2-3.見えないもの

 それから数日、トークグループで様々な情報が投下されていった。特に多く更新されたのは鬼の目撃場所で、ほぼ毎日のように色々なところでそれは現れていたようである。他の情報についてはあまり進展がなく、強いて言うならばマッピングの片手間に篭宮が山羊乳売りの出現箇所も調べていたくらいであろうか。そのついでに得られた情報が一つあり、山羊乳売りによって叶った願いと言うのは肉体的、知的変貌だけではなく、目障りな人間がいなくなった、晴れて片思いが成就したなどと言ったものも、よく探すとあるらしいという事だった。そしてどの報告にも、例に漏れず容姿が美しくなったという話があるとも。

 つまり容姿が美しくなる、という部分は願いの種類に関わらず起こるようだが、それは現状必要な情報ではなかった。それ以前にこの件に関してはもう自発的に触れない事、と決めていた為にそれらの情報は流れていく。そしてそんな事よりも、鬼の目撃場所を暫く調べつつ、どこか予定の合う日に目撃場所を回ってみようという話へと逸れていった。目撃情報の中には鬼に追いかけられた、襲われかけたという真偽不明の情報が付加されているものも幾つかあり、それによれば長い爪の生えた腕を伸ばしてきたのだという。その事に気を付けるとして、準備を万全にして臨もうと意見は一致した。

 三人の都合が合ったのは胡古らが卯月美架に取材を行った十日後であった。合流予定の午前十時、待ち合わせ場所の喫茶店へと赴けば二人は既に到着しており、一言入れてから一杯だけ注文を頼む。篭宮の隣へと着席すれば、待っていたとばかりに朽ノ屋が八重歯のちらつく口を開いた。

「今日はさ~、目撃場所回ろうって話だったじゃん?取り敢えず僕、ネットで見かけたりした情報を纏めてー、地図にこう、書き込んできたのね。今いる場所から近い順にぐるーっと回っていかない?って事で」

 そう言い、彼は対面の篭宮と胡古にそれぞれ地図を手渡してくる。カラーコピーしたそれには点と文字が記入されており、何時ぞやの篭宮が作ったものとよく似ていた。それにざっと目を通す限り、意外と目撃場所は偏っているようで、駅を全体の中心に据えた東よりの地区によく出てきているようだった。もう少ししっかりと絞り込めばどこが中心となっているのかがわかりそうである。

 お、と声を上げたのは篭宮だった。今日はカフェオレの入っているカップをソーサーに戻しつつ、彼はがさりと自身の鞄を漁る。出てきたのは同じような地図なのだが、彼も同じことをしてきたのだろうか。あり得なくはない。

「これ、山羊乳売りの遭遇場所をマッピングしてきたんすけど、あ、いや手は引きましたけどあの~……、ネ。うん。……会社の先輩の睨みが思ったよりヤバくてさ~……こっそりやれることはやっといたみたいな……」

「君、その辺はっきりしとかないと後で面倒事になるからきっぱり断った方がいいよ」

 デスヨネー、と篭宮はとほほ、と言わんばかりに項垂れた。どうやら余程その先輩とやらの怒りが激しかったらしい。だったら自分でやればいいものを、とは思うが、こうしてなんやかんややってくれる後輩がいると押し付けたくなるのだろう。食い物にされない事を祈るばかりである。

 彼の取り出したそれに書かれているのもやはり点と文字で、朽ノ屋のものと照らし合わせると幾つか点の被る地点が存在している。山羊乳売りと遭遇した場所というのは市全体ではあるのだが、そのうち東側に関しては日時こそ違えど似たような場所に出てきているようだった。市の東にあり、人の入る事の出来る廃屋や小道というのは、そう幾つもあるわけではないと考えるのが妥当だろう。

「まあやっちゃったもんは仕方ないし……。寧ろほら、ここら辺被ってるし、ワンチャンどっちも確認できるかもって事でさ、場所近いとこ纏めて確認しちゃおーぜ。一石二鳥」

「二鳥出来ればいいですケドね」

 呆れたような声音に朽ノ屋はにっこりと笑った。非常に楽しそうな顔ではあるが、切ったはずの余計なところに手を出したのはお前だろうが、という圧力を感じさせる笑みである。しっかりとその意図を感じ取ったのか、ひくりと篭宮の口角が引き攣った。数秒硬直した後、篭宮は乾いた笑い声をあげるしかなかった。

 どこから回るかという話をし始めれば、店員が胡古の注文を届けて去っていく。少し結露を纏わせたグラスにストローを挿し、ちうと一気にグラスの四分の一ほどを開けた。彼女は基本、話し合いには積極的に参加せず、意見を求められるか何か気付いた時にしか言葉を発する事はない。その為大抵耳だけを貸すのだが、それでもさくさくと進む話し合いに、この二人は知っているよりも多く共同戦線を取ることがあったのだろうと推測が出来た。自分がぼんやりとしていても問題はない程度には。

 胡古のアイスティーが溶けて小さくなった氷だけを残した頃、大方回る順序が決まったようだった。二人は決定事項を改めて言葉にして確認し、胡古にも伝わるように地図に新しく書き込みながら説明していく。どうやら朽ノ屋の案で行くらしく、確認されている目撃場所のうち、山羊乳売りと鬼の双方が近い所を今日は回っていくようだった。今日の天気は生憎の晴れで、話の通りならば山羊乳売りの方は夜まで活動していなければ出くわす事はないだろう。しかしもしもがあるかもしれないという事と、双方ともに意外と目撃場所が多い為、なるべく手間を減らそうというわけであった。

 話に集中していた篭宮と朽ノ屋がすでに冷めに冷め切った飲み物を一気に飲み干し、伝票を持って会計を済ます。面倒くさいからと朽ノ屋が奢りという形ですべて支払い、ささっと店を出た。先程の話の中で今日は朽ノ屋の車で移動する事になっていたらしく、コインパーキングに駐車された数台のうち、いつもとは違う車へと案内され、乗り込む。クッションやら何かのファイルやらが座席と床に幾つか落っこちていて、そこに朽ノ屋という人間の性格が表れているように思えた。

 篭宮が助手席に、胡古が後部座席に乗り込み、シートベルトの着用を確認されてから車は発進する。運転自体は意外にも穏やかかつ安全だと身を任せられるもので、地図を見て道を指示するわけでもなければ運転をしているわけでもない胡古はうとうとと、眠気に誘われるままに瞼を閉じた。


 ご、と一際大きな揺れが身体を襲い、胡古ははっと目を覚ました。辺りをちらと見回す必要もなく、車が停まったのだ、と理解して荷物を手にする。前に座っている二人もそれぞれ荷物を持って降車しており、彼女も少しだけ手早くそれに従った。

 変わらず焦がしてくるような日光に照らされながら、篭宮が手にする地図を覗き込む。まずはここっすね、と指し示された部分を見、それならこっちか、と朽ノ屋が足を向けた方へと続く。大通りから外れたこの場所は活気というものがあまりなく、時折人と擦れ違う事はあっても人混みに呑まれなくてはならないという事はなかった。狭い道らしく歩道はなく、車道の白線の内側を縦列で歩くのは、どこかRPGのようで少しだけ気分が紛れる。

 一番最初の場所は路地裏の小さな公園だった。人通りも少なく、見通しのいい道もなく、何かあった時に駆け込めるような場所もなく、子供を遊ばせるには不安の多そうな場所だ。ここは山羊乳売り、鬼の双方の目撃場所であった。確かに明るいうちならばともかく、暗い時間帯になれば何をしているのか、誰がいるのかもさっぱりわかりにくいであろうそこには今現在誰もいない。

 中に入って篭宮が数枚、視点を変えて写真を撮り、朽ノ屋がふらふらと歩き回る。胡古と言えばそんな二人をただ眺めているだけで、死角になる場所にしゃがみ込んで二人の作業の終わりを待った。

 少しして写真を撮り終えた篭宮が隣に腰を下ろし、二人で朽ノ屋の作業を見守り始める。彼はしゃがみ込んだり、陰になっている場所を覗き込んだり、何かを探すような動きをしていた。そんな事をしながら公園内を一周し、二周し、満足が行ったのか二人の所へとにこやかに戻ってくる。収穫があったらしい。その表情は晴れやかだ。

 あのねえ、と立ったまま話し出した彼が言うに、公園内の更に死角になっている場所に足跡があったらしい。人のものとも一般的な動物のものとも違うそれは五本指で、跡の残り方的に人間の手とよく似た指の付き方をし、引きずるような歩き方をしているらしい。指と爪の長さ、形の違いからやはりチンパンジーや日本猿とも違うようで、それを話す彼はどこか興奮した様子に見える。その足跡の大きさも規格外と言っていいほどとのことで、絶対に見つけてやると意気込んでいた。

 それ以外は特に何もないという事で、再び朽ノ屋の車に乗って移動し、目撃場所を調査し、移動し、を数度繰り返す。最初の一箇所以外目新しい情報が出てくる事は無く、似たような痕跡が発見できる程度であった。そのせいか朽ノ屋のテンションが見て分かるほどに下がりつつあり、運転に支障は出ていないものの次を調べたら一度解散した方がいいのではないか、と思うほどだ。一番に現地の調査能力を持っている人物のやる気がなくなってしまうとなると、胡古と篭宮の二人では調査がうまくいく気がしないからだ。

 そんな事を考えながら四箇所目の目撃場所へと辿り着く。そこはあまり中身の入っていない古びたビル達の裏にある道で、微かに饐えた臭いと陽の当たらなさによる湿った臭いとが混じり合って、なんだか胸をむかむかさせる空気を充満させていた。こんな場所に好んでくる人など限られるだろうし、知られたくない取引にはある意味うってつけとしか思えない。

 テンションの下がっている朽ノ屋がのろのろと調査を開始し、篭宮が写真を数枚撮って同じように辺りを探索し始める。胡古はというとハンカチで鼻を覆いながら、道ではなくビルの方を観察していた。二人がそちらを調べているし、別の事をしていてもいいだろうという判断である。

 完全に手入れの怠られているこのビル群は特にこの裏手部分が酷いもので、素行不良の者達が書いた落書きや雨風による土はねの跡、日焼けはしていないが代わりに苔や蜘蛛の巣といったものが貼り付くを通り越してこびり付いている。足の裏から感じる土の感触はあまり良いとは言えないもので、そりゃあこんな酷い臭いを漂わせるだろうと分かるほどだ。しかし言ってしまえばそれ以外何の変哲もない裏道で、胡古の目には特におかしな点は見受けられない。

 残りの二人の挙動を眺めながらどうしたものかと悩んでいると、ふと小さな足音が耳を掠めた。聞こえたと思われる方向に振り返れば、その人物は少し驚いたように片眉を持ち上げてからいつもの微笑みを浮かべる。この場所に似つかわしくないようで、この場の誰よりも絵になるだろう彼女は、暇を持て余している胡古に声を掛けてきた。

「こんなところで、随分と退屈そうだね」

「ああ……、うん、まあ……、付き合い、みたいなもの、だし」

 ふうん、と吐息で返事をして、遊佐は胡古と同じように調査を行う二人を見つめた。篭宮はともかく朽ノ屋がいるのは予想外だったのだろう、不思議そうに首を傾げたので経緯を説明すればすんなりと納得される。それにしても結構な事に首を突っ込むね、と溜息と共に苦笑されれば、胡古は何も言えなかった。

 それよりも気になったのは彼女が傘なんかを持っている事で、今日の天気予報で降水確率はとても低いものだったはずだ。首を傾げてその左手を見つめれば、日傘も兼用しているものなんだ、と彼女はにこりと笑った。最近はそういったものもあるとは知っていたし、そう、とそれ以上は特に突っ込まずにその話は終わる。

 それから少し二人でぼんやりと突っ立っていると、恐らく何の手掛かりも見つけられなかった二人がこちらへとやってくる。あれ、と言うようなその顔に遊佐は軽く会釈をし、何故ここに来たのかという疑問に答え始めた。

 どうにも今回、彼女は胡古らも追っている鬼を探しているらしい。詳しい事は守秘義務だからとはぐらかされたが、依頼に関する事のようだった。その事に朽ノ屋は僅かに奇妙さを表情に見せたが、それを押さえつけるように口を挟む間も見せずに彼女は話す。

 彼女はまずどうしても鬼を見つけなくてはならず、その為に朽ノ屋のように目撃情報を基にしたマッピングを行い、あちこち回っていたそうだ。ちなみに移動は車で行っており、この馬鹿みたいに暑い中を歩き回ってはいないそうなのでその点については安心した。そんな事をしたら頭が茹ってしまう。

「でもさ、何で君も鬼を探すわけ?依頼に関わるっつっても、普通の依頼に鬼なんて非現実的なもの、浮上してくるわけないじゃん。もうちょいなんかない?」

 不満そうな、奇妙そうな表情で朽ノ屋は問いを投げかけた。それも当然の事で、鬼を探さなくてはならないという遊佐の発言は普通ではない。何故ならそれは鬼という存在がいる事を知っており、認めており、分かっているという事である。そして依頼に関わると明言してしまった以上、その依頼も異常に足を突っ込んでいるのだと取れることが出来る。指摘されても仕方のない事であった。

 三人共にそんな視線を向けられて、それも想定内だったのだろう遊佐は困ったような笑顔を浮かべる。ううんと悩むような声を出してから、彼女はそれにこう答えた。

「その鬼が、依頼されている探し物に憑りついている、みたいな存在だからさ」

 澄ました笑顔だった。そして嘘ではないが本当でもないと胡古は判断した。話の流れとはぐらかし方が少々雑だったからだろう、普段の彼女を鑑みると非常に分かりやすい誤魔化しの発言だとわかる。篭宮と朽ノ屋が気付いたかどうかは……、ちらと目線を向けて確認してみるも、篭宮はそんなものかと納得しているようだったが、朽ノ屋の方はよくわからなかった。付き合いの短さもあるが、まずこの男が意外と自身の感情をそのまま出すという意味での表情豊かな人間ではない事も大きいだろう。先程からの奇妙という顔を一切変えていない。

 これ以上は今は無理だ、とあっさり口にした彼女に対し、朽ノ屋はふうん、と喉を鳴らした。何を考えているのかは知らないが、目的が一致しているなら一緒に行動しないか、と彼はその流れで提案する。互いに持っている情報がどれほどのものかは分からないが、全くなしではない案だろう。遊佐は顎に手を添えて少し悩んでから、それもいいね、と首肯した。この暑い中、黒の指貫グローブは蒸し暑くないのだろうかと頭に浮かぶ。

 既にこの場所の調査はある程度完了しており、特に何もないという二人の証言から、一度場所を変えて情報の共有を行う事にした。少し先にあるコインパーキングに朽ノ屋の車が停めてあるのでそこまで向かい、冷房をかけつつ車内の換気をしながら車の中で話し込む。運転席は朽ノ屋、助手席に篭宮と並び、後部座席が遊佐と胡古といった並びである。

 十数分ほど話した結果、遊佐の持っている情報は此方とそう変わりないようだった。彼女がマッピングしたものも見てみたが、やはり大差ない。少し予想地点のずれているところがある、と言った程度で、ならば篭宮らの作成してきた方を参考に動いても変わりないだろう。予定変更しない事を伝えれば彼女は特に反対せず、それじゃあと次の目的地へ車を発進させた。


 遊佐と合流してから更に数箇所回ってみたものの、同じような鬼の痕跡が時折残されているのみであった。新しくわかった事と言えば痕跡の残された時間の推測が出来た程度で、それも目撃情報の真偽が掴めるかどうかくらいのものである。

 次の場所で何も見つからなかったら今日は解散しよう、と四人は話し合って決定した。車を走らせて決めてあった次の目的地へと向かい、適当なコインパーキングへと車を停める。昼頃から行動をしていたとはいえ、複数箇所回っては調査をしていた為に時間はそれなりに経過していた。高かった陽はそこそこ落ちており、辺りは幾らか暗くなり始めている。その為これまでよりも少し調査がしにくくなりそうではあるが、急ぎでもない。ゆっくり確実に調査してもらえば見落としもないだろうと、四人はビルとビルの間にある、小さく狭い道に足を踏み入れた。

 その場所は人が二人、拳一つ分の隙間を開けて横並びになれるくらいの横幅であった。狭苦しく、ビルの背の高さによって陽射しが遮られてより暗いこの場所は、気の弱い人なら鼠が横切っただけでも悲鳴を上げそうだと感じる。いかにも裏路地といった雰囲気のこの場所で何かが起こったら、それはそれで小説の情景描写に活かせそうだと彼女は呑気にも考えていた。

 ———勿論、その期待通り、事は起きた。

 ビルの外壁やコンクリートの地面を調べ回って、ここには大分前の痕跡が残っていた、とだけ判明したと朽ノ屋がぼやいた。発見できる痕跡も足跡くらいのもので、流石に屋外で落ちた毛のように細かいものは見つけられない。その事が彼にとっては苦痛なのだろう。苦い顔、というよりかは不機嫌そうに口をへの字にして帰ろうか、と車の鍵を指で回していた。

 飽きたように溜息を吐きながら朽ノ屋がこちらへ歩いてくる。その後ろを更に背の高い篭宮が着いて行き、狭い小道がより一層暗く、そして狭苦しく見えた。陽も十分に落ちてきていて、街灯の灯りも射し込みようがないからか、そこに彼等がいるという輪郭と質感がその中に浮かんでいる。

 だから、だろうか。それに気が付いたのは。彼等の背後でちかちかと、気のせいではないかと思うほどにゆっくりとした瞬きで、明らかに自然ではない赤い点が明滅しているのを見たのは。それが何かの丸い目に見えたのは。

「———篭宮ッ!」

 急で、そして滅多にない大声を上げた。そのせいかその場の全員が一瞬、時が止まったかのようにこちらを見て、その視線の先を見た。遊佐が傘を握り直し、朽ノ屋が勢いよく振り返り、篭宮が顔を引き攣らせてゆるりと首を回した。

 長い爪が、明確に彼へと伸ばされていた。だらりと弛み切り伸び切った皮膚の、その隙間から覗かせる真っ赤な目を、どこも見ていないぎらぎらと輝かせた真っ赤な目が、だというのに人の頭よりもよっぽど大きな手とそこに生えた爪を、篭宮へとどろりと伸ばしていた。

 篭宮の目はそれに釘付けで、それでもきっとこれまでの経験が、彼の身体を動かしたのだろう。よろけるように朽ノ屋とぶつからない方向へと足をよろめかせ、前へと一歩地面を踏みしめ一際大きな音を立て、それから逃げ出すようにもう一歩を踏み出そうとする。擦れ違うように朽ノ屋がそれの小脇を何故か擦り抜けていって、しかしそれは彼には一切の興味を持たずに、それは篭宮へと腕を伸ばしていた。

 いつだったか聞いた時、百八十四だと笑っていた、日本人にしてはかなりの高身長を持つ篭宮の、それ以上の巨躯をもってして、それは怠惰にも一歩も動かずに彼へと腕を、手を、爪を伸ばす。咄嗟の事で一度躱せはしたものの、もう一度とやってくるそれに対応できるほどの超人的な身体能力が彼に備わっているはずもなく、無情にもその爪の先が彼のオーバーシャツへと引っ掛けられた。

 駄目だ、と思った。それと同時にだん、と大きな音がコンクリートから鳴った。金属の滑る音がして、薄く鋭いものが空気を裂く音が耳に伝わった。それから何と擬音すべきか、ずぶりとも、ずばりとも、すぱりとも、どれとも例えにくい音がした。一拍置いて手負いの獣のような、ホラーゲームの化け物が反撃されたような、骨の髄まで響く呻き声が低く低く鼓膜を打った。どさり、ごつり、ぼとり、とにかく重いものが重力に従って叩きつけられる音が、その瞬間の最後を飾った。

「———ここから出ろ!」

 赤黒い、というより黒に赤が混じっているような、滑りのある液体の付着した刀の刃を服で拭いながら、伸ばされていたそれの腕を見事なまでに斬り落とした遊佐がそう叫んだ。思い切り膝を打ち付けて四つん這いになった篭宮が思わずと振り返って、すぐに正面を向いて立ち上がろうとした。そんな彼の腕を引っ張って、胡古は言われた通りこの狭い小道を出来得る限りに急いで脱する。遊佐をあれと一人対峙させるのも心配ではあったが、それ以上に篭宮をあの場に置いておく方が危険だと判断した為だった。

 ずろずろと篭宮を引きずるように小道から通りへと出、そこで胡古はようやく振り返った。長いようで短かったその道の先では、背を向けた遊佐が左手の鞘に日本刀を納めているところであり、更にその先からどこかに行っていた朽ノ屋と思しき人影が戻ってきている。朽ノ屋は足元に落ちているはずのものに見向きもせず、納刀し終えた遊佐と共に通りへと出てきた。出てくる前、遊佐は刀の柄を軽く叩いて何やら呟いていたように見えたが、何か変わるという事もなく、それを持ったまま出てくる。

「……い、ろいろと、言いたい事はあるんすけどォ~……」

 恐怖のせいか身体ごと喉を震わせながら、篭宮はようやくまともに動かせるようになった足腰で立ち上がる。若干へっぴり腰なのは仕方のない事だろう。胡古だってあんな、命を刈り取る為にしか存在していない様な爪を持つ腕を伸ばされていたら、多分腰が抜けて暫く動けなかったかもしれない。

 そんな彼は遊佐の手の中にあるそれを指さし、どこかに行っていた朽ノ屋に視線を向け、それから小道の中を覗き込み、一人忙しなく動き回って一通り確認した後立ち止まった。数拍置いて何から問うべきかやっと決めたのだろう。はあ、と緊張を緩めるように息を大きく吐いた。

「……えーっと、あのさ、……切った腕どしたん?」

 そこから行くのか、と胡古は意外に思った。もしくはそこから突っ込むのが一番現実的だと彼は判断したのか。彼は遊佐がすっぱりと綺麗に斬り落とした腕についてまず問い掛けた。遊佐と朽ノ屋の後ろを覗き込むように小道を見てみれば、少しの血痕を残してそれは消えており、そこにいたはずの鬼らしきものもいなくなっていた。

「消えた。あれが消えるのと同時になくなったから、あれが持ち去っていったんだろう」

 まああんなもの、残っていてもどうすればいいか分からないから別にいいんだけれどね。彼女はそう嘆息した。事実だろうがその発言に朽ノ屋が膨れっ面になり、残ってれば持って帰ったのに、と不満を零している。持ち帰りや研究時、誰かに見られたらどうするんだという事を口にするものは誰もいなかった。彼ならどうとでもするのだろう、と皆が思ったからである。

 じゃあ、と次に篭宮は彼女の手にする日本刀を指し示した。どこからどう見ても日本刀としか言いようのないそれは、黒く美しい鞘で艶やかに落ちかけている陽を反射させながら、彼女の手の中にある。恐らくしっかりと手入れされているそれは、しかしどうしても繕いきれない幾つもの細かな傷が微かに照らし出されていて、その現実味が生々しい。

 さっきまでなかったよな、と刀を指さされた彼女は、苦笑しつつもそれを撫ぜた。その手つきに愛着というものは感じられず、自分自身を扱うかのような冷徹さを感じさせた。よく聞く、これは相棒だという体すら見せず、彼女はその日本刀に淡白な視線を向けている。

「覚えているかい、春の……、あの小屋の事」

 彼女の言う春のあの小屋、というのは、前回起こった事件の核心部分の事である。ずっと九亀湖の近くにぽつねんと建っていたというのに、その存在をしっかりと認識していた朽ノ屋が指摘するまで存在を視認する事が出来なかったのだ。そこを拠点としていた男は、別の人間が小屋に呪文をかけたと証言したらしいが、それがどんなものなのか、詳しくは語られなかった。

「同じ呪文さ。私もずっと、前々から使っている。これをなるべくいつでも持ち運べるようにね」

 その呪文の効果は単純なもので、ざっくり言うと呪文をかけたものの見た目を別のものに上書きするいったものらしい。例えばこの刀ならば、先程まで遊佐の持っていた傘に見せかけるというような、そんな単純なもの。しかし呪文をかける対象が生物か非生物か、どれほどの大きさを持っているか、上書き先に違和感を持たれないか、そういった様々な制限のようなものが存在し、呪文使用者の気力、のようなものも関わってくるらしい。一度呪文を解除したらかけ直さなければならず、通りに出る前にしていたのはその作業だった、とも。

「あの小屋は大きかったから……、恐らく何かしら別のギミックもあったんだろう。これは大した大きさでもないし、ざっくりとした見た目が似ているものを上書き先に選んでいるからね。負荷にもならないのさ」

 しかし一度見られてしまった以上、胡古らの前では上手く作用しないだろうと彼女は語った。確かに傘だと思いながら見れば傘として視界に映るが、ふと何も意識せずに見ると日本刀本来の姿となる。他の、往来の人々には傘にしか見えていないから問題ないよ、とにこりと微笑んだ。免許もきちんと持っていると言うが、それは刃を潰さなければならないのではなかっただろうか、と思うだけに留めておいた。

 少し納得のいかない表情で、篭宮は最後の疑問を呈した。朽ノ屋がどこに行っていたのか、という点である。彼は篭宮の背後に鬼らしきものが現れた瞬間、踵を返して逆方向へと走っていった。あの瞬間胡古には鬼らしきもの以外目に入っておらず、それは他二人も同じだったようで、三対の目が朽ノ屋に向けられる。向けられた彼はと言うと、きょとんとした顔でこう言ってのけた。

「鬼の後ろのさ、もうちょっと先に人がいたんだよ。本抱えた。なんか追っかけなきゃって思ったから追っかけたんだけど、撒かれちゃった」

 でも撒かれた辺りの写真は撮っておいたよ、と彼はスマフォを掲げる。ふむ、と遊佐が顎に手をやって、それじゃあその場所を一度見てから解散しようと提案した。何故?と視線で問い掛ければ、鬼らしきものの出現場所に時折不審人物がうろついていると、君が調べたんだろうと呆れたように告げられた。そういえばそんな情報もあった気がしなくもない。

 それに、と彼女は続ける。鬼の出現とその人物の逃走がほぼ同時だったのならば、全くの無関係には思えない、と。だから朽ノ屋が撒かれたという場所を写真だけでなく実際に確認して、番地や道の作りなどを見て、調査の足掛かりにしようという思惑だと語った。

 それもそうかと場の全員が納得し、朽ノ屋に先導されて再び小道へと入っていく。もう既にあの異様な気配はなく、もう何もないだろうという奇妙な確信と安堵が生まれていた。こつこつと靴底とコンクリートの触れ合う音が響いて、幾らか歩けば反対側の通りへと出る。こっち、と誘われるままに後を追い、また少し歩いて彼は立ち止った。

 そこは十字路になっていた。カーブミラーが角に設置されていて、きちんとした歩道はなく、区別の為の白線が引かれているだけの道。この十字路に差し掛かった辺りでうっかりと見失ったらしい。こっちに曲がったのは見たけど、と指さされた左方面を覗き込めば、更に幾つか小道があちこちに作られていて、確かに一瞬見失ったらもうわからないだろうと納得できる。

 その周囲を少しだけ見て回るが、当然ながら痕跡なんてものは見つからなかった。からからに乾いたコンクリートの道だ、足跡なんて残るわけもないし、抱えていた本が落ちているだなんてこともない。そこらに落ちているのは飴の空袋や誰かが落としたポケットティッシュなどのゴミばかりで、個人を特定するようなものは全くなかった。

 積極的に動いていた遊佐はあちこちの写真を撮り、何かを手帳にメモして戻ってくる。退屈そうにしていた朽ノ屋に幾つか問いを投げかけた。それは見かけた男についてのものであり、背丈、体型、外見、凡その年齢といった基本的なものである。つい先程までの出来事故にするすると答えていった彼は、何かに気付いたように口を止めた。

「……。ジャケットを脱いだスーツ姿の、四十くらいの男、ねえ……。なんか、都合よく出て来過ぎじゃない?」

「そうかもしれない、が……。気にしている場合か?とにかくこの男について、目撃情報を募ろう」

「協力なんてしてもらえんの?」

「当てがあるのさ」

 軽快にそう返して、今日はもう帰ろうと再三彼女が言った。この件についてはこちらの調査結果を待ってほしいと頼まれ、篭宮が若干苦い顔になるも了承する羽目になった。これ以上の調査は篭宮の人脈だけでは無理だと判断したのだろう。自分でも調査はするが、と一言断っていた。

 再び折り返して元の通りへと戻り、それぞれに帰路へと着いた。一度朽ノ屋の車を停めたコインパーキングまで戻り、彼の車で遊佐と合流した付近まで走り、遊佐と別れる。それから幾らか走って胡古が車から降り、礼を言って彼等と別れた。篭宮は自宅より先に神社に用があるらしい。朽ノ屋の家がその方面にあるからと、最後まで送ってもらうようだった。

 すっかりと暗くなって、真っ白な街灯がぽつぽつと道を等間隔に照らし出している。小さな羽虫が群れになって飛び回っていて、彼女はなるべく街灯下を避けて帰路を辿った。小さな羽虫は鞄や服、髪などにくっついて勝手に死ぬから、とても嫌いだった。

 まるで自分のようであったから。

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