2-4.青い目
あれから数日。小説の執筆や篭宮が何故か未だ続けている山羊乳売りの調査手伝いなども行いながら、胡古は変哲のない日々を送っていた。遊佐からの連絡は来ておらず、朽ノ屋が彼女の言を無視して独自に調査を行っている程度で、あの鬼についての新情報は全くと言っていいほど入ってこない。それが良い事なのか悪い事なのか、彼女には見当がつかなかった。
ぼんやりとした、平穏で平凡な日常。何か奇妙なしこりのようなものを頭の片隅に抱えたまま、胡古はキーボードから手を離した。それはただ給水の為にコップを持ち上げて炭酸水を飲もうとしたからで、その手の行先が変わったのは単にスマフォが偶々通知を訴えてバイブ音を鳴り響かせたからであった。
流れるようにロックを解除し、通知先のトークアプリを開く。そこにはグループトークへ遊佐から一言、メッセージが届いており、既読数が見る間に四という人数分の数字を現した。続いて発言したのは意外にも浅目で、どうやらこの間の情報の精査に彼女が、というか彼女の家の力が一役買ったらしい。ちょっとした約束をして頼み込んだと遊佐は冗談なのか本気なのか全く分からない文面を書き込んでおり、こういう時音や表情、空気感と言った相手の感情を知る術が存在しない事に不便を感じる。
兎も角も朽ノ屋が見たという男の特定と、その住所というアウトゾーンすれすれの情報を彼女らは入手したらしい。どうやらそれに至るまでにこれまで得た情報などを様々に擦り合わせて取捨選択し、朽ノ屋の証言による男の容姿と、男を発見し撒かれた地区に住む人々の情報なども照らし合わせるなど、かなりの苦労をしたらしい。その割には恐ろしく速い仕事だったような気がしなくもないが、それは遊佐と浅目の家の優秀さという事にしておこうと思考から放り投げた。
細かい事は流石にここに載せることは出来ないから、遊佐は予定の合う日に直接会って話さないかと誘ってくる。浅目を除く三人がそれに同意し、浅目に関しては今回特別関わる理由がない為にこれ以上は手伝わないと明言した。その言葉には納得する以外何もなく、浅目以外の四人で予定を擦り合わせた結果、明後日の十九時と決定する。待ち合わせ場所は遊佐も住まう探偵事務所という事になった。二加屋の了承も得ているとの事で、ファミレスや喫茶店などではなく、通い慣れた場所を指定されたのは有難い事である。恐らく意外と手間を嫌う遊佐が面倒がったのかもしれないが。
そういった事が決まり、トークアプリは沈黙した。胡古はスマフォの画面をそのまま落とし、改めて手にしていたコップから炭酸水を口にする。暫く話し込んでいたからか炭酸はすっかりと抜けていて、微妙に炭酸独特の匂いが残る水が喉を抜けていった。空になったそれを置き、彼女は再びパソコンの画面と向き合い、キーボードへと指を滑らせる。書いては消しの繰り返しとは言え、少しでも仕事に手を付けておこうと、プロットと原稿に集中し始めたのだった。
「———嗚呼、良かった。来てくれたね」
そう遊佐に迎え入れられ、胡古は数日ぶりに二加屋探偵事務所を訪れていた。既に他二人は到着していたようで、胡古は最後だったらしい。通い慣れている弊害とでもいうべきだろうか、約束の五分前に到着するよう調整してきたのだが、まさか仕事帰りに寄っている二人より後になるとは思わなかった。
中に入ればいつも使っている部屋ではなく、遊佐が私室として使用している部屋へと通される。仕事ではなく個人の用だからという事らしい。遊佐の私室に入るのは初めての事で、胡古はつい癖でその部屋の内装へと瞬時に目を走らせた。
窓は二カ所、小さなものとベランダへと通じる大きなもの。今はどちらもカーテンで覆われており、外からも内からも部屋が見える事はないだろう。扉の右手に木製のベッド、左手奥に本棚替わりのカラーボックスが三つほど並び、ベランダへと通じる窓の片側を塞ぐように小さめのパソコンデスクが置かれている。そこにはノートパソコンが鎮座しており、他に様々な資料や文房具が几帳面な彼女らしくなく散らばっていた。部屋中央には折り畳みの机が出されており、そこにティーポットと人数分のカップが並んでいる。それぞれ好きな場所に篭宮、朽ノ屋が座っており、スマフォを弄ったり目を閉じて仮眠を取っていたりしていた。
部屋の主の心の表層がわかるような部屋だった。私情らしいものがあまりなく、周囲からの評価というべきか、本人がそうと見せたい部分しか見せようとしていない。そんな印象を受ける。私物らしい私物が少ない事、趣味らしいものの欠片も置かれていない事がそれをより強く感じさせた。
待たせたね、と遊佐が彼等に声を掛け、胡古が一言同じように告げた。二人の視線が一瞬こちらに集中し、胡古は思わずと前髪を撫でつける。適当に座ってほしいと言われた通りに折り畳みテーブルから少し離れた場所に座り込み、お茶の注がれたカップが彼女の取りやすい位置に置かれた。
それから遊佐がパソコンデスクへと向かい、何か資料を数枚手に取って戻ってくる。胡坐をかいて座った彼女は、それを折り畳みテーブルに扇状に広げると、胡古にもう少しだけ近寄るよう言ってから話を始めた。
「昨日言った通り……、飾に手伝って貰って、朽ノ屋先生の目撃した男について特定をしたんだが、それがこれ」
広げられた資料の中から一枚抜き取り、彼女はそれを隣にいた篭宮へと回す。ざっくり目を通した彼が胡古へとそれを回してきて、彼女もその資料へと目を通した。記載されているのは男の氏名、年齢、職業、家族構成、現在住所と実家の住所といったものである。どこからこんな情報を入手したのかは、浅目にも遊佐にもきっと突っ込んではいけないのだろう。
男の名は大ノ
成程、とそれを頭に叩き込んで胡古は朽ノ屋に資料を回した。彼はちらと滑らせる程度に資料を見てから遊佐へと返す。特に興味のない情報だったのか、それともこの程度ならじっくりと見なくてもすぐに頭に入る性質なのか。どちらにせよ、全員が一度資料に目を通したという体で遊佐は話しを続ける。
「奴を見かけた場所と容姿、鬼と呼んでいるものの目撃情報から色々と絞って調べ上げて出てきたのが彼だ。他にも数名条件に当てはまる者はいたけれど……、その全員が家庭持ちか、両親と暮らしていてね。もし不定期かつ奇妙な外出をしていた場合、何処かに相談、という形で既に動きがあってもおかしくない。だから一先ずは彼に焦点を当てる事にした」
そう言いながらも彼女の中では大ノ江が犯人で確定しているらしい。個人情報の資料を一度片してから、次の資料を手に取った。それはテーブルの中央に置かれ、全員がそれを覗き込む形になる。
記載されているのはあの時鬼を見かけた場所の周辺地図であり、赤いペンで色々と書き込みが成されている。幾つか見覚えのあるそれは、鬼の目撃情報と本を持った不審人物の目撃情報の双方をマークしたものであった。細々と書き込まれているのは日時と報告数、報告媒体で、場所によってそれらの数にかなりの偏りが見て取れる。
その中でも一番大きな赤丸で囲まれている場所があり、大ノ江宅と隣に記述してある。ふうん、とそれを視界の中央に収めながら他の赤丸を目で追って行けば、おや、と朽ノ屋が首を傾げた。胡古も一言入れてから地図の赤丸を指でなぞっていき、そこで篭宮もあ、と声を上げて気付いたようだった。
「私達が彼に焦点を当てる事にした、一番の理由はこれだ。気付いたろう?……鬼の目撃場所の殆どが、彼の自宅を中心としているんだ。円を描いているようにも見える。不審人物の目撃情報もほぼ同じ場所であるしね」
これに気付いたのは飾なんだが、と彼女は笑った。へえ、と男二人が雑な返事をする中、胡古はこの調査内容に違和感を覚えていた。他の面子が気付いているのかどうか、それは分からないが、彼女は確かに異様な違和感を抱いたのだ。
遊佐や浅目の家の調査能力がいかに優れていると言っても、分かりやすい情報が幾つも既に提示されているからだとしても、可笑しなほどスムーズに全てが判明し過ぎている気がするのだ。男の特定にしてもそうだし、この目撃情報も都合の良い物ばかりが出てきている。幾ら彼女らが今日までに整理をしたからと言って、これほど一本道のように綺麗な結果になるものだろうか。いや、有り得ない。仕事上調べ物が付いて回る彼女からして見れば、このスムーズさは異常であるとしか言えなかった。
しかしそれが今必要な事であるのも事実で、この異様さに目を瞑ってしまえばいいだけの話だ。ちらと横目で確認した三人の目の奥にはやはり同じような疑念が渦巻いており、自分だけではないと彼女は安堵する。周りもそうであるならば、この感覚に何ら可笑しなことなどない。機を見て誰かがそれを議題に上げるだろう。自身の役目ではないと彼女は口を噤んだ。
「まずは大ノ江の自宅に向かう。普段なら出勤しているだろうが……、どうやら彼、最近無断欠勤し続けているらしい。自宅にも、会社にもいない可能性は高いだろうね」
薄らとした、どこか奇妙な笑みを遊佐は浮かべていた。美しいと言えるはずなのに、その視線が向けられたら寒気がするような、発言に心が入っていない様な、更にその奥に目を向けて、そこに憎悪のような執着のような感情を押し込めているような、そんな微笑み。一種の狂気的な、とでも言うべきなのだろうか。しかしその理由を胡古は一切知らない故に、この感触が確かなものなのか、判別はつかなかった。
「いなかったら?」
「これまでの目撃情報と時間帯から逆算して、今ならここだろうというところに行く。どうやらある程度の規則性はあるみたいだからね。恐らく見つけられるだろう」
ふうん、と篭宮は頬杖を突きながら空返事をした。それからぐいとお茶を飲み干して、じゃあもう行くのか?と問い掛ける。遊佐はその場の全員、主に朽ノ屋と胡古へと目をやって、二人ともがどちらでも構わないという表情をしていたのだろう。行こう、と一言告げて立ち上がった。カップ類の片付けと準備をするから先に駐車場に行っていてくれと彼女は言い、胡古らは各々自身の荷物を持って立ち上がる。
トレイにカップとティーポットを乗せ、資料の類をファイルに収める彼女を横目にしながら、彼女らは遊佐の私室を出る。短い廊下を歩いていると玄関の扉が開き、がちゃりと一人の女性が帰ってきた。当然ながらそれは二加屋で、彼女は僅かに目を見張ってから、いつもの何とも言えない微笑みを浮かべた。
この人が二加屋さんですか?と篭宮が胡古に小さく耳打ちをする。それに首肯して返せば、思っていたより胡散臭いけど胡散臭くない、というよく分からない返しをされた。三人と一人は暫く———とは言っても時間としては一瞬だが———静止し、先に二加屋が動き出した。
靴を脱ぎ、揃え、廊下に足を乗せてから脇に退く。どうぞ、と言わんばかりの動作に思わず会釈をし、胡古はそのまま玄関へと近づいて行く。篭宮もそれに続くのだが、一つ足音が足りなくてちらと振り返る。足りない足音の主、何故か足を動かさない朽ノ屋は二加屋の事をじいと見つめており、二加屋もそれに負けじとなのだろうか、視線の一つすら微動だにしなかった。
そういえば以前、朽ノ屋は先輩だと言っていたような気がする。それにしてはどこか雰囲気が固いというか、相手の出方を窺っているというか、友好的な感じではない……ような様子にしか見えなかった。
「こんにちは、朽ノ屋先輩」
「……どーも」
にこりとした、からからに乾いた笑みを保ったまま、二加屋がそう切り出した。対する朽ノ屋は表情も声音も一切何も感じさせないままに適当な返事をする。短い付き合いではあるが、かなり表情豊かな方であるはずの彼がこんな反応をするなんて、本当に大学時代の先輩後輩なのだろうか、と勘繰ってしまいそうだった。篭宮もどこか戸惑った様子でこの二人を交互に見ている。
「鼎の我儘に付き合わせてすまないね。じゃ、健闘を祈るよ」
彼女はそう言い、通路を歩き出した。立ち止まっていた三人と順番に擦れ違い、二加屋は普段応接間として使っている部屋へと入っていく。それを見届けていると奥から遊佐が出てきて、不思議そうに首を傾げた。
「てーかさ」
赤信号待ち、ハンドルを軽く握って指で叩きながら朽ノ屋がぽつりと呟いた。あれから探偵事務所を後にした四人はマンションを出、遊佐と二加屋で共有している車ではなく、近くのコインパーキングに停めてあった朽ノ屋の車で移動をしていた。変更になった理由は単純なもので、共有している車よりも個人の車の方が色々と都合がいいからだ。例えばまだ行くべきところがあるというのに、二加屋の方でも緊急の用事が入ってしまう、など。
切り替わったばかりのこの信号は、市内でも切り替えが遅いと評判の地点であった。朽ノ屋が呟いてから少し間が開いて、それからもう一度呟くだけの時間が経過してもまだ変わらず、誰かが彼の言葉にどうしたのかと返しているのが耳に入ってくる。彼はそれにあー、と呻き声をあげ、この中で一番あいつと付き合い長いのって遊佐チャン?と聞いてくる。胡古と共に後部座席に座っている遊佐はそれに嗚呼、と頷きながら返事をした。
「会った時から青い目だった?」
「え?ええ……、確か、そう……だが。少なくとも私を引き取りに来た時からずっと青だったと思うし、生まれつきなんじゃあないか?」
ふうん。朽ノ屋は少し戸惑ったような遊佐の返答に対し、興味なさげであった。後部座席に座っているせいで彼の表情を捉えることは出来ず、何を考えているのかはさっぱりと分からない。何も宿っていない声音に遊佐は少し不審さを感じたのだろう、どうかしたのかと改めて聞き返す。
そのタイミングで信号が青へと変わった。ワンテンポ置いてから車は発進し、自然とこの話はぶつ切り状態となる。朽ノ屋ならば運転しながら遅いペースでの会話、くらいは問題ないだろうが、彼自身の雰囲気がそれを拒んでいた。遊佐もそれを察してか、窓の外を眺め始め、車内はしんと静まり返る。
「そういや、先輩が二加屋さんと会ったのっていつなんすか?気が付いたらって感じもするんですが」
変に静まり返った車内を払拭する為か、篭宮がくるりと首を回して話しかけてくる。そういえばそれに関しては誰にも話したことがないような気がして、胡古はああ……と気の抜けた声を上げた。二加屋とは、と、そこまで口に出して先の言葉が出てこなくなる。
彼女とは、そういえば、いつ出会ったのだろうか。胡古が大学生の頃、小説家として出版社に拾われて、それから……のような気がする。だがどうやって出会ったのだったか。胡古は探偵の世話になるような事が起きた覚えなど、はっきり言ってないし、ではしかし小説家の仕事の方で出会ったのかと問われると首を傾げそうになる。
いつ、いつ出会ったのだろう?記憶にない……というか、日常における記憶が割かしすぐにぼんやりとしがちなせいだろう。二加屋といつ出会い、どうして今のような関係性に落ち着いたのか、そういった関係の記憶が酷く曖昧だった。例えばその頃にどんな話を出したのか、なんて事なら思い出せるのだが、どんな生活をしていたのか、と問われると答えられない感じである。
当たり前すぎて分からない。それがこの問いに対する答えだった。答えでしかなかった。故に多分在学中か、卒業してすぐくらい、という明確ではない返答をし、じゃあ意外と付き合い短いんすねえ、と納得される。そこで朽ノ屋が車を道の端に寄せて停め、到着した旨を伝えた。この会話もどこか不完全燃焼のまま打ち切られ、一時停車の名目を保つ為に朽ノ屋以外が車を降りる事になる。
それぞれが荷物を持ち、扉を開いて外へと足を踏み出し、その扉を閉める際、遊佐の表情が一瞬だけ見えた。何てことなく視界に収まったその顔色はどこか疑念を孕んだもので、誰に向けているのかは分からないがそれが何故か恐ろしくて、胡古は一瞬動きを止めた。辛うじて悟られる事なくすぐに動き出せたのだが、同じ頃には彼女の表情もいつも通りのものになっていて、見間違いだったのだろうかと目を瞬かせる。
いなかったらすぐ戻って来てねえ、とのんびりとした声に押し出され、三人は大ノ江が住むというアパートへと足を踏み入れた。階段やアパートそのものの出入り口付近などは定期的に小まめな手入れをしているのだろう、ゴミや虫の死骸などは落っこちていない。外観自体は築年数とそれに伴う劣化がどうしても進んでおり、塗り直されていない外壁は色が大分落ちていた。
一階、二階、三階。かつかつと上った先、目的の階の通路を歩く。階段から数えて三つ目の扉、表札などは当然ながら飾られておらず、扉の投函口にも何かが入っている様子はない。そのせいで本当に住んでいるのかどうかは外から分からないが、遊佐の手に入れた情報によれば大ノ江五木はここに住んでいるという。試しにインターフォンを鳴らしてみるも反応はなく、扉に耳をつけて聞き耳を立てた遊佐によれば、生活音や人の気配などもないので今は不在だろうと肩を竦められた。
無駄足になった、とは言わないが、やはり平日のこんな時間に訪ねるものではないな、と彼女は苦笑した。間違ってはいないがもし大ノ江が犯人だとすれば、行動なども考えると夜もかなり遅い時間に帰宅してくるのだろうと簡単に推測ができる。つまり休みも把握していなければ、この場所で出会う事は難しいだろうという事実がはっきりとしたわけだ。
「それで、次は大ノ江って奴がいそうな場所を回っていくんだっけ?」
階段を降りながら篭宮が欠伸交じりにそう言った。遊佐は首肯して答え、今は足を動かしてくれと溜息を吐く。少しだけ焦っているようなその様子はなんだか珍しく、しかし用もなければ住人でもない人間がいつまでもアパート内に居座るわけにはいかなかった。納得のいかない声を上げながら篭宮は口を閉じ、こつこつと三人分の足音が階段内を反響して聴覚へと戻ってくる。
歩いた時間や動作自体は大人しく、陽ももう落ち切っている時間帯とは言え夏だ。昼間の蒸し暑さの残り香にじっとりと汗をかきながら、三人は朽ノ屋の待つ車へと戻ってきた。ばたんばたんと各々車内に入り、冷房の効いたその中で篭宮が涼しッと小さく呟く。次はどこに行くのかと朽ノ屋が問えば、遊佐は鞄から地図を取り出して助手席に座る篭宮へと渡す。身を乗り出してここだ、とその場所の名を告げつつ指をさし、その住所を篭宮が入力していく。その場所をちらりと見てから朽ノ屋は大まかな方向を掴んだらしい、彼が入力している間に車を動かし始め、遊佐は乗り出していた身を引っ込めて座席へと座り直した。
十数分ほど道路を走らせ、辿り着いたのは何かのビルだった。今は何のテナントも入っていないのだろう、看板などは撤去された、或いは放置されたままで、駐車場だったと思われるスペースにはゴミが少し散らばっている。取り壊しが決まっているのかどうかは分からないが、今現在全く使われていないのは明白で、車を降りた胡古の目の前を白いビニール袋が転がっていく。
本当にここであっているのかという問いに対し、遊佐は目撃情報が複数回あげられていると答えた。こんなところに来る人がいるのかとも思ったが、ゴミがある以上、誰かしらが来てはいるのだろう。近くにはコンビニやきちんとテナントの入ったビル、アパートなどが点在しているので、この周辺は全くの廃墟と言うわけでもなさそうだった。
まず一階にはいないだろうけれど、という遊佐に先導されてビルの一階部分を簡単に見て回り、二階へと上がった。随分と掃除がされていないらしいこの場所は埃が端々に溜まっていて、コンクリートの階段からはざり、という砂利を踏む感触も伝わってくる。我慢できないほどの埃臭さではないが、籠ったような空気に篭宮が顔を歪めた。
二階。さして広くはないこのビルは、当然のことながら一つの階に一つの空間が広がっている。それ故にもし誰かがいればすぐに分かるし、擦れ違って逃げるのは難しい為、下から誰かが来たら上に行くしか逃げ道はない。周囲の静けさも相まってか、胡古の耳に階段を強く踏みつける音が聞こえてくる。それは明らかに上階へと向かっており、他の面々もそれに気付いてか階段を駆け上がり始めた。
このビルは五階建ての屋上付きだ。胡古らが追いかけてきている事に気付いたのだろう相手は足を止める事なく上へ上へと向かい、彼女らもそれに従う形でビルを上っていく。息を乱しながら五階に辿り着いた頃、更に上からがちゃりという音がして、屋上に行ったのだと把握できた。篭宮なんかはぜえぜえと大分疲労している様子だったが、もうひと踏ん張りだと伝う汗を手で拭いつつ階段を上っていく。
開きっ放しになっていた扉を抜け、地上より少し高い故に白く小さな星がぽつぽつと輝きだした夜空の下、四人と一人はようやく対峙した。逃げ場はもうどこにもなく、その男は分厚い本をしっかりと抱え込んだままこちらを怯えたように睨みやる。それに全くと言っていいほど動じず、遊佐が一歩前に出た。
「それを渡してほしい。今なら依頼主の意向で窃盗罪として訴えはしないそうだ」
びくり、とその身体が大きく震える。より怯えたのか、と思ったのだが表情を窺うにどうやら違うようで、固く食いしばった口元と、ぎゅうと寄せられた眉頭からは怒りと困惑が読み取れた。
もう一度遊佐が繰り返すと、男———大ノ江五木は食いしばった唇を僅かに緩め、呻き声のような言葉を発し始めた。聞き取りにくいそれは徐々に大きさを増していき、最終的に叫んでいると言っていいほどの音量となる。
「……んで、何で!何で!!俺がここにいるって分かったんだ!何で俺が……これを……」
ぎゅうと抱え込んだ分厚い本を守るように背を丸め、大ノ江は何で、どうしてと繰り返している。この場に四人がいる理由を教えなければ、彼は話を進めてくれそうにはなかった。呆れ返ったように遊佐が半目になり、朽ノ屋などは大きな欠伸さえ漏らしている。緊迫感があるのは大ノ江だけで、他の面々には緊迫感というより、早くしてくれという煩わしさが漂っていた。
「様々な情報を、伝手を使って絞り込んで辿り着いただけだ。それと精査した結果、貴方の動きがわかりやすくパターン化していたから、というのもあるね」
「そ、んな……、程度で俺に辿り着けるわけが」
「言ったろう。その本を渡してもらえないか、と」
それで分かるだろう?と彼女は悠然と首を傾けた。場のペースを握ったものの余裕と圧がそこには宿っていて、大ノ江は二回りほど年が下の女性相手に気圧されているようだった。ずり、ずり、と半歩ずつ後退していく足は、膝が震えていて今にも崩れ落ちそうだ。
しかし意地というものもあるのだろう。大ノ江はふー、ふー、と息を荒げながら遊佐を睨み上げ、気に入らないとばかりにわんわんと怒鳴り始める。持っている本についての指摘がそれほど嫌で、予想外なのだろう。遊佐の言い分を信じるならばそれは恐らく誰かから盗んだもので、大ノ江の私物ではないはずだ。そこを突かれて逆上するという事はつまり、彼自身が遊佐の言葉を肯定しているようなものであった。
「嫌だ、嫌だ!あいつを懲らしめるまで俺は……、嫌だ、絶対、あんな小僧共がのし上がったのはこの本なんだ、絶対に手放さないぞ……!」
「その本が何なのか、君はちゃんと分かっているのかい」
氷のように冷たい、遊佐の言葉が彼の言葉を遮った。その目にはもう容赦と言う感情が残っておらず、この男が何か失言をした瞬間に実力行使に出そうな雰囲気である。流石にそれはまずいと篭宮と胡古はいつでも彼女を押さえられるように体勢を整え、朽ノ屋は階段へと続く扉に背を預けた。
そんな胡古らの様子になぞ気付いていないかのように彼はぎゃあぎゃあと喚き続け、遊佐の纏う雰囲気がより急激に冷たくなっていく。完全な私怨、見当違いの逆恨み。彼の吐き出す背景はそれはそれはドラマのような分かりやすく決まりきったもので、胡古は段々にこの状況そのものに興味が薄れ始めてくる。むしろドラマの方がましかもしれない、と思考の片隅で訴えた。
「ああ、ああ、知ってるとも!あの胡散臭い女占い師が言っていた通りのものだとな!この本は素晴らしい知識の宝庫だ!これがあれば俺だって、もっともっと上に行ける、称賛される、湛えられる!少し、試しに、真実かどうか試すのに、一十世は犠牲になってしまったが……、どうせバレやしない!何度も何度も試して!ああ、この本はこの世の真理を幾つも証明しているんだ!渡さない、渡さないぞ……!これがあれば、これがあれば!」
大ノ江はそれまでの逆上具合をひっくり返したかのように上機嫌になってそう謳った。丸まっていた背がしゃきりと伸び、本を抱え込んでいた両腕は片腕だけになり、もう片方の腕は空へと掌を向けている。顎も上を向き完全にこちらを視界から排除して、壊れたような笑い声がその喉を震わせていた。
そこで四人の間で漂っていた煩わしそうな雰囲気も一変した。遊佐は目の色を変えたように手にしていた傘———先日の事を踏まえるに、恐らくこれは日本刀だろう———に手をかけ、篭宮は一歩足を後退させた。朽ノ屋は扉に預けていた背を持ち上げ、こつこつと靴底の音を立てて男の方へと歩いて行く。
胡古はただ、それらを眺めている。
「さあ、来い、いつも来てくれるんだ、今回だってそうだろう。……××××!さあ!こいつらを!殺せ!」
意気揚々と唱えられた何かの固有名詞はしかし胡古の耳には認識されず、ノイズのように脳を一瞬かき乱した。ぞわりと背筋を冷たい風が撫ぜ、総毛立つような寒気が身体の内側から侵蝕してくる。何故だか目を見開いて、胡古は、その男の背後をしっかりと見据えていた。
ちかちかと赤い光が点滅する。いや、目立つのがその色であっただけで、本当はそれの全身が明滅していたのだとようやく気付いた。徐々に激しくなる明滅は、速くなっているのではなく、徐々にそれの全身がきちんとこちら側に定着していたからで、見た目に見合った存在感がずしりと空間に落とし込まれた。
それはあの日見た、篭宮を狙った鬼であった。皺くちゃでだらりと垂れ下がった皮膚は変わらずに、ただその右の腕だけが真ん中からすっぱりとなくなっていた。弛んだ皮膚の隙間から爛々と輝かせる赤い目はどこを見ているのかもわからず、ただただ不気味さをより一層演出する要素となっている。
ぎち、と遊佐の手の中から傘、いや日本刀の柄を強く握りしめる音がした。ざり、と篭宮が鬼の間合いから逃れるように数歩引いて、朽ノ屋がぎらぎらとした目でそれとの距離を詰めようとした。
ああ、でも、駄目だと、胡古はそう直感した。
それの左の腕がゆっくりと持ち上げられた。さあ、殺せ!そう喚く男の方へと向けられた腕は、その長い爪を持ってして大ノ江の衣服を引っ掛ける。何かが可笑しいと気が付いた彼がようやく振り返るのと同時にそれは腕を曲げ、大ノ江を引っ張り、想定外の行動をされた彼が一拍置いて手足をばたつかせる。その拍子にごとりと本が落ちたが、それを気にかける余裕はこの場の誰にもなかった。
嘘だ、何で、可笑しい、今までなかった。そう徐々に震え、小さくなっていく声で男は現状を否定し始め、やっと硬直から解放された遊佐が走り出しながら刀を鞘より抜き出した。だがこれが以前成功したのは篭宮が遊佐の方へ逃げていたからであり、今は一歩二歩大きく踏み込んだところで届く距離に男はいなかった。それが仇となった。
遠過ぎた。もう一拍速く動き出していれば届いたのかもしれない彼女の刃は紙一重、男の肌に傷をつけて数滴の血液をビルの屋上に残した。空を大きく切る音が空しく響き、遊佐は再び硬直した。
鬼は、もういなかった。その爪に引っ掛けられて引き摺られていった大ノ江五木という男もまた、いなくなっていた。そこには四人以外最初から誰もいなかったかのように静寂が広がっており、男がいたという痕跡はたった数滴の血液と、その傍に落ちている分厚い本だけが残していて、それもなくなってしまえば彼が今ここにいたという事実さえも消え去るだろう。
また、成果なし?この場に似つかわしくない、非常に、心の底から、残念がる朽ノ屋の声が水面を揺らすように全員の鼓膜を打ち、そうしてやっと遊佐と篭宮は硬直していた身体を動かせたのだった。
僅かについた血を拭い、刃を鞘に納め、落ちている本を拾い上げる。ぐるりと首を回して周囲を確認し、ふらふらと近くの壁に寄り掛かる。本気で残念そうな朽ノ屋はそんな篭宮に肩を貸して屋上から出ていき、胡古は本を見つめて何事かを考えこむ遊佐を待った。
「……。嗚呼、いや、すまない。……行こうか」
振り返った彼女の顔はあまりにも静かで、おんなじだ、と胡古はただ、そう思った。
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