3.秋の呪 3-1.手を出すべからず

『———はは、と乾いた笑いが喉から零れ出た。失敗した、失敗した、失敗したのだ!頭の中はその単語でいっぱいで、混乱しきった精神は訳も分からずに頬から首にかけてを掻き毟る。力加減を忘れたその指は、幾らそれなりに短く整えてあるとはいえ、肌に赤い線を描き、やがて掻き破られた肌に赤い液体を滲ませ始める。

 狂ったように笑い、噴出しきれない感情を自分に向けるその姿はどう見ても狂人のそれでしかなく、この現場を見られたらまず隔離病棟に突っ込まれるだろうな、と冷静に語る自分も頭の中にいた。何せそんな自分の目の前にあるのは到底見るに堪えない物体で、これが研究成果による"神”たるものだとは思いたくもなかった。

 だがこれこそが、自分の求めていた神であった。こうなってしまったのは自分の行いによるもので、神に捧げる呪いを独自に書き換たせいであった。様々な種類の呪術的資料を読み漁り、より呪的要素を強める行為や、効率と効力をより良くするための要素などを付け加え、思考錯誤を繰り返す。実験的な行為を何度も何度も研究しては繰り返して行い、自分が最終的に行き着いた結果がこれだ。これなのだ。

 最悪だった。どこからどう見てもこれは神などではなく、生物であるかどうかも分からなかった。否、そも、神とは生物として扱うべきなのかという論点が浮かび上がるかもしれないが、それは今必要のない議題であるので置いておく。兎も角この社にいるべきである神とも、その眷属とも、それは全く違う姿をしていた。

 その時点で駄目だった。そして焦りによってそれに即席の呪物を加えて再度の儀式を行ったのもいけなかった。呪術においてそう言った行為は御法度だと知っていたのに!それをやってしまったのだ。今まで散々と馬鹿にし、見下してきた先人達と同じ事を、この手で行ってしまったのだ。

 嗚呼、さて、どうしようか。掻き毟って痛みの麻痺した首筋を、真っ赤に染まった指先で爪を立てながら、自分は呻きとも嗤いとも区別のつかない声を絞り出す。幸いにして最後の一工程はまだ完遂しきっていなかった。

 ならば、それならばどうするべきなのか。知識だけははち切れんばかりに詰め込まれた脳味噌が、冷静な自分によって最適解を即座に叩き出す。ズボンのポケットに仕舞い込んでいた果物ナイフを手に取って、それに近付いて行く。

 どろどろとした、黒とも緑とも青とも赤とも見えない色合いをした、この社に祀られる神の形を成そうとする物体。鱗のような模様を作っては溶け消え、角の丸い三角形のような頭を模っては保てず、あちらこちらに丸い眼球のようなものを生み出しては落ちて戻るそれ。それらの模造行為の中心部となっている、丸くて小さな、安物のパワーストーンに。

 

 ナイフを突き立てた。』




 湿度の高さによる蒸し器の中のような蒸し暑さが収まり、太陽の陽射しによる焦げ付くような暑さも落ち着き、冷房も除湿器ももう用済みといった十月のある金曜日。すっかり日の落ち切った午後十九時、胡古綴こふるつづりはテレビを流しながら夕食にあり付いていた。食べているのは単なる炒飯……とも言い切れない、肉と野菜と米を適当に炒めて味をつけたものだ。店で出るようなぱらぱらとした米と、いい具合に火の通った肉と玉ねぎと卵が半球状に皿に盛りつけられた、そんな大したものではないが、自分で食べるには丁度いいくらいのものである。傍らのお椀によそわれているのはニラと卵の汁物で、あっさりとした味付けのそれは、主食の米の水分による粘り気をさっぱりとさせてくれる。

 それらをちまちまと口に放り込みながらニュースを眺めていると、アナウンサーが不意にカメラから視線を外す。その視線は斜め下、恐らく原稿の方へと向けられているのだが、普段カメラが回っている時は原稿なぞ一瞬にも満たない時間しか見ない印象のあるその人がそんな動作をしているのが意外で、食事の手が止まる。しかしやはりというか彼女はプロで、カメラから外された視線はすでにこちらへと戻されていた。何かを待つように数拍置いてから、彼女はこう切り出す。

 どうやらそれは緊急速報、というやつらしかった。告げられたのは世平市で、更に意外だったのは現場が中学校だった事である。その朝外あさと中学校というのは駅にほど近い場所に建つ市立の中学校で、部活動が強いとか、学力が高いとか、そういうところはないごく普通の中学校だ。そんな朝外中で緊急速報とされるほどの何かが起こったらしい。胡古は無意識に喉を鳴らした。

 速報の内容はこうだった。世平市の南部寄りにある朝外中で傷害事件が発生したという。発生時刻は今から一時間ほど前に当たる午後十八時頃で、部活動中の少年らが何者かによって襲われたとのことだった。丁度部活動の休憩中に起きたようで軽傷者は顧問を含めて六、七名ほど、重傷者は一名。軽傷者は割れたガラスによる切り傷や打撲程度のもので、重症者は軽傷者と同じく割れたガラスによる切り傷が主だが、ガラスを至近距離で多数浴びた事によりその傷が他のものよりも深く、また頭部を強く打ち付けた事による意識混濁と、床を引き摺られ、そこに散らばったガラス片が身体のあちこちを切り裂いた裂傷もあり、現在緊急手術を行っているという事だった。犯人は現在逃亡中との事で、警察はすでに捜索を開始しているらしい。

 随分とまあ、物騒な事件だ。胡古は呑気にそんな感想を抱いた。朝外中は胡古の家から近くもなければ遠くもない、微妙な位置にある。犯人がどの方面に逃げたのか分かっていないのが不安な点ではあるが、わざわざ中学校を襲ったのだ、自分には関係あるまいと勝手にそう思い込む。犯人の容姿については現在聴取を進めている所らしく、犯人を見た全員が不明瞭な表現をする為に、年齢性別などの情報は未だ不明だそうだ。

 それほどまでに恐ろしい目に遭ったのだろうか、と彼女は内心首を傾げた。それとも犯人が身バレ防止対策を徹底的に仕込んでいたのか。どちらにせよ、どのような人物が犯人だったとて、様々な場所でその人物は批評されるのだろう。どんな事件も、特に殺人に関するものならば、犯人が判明していようがいなかろうが、犯行方法や犯行現場、狙った年齢層などで勝手な考察をされるものである。

 緊急速報が終わり、そのまま世平市内で夜間外出からの行方不明者が増加しているので注意を、という内容のニュースをアナウンサーが読み上げ始めたところで胡古は最後の一口を食べ終える。皿をお椀を重ねて運び、流しへと持って行ってそれを置き、スポンジと洗剤を手に取った。ざかざかと食器と調理器具の類を洗い終える頃にはニュースも終わっており、胡古は水の滴るそれらを水切り棚に乗せる。それからテーブルに置いてあったリモコンを手にし、テレビの電源を切った。

 電気を消して台所から自室へと戻り、扉を閉める。必ず目に入る位置にある形見の全身鏡は相も変わらず綺麗なもので、布でもかけてやろうかと最近考え始めている。それを実行しないのは何となく祖父母の顔が浮かぶからで、大事にはしていないが使ってはいるという言い訳の為のようなものであった。

 ちらと鏡を横目で見てからパソコンデスクへと近づき、そこに置いてあったスマフォを手にした。画面を点けてみると浅目飾あさめかざるから通知が入って来ており、何やらかなり激情しているらしい文面が半端に表示されている。どうしたのだろうかとトークアプリを起動し、通知のあるトークグループへと入れば、やはりというか浅目がかなり怒っている様子を見せていた。篭宮雪かごみやそそぐ遊佐鼎ゆさかなえが彼女を宥めつつ会話を進めており、胡古———と恐らく朽ノ屋九澄くちのやくすみもだろう———はそれを静かに読み見る。

 彼女の文章にざっと目を通してみたところ、とても看過できないことが起きたので、胡古らの力を借りたい。明日暇ならば迎えを寄越すので、浅目の家まで来てほしい、という内容が長々と装飾過多に書き綴られていた。遊佐は依頼という事なら、という返しをし、胡古は特に予定もないのでそれにあっさりと了承するも、篭宮と朽ノ屋が難色を示す。二人に得はあるのか、という事だ。

 しかしそれも浅目が夏の事件の際の協力を盾にし、せめて話だけでも聞いてくれとしおらしいのだが妙に威圧感のある文面で頼み込んできた為、二人も渋々と折れた。夏の時、直接的には関わっていなかったものの、情報の絞り込みでとても活躍してくれた裏方である。恐らくそれを思い出して、借りを作ったままにするのは寝覚めが悪いと判断したのだろうと、二人の返事から胡古は感じ取った。

 幸いにして今日は金曜日である。明日は土曜、大学生と准教授の三人も講義はないそうで、昼過ぎに迎えの車をそれぞれの家に寄越すと浅目は言い切った。移動の面倒が減るのは大歓迎である。それぞれの住所が画面に書き込まれていき、浅目の家から一番遠い朽ノ屋から回収し、篭宮、遊佐、胡古、という順路になるようだった。時間は朽ノ屋の家へ向かうものだけ正確に決め、残りの面子はそこからカーナビで算出された時間を、という事になる。大まかに午後十三時頃、と決められ、トークグループは静まり返った。

 それにしても、と彼女はスマフォを手にしたまま顎に手をやった。浅目は確かに感情豊かで喜怒哀楽の激しい性格をしてはいるが、ここまで激怒しているのは春の時以来ではなかろうか。とは言っても胡古が浅目と直接かかわったのは春の事件以来あまりなく、故に意外と怒りっぽい可能性もあるのだが、文面からしてかなり怒っているのは確かだった。それほどまでの事が彼女、或いは彼女の身の回りに起きたのだろう。以前の事を考えると彼女の身内関係だろうか。

 そこまで考えてから、胡古はアプリを閉じてスマフォからも目を離す。一先ず明日の予定は明日の予定として、今は目の前にある、今日のノルマという名のここまでは書くと決めた部分を終わらせるため、キーボードに指を滑らせ始めた。


 翌日。浅目の寄越した迎えの車に乗って彼女の家までやってきた胡古らは、その屋敷の大きさに思わず足を止めていた。正直に言ってしまえば想像はある程度していたものの、思っていたより屋敷そのものの大きさや敷地の広さに圧倒された、と言ったところだろうか。篭宮なぞは口を小さく開けて、呆けたように目をぱちくりとさせている程で、胡古はそんな彼を小突いて歩かせる。

 庭はきちんと舗装された道と、整えられた緑があり、庭師らしき人物が低木の剪定を行っている。秋だからか箒で道を掃き清めている使用人も幾人かおり、茶色く色づき乾いた枯れ葉がからからと音を立てて箒の先で踊っていた。

 敷地内には本屋敷の他に物置と思しき建物や———それでも小さな一軒家ほどの大きさがあった———住み込みで働く使用人の為のものだろう大き目の平屋があり、もしかしたら屋敷の内部には中庭も存在するのではないか、と想像してしまう。それほどにこの家の敷地は広く、そして美しく丁寧に整えられていた。ぱっと見た限りでも建物類の劣化があまり見受けられず、庭や小道も常に清掃されているのだろう、ゴミや無駄な雑草などもほぼ見当たらない。そういった手入れが行き届いているお陰か、心なしかこちらの背筋も伸びるような心地になる。

 屋敷の中に入ればまた別の使用人が待っていた。胡古らが靴を脱ぎ揃え、スリッパを履くとその人はこちらにどうぞ、と片手で行く先を示しながら歩き始める。玄関口も当然ながら広い屋敷の中は想像するような煌びやかさはないものの、品格と格式の高さを感じさせる高貴さがあった。一つ一つの調度品どころか廊下や扉、窓枠といった細やかなところに手の込んだ、しかしよく見なければわからないような装飾などが施され、定期的にワックスを塗っているのだろう廊下はどんなに足音を隠そうとしてもきゅうきゅうと小さな音が鳴るほどだった。ぱっと見どころか廊下の端やカーテンレールなどと言った箇所にも埃一つ積もっておらず、ここに住む人物達の潔癖さを表しているかのようである。

 長い廊下と階段を歩き、胡古らが辺りをちらちらと観察している事も把握しているのだろう案内役は、一つの扉の前で立ち止まった。そこは二階角にある部屋で、案内役は扉を数度叩くとお客様が参られました、と一言告げる。

 どうぞ、お入りなさい。胡古は久しぶりに聞いたような気がする高いが落ち着きのある声が内側から返事をし、失礼しますと案内役が扉を開けながら後ろに下がった。中へどうぞ、と手で示されるままに四人は部屋の中へと入り、こちらですわ、と誘導する声に従って部屋の中央へと歩いて行く。

 屋敷の外観通り広い部屋は、大きな窓からたっぷりと陽を呑み込んでいた。薄いレースのカーテンによってその陽射しは柔らかなものへと変化しており、心地よく室内を照らしている。壁際には大きな木製の箪笥が二つと小洒落た木製のデスク、意外とシンプルなデザインのベッドに美しい装飾の施されたスタンドライトが設置されている。箪笥の側には大きな姿見とウォークインクローゼット、化粧台が並んでいた。

 デスクにはデスクトップのパソコンが乗っており、その傍らにやはり木製の大きな本棚が一架設置されている。それはスライド式のもので、手前と奥にそれぞれ本を納められるようになっているものであった。そうと分かったのは手前の棚が少しずれており、奥の棚が覗き見えていたからであるが。

 部屋の中央には三人掛けのソファが二台、テーブルを挟んで対面するように並んでいる。そこに座っている女性、部屋の住人である浅目飾は、行儀よく、上品に———しかしどこか感情を抑えきれていない笑みを浮かべてそこに座っていた。やはりというか、昨日から全く落ち着いてはいないようである。

 失礼、と遊佐がまず動いた。彼女は隣でもいいかい、と浅目に問いかけ、彼女が首肯してから彼女の隣へと腰掛ける。浅目はそのまま胡古も手招きし、ぽんぽんと遊佐とは反対側の隣を叩いてそこに座るよう暗示してきた。意を反する理由もないので胡古は招かれるままに座り、男二人は女性陣と反対側のソファへと着席する。

 全員が着席した頃、再び扉を叩く音がした。お茶をお持ちしました、というその声に浅目が入室を許可し、使用人が両手持ちのお盆にティーポットと人数分のカップとソーサー、シュガーポットとミルクポット、お茶菓子の乗った大皿を乗せてやってくる。彼女はお盆から一つ一つを丁寧に下ろすと、カップの中に紅茶を注いでは一人一人の前へと置いて行く。その度にミルクと砂糖をどうするかと問い掛け、それぞれが答えた通りに淹れ、それからお盆だけを持って退室していった。

 一つ息を吐き、浅目は優雅にカップを手にしてその中身を口にする。音を立てる事なくそれをソーサーに戻し、自然と俯いていた顔をきっと上げた。そこに見える表情が怒りである事にはもう驚かない。何故なら昨日のトークアプリであれだけ怒り散らしていたからである。その怒りは未だ落ち着いていないらしい。唇にかなりの力が籠っていて、頬に窪みが出来ている。

「……今日、ここに、皆様をお呼びしたのは、偏にわたくしの個人的な事情でしかありませんわ」

 膝の上に揃えられた両手がぎゅうと握り締められる。ぎっちりと眉間に刻まれた皺は普段の彼女らしくないもので、穏やかさを演出するはずの垂れ目は今や剣呑の象徴かのようにぎらついている。

「昨日の夕方……或いは夜のニュースをご覧になりました?」

 それに首肯したのは胡古、朽ノ屋、遊佐で、篭宮はテレビはあまり見ていないがネットニュースやSNSならば、と答えた。そうですか、と浅目は相槌を打ち、一度大きく息を吐く。力を緩める為だろうそれはどう見てもうまくいっておらず、肩や顔が引き攣っている。

 昨日の夕方や夜のニュース、その中で世平市関連の大きなものと言えば、十中八九朝外中学校の件だろう。確か部活動中の生徒達が襲われ、軽傷者数名と重傷者一名といった被害のものだったはずだ。

 それを遊佐が答えて見せると、浅目はゆっくりと頷いた。どこからどう見ても怒りを堪えている仕草でしかなく、その事が逆に恐ろしく思えてくる。彼女はかなり分かりやすい人間だ。それ故にここまで怒りが持続しているとなると、何か厄介事の予感もしてきてならない。

「そう、それですわ。……その、事件の、重症者。入院している生徒が、わたくしの弟……浅目装あさめよそいなのです」

 呻き声ともとれるその言葉は、彼女がそこまで怒るわけも分かるものであった。自身の身内が事件に巻き込まれ、かつ最も被害を受けたとなれば、どんな人物であっても怒り狂うか悲しみに暮れるかのどちらかの反応を示すだろう。春の事件も踏まえると、彼女がこうも怒り狂うのは納得しか行かなかった。

 彼女は再び数度呼吸をし、それから心を落ち着かせる為かお茶をまた口にする。今度はソーサーに戻さず両手で抱え込み、紅茶の水面に目を向けながら話の続きをし始めた。

「警察にも随時連絡を取っているのですが、犯人らしき人物は未だ消息不明だそうで、どんな人物かも分かっていないそうですの。ええ、中学校に侵入し、体育館のガラスと床を破壊し、わたくしの弟や様々な人に怪我を負わせた非道な人間について、未だ、何も、掴めていないと」

「いや……、飾、確かに君が怒り狂うのも分からなくはないが、それ以前に昨日の今日だぞ。今君が言っていて、望んでいるものは、大分無茶が過ぎる要望じゃあ……」

 ないだろうか、と言い切る前に浅目は遊佐をきっと睨みやった。その勢いによって方から背中に流されていた赤茶色の髪が一房ほど、肩から腕へと流れて身体の前面へと落ちてくる。こちらからは見えないが、その形相はきっと凄まじいものだったのだろう。遊佐の目が見開かれ、口元が僅かに引き攣る。

 ええ、ええ、と浅目はカップを握る手にぎゅうと力を籠める。そうでしょうとも、と口にされた言葉は震えていて、それが恐れや悲しみなどではなく、怒りや憎しみに類するものであるというのは誰もが分かっていた。遊佐を見上げていた顔は再び俯き、ぎりりと唇を噛み締める。今度は一度ゆっくりと瞬きをし、それからきつく閉じていた口をゆっくりと開いた。……何か、嫌な予感がしてくる。

「ですからわたくし、思いましたの。自分で調査をすればいいのだと。でも一人では手が足りませんでしょう?なので皆様に協力をお願いしたくて、今日はお呼びしたのですわ」

 言い切り、お茶を一口煽る。音を立てずにソーサーへとカップは戻され、それと同時に彼女は顔を上げてにっこりと笑った。とても可愛らしい笑みなのであるが、と事前に分かっていると、それが威嚇と威圧の笑みなのだと嫌でも理解できてしまう。

 意見を押し通そうとしている彼女だが、そこで待ったをかけたのが以外にも朽ノ屋であった。彼はお茶菓子を一つ口に放り込み、咀嚼して飲み込んでから、膝に肘を置いて頬杖を突いた。実に姿勢の悪い座り方は、骨格が歪みそうだなあという感想を胡古に抱かせる。

「それって君の事情デショ?僕ら関係なくない?協力するメリットとか、或いは理由は?ある?」

 彼の隣で篭宮がうんうんと適当に頷き、胡古もまた確かに共感を抱いた。朽ノ屋の言う通り、彼女の要求は正直彼女一人でやればいい事であり、警察に任せておけばいずれ解決するだろう事である。それにわざわざ手を出して、また厳重注意などといった目に合うのはごめんであった。

 しかしその反論は予想し得ていたのだろう。今度は困ったように頬に手を当て、わざとらしい溜息なんかをついて見せる。

「あら、まあ、もしかして前回の事、お忘れなのかしら。誰のお陰で貴方方があの場所まで僅か数日で行き着くことが出来たとお思いで?鼎の力もありましたが、一番大きくその点について貢献したのはわたくしとこの家の力ですわよ?それがなければ貴方方はあの情報に至るまでもっと日数が掛かっていたでしょうし、最悪今度こそ犠牲者が出ていたかもしれませんわね?」

 はきはきと、恐らく事前に頭の中で用意されていたのだろうその台詞に、言うじゃん……、と朽ノ屋が半目になった。彼女の言う事は尤もで、確かに前回の件に関して遊佐と浅目———彼女の言い分的に細かな情報まで探して絞り込んでいったのは浅目の方なのだろう———の調査は決定打と言っていいほどの質を持っていた。それがなければ胡古ら三名、もしくは遊佐も含めた四名は、もう何度か鬼の目撃地点をぐるぐると巡る羽目になっていただろうし、犯人である大ノ江五木の身元や様々な情報を手にする事も大分遅れていただろう。

 それでも朽ノ屋はまだ言いたいことがあるらしい。じとりとした半目をそのままに、浅目へ何か投げかけようとする。それを止めたのは遊佐で、彼女は片手で朽ノ屋を制してから場を取り直し始める。

「その言い合いは正直平行線だ。やめよう。……それに私は飾に協力するつもりだしね」

「はあ?何で?」

 苦笑いを浮かべた遊佐に朽ノ屋は疑問を呈し、彼女はそれは、と一度言い淀む。一瞬何かを考えこんで、離しても問題はないだろうと結論付けたのか、ちらと一度浅目を見てから続きを口にする。

「前回、彼女に情報面で協力してもらっただろう?その時、次に飾が困っていたら助けると約束していてね。それにその約束がなくても依頼という形で私には来ただろうし。だからさ」

「あーね……」

 呆れたような何とも言えない声が朽ノ屋から漏れた。生きにくそうだなあ、と小さく溢されたそれは遊佐本人にも届いていただろう。苦笑を変えることなく彼女ははは、と息を吐いた。どうあっても遊佐は浅目の頼みから逃れられないから、こうして止めに入ったのだろう。他の面々がどうするのか、というのは助力する事が確定している彼女にとってあまり関係のない話であったからだ。

 朽ノ屋はぶすくれたまま、篭宮は悩んでいるような風に視線があらぬところを向いている。関わりたくないのだろう、という意思がありありと読み取れる彼等に、浅目はそれでも不満そうな色を表に出す事はなかった。恐らく彼女自身も断られる可能性の高さを視野に入れての招集だったのだろう。脅しのような内容を一度口にはしたものの、それ以上を盾に取ることはなかった。

 それで、君はどうするんだ。膠着した場を動かす為か、とうとう遊佐が胡古に話を振ってきた。今まで寧ろよく静観していられたともいえるが、それは胡古にとって今までのやり取り全てがどうでも良かったからである。

「……暇な時とか、手が空いた時にネット見るとか……、その程度、なら別に……」

 あら、と驚いたような声を上げたのは浅目であった。遊佐はだろうね、と流すようにカップを手に取ったし、篭宮も同じような反応である。朽ノ屋はそもそもが胡古に興味を持っていないから、呑気にお茶菓子を摘まんでいた。

 本当にいいんですの、と浅目が再三確認をしてくる。そこまで疑わなくてもいいだろうと思いつつ、胡古は静かに首肯した。正直彼女からして見ればいつもの篭宮のお願いと何ら変わりはなく、ただ少しいつもより現実的な危険性が伴っているな、という程度である。仕事の方も切羽詰まっているわけではないし、暇な時間を彼女へ協力という形で消費するのも悪くはなかった。

「ありがとうございます。正直、鼎以外からは断られるかと思っていましたわ」

 からりと彼女はそう笑い、やっと緊張と怒りが解けたのだろうと感じた。現に眉間の皺はなくなっており、笑い方にも大分余裕が出てきている。完全に消えたわけではないだろうが、この部屋で顔を合わせた時よりかはかなり穏やかさを取り戻しつつあった。

 そんな女性陣を見て何かしらを思ったのだろう。朽ノ屋は大きく溜息を吐き、今度は篭宮が苦笑いを浮かべた。朽ノ屋は背筋を背凭れに預け、頭の後ろで両手を組み、あー、と情けないような何とも言えない声を出すと、その姿勢のまま仕方ないなあ、と呟いた。

「全面協力、とは行かないけど、まあ噂話とかそういうの拾ったら教えるくらいだったらね……、どうせ大学と朝外中って近いし」

「俺はー……、まあ、そうだな。似たような感じで……、今ちょっと追っかけてる話があるんで、それ優先だけど」

 完全に雰囲気に流されたと言ってもいい彼らの発言は、それでも浅目にとっては十分すぎたのだろう。ありがとうございます、と深々と頭を下げてまで礼を言い、これが解決したらお礼を改めてしたいとまで言い出した。流石にそこまでは出来ないと全員が辞退したのだが。

 場の雰囲気も落ち着いたところで、遊佐がカップを戻しながらこれからについてを口にし始めた。それもこの件はどう考えても警察に任せればいいだけの案件で、胡古達は勝手に個人的な捜査をしようとしているわけだ。下手な事をするとまた事情聴取からの厳重注意、という流れになりかねない。人生で、しかも短期間に二度もそんな事を起こしたくないのだろう。絶対に危険な部分にまで手を出そうとしない事、警察側で犯人についての情報が掴めたと分かったらすぐにでも手を引く事など、警察のお世話にならない様な決め事をしていればすっかりと陽が落ち暮れ、そろそろ、と遊佐が席を立った。

 それを皮切りに全員が荷物を纏め、浅目が席を立って部屋の扉を開ける。帰りは彼女直々に外まで案内してくれるようで、時折擦れ違う使用人達に頭を下げられながら浅目邸を後にする。

 屋敷を出て庭を抜け、門まで出てくるとすでに車が停まっていた。どうやら帰りも送ってくれるらしく、浅目に礼を言いながらそれぞれ順番に車の中へと入っていく。全員が乗った事を確認してから運転手が浅目に一言告げ、運転席に着いた。軽く手を振る浅目に見送られながら車は道を走っていき、やがてすぐに彼女の姿は見えなくなっていった。

 

 一番に車から降りる事になったのは胡古だった。ここでわかった事なのだが、浅目の家と胡古の家は比較的近い方で、車で十分もしない距離であったらしい。荷物を持って車を降りようとしたとき、ふと篭宮の顔色が気になって降りる前にまじまじと覗き込んだ。

 なんすか、と仰け反る彼はいつも通りのように見えるが、よくよく見ると目元辺りの化粧がいつもより濃いような気がしなくもない。車酔いかもしれないが微妙に顔色も悪いように見え、胡古がそれを指摘すれば、彼はかりかりと頬を掻いて苦い表情を浮かべる。

「実は最近、夢見が悪くて……、まあ、そんな大事なことじゃあないんで、気にしないでください。なんかあったら自分で何とかできるんで」

「ふうん」

 それだけだ、という彼の本音はよくわからない。だが彼が夢見の悪さによる寝不足だというのならばそう言う事なのだろう。道端に車を停めている都合上、長話をするわけにもいかない。それ以上掘り下げる事なく胡古は運転手に礼と、三人に挨拶を残して車を降りる。扉が閉まって道を走っていく車をある程度見送ってから、胡古は数時間ぶりの自宅へと足を踏み入れた。

 靴を脱ぎ、廊下を進む。私室へと真っ直ぐに向かい、扉を開けて荷物を置いた。スマフォだけを手に持ってパソコンデスクへと足を運び、デスクにスマフォを置いて椅子に座りながらデスクトップの電源を点ける。起動が安定するまでスマフォで情報を入手しようとまずはSNSアプリを開き、その検索フォームに適当な検索ワードを打ち込んでみた。昨日の今日だからかそのワードに引っかかる投稿は中々に多く、しかし彼女の目を奪ったのは検索トップに出てきた最新の情報であった。

 朝外中、傷害事件に引っかかったそれは今日の夕方、胡古らが車に乗っていた辺りの時間帯を示しており、場所は駅ビル近くの道路と書かれている。駅の交番に少女のグループが駆け込む姿があったとあり、その少女らは遠目から見ても傷だらけであったらしい。表示を話題順から最新順に変更するとニュースサイトが記事のURLを投稿しており、胡古は何の躊躇いもなくそれを開いた。

 まだ情報を入手したばかりで簡単な内容しか書かれていないが、そこにはこう書かれている。世平駅近辺の路地付近にて、女子中学生のグループが何者かに切りつけられる事件が発生。怪我の具合は全員軽傷程度のもので、全員で近くの交番に駆け込んで通報をしたとのことだった。その姿を目撃した人も多数おり、それがどうやらSNSをざわつかせているらしい。

 女子中学生らは朝外中の生徒で、学校から出ている外出自粛の指示を破って遊びに出ていたとの事。自業自得とは言え彼女らは全員異様な怯え方をしており、犯人の容姿についても中々切り出せなかったようである。が、彼女らが言うに、犯人は黒い髪に青い目をした、中学生くらいの子供だったらしい。男女どちらかは分からず、目立つ特徴としては歯が鮫のようにぎざぎざと鋭いものであったという。

 その記事を閉じ、胡古は再びSNSを眺める。流れてくるのはこの記事のURLを載せた投稿と、被害に遭った女子グループへの非難が多かった。当然と言えば当然の流れであるが、遊びに出るなと言われて律義にそれを守る人間はいつだって全体の半分いるかいないかくらいだろう、と彼女は冷めた目でそれらを流していく。そして早々にアプリを閉じて、一旦スマフォの方も画面を落とした。パソコンの準備が終わったからである。

 彼女はスマフォをデスクに置いた手でマウスを操作すると、流れるようにインターネットを開く。そこの検索フォームに検索ワードを打ち込んで、今度は朝外中、傷害事件、被害者、といったワードを並べた。瞬く間に検索は終了し、類似項目がざっと画面を覆った。一先ずは、と一番上に出てきた記事を開き、それを読み始める。

 書かれている内容は昨日のニュースや浅目に聞いた通りのもので、その他に少し気になるものが追記されていた。重傷者の名前が公開されていた事と、それに関するものである。

 重傷者は先ほど聞いた通り浅目装、あの場にいた者達の証言によれば他の面々と異なって彼は明確に犯人に狙われていたようで、真っ先に捕まってしまったらしい。しかし浅目装は素行不良、成績不振、家庭問題、学内孤立などといったものを一切抱えておらず、目立つ容姿ではあるが穏やかな優等生であったという。故に個人的な恨みで狙われるとは考えにくく、浅目という家そのものに対して負の感情を持つ人物による犯行ではないか、という推測が立てられていた。

 はて、とそこで胡古は首を傾げる。浅目の話ではそこまで言っていなかった。という事は浅目がそこまで考えていないのか、またはこの記事を書いた人物がそう邪推している、或いはその感情を持っているのだろう。浅目本人がこちらにそれを伝えていないのならば、恐らくは浅目の家を狙ったものではない、と考えてもよさそうである。

 しかしそうなると装自身に問題があったと考えられるのだが、それもないと書かれている。参考の為に他にも幾つか記事やブログを見てはみたが、その全てに装自身に問題があるとは考えにくい、と書かれていた。つまり彼は優等生であると評することが出来るのだが、それならば何故明確に狙われたのだろうか、と胡古は考える。複数いる目撃者がそう言っているのならば、彼が狙われたのは確かなのだろうが……。

 一度思考を切り替える為、胡古は開いている記事を閉じた。それから今度はSNSを開き、今日起きた傷害事件が引っかかりにくい検索ワードを考える。幾つか打ち込んでは消してを繰り返し、そこで今日事件が発生したのは駅なのだから、と思い出してそのまま打ち込んだ。最新ではなく話題の投稿の方を選び、マウスのホイールをころころと動かしてざっと流し読みしていく。

 得られた情報に胡古は顔を顰める羽目になった。何せ出てくる投稿の多くが批判的なものか、嫌に怯えているものばかりだからだ。怯えるのは分かるが、批判的なものはどうしたって理解できない。一番大きな被害を受けたのが浅目装という、地元の有力者の息子だからなのだろうか。それもそれで偏見である。

 怖い、やばい、学校ずっと休みならいいのに、と言った投稿の他、警察の対応が早いのは浅目の家だからだとか、モテるお坊ちゃんに拗らせた感情を持った人間がやらかしただけだとか、明らかに中傷染みたものも多く見受けられるのだ。装本人の人柄を良く知りはしないが、それにしても言い過ぎではないか、と感じられる投稿というのは見ている側の気分も悪くなってくる。

 それらの投稿主はプロフィールに朝外中に通っている事を明示しているものばかりで、ネットリテラシーも何もないなと思いつつも、最近はそういう感じなのだろうかと首を傾げる。しかし彼等の殆どは共通して装の心配もしており、そこまで恨まれるような人物ではなかったという声も彼等からは上がっている。つまり死んでほしいほど恨まれている、という事はやはりなさそうであった。

 だがそれに反論するような投稿もちらりとあった。それは本当に数少ないどころがたった一人のアカウントによる投稿ばかりで、プロフィール等を見る限りかなりスピリチュアルというかオカルティックというか、そういったものに傾倒している人物のようである。そのせいかあまり信憑性はないのだが、自称"視える人"というその人物が言うに、装はかなりの数の異性の生霊を引っ付けていたらしい。それが具現化して害を為したのだと主張しており、しかし誰も相手にしていないようでもあった。ざっとその投稿を見てみる限り、普段からそんな事ばかり言っているタイプの人物らしく、そのせいで今回も適当に流されているといった風である。

 どちらを信ずるべきか、と一瞬だけ悩み、まだそんな段階でも情報量でもないと思い至る。一先ずこういった情報もあった、と頭の片隅にでも置いておくのが一番いいだろう。目頭を押さえながらSNSの頁そのものを閉じ、他の情報媒体はないだろうかと検索フォームに何と単語を打とうか考え始める。こつこつとキーボードを叩いていると不意にスマフォのバイブ音が鳴り響き、胡古はそちらに目をやった。通知に出ているのは浅目の名前で、何か用かと素早くロックを解除してその内容を確認する。

 丁寧な文体で綴られたそれには装の部活仲間と連絡が取れたと書かれていた。その人物が事情を話してくれるという事で、明日にでも行かないかという誘いである。次々と既読が付いて行くが、どうやら他の面々は予定があるらしく、浅目と共に行けそうなのは胡古だけのようであった。他に人がいれば適当に断ろうかとも思ったが、行ける人物がいないのであれば胡古だけでも共に行った方が良いだろう。胡古は自分が共に行くと返事をし、グループの面々がそれを了承する。

 そこからは浅目との個人トーク画面へと移し、事前に浅目が聞いていた部活仲間側の都合と擦り合わせて予定を決めていった。やはりというか昼過ぎの時間帯となり、適当な合流地点を決めて会話が終わる。それを数度読み返してしっかりと頭に入れ、胡古はスマフォの画面を閉じた。

 その直前に現在時刻を見ると夜もいい時間となっており、調べ物に大分時間を使っていたのだなとようやく感じ取った。意識してしまえば空腹や喉の渇きに気付いてしまい、かなり時間が遅くなってしまったが夕飯を食べ、就寝した方がいいだろうと結論付ける。明日の予定もできてしまった事だし、と椅子を引いて立ち上がった。パソコンの電源も落としてしまい、まずは夕飯だと台所へと足を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る