2-5.後戻りは出来ない
あれから。あれから胡古らは大ノ江を行方不明という意味でも、殺人事件の犯人という意味でも通報することは出来ず、半分に欠けた月が見守る中、家路を辿ることを余儀なくされた。どちらの意味で通報したとて相手にされるとはさすがに思えず、居心地の悪い空気を漂わせて、ビルから出ていかざるを得なかった。
その日を皮切りに鬼の噂は線が切れたかのようにぱたりと止み、一十世彼方の殺人事件については捜査が全く進展しなくなった。当然の事であった。どちらの事件も引き起こしていた犯人そのものが、あの夜、虚空の中へと消えてしまったのだから。協力をしてくれた浅目や二加屋には結末を語ったものの、浅目はどこか信じきれないような声をしていたことを覚えている。
大ノ江の落とした本を持ち帰った遊佐は、無事に依頼を達成することが出来たらしい。しかしあれ以来、昔から時たま浮かべていた、何とも言えない静かすぎる表情をよく浮かべるようになり、勉学や仕事に影響はないものの、"そういった"関係の事を更に追求し始めるようになったと二加屋が呆れていた。それがどうなるのか、胡古としてはあまり考えたくはない。
朽ノ屋は鬼の目撃場所をまた巡り、何か体毛や爪の一欠片でもないかと探し回っているらしい。今のところ良い報告が来た事はなく、そろそろ巡り尽くしてしまうから鬼について諦めるしかないかもしれない、と語っていた。ああいったものを求め回っている彼からすると、折角己の目で見つけたものに手が届かないというのは、非常に後悔しか残らない結果だろう。別の件を早く探して今度こそ見つけてやる、と意気込んでいた。
そして恐らく今回一番不利益を被ったのは篭宮であろう。一つ目の山羊乳売りの代わりとして鬼についての調査をしていたというのに、その結末や内情を書くに書けない状態になってしまったのだ。適当にでっちあげるにしろ上を納得させるレベルの巧妙な文章が必要となり、ほぼ一本道で調査で来てしまっていた事が仇となって、そこまでの情報を自分たちは持っていない。つまり彼が御咎めを受けるのは決まってしまったようなものである。
それでも元を辿れば彼の先輩が私欲で山羊乳売りの調査を篭宮に押し付けたのが原因であり、強く言い渡されるのは彼の先輩だと信じたい。別の話題として鬼を調べたのも良くなかったのかもしれないが、それも上がゴーサインを出したものだ。彼の所属する部署全体で反省、という形に収まってくれればいいと胡古は祈るしかない。
そんな事を考えるのも暇さえあれば通知を響かせるスマフォのせいで、本日数十回目のそれに胡古はとうとう篭宮からの通知をミュートした。彼女も彼女で原稿を仕上げている最中であり、彼よりかはかなり余裕があるとはいえ、作業中に数分に一回のペースで通知を鳴らされたらたまったものではない。後で聞くから、と内心言い訳しつつ彼女はベルのマークを押してミュートをかけた。
ぱちぱちとキーボードを鳴らす音が室内に響く。今日も今日とて冷房がかけられ、雨戸の閉められたその部屋は、機械の稼働音が低く鼓膜を打ち、狭い箱庭のように外界から隔絶されていた。休む間もなく彼女の指はキーボードを滑り続け、時折手元のルーズリーフを確認したり、グラスの中のお茶を飲んだりと忙しなく動いている。ちらりとパソコンの画面端に表示される時刻を見ればまだ昼過ぎで、そうしている間にも頭の中には様々な文章が次々と浮かんでくるから、休憩する必要もないかとその目を再び画面中央へと戻した。
最後に胡古自身はというと、見ての通りである。外を歩き回ったからか、原稿とは別の事をしていたからか、あれだけ進まなかった原稿が堰を切ったかのようにすいすいと進んでいた。あの件に関わった事で脳のどこかに刺激を受けたのか、納得のいく文章がぽろぽろと浮かぶのだ。この調子なら一本書ききった後にもう一本書けそうな気さえする。気がするだけで出来るかどうかは別なのだが。
そう、あの件。胡古はぴたりと指を止めた。あの件、大ノ江五木が鬼によってどこかへと消えてしまったあの件。結局のところ、大ノ江五木が本当に一十世彼方を殺害したのかは明確になっていないし、あの鬼も本当にこの世に存在していたのかどうかすら……分からない。集団で幻覚を見ていた可能性だってあるし、それほどにあの鬼の存在感というものは、あの場においては圧倒的であったものの、記憶に残るのみとなるとどうにも実感のないもののように思えてしまう。
大ノ江五木の言動からして、一十世彼方を殺害したのが彼なのは恐らく間違いではないだろう。殺した、と明言していないだけで、言葉の端々にそれを滲ませていたのだから。それでも自白と言うほどはっきりとしたものではなかったし、何より彼はもうこの世のどこにもいない。きっと帰ってくる事もないのだろう、と彼女はぼんやりと確信していた。
そしてもう一つ、その殺害方法だ。これも言動から察するに、大ノ江五木があの鬼を召喚して一十世彼方を殺させたのだとは思う。遺体の発見場所で待ち伏せし、会話か何かで場を繋げ、鬼を召喚し、殺害———。彼から辛うじて聞く事の出来た言葉から、多分そんな風にして一十世彼方を殺し、それでも鬼の存在に対しては半信半疑だからあちこちで召喚しては退散させて……と繰り返していたのだと思われる。半信半疑になった点については少しおかしいと思わなくもないが、きっと正気ではなかった。そういう事にすればいいと思う。あの時の彼の様子だって、どう見ても正気とは言えなかったのだから。
しかしそうなると何故あの夜は大ノ江という召喚者の命令を無視したのかが疑問点となるが、それは一先ず置いておくとする。恐らくイレギュラーな何かが噛み合ってしまったのだろう。例えば天候、月の満ち欠け、季節や時期、はたまた他に誰かがいた———など。それは考えだすと止まらなくなるので、深く追求するのはやめておこうと彼女はそれについて思考を止めた。
止めた思考の先でふと思い出したのが、一十世彼方の遺体の状態についての事だった。彼の遺体は傷だらけで、直接の原因は大きな裂傷だとあったが、それ以上に胡古が奇妙だと思ったものがあったはずだ。指を顎に当てて考え込み、記憶を探ってみれば、あ、と小さく声が出た。篭宮には軽く話したが、朽ノ屋にまでは話さなかったもの。話さなかったというより完全に忘れていたものだ。これも朽ノ屋に話しておけばよかったと今更ながら後悔するも、まあまた今度でもいいかと放り出した。
そう、一十世彼方の遺体。それは公には出ておらず、SNSやブログに一瞬だけで回り、すぐさま削除されていった情報。あまりにも一斉に、一瞬にその情報が消え、しかし辛うじてその一瞬から逃れて覗く事の出来た情報があった。
一十世彼方の遺体は人間のものではなく、二足歩行の蛇のようなものであった、という話だ。通報した人物があちこちで語り回っていたというその話はいつからか聞かなくなり、それ以上調べる事もなかったが、その遺体についても何ら分かっていなかった。それが真実であったのか、それとも話を誇大したかった故の法螺話だったのか。その判別をつける間もなく胡古はそれを無意識に調査から切っていた。
今思うと何故その話を朽ノ屋に詳しく話さなかったのだろうか。彼にこれを話せば、もしかすれば彼独自の伝手から何かしらの情報を入手できた可能性がある。そしてそれを調べる事になっていれば、鬼の件が失敗に近い結果に終わってもすぐに切り替えて新しい調査へと移れただろう。
しかしそう出来なかった。何故ならそれを知っていた胡古がその事を完全に忘れていたからだ。頭の中からすっぽ抜けていた、と言い切れるレベルで忘れていた。そして恐らく、それを少ししか聞いていなかった篭宮もまた、忘れていたのだろう。彼が注目したのは遺体に残された痕跡が普通ではないものという点であって、遺体そのものの状態には興味が湧かなかったのだろうし、遺体そのものを調べるとなると手が付けにくいからだと思われる。もし朽ノ屋へ先に話していたら、とも考えるが、もしもなんて事は起きないのだ。考えるだけ無駄、と胡古はここで思考を切った。いつかこの先で似たような話を耳にしたら、今度こそ思い出せばいいだけだ、と。
思考をやめ、再びキーボードに指を添える。画面上に並んだ文章を一度見直し、そこに続く新たな文章を頭の中で構築し始める。一度別の事を考えはしたが、調子の良さは変わらないようだった。流れるように指がキーボードの上を滑り、言葉が形を成していく。自分でも中々うまい言い回しや構成が出来ていると客観的に評価できるほど、あの事件後の胡古の調子はとても良かった。
がたがたと使い古したキーボードを再び叩き始めてどれほど経っただろうか。ふう、と一息つく頃、画面端の時刻は夕方を大きく過ぎて夜に差し掛かっており、夕食を摂らなければ、と彼女は椅子の上で軽く伸びをしてから立ち上がった。
空になったグラスを手にして私室を出、真っ暗とまではいかないが、かなり暗くなった廊下を歩く。台所に辿り着いたら電気を点け、グラスをテーブルに置いて冷蔵庫を開けた。この中身なら何が作れるだろうか、と考えながらも面倒だから野菜炒めでいいだろうと、適当に野菜や肉を取り出す。シンクの中に置いてあるステンレス製のボウルの中に野菜を放り込み、ざあざあと蛇口を捻って水を出しながら洗っていった。
皮を剥くものや種を取るものは手早く処理し、ざくざくと適当に切り刻んでいく。すぐに火の通る葉物類と、火の通りにくい根菜類を分けてガラス製のボウルに入れ、まな板をひっくり返して今度は肉を切った。一口大ほどに切ったそれらから脂身を適当に切り離し、次はフライパンを取り出す。換気扇を点けて火にかけ、フライパンが適度に熱された頃に切り離した脂身で油を引いた。
白かったそれが茶色に焦げた頃に菜箸で摘まんで三角コーナーに放り込み、交代で肉を投入する。菜箸でざっくりと貼り付かない程度にかき回しながら、ある程度肉に火が通ったところで薄く切った根菜を入れた。引っ掻くようにかき混ぜながら根菜に時折菜箸を突き刺し、火の通りを確認する。これなら噛めるな、という感触になったら葉野菜を全て投入し、それらから水分が出て、全体の体積が大幅に減った辺りで火を止めた。
食器棚から大皿を取り出し、フライパンから移したところで味をつけ忘れた事を思い出す。失敗したな、と思いながらも醤油を後掛けでもいいか、とそのままテーブルへと運んだ。冷凍庫からパックに詰めた米を一つ取り出し、レンジで解凍する。その間暇なのでテレビを点け、いつも見ているニュース番組にチャンネルを合わせた。
丁度その時流れてきたのは、一十世彼方殺人事件の捜査が難航している事、そして新たに一人、同じ製薬会社から行方不明者が出ているという事だった。
その男の名は、大ノ江五木と言うそうだった。
『———しくしくと泣く女性の声。真っ黒な集団。袈裟を纏い、お経を唱える住職。特別可笑しくはなくて、しかし日常から切り離された光景。つい先ほどまでその中にいたというのに、未だにどこか気分が地に足を着けてくれなかった。
何故かってそれは、泣いていた女性……、自分の同僚に当たる人物がどうしても気になってしまうからだ。たった一日で全てを失ってしまった女性。金銭面については暫く気にしなくてもいいだろうが、その精神面はどれだけ保つだろうか、と考えてしまう。
普段は気丈で、しっかりとした頼れる人物だった。様々な人と交流を持ち、仕事もそつなくこなし、時には誰かの相談に乗る、そんな人物。どちらかと言うと集団の中心に近い場所に立つ彼女であったが、たった一日で自分と自分自身の財産以外のすべてを失ってしまったのだ。
ただの事故だった、と言えばそれだけで済む。しかしそれを被った彼女からしたら、それは人災でしかなかっただろう。家族も恋人も、全てその火災で喪われた。別れを告げる暇だとか、別れの為の準備だとか、そう言ったものを一切出来ずに彼女は大切な人々を喪った。それがどれだけ酷で、悲痛で、苦しい事なのか、自分には想像することしか出来ない。けれど想像するだけでも心臓がきつく締めあげられるような感覚に陥るのだ。実際にそうなってしまった彼女はだとすると……。
今日、彼女は泣いていた。きっと次に会うときは、いつも通りになっているだろう。そう思えてしまう自分がいる。何てったって、彼女は弱い部分を見せたがらない傾向にあるからだ。一週間、二週間くらいならば周囲も彼女を気遣うだろう。大事な人を喪っただけではなく、新しい住居や様々な行政的処理を行わなければならないから。
しかしそれより先は?出社出来るようになって、いつも通りに動くことが出来ると思われて、そうしたらどうなるだろう。……、そこまで考えて、自分はそれについて考える事をやめた。だって彼女は確かに同僚ではあるが、友人と言うには遠い存在だった。自分が彼女の事を考えなくても、彼女の友人達が考えて行動するだろう。自分はただ、少しだけ彼女を気遣いつつもいつも通りに過ごせばいいだけだ。
そう考えて、甘えていたことが仇になったのだろうか。それとも自分の考えていた以上に彼女の憎悪は引っ込むことが出来なかったのか。それは突然に訪れた。
彼女が、マンションの火災を起こしたという人物の親類である社員を、刺したのは。』
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