恋の三

 他の利用者たちが食後、固まって何やら雑談をしたり、座敷に上がり込んで横になっていたりしているのに、彼女だけは少し離れた場所に一人で腰かけていた。


 確かに、隆一君が喋ったイメージにほぼ当てはまる女性だった。


 頭髪はグレイというより、限りなく銀色に近い。それが肩甲骨の中ほどくらいまであり、軽くパーマをあて、首の後ろでひと纏めにしている。


 顔立ちは細面で色白、目立ったシミもない。心持ちまなじりが垂れ気味のアーモンド形の目と、そして鼻も口も小作りであるが、それだけで人目をくようには見えない。だが同年齢の他の女性と比べると、美しいのは確かだ。化粧は薄い口紅とファンデーションくらいなシンプルなもの。マニュキアもしていないし、アクセサリーも細い銀のネックレスくらいしか着けていない。

 

身長はそれほど高くはなく、華奢な体形である。

 小皺やほうれい線・・・・普段はそんなものを見ても、格別何とも思わなかったが、彼女に限っては、不思議なことにチャーミングに見えた。

 敢えて似た有名人を探すとすれば、香川京子か久我美子とでもいう感じであろうか。

(古い名前ばかりで申し訳ない。何しろアナクロ人間なもんでね)

 ミントブルーのノースリーブのニットに、白いレースのカーディガンを羽織り、紺色のフレアスカート。そして靴底が平たい茶色のパンプスという、落ち着いた服装をしている。


 と、彼女はおもむろにカーディガンのポケットから、銀色の洒落たケースを取り出す。

 ケースの蓋を開けると、中から細く赤いフレームの老眼鏡が出てきた。

 それをかけ、テーブルの上に置いてあった文庫本を熱心に読み始める。


 何気なく首を伸ばし、悟られぬようにタイトルを横目で見る。

 彼女の読んでいたのは英国人作家D.Hロレンスの手になる問題作『チャタレイ夫人の恋人』だった。

(女性が読むには大胆だな)

俺が思ったその時、

突然、割れ鐘のような音がホール一杯に響く。


 見ると、テレビの脇に置いてあるカラオケ装置を使って、一人の老人(男性だ)が、胴間声で演歌をうなり始めたのである。


 彼女はしばらく我慢をして読書を続けていたが、ため息を一つつくと、傍らにあった杖を取って立ち上がり、ゆっくりと歩き始めた。


葛城かつらぎさん、どちらへ?』オレンジ色のポロシャツにジャージ姿の男性介護士が彼女に声をかける。


 葛城さんと呼ばれた彼女は”あそこ”とでもいうように、ガラスで囲まれた先を指さす。


 そこは中庭になっており、雲の切れ間から少しばかり覗いている日の光が四角く切り取られて差し込み、まるでスポットライトの様に落ち、木製のベンチと白樺の樹を照らしていた。


『分かりました。でももうじきお茶の時間ですから』

『はい、承知しております』

 彼女は軽く頭を下げ、歩き出す。

 右足を多少引きずっているから、歩調はゆっくりではあるが、それほど不自由には見えない。


 自分で中庭に通じるガラスのドアを開け、ベンチに腰掛けて読書を再開した。


『ちょっと失礼』俺は案内をしてくれていた施設長氏に断って、彼女の後を追う。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


『カラオケはお嫌いですか?』

 ガラスの扉を開け、俺も中庭に入って少し離れた別のベンチに腰を下ろし、声をかけた。

 彼女は、

『いえ、ただあまりお上手でない方の歌を聴かされるのが好きではないだけ』

 とだけ答え、相変わらず本から目を離さずにいる。

 意外と張りがあって、若々しい声だ。

『コニーも気の毒だったかもしれませんが、最後には解放されましたからね。むしろ私はクリフォードやメラーズの方が、犠牲者だと思いますよ。メラーズは妻に裏切られて、人間不信になってしまったんですから、しかし彼はコニーによって救われた。でもクリフォードは救われないままでしたからね』

 俺が言うと、

『あら、どうしてですの?メラーズはともかく、クリフォードは単に家系を絶やしたくなかっただけじゃないかしら?』と答えた。


『彼は戦争で男性としての機能を奪われたんですからね。ああなれば絶望的な気持ちにもなるでしょう。』


 本の話を振られて、彼女は初めて頁から顔を上げ、少しばかり嬉しそうな表情で俺の方を見た。


『貴方も、お読みになったんですの?』


『ずっと昔です。まだ若かったもんですから、単なる下衆な興味だけが先に立ってました。ところが当時はまだ削除版しか売られていませんでしたからね。完訳本を手に入れ、今でも時折読んでます。ですがまだお世辞にも全体像をつかみきれていません。難しい本です。しかしそこがまたいい。永遠の恋愛小説、いやある種の哲学書ですな』


 彼女はおかしそうに笑う。


『失礼、私は乾宗十郎いぬい・そうじゅうろうといいます』俺は認可証ライセンスとバッジのホルダーを彼女に見せた。


わたくし葛城佐和子かつらぎ・さわこ・・・・探偵さんがこんなところに何のご用?』


『母のデイサービス利用の件で見学に来ました・・・・というのは単なる口実です。仕事でしてね。ある男性から依頼を受けたんです。バスの中からお見かけした貴方のことを突き止めて欲しいと、一目ぼれだそうですよ』


 彼女は、

『まあ』といい、驚いたように片手で口を押えた。


『その男性ひと、どんな方?』

『若いです。貴方よりずっと年下ですよ。息子さん、いえ、ことによったらお孫さんといっても良いくらいの・・・・若い男性は好みじゃありませんか?』


 彼女は読みかけの頁にしおりを挟み、少しの間四角く切り取られた中庭の空を見上げ、考え込んでいたが、やがてごく自然な口調で、

『清潔感があった方がよろしいですけど、それだって特に気にしません。私は見かけよりも中身を重視しますから、依頼人あちらこそよろしいのかしら?わたくしはこんなおばあちゃんなのに』

 と答えた。

『向こうはそれでいいらしいです。特に貴女の髪がとても美しいと』


『あら嫌だ』そう言ったが、悪い感情を持っていないのは理解できた。

 

 

 

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