恋の四
『名前は
三日後、俺は隆一君に電話をかけ、彼の通っている大学のすぐ近くにある喫茶店に呼び出し、そこで報告をした。
『以下は全て報告書に記しておいたから、後で読んでおいてくれ。』
『
彼は俺が渡した報告書を、さながら宝島の地図を読み解こうと必死になるジム・ホーキンズよろしく、目を皿のようにして文章を追っていた。
葛城佐和子は明治以来続く高級官僚の家に生まれ、小学校から大学まで一貫教育で知られる典型的なお嬢様学校で勉学を積み、その後母校(中学)で三十年間英語の教師として教鞭を取る傍ら、学生時代から習っていた縁で、合気道部の顧問を務めた。
結婚は24歳の時に一度したが、子供をもうけぬまま婿養子の夫に先立たれ、その後は独身を通す。
家族は弟の家から甥を一人養子に迎える。(但し現在は別居。)
親から受け継いだ経堂の自宅で英語塾を開き、不定期だが近所の子供たちに教えている。
趣味はガーデニングと読書、家事一般。音楽と映画鑑賞。
二年前散歩中に転倒して右足大腿部を圧迫骨折。完治はしたが、それ以来少し足を引きずって歩くようになり、日中は週に一度デイサービスを利用し、リハビリも行っている。
認知症もなく、その他の既往症は今のところなし。日常の生活は殆ど支障なく出来るとの由。
性格は真面目で物静か、しかし意志強固で、自分の思ったことははっきり主張する。
デイサービスで他の利用者と打ち解けないのも、そんな性格からなのだろう。
しかし別にトラブルを起こすわけでもないから、
好きな食べ物は主に和食。酒は殆ど呑まない(たまにポートワインをほんの少し
教師時代合気道部の顧問をしていたくらいであるから、日本合気会から四段の
『ところで、あのう・・・・』
報告書を読み終えると、椿隆一君は顔を上げ、不安げな目線を俺に向けた。
『あちらは、僕のことを何と・・・・』
『
俺がそう訊ねると、彼は大きく頷いた。
『驚いていたのは確かだ。だがそれほど気にしていた訳でもないようだな。容姿についても”外見よりも内面重視”らしい。むしろ向こうの方が気にしていたくらいだよ。”こんなおばあちゃんでいいのかしら”ってね』
『おばあちゃんだなんて、とんでもない!十分に美しいですよ!』
俺は苦笑いしながら、
『そういうことは本人に会って直接言うセリフだ。これが向こうの電話番号。じゃ、これで俺の仕事は終わりだな。請求書は後で送る』
『ちょっと待ってください!』
彼が不安そうな眼差しで俺を見る。
『何だね?』
『あの・・・・その・・・・勿論追加料金はちゃんと払います。だから・・・・』
『俺にデートの介添え人でもやってくれっていうのか?悪いがそれは断る。』
『貴方の主義に反するのは分かってます。でも、最初だけでもお願いします!僕は生まれてから、まだ一度も女性と二人きりでデートなんかしたことがないもんですから不安で・・・・』
隆一君はまるで土下座でもせんばかりの勢いで、何度も頭を下げた。
『分かった分かった・・・・とにかく頭を上げてくれ』
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
椿隆一君は必死の思いで、俺から教わった電話番号にかけた。
彼曰く『心臓が高鳴って、自分でも何を言っているのか分からなかった』そうだが、とにかく初デートの日取りを決め、俺を一緒に連れてゆくことの了承を得たという。
『今週の日曜日、場所は桜ケ丘二丁目にある和食レストラン”いしかわ”です。時間は午後6時半です』
俺に知らせてきた時、最後は声が裏返っていた。
『まあ、そう緊張しなさんな。それより、準備は整えたのか?』
『準備?』
『いや、着ていく服とかさ、そういったことだ』
『まだでした・・・・』そこで少しばかりしおれる。
『別に恰好をつけていく必要はないよ。清潔な服を着て、良く磨いた靴を履き、髪を整えて、髭を剃って、綺麗なハンカチを持って行け。ああ、ティッシュも忘れるな。口臭と体臭のケアもしておきな。』
駅で待ち合わせなどはせず、彼が友達から借りた車で出向くという。
”まるで電車男だな”そう思うとおかしくなった。
日曜日、幸い雨こそ降っていなかったが、相変わらずの曇り空の下、俺たちは隆一君の運転になるトヨタのヴィッツで桜ケ丘二丁目にある和食レストラン”いしかわ”に出向いた。
待ち合わせの時刻より1時間も早く着いたというのに、もう既に彼女は来ていた。
薄緑のジャケットに、クリーム色のプルオーバー。紺色のストレートパンツと言う軽快な服装だ。メイクはいつも通りの薄化粧。だが口紅の色が心もち濃い目に感じた。そのせいか最低でも5~6歳は若く見える。
『おま、お待たせしてしまって申し訳ありません!』隆一君はどもりながら、何度も頭を下げた。
顔中から汗をたらし、頻繁にハンカチで顔を拭く。お陰で折角のおろしたてが五分もしないうちにしわだらけになってしまった。
『いいんですのよ。私が早過ぎただけですから・・・・それよりも本当にわざわざこんな素敵なお店にお招きいただいて有難うございました。私、葛城佐和子と申します』
しとやかにお辞儀をする。
『つ、椿隆一と申します!』直立不動で隆一君が自己紹介する。
『改めまして、乾宗十郎です。でもお断りしておきますが、今日の私は完全な空気だと思ってください。』
『構いませんわ。私、賑やかな方が好きですから』
彼女はそう言って微笑んだ。
隆一君はすっかり彼女に魅了されてしまっているみたいである。
宣言した通り、俺は完全に『空気』に徹し、彼の隣で黙々と食べ、そして呑んでいた。
二人はアルコールは
幸い、隆一君も結構文学と映画に関しては詳しく、其のあたりで意気投合したらしい。
楽しい食事も終わり、そろそろ出ようかとなった時、彼女は『今日は有難うございました』と言って、傍らのバッグから財布を出そうとする。
『いや、ここは僕が出します!』隆一君は決然と言って、席を立つ。
『そうですか・・・・すみませんわね。それじゃ今日はお言葉に甘えてご馳走になります』彼女は微笑んで頭を下げた。
表へ出る。
『じゃ、私はここで、後はお二人でごゆっくり』俺はそう言って頭を下げた。
勿論隆一君の耳には”うまくやれよ”と囁くのを忘れなかったが。
さて、その後二人はどうなったかって?
それは俺にも分からん。
ただ、後から彼が報告してくれたところによれば、別の喫茶店でお茶を飲み、彼女の家まで送って、それでおしまいだったそうだ。
今時額に入れて飾っておきたいような純情さである。
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