恋の六
電車で行こうかとも思ったが、遅れちゃいけないということで、タクシーにした。
隆一君は髪をきちんと七三に分け、濃いグレーのスーツにブルーのネクタイ。
俺は俺で何か月ぶりかで床屋に行き、オールバックに無精ひげも剃り、靴も磨き上げ、苦手なネクタイを締めた。
彼女の家まで10分ほどの距離を余して、俺たちはタクシーを降りた。
御多分に漏れず、その日は朝から雨降りだ。
ネクタイだけじゃない。俺は傘も嫌いなんだが、仮にも
隆一君は隆一君で、俺よりもいささかましであるがお世辞にも新品とはいえないこうもり傘をさしていた。
彼は緊張していると思いきや、リラックスしている。しかし目だけはきりっとしていて、いつもの何となく頼りなげな風貌はどこかに行ってしまったようだ。
そうなると、俺だって勢いくそ真面目な顔にならざるを得ない。
気分は東映仁侠映画だった。
片手に番傘、片手に白鞘の長ドス。殴り込みに出かける高倉健と池辺良。そうなるとBGMは”唐獅子牡丹”か・・・・(いちいち例えが古いって?ほっといてくれ。どうせ俺はアナクロだって言ったろ?)
10分の道のりを黙って歩いてゆく。
ほぼ正確に、葛城邸の玄関の前にについた。
豪邸というわけではないが、趣のある立派な家だ。門構えもどっしりしていて、東京の真ん中によくこんな家が残っていたと思ったくらいである。
門柱のインターフォンを押すと、佐和子さんが自ら出てきた。
今日の彼女は洋装ではなく、藍色の地味な和服に白っぽい帯を締め、髪をきちんと結い上げている。
『どうもわざわざ・・・・ごめんなさいね。お二人とも』
彼女はすまなそうにそう言って頭を下げた。
『いや、なんてことはありません』
隆一君は努めて快活そうにいい、傘を畳んで彼女の手をそっと握り、目をまっすぐに見つめた。
(恋する男女の目だな)
二人の様子を見て、俺は思った。
『ここまで来たら、乗りかかった何とかというやつです。決心がついているんなら、何も怖くはないでしょう』俺もいつも見せない笑顔を大サーヴィスする。
俺達は彼女の案内されるまま、玄関を
邸内で一番広い部屋である二十畳ほどの大広間に、親戚一同が勢揃いしていた。
床の間に背にして座っていたのは、
紺色の三つ揃えのスーツをかっちり着た、色白で中背の男・・・・これが佐和子の甥(正確には義理の息子)にあたる、某中央官庁で主計局の課長を務める静夫。年齢は四十五歳。神経質そうに見える。
その右隣に座っている、薄いブラウンのスーツ姿で、細面に銀縁眼鏡をかけた、如何にも勝ち気そうな女性。これが静夫の妻で、元保守系与党の幹事長を務めた国会議員の某の娘。名前を夏代といい、年齢三十九歳。
そして左右に分かれて甥や姪、そしてその配偶者が全部で8人座っていた。
俺たちが入ってゆくと、全員の目がこっちに集中した。
当たり前だが、好意的な眼差しでないことはすぐに分かった。
佐和子さんが『どうぞ、お座りください』といったので、俺たちは畳の上にそのまま座った。
彼女が座布団を出そうとすると、正面から『
(こんな奴らに座布団なんかいらん)とでも言いたかったんだろう。
静夫である。
佐和子さんは構わず隅に積んであった座布団を取りに行こうとする。
足がお世辞にも自由ではない彼女にとっては、それだけでも重労働だ。
隆一君がすぐに立ち上がり、何も言わずに彼女を手助けして、三枚の座布団を持ってきて、前に置く。
二人は静座をしたが、俺は胡坐をかいて座った。
どこかで『ちっ』と、舌を鳴らす音がした。
隆一君は左手側、そのすぐ隣に佐和子さんが座った。
俺は向かって右側だ。
勿論茶も出ない。
『早速だが、どっちが椿隆一君だね?』
静夫が言った。
明らかに見下している。嫌な響きだ。
『僕です』隆一君が答える。
『君は
『年齢は二十一歳です。必要な単位は取得しましたので、来年卒業は出来ます。福祉系の大学ですから、介護福祉士と、ホームヘルパー二級の資格は既に持っています。社会福祉主事の資格も取得予定です』
『福祉系の大学って、どちら?』
そう言ったのは静夫の妻、夏代である。
『はい、私立の××大学です』
『聞いたことのない大学ねぇ。都内にあるんですの?』
『都内ではありません。神奈川です』
なんだ、という表情が彼女の顔に浮かんだ。
『卒業したらどこに就職するんだね?』右側に座っていた小太りで狸みたいな顔をした男が訊ねた。
『在宅介護サービスの会社です。主に独居老人のご自宅を回って訪問介護をします』
『それで?月給は幾ら位貰えるんだね?』
静夫が訊いた。
『まだ詳しくは分かりませんが、凡そ手取りで20万円と少しだと思います。』
『呆れたわね。それで結婚しようなんて考えてるの?』そう言ったのは夏代だ。
『勿論、佐和子さんには苦労を掛けるかもしれません。でも努力します』
『努力?結婚はままごとじゃないんだよ?』鼻で嗤いながら言ったのは、あの狸男だ。
『まさか、君は
静夫が嫌味たっぷりの声で言った。
『ははあ、
流石の佐和子さんも、この言葉に顔を真っ赤にし、唇を震わせて耐えている。
隆一君が狸男を鋭い目で睨みつけ、こう言った。
『僕の給料でやってゆきます。そんな言葉は佐和子さんに失礼でしょう』
流石に狸男も彼の迫力に気圧されたのか、そっぽを向いて黙り込んだ。
『要はあんたがた、自分の母親にも等しい
俺もポケットから出したシナモンスティックを口の端で弄びながら言い返した。
静夫がむっとしたような顔で、
『誰だね。君は?失敬な言い方はよしたまえ』と、俺を睨みつける。
『
『口を慎め。』
『そうよ、不愉快だわ』
やれやれ、ここの大人は悪意だらけだな。俺は思った。
『乾さん、ありがとうございます。』隆一君はそう言って俺を制し、それから正面を向き、ゆっくりと、しかししっかりした口調で言った、
『確かに僕は三流大学です。卒業してから就く仕事だって、労が多い割にはお世辞にも高給は見込めないでしょう。でも、僕は一所懸命働いて佐和子さんを大切にします。いえ、大切にするために努力します。佐和子さんは僕を初めて好きになってくれた
佐和子さんがはっとしたような表情をし、そして目を
『
『ええ、構いません。』佐和子さんはハンカチで目を拭い、はっきりと言い切った。
『お
『そうだよ叔母さん。僕らだってこの先どうなったって面倒なんか・・・・』
『あら?
一同は憮然とした表情で互いを見合わせている。
『この家も土地も、静夫さん初め皆さんで好きになさって結構です。』
彼女はそう言って、懐から奉書紙に包んだ書状を取り出した。
『私直筆の遺言書です。同じものをあと二通作りました。一通は私の手元に、もう一通は弁護士さんに預けてあります。ここには国民年金と、学校から頂いている恩給以外の総ては放棄し、皆さんで等分に分けるように記してあります。私はもう何もいりません。隆一さんさえ傍にいてくだされば、それでいいのです』
『結論は出たようですな』
俺の言葉に、もう誰も何も言い返さなかった。
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