エピローグ 訣別のとき
聖ソフィア教会が佇む緑の丘の上で、ナレクは真新しい墓標を眺めた。今の気分とは裏腹に、真上に眩しく光る太陽が恨めしい。
この夏、親友のアザットが死んだ。彼はソコロフスカヤ・ブラトヴァとルーベンノファミリーの抗争から街を守ろうとしていた。街を巡回したり、元締めに情報提供をしたりと、精力的に働いていた。
だが抗争で死んだわけではない。抗争が停戦したあと、アゼリー人グループと自分達アルム・ボリィの火花が再燃したのだ。そして、麻薬売買の拠点にしているアジトから出たところを撃たれて呆気なく死んだ。
母親の顔を刺青に彫るほど家族思いで、仲間思いだったアザット。ナレクが倒れたとき、彼は心から心配して思い悩んでくれたのだと聞いた。
撃ったアゼリー人のメンバーは逮捕された。だが、アザットは二度と帰って来ない。
クリーム色の金髪をした元締めのあの人は、葬儀に来てくれた。彼が久しぶりに訪ねてきたのは、丁度アザットが死んだ直後だった。AXの調査に協力したことを労いに来たのだと言って、報奨金もくれた。アザットが死んだことを伝えると驚いていたが、葬儀には来ると言ってくれた。
黒い喪服にサングラスをしたその人は、顔色を変えることなく言葉少なめに弔辞を述べて、アザットの母親の手の甲に口付けた。他の参列者達に混じっていても少し異様な雰囲気が出ていたが、ずっと泣き暮れている母親にはそれが誰か考える余裕はなかっただろう。
埋葬を終えて、参列者達がぱらぱらと帰っていくが、ナレクは中々その場から足を動かせずにいた。ふと気配がして隣を見ると、いつの間にかあの元締めが横に立っていた。
彼は周りに聞こえないほどの静かな声で、ナレクに話しかけた。
「俺はあいつに言ったことがある。”ギャングをやってる以上、いつかその家族も不幸にする。覚悟しておけ”ってな。あいつが自分で決めた道だ……俺は忠告したぞ」
冷たい言い方に聞こえるが、ナレクにはその奥にあるやるせなさが伝わってきた。サングラスに隠れて顔は見えない。それは彼が自分を納得させようと言い聞かせているようにも、ナレクへの忠告にも聞こえた。
「ノアさん、アザットのために来てくれてありがと。あんたも……あんたも、元気でな」
踵を返して遠ざかる背中がとても寂しそうに見えて、何か声を掛けたかったが、それ以上の言葉が出てこなかった。彼は自分達とは立場が違う。あんたも家族大事にしろよだとか、あんたも死ぬ前に辞めた方がいいとかは、きっと適切な言葉じゃない。
その背中の遥か向こう側に見えるドゥニル川の水面が、太陽の陽光の下で眩しく煌めいている。
アザットの母親の慟哭は、きっと彼の耳にも届いているだろう。丘の上で響く叫びが、ナレクの頭の中でこだまする。
「とんだ親不孝者だよこの子は! 親より先に死ぬなんてさァー!」
キベルジア・ケミカルがノビチョクを開発しようとしていたニュースは、ナレクの目にも入っていた。ニュースを見て初めて、自分が倒れた毒薬の正体がそれだったと気付いた。
あの毒薬はナレクを傷付けただけでなく、見知らぬおばさん—タチアナ・シドレンコの命を奪った。何の罪もない、普通の人だった。
事件についてのニュース、そして事件を取り巻く噂を聞いたとき、あの元締めが仇を取ってくれたことを確信し、心の中で彼に感謝した。
キベルジア・ケミカルの事件から数週間後、自由連合党首のヴォロディミル・クズメンコが暗殺されたことが、大きなニュースになった。その事件もやはり、背後にルーベンノファミリーの存在が噂された。しかし当然の如く犯人は捕まらず、真相は誰にも分からない。
ナレクはギャングを辞めた。
アザットがいなくなった後、誰がリーダーを継ぐか決まらず、グループは空中分解の状態になっていた。その後新しいリーダーが立って再結成することになったが、ナレクはそれには加わらず、その流れで自然に足を洗うことができた。
午後の日差しが注ぐ中、ザックを片手で背中に背負ったナレクが、郊外の貧しいエリアに建つアパートの階段を駆け上がる。壁のあちこちにはスプレーで落書き—良く言えばウォールアートが施され、石の階段は所々崩れかけている。
「ただいま、母ちゃん」
玄関を入って部屋の奥へ向かって声をかけた。母親がロッキングチェアの上から出迎える。
「おかえり、仕事は慣れたかい?」
「まあね、楽しくやってるよ。まー給料は安いけど」
真面目に働くようになった新しい仕事は、朝がとても早い代わりに昼過ぎには終わる。
リビングでテレビを見ている母親と他愛のない話をしていると、妹が足に纏わりついてくる。ナレクは構って欲しがる妹を抱き上げて、適当に相手をした。
『クズメンコ氏が党首を務めていた自由連合党に、外国マフィアとの癒着疑惑が浮上しています。ウィークリー・ノリフ誌が報じました。先日何者かに銃撃を受けて死亡したクズメンコ氏ですが、容疑者と動機は依然として不明です』
母親はテーブルの上に、温め直した昼食を出してくれた。体の弱いナレクの母親は、あまり日の差さないこのアパートに篭りきりで過ごしていることが多い。料理は数少ない楽しみのようだ。
テレビの音声を聞き流しながら、食卓に上がったハリサ—小麦と鶏肉のおかゆを掻き込んだ。熱々で体に染み渡る。工場の仕事は重労働で、終わるといつも腹が減る。
『キベルジア・ケミカル農薬工場の除染活動に多額の援助をしているBEC社が、爆発の原因となった襲撃を非難しました』
テレビ画面は、BEC社の記者会見の映像へと切り替わった。
『バッチャンCOOは、”我々はあらゆる環境犯罪者と戦う用意ができている。人類に有害な兵器を生産しようとする者、そして、間違った正義のために意図的にせよ無自覚にせよ、殺戮を繰り返す者を許さない”と、事件に関わった反社会組織を暗に非難しました。また、工場に保管されていた弾頭の廃棄処分はすでに八割ほど完了しているとのことです』
「食ったらまた出かけてくる」
「あら、帰ってきたばかりなのに?」
「うん、アザットの母ちゃんのところ」
「そうかい……あ、丁度良い。これ持ってきな」
母親はキッチンから焼き立てのピロシキを持ってきて、籠に詰めた。
『続いてはちょっとしたホットな話題です。次期環境大臣へとの呼び声が高いメルニチュク氏が、アセスラボ社のセミノヴィチ氏と婚約しました。お互いに再婚で……』
「ナレク、うちへ戻ってきてくれてありがとうね」
母親の何気ない一言には、様々な意味が込められていた。
「安心しなよ。もうどこにも行かないから」
籠を受け取り、玄関を出た。
ギャングの収入に比べれば今の仕事で得られる金は微々たるもので、貧乏からは抜け出せそうにない。それでも、アザットの死と彼の母親の反応を目の当たりにしたナレクには、今の方が良いと感じる。自分の母親にはあんな顔をさせたくない。
自分は運良くトラブル無くギャングから抜けることができたが、近所にもメンバーは多く、今までの付き合いを完全に断ち切るのは簡単ではない。しかし、もうギャングの仕事に携わることはないだろう。
生活のために必要なだけの金を稼いだら、それ以上は求めず、家族と過ごす時間に充てる。妹と遊び、夜は母親の手料理を食べる。たまに友達とウォッカを引っ掛けにも行く。
あの金髪の元締めの姿を見ることは、あれから二度となかった。本当なら雲の上の存在だ。あの事件がなければ出会うこともなかったに違いない。
今日もドゥニル川は流れ、凍り付き、また溶け出す。そんな当たり前の日常の中で、いつしか彼の存在を思い出すこともなくなった。
完
無法者と新参者 ~紫目のマフィアと華麗なる毒~ Mystérieux Boy @mysterieux_boy
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