散る音と、何か重たいものが倒れる音がして、その場の全員が音の発生した方へと目を向けた。まず最初に目に入ったのはぽっかりと割れてすうすうと外の風が吹き込んでくるガラス扉。その次に目に入ったのが床に倒れている装だった。何でそんなところに倒れているんだ?と疑問に思った視覚が認識したのは、その下で徐々に広がっていく赤い水溜まり。それが装の身体から失われていく血液なのだと気付いたのは、彼の近くに立っていた何かが彼を引き摺っていこうとしたからだった。

 ずる、と赤い色が彼の身体を引き摺った分だけ伸びていく。彼を引き摺っているのは、と視線を上げれば映ったのはなんてことない、黒く長い髪に青い目、小柄な身体に中性的な顔立ちの、男だか女だか分からない子供だった。それは装の足首を持ち、彼を外へと引き摺って行こうとしているようで、海斗は咄嗟に近くにあったバスケットボールを思い切り投げたという。狙えはしなかったが運良くボールは当たり、それは装の足から手を離した。

 いつからそんな子供がいたのか、どうしてガラス扉が割れているのか、そんな事は一切分からない。子供はいつの間にか、気配も何もなくそこにいたらしい。よく見ればその足元に散らばるガラス片は全て体育館の内側に散らばって、かつ装に降り注いでおり、どうやらそれが外からガラスを割って入ってきたのではないか、とまでは何とか推測出来た。

 ボールが当たり、子供が装の足を離した瞬間、顧問が彼を助け出そうとガラス扉の方へと走っていった。だが海斗は何か嫌な予感がして、無意識に一歩後退したという。そうしたら重たく、そして素早く何かを打ち付ける音がすぐ側で響いて、思わず視線を下にやると、先程まで彼の立っていた場所、その床がべっこりとへこんでいたそうだ。それを認識すると同時に足に痛みを感じて、自分の脚を見れば大きな切り傷が出来て、血がだらだらと流れ出していたと、彼は自分の脚を見せた。そこには包帯がぐるぐると巻かれていて、ガーゼも下に張り付けているのだろう。一部分が膨らんでいた。

 脚を切ったのは髪の毛のようなものだったと彼は言った。子供から伸びた髪の毛のようなものがぐねぐねと意思を持って動いていて、爪のような鋭いものが先端についていたという。それが海斗の脚を切ったというのは、それに付着した血液が証明していて、そこでようやく海斗は子供だと思っていたものの全貌をしまった。

 黒い髪の毛だと思っていたのは触手のような触腕のようなものであった。先端に爪やら牙やら目やら様々なものを生やしていて、先端以外の箇所にも目玉と口のようなものが幾つか剥き出しになっていたらしい。首から下と腕は確かに人間の形をしていて、ノースリーブとドロワーズがくっついた形のつなぎのような服を纏ってはいたが、その脚は全く違うものであった。赤い糸のようなものが幾本も絡まり、人間で言う足首辺りの下がハイヒールのような形を成して地面を踏みしめていた。

 美しい化け物だ。海斗はそう直感して、それ以上を認識することを無意識に拒絶した。それが功を奏したのか、彼は周囲の状況を見続けることが出来たらしい。はっとした彼が辺りを見回した時、すでに顧問は体育館の舞台の方まで吹き飛ばされて気絶しており、他の部員たちも腰を抜かしていたり、怪我をして蹲っていたり、がたがたと震えて身動きが取れなくなっていたりと散々な様子だったという。

 邪魔するものがいなくなったと思ったのか、それはもう一度装の足を触手で掴み、引き摺って行こうとしたらしい。彼が駆け寄ろうとした時、丁度スポーツドリンクを作りに行っていた部員が帰ってきた。その部員はその場の異常な光景を見て何を思ったのか、ウォータータンクの蓋を開け、その中に入っていたスポーツドリンクをそれに思いっきりかけたそうだ。

 その次の瞬間それは金切り声を上げ、じたばたと苦痛に喘いだ後、溶けるように消えてしまった。最初からそこには何もいなかったかのように、それは姿を消してしまったのだと。その時の事を思い出したのか、彼は軽く身震いし、唇を噛み締めて俯いた。

 彼の語った内容があまりにも衝撃的というか、予想の範疇を越えていた為に、胡古は少し思考を停止していた。どう考えても尋常ではない事が金曜日の夕方に起きていて、彼等はそれに巻き込まれたという訳だ。装がどういった状況で重傷を負ったのか、そしてそれ以外がどうして軽傷で済んだのかははっきりと判明したが、しかし一度説明されただけで納得出来るかと言われれば、正直無言にならざるを得なかった。隣の浅目も困ったように小首を傾げ、続きの言葉を待っている。

 当時の状況を思い出して震えていた海斗は、暫くすると俯いたままではあるもののもう一度口を開いた。その声音もまた、未だ震えていて、二人が思っている以上に金曜日の出来事は彼の精神面に傷を負わせたのだろうと容易に想像がつく。

「その……、装ってほら、飾姉さんに似て顔もいいし、身長もそこそこあるし、飾姉さんと違って金持ち感がないというか……、あ、いや、飾姉さんが高慢ちきっぽい雰囲気出てるわけじゃないんだけど、装はもっと取っ付きやすいというか、あの、」

「ええ、そうですわね……。確かに装は身内の贔屓目を瞑ったとしても、とてもいい子ですわ。胡古さんには……、うーん。例えるなら篭宮さんがもう少し明るくて、軽薄そうな雰囲気がない感じ……、と言えば伝わるでしょうか?」

 何となく想像がついて、胡古は首肯した。要するに愛想が良く、取っ付きやすく、人と程良く付き合えるタイプの人間なのだろう。そして浅目に似ている、というならばかなり顔立ちも整っていると思われる。つまるところ、俗に言うモテ男、とやらなのだと思ってもよさそうである。

 胡古が続きを促せば、海斗はそのまま話を進めていく。彼が言うに、装は学校でも年齢性別関係なくモテており、しかし本人がしっかりと線引きをしている為トラブル沙汰にはなった事はないらしい。それについては浅目も同意しているので事実なのだろう。だからその線は薄いかもしれないが、本人が全く知らない所でそういった人物を引き当て、今回の事が起きた可能性もあると二人は意見を合致させた。

 しかしそうなると海斗の見た、子供のような怪物は何なのか、という話になる。海斗に学校でそういった怪談話を聞いた事があるかと問い掛けたが、否と首を横に振られた。彼自身そういった話には興味が薄いらしく、知っていそうな友人にも心当たりはないという。

「でももし、本当に装がヤバい奴に狙われてたら……、俺……」

 俯いたまま彼はそう言って震えた。昔からの友人がとんでもない事に巻き込まれているのかもしれない、と考えれば誰だってそうなるだろう。声音からしても自分の心配というより、装に対する心配と不安が色濃く滲み出ており、彼の人柄を良く表している。

 そんな彼に掛ける言葉が見当たらず、胡古はただ静かにお茶を一口、飲み込んだ。音を立てずにと意識したものの、静かになったこの空間には嫌でも僅かに響いてしまい、何とも言えない気持ちになる。

「大丈夫ですわ」

 浅目がそう言いながら彼の側へと近寄って座った。背をぽんぽんと軽く叩く仕草には気丈さが出てきており、それが浅目自身と海斗に向けたものである事は明白であった。

「大丈夫ですわ、装は今入院中ですが、父上がしっかりと護衛をつけています。何かあったらすぐに対応できますし、わたくしもこの件に関してはとっても、ええ、とっても腹が立っておりますの。ですから心配なさらないで。絶対に犯人をめきょめきょにしてみせますわ!」

 いやめきょめきょにするのは駄目なんじゃあなかろうか、と胡古が突っ込む事もなく、浅目はふんすと拳を握った。それは海斗を元気づける為のものであったが、本人も今の話を聞いた恐怖感を振り払おうとしての動作だったのだろう。少しだけ笑顔が引き攣っている。

 彼はそんな浅目を見て少し硬直した後、そうですよね、と小さく溢した。うん、うん、と肯定するように何度も頷き、それからやっと顔を上げた。涙が滲んでいた跡のある目元ではあったが彼は微笑んでいて、絶対、大丈夫、ですよね。と浅目に問い掛ける。彼女は当然のように力強く頷き、そして彼の目元をハンカチで拭った。

「暫くは何が起きるか、貴方も怖いかもしれませんわ。でもきっと、わたくし解決して見せます。ですから、装の事、これからも頼みましてよ」

 うん、と彼は頷いた。お茶を飲み、お茶菓子を食べ、そうして落ち着いた様子になり始めた彼を見て、それではそろそろ、と浅目が立ち上がる。胡古もそれに続き、海斗が慌てて立って扉を開けた。くすりと浅目が笑い、彼は恥ずかしそうな、怒っているような微妙な表情になる。部屋を出て廊下を歩き、階段を降りれば海斗の母がまたひょっこりと出てきて、胡古と浅目は彼女にも暇の挨拶を述べる。海斗の母親はまたいつでも、と定型文を返しながら微笑んだ。

 海斗に見送られながら彼の家を出、浅目の歩くままに着いて行く。彼の家が見えなくなった頃、彼女は歩道の端に立ち止まって胡古の方を振り返った。どうしたのだろうと続いて立ち止まると、彼女は申し訳なさそうな表情でこう頼んでくる。

「胡古さん、もしお時間があれば……なのですけれど、このまま朝外中の方も一緒に見に行きませんか?中に入るのは流石に無理かもしれませんが……、犯人は現場に戻る、と言うでしょう?」

「いや……、まあ、いい、けど……、現場になんて早々、戻っては……」

「ですわよね……」

 自分でも言っていて有り得ない、とは分かっていたのだろう。彼女は落ち込んだ表情をしつつも歩き始める。言葉が出ないままに胡古も歩き始め、こういう時遊佐や二加屋、篭宮や朽ノ屋だったならば、なんと言って彼女をフォローするのだろうかと考えた。いや、朽ノ屋は恐らくフォローなんてせず、そのままぐっさりと可能性のなさを突き付けるだろう。遊佐や二加屋は適当な別の話でもしそうだし、篭宮は……存外慌てるのかもしれない。そしてしどろもどろと今回の件に関して気になる事を指摘し始めるのだろうか。

 そう考えていると不意に隣からじっとりとした視線を感じる。目線を斜め下に降ろせば浅目がこちらを見ていて、黙り込みましたからどうしたのかしらと、と口元に手を当ててくすくす笑った。それに答えて考えていた事を話してみれば、あら、なんて面白そうに乗っかってくる。ぽつぽつとそこから話を広げ、切り替え、主に浅目が笑っていれば目的の場所へと到着した。

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