第十五幕 眼中の鬼

「椿ちゃん、おやすみぃ。」

「富さんも、おやすみなさい。」

 隣り合わせ敷かれた布団で、かわいい富さんの頭を撫でてやっていると、次第に小さな寝息が聞こえてきた。

 心地良さそうなその寝息を聞いていると、俺も一緒に眠りたくなってくる。が、そうもいかぬ。日が沈んだ後には、用心棒としての仕事が残っているのだ。

「……しかし眠いものは、眠い。」

 富さんが起きぬよう、できるだけ音を立てずにそっと布団から抜け出すと、俺は親分の待つ寝所へと向かう。



 屋敷のちょうど中程を走るその廊下には、昼日中ですら光が差し込むことはない。ゆえに夜ともなれば、そこは真っ暗闇があるのみである。

 俺がその冷たい木床の感触をあしのうらで楽しんでいると、暗闇の先から、ヒキガエルの唸り声が聞こえてきた。

「はよう……!はよう誰かこい……!」

「今、椿が参りますよ。」

 足をはやめ、唸り声の漏れて聞こえるその襖を開くと、その部屋の中は、まるで昼間のような光で満ちていた。

 手狭な部屋の中には、両の指では数え切れぬほどの行灯に火が灯り、それらが上からとも下からともなく、部屋の真ん中にいる親分を白々と照らしだしているのだ。

「遅いっ!なにしよったんじゃ椿……!」

 親分は真っ黒になった目の下を擦りながら、泣きだしそうな声で俺を怒鳴った。

「どうもすみません。富さんを、ねかせつけていました。」

「……もうええ!早うその襖を閉めい!暗闇から、鬼がこちらを覗いとる……!」

 言われて俺は、襖から覗くその薄闇を見た。しかしやはりそこには、鬼の姿などない。親分の言うその鬼とは、親分にしか見えぬ鬼なのだ。

 俺はどうしてか、親分をすこし哀れに思いながらも、言われた通り、隙間が出来ぬようにしてその襖をそっと閉じた。

「……すまねぇな。怒鳴ったりしてよぉ……。」

 幾分か落ち着きを取り戻した親分は、頭を抱えながらそう言った。

「なんとも情けねぇが、屋敷から逃げながらチラとだけ見たあの大鬼の姿。あの怖ろしさが目に焼き付いて、一刻もこの瞼の裏から離れねぇのよ……!」

「鬼は俺が、斬りました。なので、闇の中に鬼はいません。」

「分かってらそんな事ァ!……いや、すまねぇ椿。ただ、今はちょっとばかし、病気のおっ母さんの為だと思ってよ……。」

 親分のしわだらけの指が、俺の肩を掴んだ。その感触は力なく、まるでわらべの力のように、よわよわしい。

「とにかく近くに居ってくれんか……何も言わず……何も考えずによぉ……。」

 そう言って俺に寄り掛かる親分の体はまた、中身の入っていない瓶のように軽い。俺が暫く、親分のその小さな背中を優しく叩いてやっていると、やがて深い寝息が聞こえてきた。

 俺は親分を起こさぬよう敷かれた布団の上にそっと寝かせてやると、自分の着物の内側にたまった熱気をぱたぱたと外へやった。

 親分はこんな中で良く眠れるものだと感心するほど、この部屋は暑かった。

 無数の行燈に灯った炎が、眠る親分の姿をゆらゆらと揺らし、ぼやかす。

 子供のような寝息と、芯を焦がすじりじりと言う静かな音だけが、閉じられた部屋の中に鳴っていた。



「……椿、おめぇ目の隈がえれぇことになっとるぞ。」

 真昼間から縁側で大欠伸をする俺に向かい、一郎さんはそう声を浴びせた。

「……クマ?」

 庭の池の岩陰にも、松の下にも、クマなどは居ない。また一郎さんが嘘を言っておるわと思った俺は、再び大きな欠伸をした。こうも欠伸が止まらぬのは、わらべの富さんに「遊ぼう」と早くから起こされたからである。俺はたいへんに眠かったので断ろかとも思ったが、婆様だった時の富さんに受けた恩を思うと、わらべの富さんを邪険には出来なかったのだ。

 それで朝早くから、虫取りと、団子屋ごっこと、ちゃんばらごっこをこなした俺は、たいへん眠たいまま、やかましい蝉達の鳴く真昼の縁側へ至るという訳である。

「……椿よぉ。このままじゃあ何もウマくねぇと、そう思わんか。」

「ウマ……?」

「親分があんなんじゃあ、下々に舐められちまうって話よ。」

「シマシマ……?」

「縞々の馬なんていねぇや、馬鹿野郎。……ええか、椿?この町にゃあ、外から来た船乗りばかりよ。そいつらがおめぇ、うちの親分が鬼に震えてろくに屋敷の外にもでれねぇなんてよ、となり新地の遊郭で耳にでも挟んだら、たちまち噂は京へ江戸へよ。そんでもし、そんな話がえれぇ人の耳に届きゃ、こっ恥ずかしいなんてもんじゃあ済まねぇ。……下手すりゃお取り潰しもあるかも知れんと、そういう話よ。」

「……しましまの馬も、どこかには居るかも知れませんよ。」

「馬の話はもうええんじゃ、この馬鹿。」

 えらそうに腕を組んで抜かす一郎さんの話は、まるで分らなかったし、興味も持てなかった。今はただ、涼しい場所でゆっくりと眠りたい。俺の中には、ただその思いしか無いのだ。

「ゆっくり眠れるなら、俺はなんだっていいです。」

「そんなら話ははえぇや。椿よ、俺とお前で、あの鬼のまことを見極めるぞ。」

 いつになくキリっとした顔で俺を見て、一郎さんはそう言った。

「……よう分かりません。鬼は斬って、消えたはずです。」

「しかし親分は未だ鬼に怯え、富さんはあんな風になっとる。じゃからそれらを解決すれば、お前も以前のようにゆっくり眠れる。……俺の言っとる事が分かるか、椿よ。」

 それはどういう事だろうと、一時かけてその話を頭の中で繰り返した。そうしてその意味を少しだけ理解した途端、眠気に白く霞んでいた俺の頭は、一瞬でさえわたった。

「やりましょう、一郎さん!」

 仔細はあまり良く分からなかったが、一郎さんの「ゆっくり眠れる」というその言葉だけは、俺にとって、日差しにきらめく水面のような響きを持っていた。まるでぴかぴかと輝いているように、俺には聞こえたのだ。

「その意気じゃ、馬鹿椿!……ただ、次郎には決して言うなよ。あいつは阿保の上にすぐ調子に乗る。あんなのが混じったら、きっと何もかもご破算じゃ。」

 一郎さんがそう小声で囁いた時。ちょうど屋敷の門からこちらへ向かって、次郎さんが歩いてきた。なんと間の悪い人なのだろう。

「おう椿にクソ兄貴。なにコソコソ話よんじゃ?」

「うっ!?……う、う、う、馬の話をしていました!」

「そうか、馬はええもんなぁ。……あ~、いかん。俺、厠へ行くとこやった。漏れる漏れる。お便所お便所っと。」

 次郎さんが阿保のような笑みで厠へと去ったのを見て、俺は胸を撫で下ろし、一郎さんは深くため息をついた。

「ほれ見い。あんな阿保まぜたら、上手くいくもんも上手くいかんわい。」

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馬鹿の椿 弁天留星 融田(ベテルボシ・トロケダ) @paipai

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