2.夏の鬼 2-1.岐路に立つ

『———般若のように歪んだ、鬼のように赤く染まった、元の美貌という面を砕いて剥いで現れた負の顔がこちらを睨みやった。それは酷く醜く見えるはずなのに、どうしてかそのぐちゃぐちゃで、罅割れて、崩れ壊れている方が美しくて、マスカラとアイシャドウが溶けだして黒く染まった涙さえも、芸術品のように見えて仕方がなかった。理性と道徳で固め切った正の表情より、激情と悪徳の剥き出た負の表情の方が、彼女にはよくよく似合っていた。

 それでも今までその片鱗すら見せなかったのは、彼女の理性と意志が非常に強固だったからなのだろう。そしてそれは一瞬で崩れ去ったのではなく、分厚く堅牢であったはずのそれが人生という長い時間をかけて壊され、擦り減らされ、劣化していたところに決定的な一撃を加えられたから呆気なく決壊したのだろう。小さく細かいとはいえ、修復すら間に合わないほどの量の傷を受け続けた人間の精神の限界が来てしまった、それだけだった。

 きっとあの事件さえなければ、それによって彼女の大切な人々が亡くならなければ、その鎧が壊れる事などなかったのだろう。辛うじて保てていた損傷と修復の天秤が崩れ、一方的に傷を負い続ける羽目になる事もなかったのだろう。見知らぬ誰かが引き起こした、不注意によるマンション全焼事件。それが起きなければ、恐らく彼女はここまでの殺意を前面に押し出して、鬼になる事はなかった。

 不幸な事件だった。本当にただただ不幸なだけで、誰一人として悪意という意味では悪くはなくて、だからこそその怒りと憎しみ、怨み辛みを向ける矛先がなかった。そしてそれを鈍らせ、収める場所がとうに彼女から失われていた。一つの事件が彼女へ連鎖的に、圧倒的な不幸を届けたのだ。

 ……嗚呼、でも、この人は。取り壊しの決まっている廃ビルの中、こちらへ刃物を向けている彼女は。事件のせいでより外部を信用できなくなった故に一人で全てを抱え込み、精神を病み、そのせいで抑え込んでいた負の感情という鬼を飼い馴らせなくなり。ずっと飼い馴らし続けていたそれがこの事によって意気揚々と内側からも彼女を壊し、彼女を支配し始めたのだ、と。そう感じた。

 ……いや。そうではない。支配したのではなく、その鬼はずっと機会を窺っていたの違いなかった。そして今やっと、それは彼女を鋭利な牙が生えた口の中へ放り込み、ゆっくりと嬲るように噛み砕き、唾液や胃液でどろどろに融かし、吸収し、完全に喰らい切ったのだ。入れ替わるようにゆっくりと、時間をかけてそれは為されたのだろう。

 嗚呼、なんて———。


 なんて、可哀相な人。』




 あのぼんやりとした、奇妙なように見えて退屈な事件から数か月。季節はすっかり夏を迎えて、今日も外はじりじりと焦がされるような、蒸し焼きにされるような暑さであった。じいじいと蝉の鳴く音が幾重にも重なり、時折換気の為に窓を開けると騒音で耳が痛むような気がしてくる。冷房をかけていても外からの音や空の眩しさが硝子を突き抜けてきて、閉められた遮光カーテンの隙間からそれらが覗く度に体感気温が上がる気がしてならない。雨戸を閉めてもいいのだが、今閉めようとしたら日光によって触る事を躊躇う程度の高温になっている事は明白だった。

 そんな八月のある日。重苦しい黒の長髪をいつものように首の後ろで一つに纏め、半袖のTシャツを捲り、七分丈のズボンを履いてデスク前の椅子に座りながら彼女はパソコンと向き合っていた。画面に映るのは白いスタイルの半分ほどを覆う黒い文字の列で、それをぼんやりと眺めながら思い溜息を吐いている。度無しのブルーライトカット眼鏡をかけた隙間から目頭を右手で揉み、肩をぐるりと数度回し、如何にもデスクワーク疲れといった様相だ。暫くその状態のままでいたかと思うと、がたりと立ち上がる。気分転換ついでに水を飲みに行こうと思ったのだ。

 冷房の効いた部屋から一歩出れば、むわりとした熱気が肌を撫でる。不快感に目を細め、早足で台所までの道を歩いた。室内でこれなら外は更に暑いのだろうと想像するだけで嫌になってきてしまう。そう考えながらぱたぱたとシャツを煽りながら台所へと入り、コップに水を汲んだ。この程度の水音でも涼しさを感じてしまうのだから、ここ数年の夏と言うのは実に厄介であると彼女は思っている。

 冷たいとは言えない水で喉を潤し、胡古綴こふるつづりはなんとなしにテレビを点けた。何か頭の回りを変えるような衝撃的なニュースでもやっていないかと期待し、ぱちぱちと局を変えていく。丁度正午少し前といった時間だ、幾つかの局はニュース番組となっており、しかし面白そうな内容はぱっと見てないように思えた。

 いっそパソコンで適当な動画を垂れ流した方がいいかもしれないと空になったグラスを置き、テレビの電源を落とそうとリモコンを持ち直す。ちらと画面へ視線を戻した瞬間、自らが住んでいる世平市よひらしの名が見えた気がしてその手を止めた。きちんと見てみればどうやら昨日の夜発生したらしい殺人事件についての報道らしく、聞いておくかと彼女は意識を傾ける。

 事件の発生は昨晩午後二十二時。駅を東に少し歩いた辺りにある住宅街付近で起きたものだそうだ。製薬会社に勤める三十歳の男性が、その自宅近くの小道で死亡しているのを近隣住民が発見。死因は大きな刃物か何かによる首元への裂傷で、他にも幾つかそれなりの大きさの傷がついていたが、決定的なものは首のものらしい。死亡推定時刻は凡そ昨晩午後二十一時。犯人は現在調査中で、怨恨による犯行ではないかとの推測がなされていることだった。

 被害者の発見場所は胡古の住んでいる場所とは違う区域で、家から殆ど出ない胡古がこの事に気付かなかったのもまあ、道理だろう。もし近かったらパトカーのサイレンやら警察の事情聴取やらで確実に気付いたはずで、正反対と言うほどではないが全く違う方面で起きたのだから知っているはずもなかった。ついでに言うと昨日はテレビを点けず、ずっと原稿と睨めっこをしていたことも原因にあげられるだろう。

 そのニュースについて情報にもならない掛け合いが始まり、胡古はテレビの電源を落とした。これ以上は大した内容が出てきそうにはなかったし、大人しく原稿に向き合った方が良さそうだと、リモコンを置いて台所を出ていき、自室へと戻る。扉を開けた途端心地よい冷気が解放され、温度差に少しだけ身震いしてから扉を閉めた。デスクまで足を運んで椅子に座り、白く発光する画面へと目を向ける。

 今考えているのはこの間の事件を幾らか参考にした話であった。知人の失踪とあの幾多の首を縫い合わせた物体。それに創作意欲を掻き立てられ、なるべく事件との関係を匂わせないよう練りに練っている最中、と言える。しかしそれが中々に難航し、プロットを確認しては文字を打ち、気に入らずに消し、また文字を打ち、を繰り返しているのだった。つまり進まない。まだ急ぐ段階ではないのだが、進まないという焦燥がストレスとなって胡古に襲い掛かっていた。しまいには画面と向き合っている事に苛立ちを感じ始め、胡古は静かに眼鏡を外した。邪魔にならない所にそれを置き、パソコンをスリープにしてからデスクに腕を置いてそこに頭を乗せる。ついでに目を休ませようと瞼を閉じた。

 だがそうやって目は休めても休むことを知らない思考が思い起こすのは、数か月前の事件のあれからである。オカルトマニア兼そこそこ名の知れている探偵の知人、二加屋にかやささめが言っていた通り、あの事件は七十五日もしないうちに下火になっていった。二週間もったかどうか、といった程度で、世間は何の変哲もない、悪く言えばよくある理由で稀に起きる事件を、あっさりと流し去ったのである。

 思ったよりも早くに忘れ去られていったこの事件は、犯人のパソコンに残っているデータの殆どが解析不能の謎の文字化けを起こしていた為に、証言以外で何も判明しなかったというのも大きいだろう。警察や専門機関で今でも解析が続けられているらしいが、どうにも文章が繋がらなかったり、意味不明な単語の羅列になったりで成果が得られないと小耳に挟んだことがある。犯行の過程がいつまでもわからない事件というものに、どうやらマスコミも長々と構っていられないのだろう。報道が減れば当然人々の話題に上がる事も減り、その内自然と消滅していく。つまりブラックボックス化し始めている犯行過程のせいでこの事件はお茶の間の注目から離れてしまった、という事だと考え付く。

 それから数か月。いっそ驚くほど平和な日常を過ごしており、不本意ながらも事件の立役者となった胡古らに突撃してくるマスコミも何故かいなかった。運が良かったのだろうと胡古は一人で勝手に納得しているが、もしかしたら市内の有力者の娘である浅目飾あさめかざるもしくはその家が何かをしたのかもしれない。しかし本当にそうしたのであれば彼女から連絡が来ているはずだと思うので、単に運よくマスコミの目を掻い潜れたのだろう。

 運悪く事件の被害者となりかけたオカルト雑誌の記者、篭宮雪かごみやそそぐはさすがに念の為の検査入院をする羽目になったが、その彼も今は元気にあちこち車を走らせて仕事に励んでいる。事件直後一週間ほどは彼から締め切りがとか、どう纏めていいのかわかんねえとか、そういった泣き言が飛んでくることがあったが、胡古は全てスルーした。記事は無事に書き上げたらしいが、その売り上げがどうなったのかは知らない。

 二加屋の親戚で居候兼バイトの遊佐鼎ゆさかなえは同じ大学の浅目と親しくなったようで、時折昼やお茶を一緒にする仲になったらしい。しかし何か考え込むことが僅かに増えたらしく、二加屋曰く依頼や大学などの用事がない日は自室に籠ったり、図書館へ通ったりがより多くなったそうだ。元々様々な知識を蓄えるのが好きと聞いた事があるので、あの事件を通して何か知識欲が刺激されたのだろうと胡古は思っている。気にする事ではないと感じる。

 大学の准教授で未確認生命物体を探し求める好奇心の塊、朽ノ屋九澄くちのやくすみはよくわからない。よくわからないが、時折研究室を訪れる遊佐らの報告によれば、全く変わらないテンションと日常を送っているようだ。棚のオカルト本が増え、新しい論文などが机の上に散乱し、フィールドワークと称してあちこち出歩いているらしい。講義はどうしているのかと言えば、元々担当しているものが少ない故に他の教授などと比較して自由に動ける時間が多いそうだ。

 そして胡古もまた、大して変わらない日常を送っている。別に刺激の多い日常を求めているわけではないが、あれからたまに嫌になるほど退屈を感じる事があった。それは単純に外出を好まない性質のせいで外界からの刺激が少ないのもあるだろうが、胡古自身が物事への興味を然程抱いておらず、なあなあに日々を暮らしているのも要因として挙げられるだろう。特に一度大きめの刺激を受けたばかりだ。それを戻すにはもう少し時間が必要そうだと思われる。

 ウウ、と唸るように喉を震わせると、傍らに置いてあったスマフォからバイブ音が鳴り響き始めた。音だけでなく振動も伝えてくるそれに意識がぱっと覚醒し、胡古はのろのろと顔を上げてを誰からかを画面で確認する。バイブ音の長さからして恐らく電話がかかって来ており、非通知だったら無視してしまおうという魂胆だった。

 真っ黒な呼び出し画面に映し出されていたのは後輩である篭宮の名前で、知り合いならば出ないわけにもいくまいと仕方なしに応答をスライドする。軽く上体を起こしてスピーカーに耳を当てれば、元気のいいとまではいかずとも、健康そうな声が鼓膜を震わせた。

『おはよーございますせんぱーい。起きてました?』

 けらけらと笑いを含んだ声に少しだけ気を悪くしたような声で起きていたと答えれば、彼は一瞬だけ言葉を詰まらせた。それにくつりと喉を鳴らしかけると、恨めしそうに名を呼ばれる。

『……先輩、別にそうでもないのに俺が悪い事したみたいな声出すのやめてもらえます?ただでさえ先輩の声って感情よくわかんねーのに、一瞬信じかけたじゃないすかあ』

「……ごめん。……それで、何か……あったの」

 そう話を促せば、彼は合いの手を打った。何の用もなしに電話をかけてくるような男ではない為そう切り出してみたが、どうやら正解だったらしい。彼はしょぼくれた声音になって情けなさそうにこう続けた。

『実はなんですけどお……、今回は会社の先輩に無茶ぶり言われましてえ……。先輩、願いを叶える山羊乳を売る人って噂、知ってます?』

 知らない単語だった。彼が切り出してくるという事はほぼ確実にオカルト関係の噂だと察しはつくのだが、生憎小説のネタになりそうな話以外は彼女自身興味がないもので、聞いた記憶も目にした覚えもない。つまり怖いタイプの話ではないのだろう。そこまで思考を回してから、胡古は知らないと返答した。

 まあそうですよねえ、と電話相手は肩を落としたような声を出す。目の前にスリープ状態のパソコンがあるので今すぐ調べようと思えば調べられるが、きっとこのまま彼が話してくれるだろうと手を着けない事にした。そんな理由でスリープモードを解除されなかったパソコンは、ごく微量の稼働音を放っている。

『これはこないだのと違って大体二、三年前からこの市の片隅でひっそり流れてた~って感じの噂です。ざっとしか俺も調べてないんすけど、年々遭遇者が増えていってるのは確実で、それでどんどん有名になっていったって感じですかね。何でも市内のあちこちにランダムで現れて、願いを叶えてくれる山羊乳、を売ってくれるらしいんすけど~……。なーんか胡散臭ぇってか、成績が良くなったとかはともかく、顔が整形したくらい綺麗になったとか、肌が絹みたいに白く滑らかになったとか、性格が丸替わりしたとか、やべえ薬でもやったんじゃねーの?みたいな報告ばっかで俺としては嫌っつーか……』

「……サクラみたいで信憑性がない、と。」

『そうそう。会社の先輩がどうしても自分も絶対会いたい~~って、なんでか俺に調べんの押し付けてきたんすよねえ……。まあ俺がそういうのに会いやすいっての知ってるんでしょうけど腹立ちますよねえ、そういうの』

 それにもっと上の人の相談して、今回ばかりは別のネタ見つけたらそっち優先していいって許可取ったんで、と彼は乾いた笑い声を上げた。確かに聞いた限りではあるが、彼の興味には掠りもしていないし、雑誌の方針にも合っていないようにしか思えない。前回の事でそういった事を引き寄せやすいらしいというのはなんとなく感じていたが、それにしても体質と立場を完全に利用されているだけだと部外者の胡古にもよくわかる。自分から、もしくはきちんとした仕事ならばともかく、これはどう見てもその先輩とやらの私欲でしかなく、当事者からしたら不快でしかないだろう。

 続けますけど、と彼は不満を滲ませた声だ。少しくらいなら協力してもいいだろうと胡古は判断し、静かに話の続きを促す。無意識にコップを持ち上げてその軽さに一度驚き、そういえば飲み切って何も淹れていなかったと思い出した。

『出現はランダムって言いましたけど、法則性があるって話もあったんでそれは後で調べようかなと。売人はフード被って、体型がわかりにくいぶかぶかの服着て、声もどっちつかずって感じらしいです。ただ手に必ず牛乳瓶の入った籠を持ってるそうで、偽物も最近出てるとか言うけど偽物との区別はそれでつけるんだとさ。まじであれなやつっぽくてほんと関わりたくねー……んすけど、困った事にオカルト掲示板とかでもちょいと話題になってるからそうもいかないんすよねえ……』

 面倒臭い、至極面倒臭いと隠しもせずに彼は語った。胡古も同感であるのだが、完全にそうであるという確証もあるわけがないので篭宮は断り切れなかったのだろう。先輩の更に上、つまり上司もそう判断して別のネタでもいいと言っているくらいだし、本当にまずい案件ならすぐに手を切れという事なのだろうと感じられた。

 本当に、本当に手が空いた時とかでいいんで、と電話越しだが切実そうに訴えてくる彼から感じ取れるのはさっさとこの件から手を引きたいという強い思いで、特に急ぎの用もなければ締め切りが切羽詰まっているわけでもない胡古はそれを了承した。スピーカーから安堵の息が鼓膜を揺らし、何かわかったら連絡するという当たり前の約束をして通話が切れる。そこそこ長く話をしていたようで、スマフォの時刻は三十分ほど経過していた。その画面を落としてから彼女は一度席を立ち、台所で珈琲を淹れてくる。デスクにそれを置いてから、それなりの時間スリープモードにしていたパソコンを起動し直した。

 一先ずはネットで適当に検索をかけてみようと、彼女はインターネットの検索画面を開く。どういった検索ワードを使用するか少し考えこみ、最初はそのまま打ち込んで結果を見てみることにした。しかし当然ながらヒットしたのは酪農関係の記事やホームページで、流石にそのままのワードでは無理がありそうだと方向を変える事にする。

 更にSNSや掲示板などに絞って調べてみても、調べ方が悪いのか選んだところが悪いのか目ぼしい結果が得られず、入手できた情報と言えば嘘か真か山羊乳売りに接触出来たという報告をしたアカウントのみである。しかも大抵その後については語っておらず、ごく普通の話題は話していても山羊乳売りによって何かが起きたとか願いが叶ったとか、そういった一番大事な部分が欠けているのだった。恐らくは嘘をついて注目を得ようとしたか、本当に会う事は出来たが望んだ通りにはならなかったので口を噤んだか、そのどちらかだろう。

 他に探してみるとすれば掲示板の古いログや検索画面のトップには出てこないマイナーなサイトなどだが、そこまでするのは、と途端面倒に感じ始める。後で、いや明日……などと画面端の時計を確認すればすでに夕方を大きく過ぎ、窓の外も大分暗くなってきていた。急ぎでもないし一旦作業をやめて夕食でも作るかと思い立ち、パソコンの電源を落とす。コップの中の冷めた珈琲を飲み干してまた台所へと向かうも、開けた冷蔵庫の中身は豊富とは決して言えなかった。思わず目を細めるも確認をしていなかった己が悪い。外を歩けば何か思いつくかもしれないと、彼女はそのついでに買い出しに出かける事にした。

 

 暗くなって日差しという直接的な暑さの原因は弱まったものの、日中熱されて溜め込まれたコンクリートの熱気が収まるにはまだ早い時間である。下から押し上げてくるような暑さに目が乾き、いつもより瞬きの回数が自然と増えた。それと軽装という事も相まってじりじりと肌が焦がされるようである。なるべく日陰を選んで歩いたとしても、手早く用事を済ませて帰宅しようと心に決めた。

 十分ほど歩いたところにあるスーパーに入れば、開いた自動ドアからよく冷えた、言い換えれば少し寒すぎるくらいの空気が流れだしてくる。生鮮食品も扱う為にどうしても設定温度を低くせざるを得ないので仕方のない事だが、そのせいで胡古は夏場のスーパーがあまり得意ではない。外は馬鹿みたいに暑く、行先は肌寒いという状況を拒むせいで外出頻度が極端に下がり、一度に買う量が他の季節以上に多くなるのであった。

 入り口で籠を手にし、順繰りに売り場を回っていく。必要なものを値段や状態、消費期限といったものを参考にしながらぽんぽんと籠へと入れていけば、比例して腕にかかる重量もどんどんと増していった。ある程度確実になかっただろう物を収めた後、他に何か買っておいた方が良いものはないかとふらふら売り場を回っていく。ふらりと立ち寄ったのは冷凍食品売り場で、アイスでも買おうかと立ち止まった。

 どれを買おうかケースを一つ一つ眺めていると、近くを通りかかった女性二人の話が聞こえてくる。きゃいきゃいとした声は楽し気で、待ち合わせてきたのかたまたまここで会ったのかは分からないが、きっと友人同士なのだろう。テンション高めな声音は少しうるさくて、しかし何となく聞き耳を立ててしまう。

 会話の内容はどうやらアイスの移動販売車についてのようだった。そういえばここ数年は見ていなかった気がする。掻い摘んで聞いていると話に出ている移動販売車は今年の夏から出てきたものらしく、公園や駅前などといった人の集まるところによく出ているそうだ。程良い甘さと手頃な価格が人気を呼び、最近は列が出来るほどだと言っている。苦手な人もいるかもしれないが大体の人が美味しいというだろう味らしく、あまりそういったものに興味のない胡古だったが、話に耳をそばだてているうちにその移動販売車に興味が湧いてきた。もしも遭遇したら食べてみようかと考えるほどで、その車の特徴もしっかりと頭に入れ、別の話をし出した彼女らから意識を外す。

 話を聞いているうちにどれでもいいかと思って、ケースの中にある適当なアイスを籠の中に入れ、レジへと向かった。会計を通し、買い物袋に購入品を詰め込み、籠を片付けてスーパーを出る。外へ出た途端熱気がぶわりと襲い掛かってきて、夕方だからまだ良かったものの、昼に出かけていたら大変な事になっていただろうなと考えた。

 重い買い物袋を引っ提げ、胡古は自宅へと戻ってくる。鍵を開けながらぴん、と一つ思いつき、いそいそと中へと入る。袋の中身をきっちりあるべき場所へと収めてから鞄などを自室に置き、彼女はスマフォを弄り始めた。トークアプリを起こし、目的の名前を探し出してトークルームを開く。明日時間が空いているかと簡潔に問い掛ければ、すぐさま反応が返ってくる。相手は明日の午前九時から午後十五時までは時間が空いているようで、ならばと午後十三時頃に訪問させてもらう事にした。

 かなり非常識な事をした自覚はあるので何か手土産でも持って行こうと、アプリを閉じてからそのまま近場の店を検索する。相手の好みのものを持って行くか、洗剤などの消耗品を持って行くかは個人によって異なるが、今回の相手の場合は珈琲か紅茶がいいだろう。駅近くにいい店はなかっただろうかとインターネットのマップや検索などで調べていく。どれだけの時間そうしていたかは分からないが、良さそうな店を見つけてスクリーンショットを撮り、スマフォをデスクの上に置いた。外に出た疲労が身体にあるが、夕食を作って食べてしまおうと台所に足を向けるのだった。


 翌日、陽が天上をかんかんと照らしている時間帯。暑さと眩しさに溶けて焦げそうになりながら目的地へと向かう。だらだらとした足取りでやっとの事駅へと辿り着けば、息を整えつつその中へと入っていった。昨日のスーパーほどではないがそこそこきつめに感じられる冷房に汗を冷やされ、一度ふるりと身体が震える。駅ビル内の案内板で店の位置を確認してから、彼女はエスカレーターに足を乗せた。

 地上二階に店舗を構えるそれは珈琲専門店で、馴染みのない場所故に入店に一度躊躇ってしまう。きょろきょろと不審ではない程度に辺りを見回してから店の中へと入れば、通路では薄っすらとしか聞こえていなかった店内BGMが心地よく彼女を迎え入れた。一定の色合いに統一された店内は穏やかな雰囲気を保っており、早めの時間帯だからか客足は少ないように見える。高めで段数の多い棚に並べられた商品達はどれも小洒落ていて、ここにいるのが場違いな気分にもなってくるが、それは流石に考えすぎだと頭を振った。

 時計を確認しながら幾つかの棚を見て回り、どれがいいだろうかと思案する。棚に並んでいるものより、レジカウンター下のケースに収まっているものの方がいいだろうか。歩き回りながら考え込み、いやしかし豆から挽いて淹れてますなんて二人ではないだろうと勝手に決めつける。棚にある袋詰めの商品の中から値段と商品ポップの説明を見比べて、一番無難そうなものを手に取った。それをレジで会計してもらい、ビルを出る。冷やされていた分より暑さが身に染みて、足取りが重くなりそうだったがさっさと目的地に着いてしまった方が楽だと寧ろ意識して歩きを速めた。

 幸いだったのは目的地とこの駅ビルが歩いて数分ほどの距離である事だろう。なるべく日陰を選びつつ歩いて行けば、小綺麗なマンションに辿り着いた。通い慣れた場所である故部屋番号を確認する事もせず階段を登っていく。しっかりとした作りの階段はこつこつと少し重めの足音を響かせ、陽射しが射し込まない造りになっているせいか、遮るもののない外よりかは大分涼しかった。誰かとすれ違う事もなく、心穏やかに目的の階まで登り切り、胡古は階段から一番遠い角部屋の方へと足を向ける。静かに通路を歩ききり、その部屋のインターフォンを鳴らした。

 ぴんぽん、と音が鳴って数秒ほど。靴を履くような音、靴底で砂を擦る音、チェーンと鍵の開く音。それらが立て続けに扉越しから聞こえ、がちゃりと開いた。そこから現れた透明感すら感じさせる艶やかな黒髪を三つ編みにし、左肩から身体の前面に流した美しい女性、二加屋ささめは、にこやかに笑って胡古の来訪を歓迎した。

 促されるままに中へと入り、靴を脱ぎ揃えていつもの居間へと通される。ソファに座る前に手土産だと買ってきた珈琲の袋を渡せば、二加屋は嬉しそうに礼を言って仕切りの向こうへと消えた。鞄を置いてとすんと座れば外の暑さと歩きの疲労が身体に圧し掛かってきて、思わず溜息を吐く。重力に従うままばたりと上体もソファの座面に倒し、彼女が戻ってくるまでと言い訳しながら目を閉じた。

 寝転んでから数分ほど、仕切りの向こうから珈琲の香ばしい匂いが漂い始めた。手土産として渡したものを使ったかどうかまでは分からないが、もうそろそろ戻ってきそうだと予想して上体を起こす。遮光カーテンではなく薄いレースのカーテンで覆われただけの窓は胡古にとって少し眩しく、その明るさに思わずぐしゃりと顔を歪めた。そうするとくすりと小さな笑い声が聞こえてきて、目の前のテーブルに湯気を上らせたカップが置かれる。彼女はいつものように自分の分もテーブルへと置くと、お盆を端に寄せてからソファに座った。

「それで、聞きたい事って何だい?いつもの……ではないだろう?」

 今原稿に取り掛かっていると聞いているし、と彼女は手に持ったカップを傾けた。一口、二口と中身を口に含み、嚥下する。僅かな音もたてずにカップをソーサーへと戻せば、その視線は胡古へと当然向けられた。本当は全てお見通しなのではないか、と胃が縮むような鋭利さと深度を持つその青い目は、今日も愉快そうに笑っている。

 視線同士が交わる事のないように眼球を動かし、胡古は珈琲に手を付けず早速と話すを切り出す事にした。今日はゆっくりできるわけではないし、聞きたい事を一通り聞いたら素早くお暇しようとも思っている。山羊乳売りとやらについて知らないかと端的に用件を伝えれば、予想とは異なる反応が返ってきた。

 空気が一瞬にして変わったのだ。穏やかな昼下がりといったものが、一気に氷点下にまで落ち込んだかのような差である。ちらとその表情を覗いて見ればどう見ても十人中十一人が機嫌を損ねた、と口を揃えるだろう程に顔を歪めていて、細めた目、寄せられた眉頭、吊り上がった眉尻、引き下がった口角と、大抵は様々な種類の笑みで済ませる彼女らしくないものだった。僅かばかり驚いて目を丸くすれば、それも今は駄目らしい。小さな舌打ちをしてから大きく息を吐き、口を開いた。

「山羊乳売り、ねえ……。それってあれかい、願いを叶えるとかいう」

「そう、だけど……」

 肯定すれば増々不機嫌そうな顔つきになる。ここまでの不機嫌は珍しい事で、どうやらこの話題自体が彼女の逆鱗に触れるようだった。詰まらなさそうにする事はままあったが、機嫌を損ねた事はこれまで殆どなかった。つまりそれほど好みではない内容だというのだろうか、と胡古は思考を走らせる。

 しかし彼女は不機嫌になりはしても役目を放棄するつもりはないらしい。面白いとは思えない話だけどね、と前置きしてからこう語り始めた。

「二、三年ほど続いている噂だから長いと言えば長い噂だ。遭遇者がそれなりに多くて、願いが叶ったと報告するものも少なくはないから、そのせいだろう。でも最初は願いを叶える、ではなかったと聞いた事があるね。最初は確か……、黒い布の入った籠を持った山羊乳売りに出会ったら、願いが叶う……だったかな」

 普段は聞きやすい速さで紡がれる言葉が、今日はワンテンポ程速かった。組んだ足の上で頬杖をつき、心底くだらないと言いたげな目で空を見つめている。どうやらさっさと話を進めたいらしく、こちらが口を挟めない程度のペースで話を続けていった。

「それから色々と流れ流れて今の噂に落ち着いたそうだ。そうやって調べれば出てくるんじゃあないかな……、古過ぎる話でもないし。今は偽物が出るほど有名になったと聞くけれど、黒い布ってのが最初の噂にあるだろう?それのお陰でちゃんと知っている人間は黒い布が籠に入っていなければ偽物だとわかるらしい。それも真似されたらどうするのかは知らないけれどね」

 そこで一度ぷつりと話が途切れた。そういえばどこまで知ってるんだっけ、と幾分か眉間の皺が少なくなり、不機嫌さの緩和した顔で問い掛けてくる。ずず、と少し冷めた珈琲を啜りながら篭宮から聞いた情報をほぼそのまま伝えれば、なるほどと彼女は頷いた。どうやらこれは世平市のオカルト・都市伝説情報サイトに載っている情報のようで、昨日調べても出てこなかったのは検索上位に出てくるようなものではなかったかららしい。面倒臭がらずに調べればよかったかもしれないが、過ぎた事なので気にしない事にした。

 彼女はそれなら、と更に話し始める。ちらりと時計を確認すれば午後十三時四十五分で、まだ時間も問題なさそうだった。流れるように語られる二加屋の言葉たちは今度はいつものように聞きやすく、心地よいものとなっていた。

「山羊乳売りは確かに出没がランダムだ。でも実はあるものを持っていると確実に会えるという。何かって?名刺さ。一度山羊乳売りに会って名刺を貰えたらラッキー、それを持っていればまた会いたくなった時に会えるんだそうだ。……だけれど当然、そううまい物じゃあない。その名刺を他人にあげた場合、もうそれに効力はなくなる。つまりまた偶然に会う以外方法がなくなるって事さ。ま、その程度で済むんだから大したものじゃあないんだろうけれどね」

 それくらいかな、と彼女は話を結んだ。顔つきからしてまだ何か知っていそうな気がしなくもないが、これ以上彼女を突くのはやめた方がいいと本能が警告を発していた。そうでなくとも最初にこれを聞いた時、あの二加屋が非常に不機嫌になったのだ。ここまで聞くことが出来れば後はネットの検索でも情報が拾えそうではあるし、大まかな情報は入手できただろう。引き際だ、と胡古は判断した。

 ありがとうと礼を言い、今日はこれでと断りを入れようとする。だが二加屋はいつものにやにやとした笑みを浮かべ、胡古を引き留めた。先程までの不機嫌が嘘のようで、まさか必要以上に突っ込んでこないように不機嫌を演じたのではないだろうか、と疑念を抱きかける。そんなつもりじゃあないさ、と胡古の思考を読んだように彼女は笑い、もっと面白い話を教えてあげようと言った。

「一昨日の夜起きた殺人事件、どこまで知ってる?」

「……そりゃ、昨日、ニュースでやってたくらいの事……、だけど……」

 そうかいそうかいと、彼女は何か企んでいるかのように繰り返した。手に持ったカップを行儀悪くくるくると動かし、じゃあこんな話がもう出てるってのは知ってたかい、と更に語り出す。その瞬間嫌な予感がして離席しようとするも、彼女の青が駄目だと言わんばかりに胡古の身体を射抜いて止める。うぐ、と情けない呻きを喉から漏らし、胡古は大人しく座ったままでいる事しか選択できなかった。

「凶器、大ぶりな刃物って話になってるだろう。……あれね、嘘らしいぜ。本当は獣の爪なり牙なり、そういったものじゃあないかってもう流れてる。何でかって、実際に死体を発見して通報した人間が、大きな声であちこちに触れ回ってるからね。どうにもその傷、とんでもなく大きくて、でもそんな大きさの爪牙を持つ獣なんてこの辺りにいたらとっくに駆除なりなんなりされて噂になってるはずさ。……じゃあ、なんだろうね?君の興味を引くと思うから、暇があったら調べてみてもいいんじゃあないかな」

 どうしてそうなるのだろうか。意味の分からない話題転換に、胡古はじとりとした視線を向けた。山羊乳売りという噂について聞きに来たはずだが、何故一昨日の事件についても聞かされたのだろう。二加屋の事だから何かしら胡古の来訪目的に合致する事を話してはいるのだろうが、二つの事柄に共通点も何も見えて来はしない。ただ意味が分からないだけである。

 しかしそれはそれで、この辺りにはいないはずの大きさの爪牙を持つ獣がいるかもしれない、というのは少しだけ好奇心を擽られた。朽ノ屋に教えてみれば勝手に調べ始めるかもしれないし、篭宮への手土産になるかもしれない。その辺りの事情も汲み取られていたとしたら、彼女は本当に化け物染みた洞察力の持ち主だと感心するしかないだろう。

「そういえば君、確か朽ノ屋准教授と知り合いになったんじゃなかったかな。彼にも伝えて調べてみてもらってもいいんじゃあないかい」

「……?」

 そこで彼女の口から朽ノ屋の名が出た事に、胡古は少し違和感を抱いた。彼と知り合いになった事は依然確かに伝えたが、彼女が彼と知り合いだという反応を得た記憶はない。では何故今その名が出てきたのだろうか、と胡古が思案していると、二加屋はそれを読んだのか、平坦な声でこう言った。

「かつての、大学時代の先輩だったのさ」

 最近は連絡を取っていないけれどね。ふむ、とその言葉に胡古は納得する。そういう事ならば彼女の口から今彼の名が出てくるのもおかしくはなかった。大学時代から知っているのであれば、彼の悪癖とも呼べる未確認生命物体へのぞっとするほどの探求心についても把握しているだろう。

 一つ頷いてから時計を見上げれば、時刻はもうすぐ十四時を越そうとしていた。今度こそお暇しようとカップの珈琲を飲み干す。鞄を手に持ってソファから立ち上がろうとすると、背後の扉が開いておや、と誰かが声を出した。この場所に無条件で入れる人物は一人しかおらず、胡古が振り返る前にその人は仕切りの方へと寄りながら胡古に声を掛けてくる。

「久しぶりだね。今日はどうしたんだい」

 綺麗で涼し気な色と短さの髪を持った遊佐鼎は、人の良さそうな笑みを浮かべて片手にカップを持っていた。察するに飲み物を取りに来たらしい彼女は、今は大学の夏季休暇期間である。勉強と仕事、それから趣味らしい何かの調べ物に忙しいと以前語っていた。

 胡古が答える前に二加屋が今日の要件を告げると、彼女はきょとりと意外そうな表情を見せた後、その話は大学でもよく聞いた、と少しだけ不快そうに眉を寄せた。二人揃ってこの話題は好みではないようで、見せた表情も顔立ちや感情の露出具合の差異があるとはいえそっくりである。

「まあ、君が調べているというのなら……、力になれるかもしれない。大学に山羊乳売りに会ったと触れ回っている人がいて、それが友人の知り合いなんだ。話を聞けるかも」

 彼女はそういうと、胡古に空いている日時を聞いてからカップをテーブルに置いて退室する。約束を取り付けてくれるそうで、胡古はソファの肘掛けに軽く腰掛けて待つ事にした。その行儀の悪さを咎めるものはおらず、二加屋は近くの棚から取り出したのだろうファイルとノートパソコンをテーブルの上に出して、何やら作業を始めていた。

 十数分ほど待っていれば疲れた顔をした遊佐が戻ってきて、何とか無事に約束を取り付けられたと言う。取れたのは明日の午前十時頃で、大学近くにある喫茶店で、という話になったそうだ。話を取り付けた身として彼女も同行するそうで、明日は家まで迎えに行こうと提案される。折角だし、とその厚意を受け取ることにした。

 遊佐の迎えの時間などを決めてから二加屋に一言告げ、胡古は今度こそ場を立ち去る。鍵を閉める為だろう、遊佐に背を見送られながら玄関を出て通路を少し進むと、誰かがこちらへ歩いてくるのが見えた。その人が歩いてくるのと反対側の端に寄って衝突を避けようとすると、不意にその人物は足を止めた。俯いたまま擦れ違おうとそのまま足を動かしていると、背中に視線が突き刺さったような気がして思わず足が止まる。

「……なるほど。それでも普通を装える人間、か」

 聞こえてきた言葉はよくわからないもので、胡古はちらとその人物の容貌を確認しようと視線を向けてしまう。手入れのしっかりとした黒い革靴、糊はもう落ちてしまったのだろうが、アイロンはしっかりとかけられて皺の目立たない黒のスラックス、暑いだろうに捲りもしていない長袖のワイシャツを着込んで、しかしその手や首には汗一つ見受けられない。

 さっぱりとした長さの黒髪は首に少し掛かっており、こちらを下賤と言いたげに歪められた口元は不思議な事に髭を剃った痕が全く分からないほどつるりとしている。すっと流れるような美しい形をした眼球で輝く鉛色の虹彩は、少し楕円形にも見える瞳を内包していた。

 どこか奇妙な雰囲気を漂わせるその男は、それだけ呟くと再び足を動かし始める。その背を見送り、どこへ行くのかを見ていれば、彼が立ち止まったのは二加屋の部屋であった。インターフォンを押したという事は当然彼女に用があるのだろう。自分に声を掛けた理由は分からないが、と考えながら胡古も再び歩き始める。マンションを出る頃には彼の事などすっかり記憶の端に追いやっていた。


「……て、事が、あった……。篭宮も、明日……来る?」

『いやそりゃ行きますよ、決まってんじゃないすか。行かない選択肢ないんで』

「じゃあ……遊佐に連絡、しとく」

 お願いしますー、と明るく軽く電話越しに篭宮は言い放ち、伝手の多さって大事っすねえ、などと嬉しそうであった。それでいいのだろうかと思わなくはないが、人に頼るのも大事な事ではある。いつも人を頼りにしていてはあまり良くはないが。

 帰宅してから少し家事と作業をし、夕食を摂った胡古は、遊佐が取り付けてくれた約束について篭宮に電話をかけていた。遊佐の方から相手側にもう一人くるかもしれないと伝えてくれていたそうで、篭宮を誘ってもいいと帰宅途中に連絡が来ていたからだ。確かに今回は胡古の用事ではなく彼の用事であるので、その言葉に甘えて彼にそれを伝えてみれば、当然のように行くと早口で言われたのだった。

 行くと答えた事で瞬間的な興奮が落ち着いたのだろう、彼は一つ息を整えてから、落ち着いた声でぽつりとこんなことを言う。

『それにしても、昔は違う内容だった、ねえ。よくある事だけど、どうして変わっていったのかは知りたいところですが……、明日会う人が知ってそうには思えないしなあ』

 確かに、と胡古は頷いた。噂が変形するのは尾鰭が付くとか、別の類似したものと混合されるとかなどの場合が多いが、今回のものはどちらに該当するのだろうか。今から調べてすぐ出て来ればいいんですけど、と希望的観測を彼は述べているが、それは彼の調査能力にかかっているだろう。胡古には応援をする事しかできない。

 早く手を切りてえー、とスピーカーの向こうで小さく叫んでいる彼は、どうやら今日一日進捗がなかったようだった。目ぼしいものはすでに他の記者が手をつけている為に割り込む事も出来ず、手を切る為の情報も得られず、焦燥が背中を追いかけてきている気分になっていると言う。参っているという声音ではないが嫌がっているのがよくわかるその口調に、そういえばと胡古は一つ話を切り出した。

「……あのさ。一昨日起きた殺人事件……、って、知ってる?」

『え?ああ、まあ……。あれでしょ、製薬会社の社員が殺された―ってやつ。それがどうしました?』

 実はこんな話を聞いた、とつらつら語って見せれば、彼の様子が徐々に変化していくのが伝わってくる。全て話し終えれば彼は暫く黙り込み、恐る恐るとこういった。

『……先輩、その二加屋って人……、裏の情報屋とかじゃあないっすよね……?』

「いや……、探偵……、オカルトマニアの……」

 自称だけど、と付け加えれば、それ一番信用しちゃ駄目なやつじゃあないですかねえ、と完全に怖がっている声音が返ってきた。事件現場近くを横切ったとして、そんなに早くそんな情報回ってこないでしょ……と言いながらも、その話自体には興味を抱いたようである。恐れている様子の中に好奇心の欠片がちらちらと覗き見え、後でちょっと嗅ぎ回ってみましょうかねえ、とわざとらしく印象の悪い言葉を使って見せた。別のネタを見つけたら山羊乳売りの噂から手を引いていいと言われているのもあり、彼はかなり乗り気になっているようである。

 明日の調査の進展具合で決めようと彼は上機嫌に言い、礼と挨拶を述べて通話が切られた。スピーカーから耳を放し、スマフォの画面を落として充電器を挿す。それを傍らに置いてから点けっ放しにしていたパソコンと向き直り、真っ白な文章ファイルと睨めっこを始めた。後数時間ほど作業に集中したら、進む進まないに関わらず寝てしまおうと、キーボードに指を添えるのだった。

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