お月さま

のらくら

綺麗なお月さまの元へ



 私が生まれた日は満月だったそうだ。お母さんからそう聞いた。私が物心ついて、生まれて初めてみた月も満月だったような気がする。キラキラと光るお月さまは、黄金の塊のようで、私は綺麗なお月さまが大好きで、毎日夜になったらお月さまを見上げて、手を伸ばした。お月さまには届かなかった。


 けれど幼稚園に入って先生に天文の図鑑を見せてもらって、びっくりした。お月さまの写真があった。それだけではなく、お月さまの裏側の写真までもが載っていたのだ。それを見て、私は信じられなかった。思わず気を失ってしまって、目が覚めた時にはお月さまが恐ろしくて仕方なくなっていた。


 それからというものの、私は真夜中、ぽっかりと夜空に浮かんだ満月を見ると、なんだか無性に見つめられている気がして、背筋がひどく寒くなる。夜空の目玉のお月さまは一月かけて、まぶたをゆっくりと開けたり閉じたりしている。お月さまは目玉のように潤んでいて確かに美しいけれど、美しさゆえの冷たさのようなものも感じられて、それがとても恐ろしい。昼間にお月さまが出ている日もあったけど、私はなるべくお月さまを見ないように歩いた。けれども私が見ていなくても、お月さまが今日も明日も、夜の空を支配しているという事を考えると、恐ろしくて、夜に出歩かないようにして、カーテンをしっかり閉めて、布団を顔まで被って震えながら眠りについた。日によって、ひどく神経が過敏なときには、お月さまの裏側から、何かきらめく電波のようなものが地上に振りまかれているのも分かって、私は恐ろしいのだ。


 幼稚園で見たお月さまの裏側の写真、あのでこぼことしながら妙にのっぺりとした、すっぴんのような不細工さも、恐ろしくてたまらない。まるでお月さまが裏を見られることを考えるだにしていたなかったかのような、まさにこの世の裏を見たような気持ちになって、とてもとても恐ろしくなる。ホモ・サピエンスという生き物が、地上を飛び出して世の中の果てまで行って、世の中の裏を覗き込んでしまうなんて。お月さまはそれに怒って、ソビエトのルナ3号に後ろを見られてからというものの、人類を呪って、悪い電波を地上に注いでいるんじゃないかしら。お月さまの裏側をみた人間のことは、みんなみんな許さないんじゃないかしら。そんな事を考えると、とても、とても恐ろしくてたまらなくなる。


 十五になった日の夜の夢の中、お月さまが私をじっと見つめていた。満月の夜だった。お月さまはなんにも言わず、ただじっと私をみつめているのだけれど、目が覚めそうになったとき、あの、映画の月世界旅行の砲弾のロケットがうちこまれた時のような恐ろしい形相を浮かべたかと思うと、私を睨みつけて、大きなドーン!と音がしたかと思うと、バッと、後ろを振り向いて、裏側を私にみせた。そこで目が覚めた。ああ、なんて恐ろしい。心臓がバクバクとして、お昼になっても止まらなかった。そうよ、お月さまの裏側は、きっと地獄なんだわ。お月さまの表側はきっと天国なのだけど、人はもうみんな天国には行けなくて、お月さまの裏側の地獄に吸い込まれて、死んだ人間の魂はみんな吸い込まれて、月の裏側で永遠に苦しみ続けるのだ。魂はみんなクレーターに吸い込まれて、空気のないクレーターの底に閉じ込められて、息ができなくなっているのだ。私は恐ろしいことを知ってしまった。私はお月さまに謝らないと行けないと思った。お月さま、どうかごめんなさい。どうか許してください。次の満月の日まで、私はずっとお部屋に引きこもって、ベッドの中でぶるぶると震えていた。


 お月さまが真円を描く前の晩に、ついに私は決心した。私はお月さまに謝りにいくの。私は、ずっと締めていたカーテンを、少しだけ開けて、朝方のひんやりとした空気を吸い込んでから、シャワーを浴びて決心した。その晩、私はお家を抜け出した。白いワンピースを身に着けて、その時が来るまで夜空のお月さまを見ないで済むように、紅いリボンのついた大きなハットを頭の奥まで被って、お家を抜け出した。ずっとずっと歩いて、お月見が原の高原に向かった。お月見が原の高原の、ふもとに錆びついたバス停があった。今夜の最終のバスがあった。私はまたぎゅっとハットを頭に押し付けて、ハットの白いつばのなかでバスを待った。


 最終のバスは、不思議な色をしたまんまるな形のバスだった。片方のライトが消えていて、もう片方のライトはチカチカして、バスの中は真っ暗だった。錆びたバス停の印に滑るようにバスはやってきて、私を迎えた。ガタンゴトンという音がして、バスの扉が空いた。真っ暗なバスに乗り込むと、運転席からポツリと声が聞こえた。


「お代はいりません」


 私は真っ暗なバスの中で一度躓いて、やっと席に座った。お月さまの光が、ちらりと差し込むのが、ハットのつばの境目に見えた。私はうつむいて、ずっとずっとバスに揺られていた。しばらく登って、真っ暗な森の中でバスは停まった。


「終点です」


また運転席からポツリと声が聞こえた。私はうつむいたままバスを降りて、ハットのつばを両手で抑えながら、ひび割れているアスファルトの道路に足を付けた。私が降りるやいなや、バスは森の闇の中に消えていって、すぐに見えなくなってしまった。私はバスがやって来た道とは反対の方向に、歩いていった。どれくらい歩いたかしら。森が終わって、背の高いすすきが夜風にさわさわと揺られる、ぽっかりと丸い丘についた。丘の上には丸太でできた展望台があった。てっぺんが見えないような、とても高い高い展望台だった。私はあの展望台に登ろうと、歩いていった。すると突然大きな風がふいて、私のハットは吹き飛ばされてしまった。長い髪を抑えて、つぶった目に大きな光が当たった。


 目を開けると、夜空の天井を覆ってしまうような、見たこともない大きさのお月さまがまんまるになって私を見下ろしていた。私は息を呑んで、お月さまをずっと見つめていた。大きな大きなお月さまはのっぺりとした海の部分がはっきり見えるほどにきらめいていて、不思議な電波をはっきりと感じられるほどに私に向かって発していた。私はお月さまに向かって両手を広げて大きな声で言った。


「ごめんなさい、ごめんなさい。どうか私達を呪わないでください。」


すると私の両足が勝手に動いて、丸太でできた高い高い展望台の方へ向かって、足は止まること無く私を持ち上げて、展望台の階段を登っていった。長い長い螺旋階段を登っても、ちっとも疲れなかった。身体がどんどん軽くなるようだった。螺旋階段の終点には、四角い戸があって、私はそれを力いっぱい押し上げた。戸はガタンという音を立てて開いて、私は展望台のてっぺんに登った。てっぺんの場所は丸くなっていて、丸太の柵に囲われていて、天井はなかった。お月さまがますます大きく見えて、手を伸ばせば届いてしまいそうなほどだった。私はもう一度お月さまに向かって叫んだ。


「ごめんなさい。ごめんなさい。」


お月さまに両手をいっぱいに伸ばして、私は上を向いたまま柵のところまで歩いていった。すると不思議なことが起きた。両足が、見えない階段を踏みしめるように動いて、身体が浮かんでいって、私は宙に向かって登って行った。お月さまはもうすぐそこにあった。青白い色と黄金色とが混ざりあった一〇〇兆よりもっと多い粒の電波のシャワーが私の身体を通り抜けた。でもそれはとてもとても心地よかった。私は、お月さまに許されたんだわと思った。私の身体はもうひとりでに浮かんでいって、お月さまへ向かっていった。ああ、なんて幸せな気分なのかしら。生まれていちばん幸せだわ。お月さまに許されたんですもの。ああ……





 あくる日、人里離れた月見ヶ丘高原で、少女の死体が発見された。少女の死体の下の、土が盛り上がってるところからは、おびただしい数の行方不明になっていた十五歳の少女の人骨が発見された。いずれも死因は展望台から落下した事による転落死で、地元警察は事件性を調べている。なお、誰も知らないことであるが、少女たちの身体の重さは、生前よりも二一グラム軽くなっていたそうだ。

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お月さま のらくら @Nohohon_Norakura

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