第三十一話 闇を映す瞳

 銃口を向け狙いを定めている間、周りの音が止まった。様々な思いが頭を巡る。


 —こいつが俺の行動を漏らしたせいで、大勢死んで、俺も殺されそうになった。


 しかし客観的に自分を眺めたとき、今の自分が冷静でないことも理解していた。ゼフィルが昔、ノアに話したことがある。感情で人を殺すな、と。感情で人を殺せば、お前はただの怪物モンスターだと。


 —彼女は何も知らなかった。AXのパッケージを見ても反応しなかった。本当に関わってない。……馬鹿だな、全部俺のせいだよ。……だが俺を裏切った代償は重い。


 彼女は怪物を見る目でこちらを見ている。いつも大きな瞳で覗き込み、好きだと言って微笑みかけてきたカルメン。その面影はもはやどこにもない。彼女を撃てば、このまま自分が怪物になってしまうのではないかという予感がふと過ぎる。


 長い時間に思えたが、銃口を向けていた時間は一瞬だった。ノアは銃を下ろして仕舞い、俯いた。

 カルメンは無言で立ち上がると、ノアの前に歩み寄り、両頬を掴んで顔を持ち上げた。そして口付けた。その唇に熱はない。涙が自分の頬にも触れた。予想外の行動に出た彼女を、驚いて見上げる。


「変ね……? ノビチョクは猛毒で、触れた相手にも移るんでしょ? どうして貴方は逃げないの?」

「ああ……さっきのはただの水だ。本物なら解毒剤があっても確実に死ぬ量だ」


 ノアは半ばどうでも良くなって答えた。すると彼女は平手で顔を殴った。手が耳のあたりに当たり、鈍い音がして金色の髪が散らばった。


「やっぱり貴方は最低よ」


 カルメンは首からサファイアのネックレスを外して、ノアへ押し付けた。彼女の瞳には怒りや軽蔑を通り越して、哀れみに近いものが見える。

 ノアはそれを彼女の手の中に押し戻した。そして静かに立ち上がると、部屋を見渡しながら後退りした。時間が戻ってくる。雨の音が再び鳴り出した。


「死体の始末に後で人を寄越す。裏切りの代償を支払いたくなければ、一日以内に街を出ろ。それは売ればいい。引っ越しの足しにはなる」


 部屋を出ようとするノアに向かって、カルメンはネックレスを投げ付けた。


「貴方からは何もいらない!」


 迷いなくそう突き放す言葉が、彼女の意志を物語る。

 ノアはネックレスを受け止め、無造作にポケットに突っ込んだ。堅い決意の眼差しを動かさないカルメンとは対照的に、ノアは悲しげに眉を寄せ、彼女を横目に扉を閉めた。

 外はもう夜が明け、誰もいない街が灰色に染まっていた。靄の中に早足で消えていく男の足音を、雨がかき消した。



———



 木々が青々と茂り、ドゥニル川沿いを暖かな風が吹き抜けていく。人々は短い夏に浮かれ、散歩したりピクニックをしたりと、思い思いの夏を過ごす。


 七月が終わる頃、ノアは病院へ赴いた。ピョートルに会うためだ。

 彼は一命を取り留めていた。致死量を上回る量を暴露していたにも関わらず奇跡的に助かったのは、事前の入念な対策のおかげだった。突入前にピリドスチグミンを摂取し、暴露後にRSDLで皮膚を除染、アトロピンも即座に投与した。これだけの対策が可能だったのは、突入場所にノビチョクが存在することを事前に分かっていたからに他ならない。

 ピョートルは人工呼吸器を外せるようになり、集中治療室から一般病棟へ移っていた。ファミリーが普段使うVIP用の病室だ。しかし今の彼の姿は、決して喜べるものでは無かった。


 ノアは個室へ足を踏み入れた。虚ろな眼差しでベッドの上に横たわるピョートルに、医者が声をかけた。


「ピョートルさん、起こしますよ」


 医者はベッドのレバーを回して上半身を起こした。ノアは近付いてその顔を覗き込んだ。ピョートルは目を開けていたが、何の反応も見せず、焦点が合っていない。


「ピョートル、俺だ。俺が分かるか……?」

 その呼びかけにも、返事はなかった。

「残念ですが、変わりありません」


 ノアは肩を落とした。意識を取り戻してからずっとこの状態なのだ。医者が言うには、脳に障害が残り、言語と認知機能に問題が起きているらしい。

 覚悟していた結果だ。ノビチョクはたとえ生還しても、後遺症が残る可能性が高い。ピョートルは重症だったため、一時的に脳への酸素供給が止まった。そのため障害が残った。

 

「自発呼吸はできる状態です。まだ食べることも、歩くこともできません」

「回復するか?」

「食べることくらいは、できるようになるかも知れません。歩くことは難しいでしょう。……脳の障害は、最悪回復しないことを覚悟してください」


 改めて彼の様子を眺める。点滴の管が体を這い、痩せ細って生気のない顔色は、急激に歳を取ったように見えた。

 医者は二人きりを残して部屋を去った。


「ピョートル、おい」

 肩を掴んで揺さぶった。

「俺を見ろ」


 決して意識がないわけではないのだ。瞬きもするし、自分の意思で体を起こせる。時折音に反応するのか、視線も動かす。それでもピョートルが自分に視線を移すことは無かった。

 切ない気持ちで一杯になり、ノアは椅子の上でうなだれた。


「そうだよな……お前は半生かけてよく働いてくれた。もう休む時だ。生活のことは一生組織が面倒を見る。……だけど、お前なしで俺はどうしたらいい?」


 ピョートルに語りかけていたつもりが、いつの間にか率直な胸の内を打ち明けていた。


「俺の失敗を庇ってパパに弁護してくれたこともあったっけ。お前がいなかったら、俺はとっくに心折れていた。お前はいつも優しかったな……俺に厳しかったことなんて一度もなかった。分からないことは大抵全部、お前が教えてくれた。でもこれからは……」


 皺の刻まれた小さな手を取った。とても軽い。この手で毛布を掛けてくれた。コーヒーを入れてくれた。いつも手を差し伸べてくれた。

 ノアは力の無い皺々の手を両手で握り、名残惜しく自分の頬へ持っていった。


「教えてくれ。俺は誰の助けもなく諜報部隊を、いや組織を率いなくてはいけないのか? 俺は……俺は……どうやってこの先の道を探せばいい?」


 両親の期待に応えられず、落ちこぼれとして生きてきたノアには、心の拠り所にできる大人の存在というものがなかった。無償の愛を授け、自分を肯定し、安心を与え、正しい道へ導いてくれる存在—両親はそうではなかった。


「お前、世の中に一つの信念は無かったって言ってたっけ。あの時代は、西か東か—それが正義を決める唯一の基準だったって。それに嫌気が差して、KGBからルーベンノファミリーに移ったんだよな。……ってことは、お前には信念があったんだ。……俺は信念があるのか?」


 ぽつりと言葉がこぼれ出た。なぜそんな言葉が出たのか自分でも分からず、驚いて上を見上げた。

 他人が決めた正義という概念に価値はないと思っている。ならば、自分の中に確固たる信念があるのだろうか。少年時代に居場所を求めて彷徨い、偶然掛けられた甘い言葉に飛び込んだ自分に。


 —いや、どうでもいいか。


 考える必要がないと思った—というより、無意識に避けていた。


 今思えば、ピョートルが親のようなものだったかもしれない。ゼフィルのことは尊敬しているが、畏怖の念を感じて緊張してしまう。

 傷付いたとき、絶望したとき、死の恐怖に直面したとき、ピョートルは側にいた。何か特別なことをしていたわけではない。ただコーヒーを入れたりして、微笑んで側にいただけだ。それがどれほど有り難かったか、今身に染みて分かる。

 もう彼に頼ることはできない。いつまでも落ち込んでいるわけには行かない。

 いつか少年ギャングのアザットに、こう話したことを思い出す—裏社会では、人が死ぬのはよくあることだ。この世界に入った以上、切り替えろ—と。今その言葉が、そっくり自分に返ってくるとは。


 その時、手が握り返されるのを感じた。驚いてピョートルの顔を覗く。青い瞳が、自分を見ていた。


「ピョートル、俺だ。ノアだ」


 返事はない。しかし彼は真っ直ぐノアを見て、微笑んだ。そこにあるのは、見慣れたあの優しい笑顔だった。きっと自分だと分かっている、そう信じたかった。

 必要以上に仲間への思い入れを引き摺らないようにと自分に言い聞かせていたにも関わらず、それがあまりに嬉しくて、目から一粒の涙が落ちた。




 ピョートルが受け持っていた仕事を引き継ぐために資料を整理していたノアは、気になる連絡先を見つけた。彼がやり取りをしていた、各国の諜報機関だ。本来なら文字に残すべきものではない情報であるが、次にすることを示唆するメモが残っていた。

 彼はこうなることを予期して、自分の仕事がスムーズに引き継がれるよう、予め託したように見える。

 ノアはそのメモを元に電話を掛けた。


大鷹ヤストルブだ」

『声が違うようだが?』

「彼は引退した。今日から俺が引き継ぐ」

『……よろしい。して、何か用か?」

「情報を売りたい。キベルジア・ケミカル社事件について、アジャルクシャン政府に関わる公表されていない情報がある。見返りとして、国内の黄龍会勢力の情報が欲しい」

『その情報に価値があるかは、拝見してから判断させてもらう』


 ノアは執務室で一人、前を向いた。次の抗争の準備だ。自分自身の下らない内面と向き合っている暇なんて無いほど、この先待っている新たな仕事のことを思い、血が湧き立つ高揚感から微かに口角を持ち上げた。その表情に、悲しみや迷いはない。


 人は自分の道を自分で決める。それが後戻りできない道だったのなら、振り返って後悔することに意味はない。だから、与えられた場所で命を燃やすのだ。

 窓の外には青空が広がっていた。その眩しさに目を細め、背を向けた。夜の闇を映したような瞳は獲物を狙う鷹のように鋭く、より一層深く闇に沈んでいくようだった。

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