2-2.失策
さて、と遊佐が小さく声を零した。流れるような綺麗な仕草で腕時計を確認しており、それを横目に胡古はアイスティーを口にする。からりと氷とグラスがぶつかる音がして、それを感知した脳が涼しさを認識した。篭宮は愛用のボイスレコーダーを今一度確認しており、後は相手が来るのみとなっている。
予定時間の十分ほど前に胡古と遊佐は喫茶店に来たのだが、篭宮はそれより早く来ていたらしい。席を取っていた彼に手招かれて着席したのは店内の端かつ窓際の席で、相手がすぐに分かるようにしたのだと語っていた。今回は内密な話をするわけでもないし、気を張るよりも分かりやすい方がいいだろうとも。
そんな理由で先に席に着いていた三人だったが、腕時計から目を離して窓の外を見ていた遊佐が不意にひらりと手を振った。その視線の先には一人の女性がいて、彼女は薄地のボウタイブラウスと膝上のフレアスカートをふわふわと動作に乗せながら、遊佐に笑いかけて店の入り口に軽く駆けていく。今の人物が待ち人のようだ。自分とは全く違うタイプだと改めて感じながら、胡古は舐めるようにちびちびとグラスの中身を飲んでいた。
からんからんとドアベルが鳴り、店員の爽やかな挨拶が響く。少し大きめな人数確認の声が聞こえ、それから少しして此方の方に足音が向かってきた。案内されてきた彼女は高めのヒール音を打ち鳴らしながら店員に礼を言い、空いていた遊佐の隣に着席する。その場の全員の顔を見回しながら挨拶をすると、篭宮の方へとしっかり目を向けて笑顔を浮かべた。
そんなあからさまな対応にも篭宮は気にすることなく、綺麗な営業用としか言いようのない愛想笑いを浮かべながら挨拶と礼を口にする。女性はそれでも嬉しいのだろう、口元に手を当てて笑いつつ———恐らく普段はしていない仕草だろう、手と口の動きがばらばらだった———自己紹介を始めた。
「初めまして、私は
「そうそう、そっちの遊佐さんと知り合いでね、紹介してもらったわけだ。俺は篭宮雪。隣にいるのは先輩の胡古綴ってんだ。先輩多分そんな喋んないけど、俺の付き添いってだけだから気にしないでくれ」
軽快なペースで話が始まっていくのが感じられる。何の先輩か、とまで言わなかったのは仕事の先輩だと思わせる為だろう。そうでなかったら胡古はこの場でただの部外者でしかなく、何故いるのかと訝しまれてしまう可能性が高い。正しい判断だった。その間に女性、卯月の分のお冷が通され、彼女はそのまま何やら洒落た名前の飲み物を注文する。どうやらここの常連らしい彼女は、オプションなども暗唱して見せた。
彼女の注文が来るまで、篭宮と彼女は二人で大学についての話で場を繋げていた。彼の話が中々うまいというのもあるかもしれないが、一番はやはり彼の顔も関わっているだろう。時折胡古が様子を窺ってみると、卯月は分かりやすく彼に熱のこもった視線を送っており、切りのいい所で連絡先を、と度々遠回しに混ぜている。しかし篭宮の方が上手と言うべきか、仕事であるという事を表面にしっかりと出して牽制し、それをわかりにくく拒否していた。
胡古にとって縁遠い会話が隣でなされている数分ほど、卯月の注文した飲み物が届いた。それを受け取り、彼女がグラスにストローを挿して一口飲んだのを見計らってから、篭宮がようやく本題に入る。
「それで、最近ちょくちょく聞くようになった山羊乳売り?っていうやつだけど、一体どうやって会ったんだ?」
「ふふ、それが聞きたかったって遊佐ちゃんから聞いてます。最初に会ったのは一か月前なんですけど、山羊乳売りってランダムに現れるって流れてるでしょう?あれ、半分は嘘なんです。実は天気によって変わるんですよ」
彼女によれば、晴れの日は夜だけ、曇りの日は一日中、雨の日は朝だけ、雪やその他の天気の時は会えないらしい。ランダムなのは場所だけで、それもある程度一定の出現箇所があるそうだ。卯月は手帳から一枚頁を破って知っている出現箇所一覧を書き出すと、篭宮へと手渡す。
受け取ったそれに軽く目を通してから、篭宮はそれを胡古へと渡した。話を続けるから先に見ておいてほしい、という事だろう。横流しされたそのメモをぱっと目で追うと、出現箇所は当然と言うべきか、廃ビルや人気のない裏道、使われていない建物など、人目に付きにくい場所ばかりだった。
「へえ……、それで、君はいつ?」
「私は一か月くらい前の曇りの日です。会えたらいいなとは思ってたんですけど、探してたって程じゃなかったからびっくりしました。……どうしても綺麗になりたかったから」
纏めるとこんな話であった。一か月前の曇りの日の夜、彼女はいつもより少し長引いたバイトの帰り道を辿っていた。忙しさで疲労した身体を少しでも早く休めたくて、普段なら使わない近道を通る事にしたという。その道は暗く狭く、人通りもほぼない為危ないと自分でも思っていて殆ど使った事はないのだが、その日はどうしても早く帰りたくてその道に入ってしまったらしい。
普段避けている道とあって、夜間のその道はやはり不気味で、さっさと通り抜けてしまおうとかなり早足で歩いていた。近道と知っていてもいつもとは違う道、夜で辺りが暗いという事も相まってかなり長い距離を歩いた気分になっていく。これならいつも通りの道を変えればよかったと後悔していると、ふとどこかから声を掛けられた。何故か自分宛だと確信した彼女はきょろきょろと辺りを見回して、すぐそこにもう長らく使われていないのだろう、汚らしい空き店舗を見つけたのだ。
誘われるようにその中に入った彼女は、そこで一人の人間を見つけた。黒いフードを目深にかぶり、黒い布と六本の牛乳瓶の入った籠を持ち、だぼだぼとしたローブを身に纏った、いつもなら怪しいと絶対に近寄らないような姿の人物。その時は何故か怪しむという思考にならず、今考えるといっそおかしなくらい無防備にその不審者へ近づいてしまったそうだ。
「それで、私……、一本だけ買ったんです。会いたかったのはあったんですけど、実際遭遇してみると本当に願いを叶えてもらえるのかって不安になって……」
頬に軽く手を添えながら彼女は当時の事を思い出しているのだろう、不安と期待の混じった表情をしている。続いて行く話によれば、売人は必ず寝る前にそれを飲むよう念押しし、彼女は言われた通り帰宅してから就寝前に飲んだという。彼女が望んでいたのは綺麗になる事で、たった一度、怪しい人物から購入した山羊の乳を飲むだけで叶うなどと本気で思ってはいなかった。どうせだし、と一口飲んでみた所おかしな味や風味を感じず、寧ろおいしいと思えた為に全て飲み切り、眠りに就いたそうだ。
その翌日。起きた時点でどこか心が軽く、不思議に思いながらもいつも通り洗面台へと足を運んだ。口を漱いで顔を軽く洗い、鏡を見上げた。いつも通りの、ごく当たり前の朝のルーチンワークの一部。それが変わったのはこの日からだったという。
「顔が、全然違くなってたんです。思ってた通りの顔というか、顔のこの辺りがこうなればなあっていうのが望んだ通りになってたって言うか。メイクでいつも作ってる顔になってた、みたいな。それで私嬉しくって」
見てくださいと彼女はスマフォを取り出して何やら操作をする。テーブルに置かれたその画面に映っていたのは女性の自撮り写真だ。バイトの面接用にでも撮ったのだろう、少しぎこちない微笑みを浮かべているその顔は細部が異なれど確かに卯月のもので、ちらと見比べると目の前にいる卯月の方が明らかに造形が整っている。写真写りが悪い顔というわけではなさそうで、写真の方の彼女も十分綺麗に撮れているし、篭宮が頼んで見せてもらった他の写真ともそう変わらない。つまり今目の前にいる彼女の顔そのものが変わっていると判断した方が現実的であった。
最近の化粧は肌の色味や眉を少し整える程度のもので、以前ほど顔の補正をするような化粧はしていないという。嬉しそうに語る彼女はまたあの山羊乳売りに会いたいと零しており、暇さえあればあちこち探し回っているらしい。半信半疑だった存在が本物だと確信したからには、もう一度出会える機会があるはずだと息巻いていた。
そんな彼女の様子に遊佐は一切の興味を抱かず、篭宮は若干引いているような反応をしていた。にこにこと笑っている彼女はどうやら気付いていなさそうだが、遊佐はともかく篭宮の方はもはや完全に関わりたくないという雰囲気を醸し出している。かく言う胡古もまた、彼女の話に大分心が冷めているのだが。
それから幾つか篭宮が疑問を投げかけたものの、目ぼしいと言える結果は得られず、卯月のバイト時間が迫ってきている為この場はお開きとなる。一人席を立つ際、彼女は篭宮の前に自身の連絡先を書いたと思しき紙を置いていった。彼女が背を向けた瞬間、彼はそれを苦い顔で見つめながら鞄にしまう。個人情報だから後で捨てるのだろうという事がありありとわかる表情だった。
「……ったくさー……、遊佐さんには申し訳ねえけど、こりゃ駄目だわ。記事にするにもなーんか色が違うというか、つーかあそこまで顔変わるのやばすぎだろ。書いたら売れるかも知んねーけど、書くのがやばそう」
大きく溜息を吐き、彼はそう言った。無理無理書けない、と彼はスマフォを弄り始める。恐らく上司にその旨を伝えているのだろう。書いたらやばいと彼が言うのは、もしも記事にしてそれが公になり、更に何か起きた時自分達に妙な疑いを掛けられるのが嫌だという考えだと思われる。情報を広める仕事と言うのは、会社単位だけでなく個々人でも様々にリスクを考えて動かなければならず、面倒そうだな、と胡古は思った。
すっかり冷めきっただろうホットの珈琲が入ったカップをちまちまと啜りながら遊佐もスマフォを弄っており、場に沈黙が流れる。胡古はというと空になったグラスを眺めながら、二人を見つめる事しか出来なかった。
「ていうかさ、どう思うよ」
スマフォの画面に目を釘付けにしながら篭宮が唐突にそう投げかけた。何が、と問うまでもなくそれが山羊乳売りの話についてだとは、彼の雰囲気的にもこれまでの話の流れ的にも自然と分かり、胡古は内心ううん、と唸る。どうもこうもなく、胡古としては確実に何かが可笑しいと感じていた。ただのオカルト話とするにもかなりまずい麻薬などの話とするにも、どこか情報が足りないと言うべきなのだろうか。しかしそうだとしても常識的な考えでは辿り着けないような、皮膚の内側が痒くて堪らないような引っ掛かりがあるような気がしてならないのだ。
それをしどろもどろと伝えれば、そうですよねえ、と彼は納得のいかないような声音で肯定する。篭宮の欲しい回答ではなかったのだろう。曖昧過ぎる、具体的ではない答えというものを存外彼は好まない。今度は気まずい沈黙が流れてしまい、胡古は居心地悪く身動ぎした。
「……綴さんの言いたい事も分かる。確かにあの話はどうにも……、人間の領域を超えているとしか思えなくなる」
沈黙が場に広がり切る前に遊佐が小さくそう呟いたのが聞こえてくる。彼女は操作していたスマフォをすでにテーブルの上へと置いており、その視線は真っ直ぐ篭宮と胡古双方を見つめていた。彼女の表情は発言とは異なり酷く真剣で、何かを危惧しているかのような、そんな色も強く含んでいる。
「少なくとも真っ当な、人間的なものではない。そう断言はできる。……だから、関わらなくていいのなら、関わらない方がいいものだと、思う」
難しく、それでいて厳しい眼差しが二人を貫くようだった。胡古と篭宮は顔を合わせて、もう一度遊佐を見つめる。彼女の表情の威圧感は何度見直しても一切減らず、寧ろその圧に押されてしまいそうであった。昨日もあまりいい顔をしていなかったが、遭遇者の話を共に聞いて更に嫌悪の話題となったのだろう。それもただの嫌悪というより、何か確信を得た上での拒絶を含んだものだ。
人間的なものではない、ねえ。篭宮が復唱し、遊佐は静かに頷いた。疑っているというには薄っぺらく、信じているというには飲み込もうとしていなかった。ぐるぐると行儀悪くストローでグラスの中身をかき回しながら何かを考え込み、ストローを咥えてちうと温くなったアイスティーを一口飲む。持っているものを手放してから頬杖をつき、篭宮は口を開いた。
「関わらない方がいいってのはもうめっちゃ同感だけどさ。人間的ではないって断言するにはピース足りなくねえ?オカルト的な儀式とか、呪いとかそういう感じは聞いた限りしねえし」
「……。まあ、確かにそうだろうね。……でも駄目だ。だって飲んだだけで顔が綺麗に整うレベルに変形するなんて、そんなものあると思うかい?それに、」
徐々に捲し立てるような話し方になりかけていた遊佐だったが、何かを続けようとして言葉を切った。一瞬だけ目を見開いて、続いてぱちりとゆっくり瞬きをする。それに?と続きを促す篭宮の声に息を小さく吐いてから、彼女は落ち着いた、しかし僅かに絞り出すような音と口調で繋げていく。
「……それに、私は……。知っている。地球の科学では証明できないものが、それを作り出せるものが、どちらも在る事を。だから、この件は、もう関わらない方がいい。……本当に」
「……ふうん」
素っ気ない返事だった。それでいて重い感情が乗せられた返答だった。彼女の語った事に篭宮が何を思い、何を感じたのかは分からないが、それ以上を掘り下げる事はなかった。必要がなかっただけかもしれないし、遊佐の様子から触れない方がいいと思ったのかもしれない。妙に冷えた空気感が二人の間にあった。
それを打ち破ったのは篭宮のスマフォだった。何かの通知でバイブ音がテーブルを揺らし、今度は失礼と一言告げてからそれを弄り始める。タイミング的に先程まで弄っていた理由と関係があるのだろうかと眺めていれば、真顔に近かった彼の顔が見る間に明るくなっていく。フリックの速度が一気に速くなり、よっしゃ、と小声で呟いてから、弄る事をやめないまま嬉しそうにこう言った。
「もーーーーこの件に関わんなくて済むわ!さっき上に聞いた話をざっくり説明して無理ってメール送ったんだけどさあ、無事受け入れられたわ、よっしゃ」
「……あ、そう」
拍子抜けした遊佐の声がその場に落っこちる。妙に絞まった空気が解放されたはいいものの、代わりにテンションの高くなった篭宮が機嫌よくにこにこと笑い始めた事で店内の視線が集中し始めた。これは良くないと胡古はかける言葉を考え始め、遊佐は大きく溜息を吐いている。彼女の助力は期待しない方が良さそうであった。
彼の様子と急に喜んだ話の内容からして、仕事の為の別件が受理されたか思いついたかしたのだろうと推測できる。それを考えてみると何を提案してここまで喜んでいるのか、と問い掛けたら何かしら帰ってくるのではないだろうか。そう結論を出した胡古は彼の名を呼び、気を引いた。
「めちゃくちゃやばい案件か……、別のネタがって話だったけど……、何が、あったの?」
「ああ、それすか?さっきの話をまんま送ってやばい無理って泣きつきつつ、ほら、昨日先輩が教えてくれたやつあるじゃないすか。取り敢えずそれでもいいよって言われたんでー、そっちにシフトチェンジしまーす」
昨日?と付いてこれていない遊佐が疑問符を浮かべ、胡古がそれを簡単に説明した。聞き終わると彼女は軽く頭を抱え、ささめさんがすまない、と突然謝り始める。彼女曰く、そういう時の二加屋は知り合いを上手く使って自分の欲しい情報を集めようとしており、ちょっとした厄介事になるかもしれないからだ、という事らしかった。遊佐本人もそれで何度か面倒な目に遭ったというので、気分を良くしていた篭宮の目元が引き攣った。しかし選んだのは最終的に彼の意思である為、文句も言わずに口を閉ざす。天秤にかけてそれでも二加屋の方がましだと判断したのだろう。上司に我儘を言った以上、代案もなかった事には出来ないという気持ちも勿論大きいと思われる。彼はうあー、と伸びをして背凭れに身体を預け、いや、まあ、こっちはまだわかってないこと多いし、などとぶつぶつ呟いていた。
そんな彼を横目で見、何かあったら手を貸すと告げて遊佐は立ち上がった。自分の注文分の金銭をテーブルの上に置き、二加屋に呼ばれているからと背を向けて去っていく。その背に篭宮が礼を投げかけ、置かれた金銭を一度テーブル中央に引っ張った。
長居したし、俺達も出ますか。言いながら伝票と遊佐の置いて行った額を確認し、篭宮は胡古に伝票を回した。それを見て同じように自身の注文の額を確認し、財布を取り出して篭宮へと手渡す。毎度ぉ、と茶化すような声で彼はそれを受け取り、遊佐の分と合わせて彼の財布へとしまった。
荷物を手にして席から立ち、レジへと向かって会計を済ます。冷房の効いた店内から外へ出れば当然ながら熱気が二人を襲い、あっつ、と反射的にだろう、篭宮の声が聞こえてきた。シャツの首元を軽く扇ぎながら、ちょっと電話するんで補足説明よろです、と振り返りつつ手招きされ、仕方なしとその背を追いかける。
駐車スペースに停められた、もはや見慣れて乗り慣れた彼の車に乗車する。日陰を選んで車を停めた事が功を奏してか、思ったよりは車内温度が高くなっていない。思ったよりはというだけで、その実非常に暑い空間になってはいたのだが。
窓を開けてその空気を追い出しつつ、エンジンだけをかけて冷房を掛ける。少しだけ温度がましになったところで窓を閉め、彼はスマフォでどこかに電話を繋げ始めた。当然のようにスピーカーに切り替えられており、なんだか何時ぞやに経験した記憶が蘇る。あの時もそう、三、四コールほどで相手が出て———。
『はあい、もしもし~?篭宮クン、どったの?なんかおもろい事でもあった?』
「こんちはセンセ。実はセンセが興味湧きそうな話を持ってきたんすよねえ」
え、何々!と少し気怠げだった声音が一気に跳ね上がり、電話相手———朽ノ屋はまだ何も具体的には話していないというのに飛び付いてきた。テンションの上昇で高くなった声はきいんと一瞬胡古の鼓膜を突き刺し、一瞬眉間に皺が寄る。そんな彼女の様子に気付く事もなく、篭宮は話を続けていった。
三日前に起きた殺人事件、その死因と凶器について。殺人事件そのものには無関心で通話を切られかけたものの、凶器の持ち主がこの地域周辺では存在が確認されていない野生動物ではないか、という話になると予想通り食いついてくる。未確認生命物体や地域的に生息しえない生物の情報などに対する彼の好奇心は九亀湖の噂だけに留まらないらしい、というのは先日知ったのだが、この程度のものでも良いらしい。可能性が僅かにでもあれば食いついてくるようだった。
篭宮の話に時折補足を入れたとて、内容自体はそう長くも深くもない為に話はすぐに終わる。一通り聞き終わった彼の反応は思っていたより冷静であった。ふーん、と小さく息を伸ばす音が聞こえてくる。
『……つまり君らはこれからそれを調べようってわけね。それで僕にちょっと協力してほしい、と』
「まあそんな感じっす。真偽はどうあれ、まじで殺人じゃなくて野生動物の犯行だったらそれはそれだし、センセの名前出して信憑性あげられるし」
『篭宮クンそういうとこあるよね~。信用第一みたいな』
言われた彼は胡散臭い商売っすからねえ、と楽しげに笑った。兄の行方の為にこの仕事に就いたという事は聞いているが、実は本人自体もこの仕事を楽しんでいるのではないだろうか、という考えが湧いてくる。何となく口にして見れば、ジャンルは嫌だが記者という仕事自体は気に入っていると返ってきた。
『でもま、情報が少なすぎるしィ~……。保留とは言わないけど、やっぱりもうちょい調べないとねえ。三日前……、いや一昨日?どっちでもいいけど、とにかくちょい前にそんな話流れてたんなら、今調べたらまだなんか出そうだしね。SNSより掲示板とかブログとかかなあ、当たるなら……。ともかくそっからだねえ。それで情報集まったら動く感じにしよ。じゃないとちょっとまあ、言い訳がねえ』
こっちでも調べとくよ、と彼は通話を切った。篭宮が親指を立てているので協力を取り付けられたと見ていいだろう。スマフォを仕舞いながら焦った、などと言っているが、全くそう思っていない事は筒抜けである。僅かな可能性でも朽ノ屋が食いつくと知っていなければ話をしもしなかっただろうと考えると、きちんと相手を知ったうえで選んでいると改めてよくわかる。
まずは言っていた通り個人で情報収集を、と二人は頷き合った。何か分かったらなるべく都度報告し、ある程度の量が集まったら予定を擦り合わせて実際に足を使っての調査をしようと話を纏める。トークアプリに新しく作った三人用のグループにも篭宮がそれを投下し、確認してから胡古は車を降りた。彼はこのまま職場の方へと向かうらしく、この熱気と日光の中の帰宅を心配されたが、そこまで気にしなくていいと彼女は突っ返す。念入りに水分補給などを注意され、胡古は正午過ぎの町中に踏み出していった。
美味しいは美味しかったが、常連になるほどではないな、と胡古は口の中に残った味を唾液で流し込みつつ考えた。たまたま帰宅の道にアイスの移動販売車が停まっていたから食べてみたのだが、一昨日聞こえてきた話程称賛するような味ではない気がして、恐らくこれが好みというやつだろうと彼女は家の鍵を開ける。数時間ぶりの家は雨戸ごと締め切っていたお陰か思ったよりは気温は上がっておらず、少し蒸している程度のものであった。
陽はまだ高く上っている時間帯、雨戸を開ける必要もないと判断して台所で水を飲んでから自室へと向かう。パソコンの電源を点けながら冷房も稼働させ、椅子に座りログインした。起動が安定したところを見計らってインターネットの海に潜り込んでいく。
検索を駆使し、目ぼしい情報を発見したらメモ帳へと写す。それを数度繰り返していけば多少なりとも自ずと情報の精査は行うことが出来、二重線を引いての訂正や矢印による同種情報の追加などが幾つも増えて、他人からすると見難い事この上ないメモが作り上げられていった。丁寧なメモを作るより、色々とごちゃごちゃになっているメモの方が胡古は把握しやすいタイプである。
まず得たのは当然ながら殺人事件についての続報だ。あれから警察の捜査も進み、新しい情報が幾つか報道されている。また、二加屋が初日に掴んでいたように近隣の住民たちによる真偽不明の情報なども増えており、予想以上に情報の量自体は大漁であった。
一般的なニュースサイトなどが出している情報は以下の通りである。被害者の氏名は
少し怪し気なブログや考察掲示板などでは、その裂傷についての議論や遺体についての噂を幾つか拾うことが出来た。裂傷については刃物というより獣の爪牙ではないかという情報をすでに得ていたが、その傷跡の大きさと特徴はこの地域一帯に生息する生き物や、日本列島で平均的に生息している生き物とは全く異なるものだったという。傷跡の大きさ自体驚愕に値するとか。
更に新しく出てきた一十世彼方の遺体についてだが、これは自称近隣住民で警察への通報を行ったという人物がSNSに取り上げ、現在は取り消されているものであった。取り消される前に誰かが別媒体に魚拓を取っていたらしく、それを運よく発見することが出来たのである。
それによれば一十世彼方の遺体は人間のものではなかった、という。巨大な二足歩行の爬虫類のような見た目で、頭部の形から蛇だったと書かれていた。しかし一十世彼方自身は少し狐顔なだけの男性であったと彼を知る者は皆言っており、凄惨な遺体を発見した動揺による幻覚ではないかと諭されているようだった。しかし発見した人物は夢でも幻でもないと強く主張しており、魚拓に残された画像データにもはっきりと残されている。加工だのなんだのと議論がなされているようだったが、それは今現在胡古には必要のない情報だった。こういう情報が出ている、という事を入手するのが今回の目的だからである。
また現場についてだが、予想されている犯行時刻の少し前、小道の近くで分厚い本を持った不審人物がうろうろとしていたと報告が出ている。四十歳ほどの中肉中背、スーツを着た男性だったそうで、数名ほどから目撃情報が上がっていた。その人物は小道の辺りで暫くうろついた後、どこかへ立ち去ったという。その後殺人事件が起きたため、関連性を疑って現在捜索中とされている。
そこから派生したのだろうか、分厚い本を持った人間を見かけた場所の周辺で奇妙な生き物が出現する、という噂も流れ始めているようだった。発見、報告した人々によればそれは非常に巨大な身体の持ち主で、全身の皮膚が弛んでいるという。皮膚を引きずりながらさまよう姿は総毛立つほどに醜く、さながらホラーゲームに出てくる化け物のようだとか。
ネット上で鬼と呼ばれるものはここ最近あちこちで見かけるらしく、人によっては一時的に酷く気分や精神状態を悪くするものもいるとのことだった。出没がよく確認される場所は裏道や廃ビルで、一日に一回出るかどうか、といった具合らしい。しかし何かをしている風ではなく、ただ現れては少し歩き回り、消えていく。そんな程度の事しかしていないという。その出現もゲームのようで、何もない空間に光が明滅し、気が付くとそれが現れている、らしい。
他にも何か参考になる情報がないかと、知り得たワードを繋ぎ合わせて検索したところ、世平、鬼、分厚い書物で一つ引っ掛かったものがあった。世平市の民話である。小さなホームページに掲載されたそれはよくある物語で、参考になるかは不明だったが、状況が少々似ていると感じられるものだった。
内容はざっくりと言えば鬼退治の物語だった。突然現れては突然消える鬼が出てくるようになり、手近なものを見境なく攫って行ったそうだ。労働力などの観点で困っていると、ある時蛇を連れた法師がやってきたという。法師は村人から話を聞き、鬼を退治する事を約束した。彼は村に数日滞在し、とうとう鬼がやってきたと聞くと、鬼のいる場所へと向かった。法師はその強い法力で鬼を退治し、更にはその鬼を操っていた下法のものを告発し、追放させたという。以降村にその鬼が現れる事はなくなり、法師は村人に懇願されてこの村に永住したという、そんな話だ。
集まったのはこれらの情報で、参考になりそうなものもあればいまいちと感じる情報もあった。しかし量だけは中々に集まり、綺麗に纏め直したそれをグループにぽんぽんと投げていく。既読が付いたかどうかは無視してスマフォをデスクに置こうとして、一つやる事を思い出した。SNSのアプリを起動させ、この間見つけた山羊乳売りに接触したと報告していたアカウントを覗いてみる。それは彼女が見つけた日以降一言も更新しておらず、まあそんな事もあるかと気にすることもなく席を立った。
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