第十四幕 めでたくも無く

 梅雨が過ぎ、すっかりと夏が来た。しかし、分らぬことだらけであった。

 お天道様の降らせるその熱さによって、海から昇る怪しき霧。それがこの俺の周りを包み、ぼんやりとさせているからかも知れぬ。

 蝉達の声は鳴る。しかしその姿はこの霧の中に在るようで、まるで見えぬ。



 屋敷の門前に出来たにぎやかな人だかりと、その真ん中で、やかましい蝉達よりも元気に吠える上機嫌の次郎さん。俺はぼんやりとそれを眺めながら、珍しくも考え込むという事をしていた。

「……そんで、椿の馬鹿がノびてるとこへ鬼がぐわーっと走った!こいつぁいけねぇと思った俺は果敢にも片腕だけでこの刀を抜き『そうはさせぬぞこの鬼めがっ!』って具合に斬りかかったと……まぁそういう訳よ!」

 分らぬことだらけと言うからには、姿なき蝉のみが気になるのではない。

「……どうして鬼は、自分で送り付けたこの刀を、怖れたのだろう。」

 手元にあるごんごう鬼の大太刀は、やはりただの黒く錆ついた大太刀であり、あの夜以来、光りもしなければ、鳴ることも無かった。

「……しかしてしかし、この次郎といえど片腕だけじゃあ、鬼にとどめを刺すまではいかんかった!そこであの椿の持ちたるあの大太刀よ!椿があれを抜いた途端、ぺっかーと光って一人でに宙を舞ったかと思うたら、鬼を真っ二つ!……こうくる訳よ!」

 次郎さんが、しまりない顔でそう吠えるのを聞いて、俺はついに考えるのをやめた。頭が悪いからでは、決してない。次郎さんのぬかしたその大ボラが、あまりに聞き捨てならなかったである。

「次郎さんよい!嘘は、いかんです!」

 この俺が一番苦手とする、考える事をしている最中に、そのようなことを喚かれるのが、我慢ならなかったのだ。俺はまだ痛む体にむち打って、たまらず縁側から飛び降りた。門前へとつながる庭は、さんたんたる有様である。

「次郎さん、少し話が違うでしょう。……俺が、この刀をふるい、鬼をたおしたんです。……こうやって、こうやってっ!こんな風に!」

 人だかりに向かい、鬼を斬り伏せたあの時の見事な十字斬りや突きを見せてやると、そのひと振りごとに歓声があがった。それを聞くとどうしてか、俺は実に気分がよくなり、繰り出される技の冴えは増してゆき、留まることを知らぬのだ。そこにはまるで、山のような団子をむさぼっているかのごとき満足感があるのである。

「ぃよっ!天下一ィ!」

「鬼斬り椿!」

「いえ、それほどの者では、ありません。俺は母の為、必死でやっただけでして」

「小瀬戸の一の孝行娘じゃ!」

「そんなえれぇ事ァ中々言えたもんじゃァねぇよ!」

「……ならばそれほどでも、あるのかも知れません。」

 調子のよい拍子に合わせ、俺のこの冴えわたる剣技を見せていると、気分の良さも満ちに満ち、この顔が団子のように柔らかく垂れ下がり、自然と笑みがこぼれるのを感じた。人の喜ぶ声という名の甘い団子を浴びて、俺までもが、団子となってしまっているのである。

「……次郎!椿!ええ加減にせぇ!」

 俺のその気分の良いのを止めたのは、蝉達の声も止まるような、一郎さんのするどき声である。

「お主らも早う去れ!養生の邪魔じゃ!」

 虫を払うようにして人だかりを散らした一郎さんの言う「養生」というものは、つまり傷を治すことにある。しかし養生しているのは、鬼によって怪我をした俺と次郎さんではない。親分と、富さんである。二人はあの鬼の夜以来、その心に傷ができ、今日までずっと、どこか調子が壊れてしまっているのだ。

「……どうも、すみません。調子よくなりすぎました。」

「気にするこたぁねえ。……鬼とも戦わずに逃げとった腰抜けの言う事なんざ。」

 へっ、と吐き出された次郎さんのあざける声に、一郎さんの顔が、かっ、と赤くなった。それはまるで絵巻の中の鬼のようであり、つまりはそこまで、怖くはない。

「逃げとらんわこの阿保ゥ!火難かと思い、親分と住み込みらを裏手から逃がしとったんじゃ!気の回らんクソたれがっ!」

「なんじゃこの腰抜け!?鬼はこえぇのに、怪我した弟には手ぇあげようってかっ!?」

「鬼もお前も怖くなぞ無いわ!この阿保クソたれ!」

「あっ!?いってぇ~!?」

 次郎さんの吊られた腕にあてられた添え木を、一郎さんはぴしりと指で打ち据えた。次郎さんがたまらずその場に蹲り、一郎さんを睨みつける。

「てめぇこのクソ兄貴!鬼退治のこの次郎になんちゅうことしよるんじゃ!?」

「……あんなもん、熊かなんかの見間違いじゃ!鬼などおってたまるか!」

「じゃあこの怪我と屋敷の荒れようは何だっちゅうんじゃボケェ!」

「……じろちゃん、いっちゃん、けんか、せんでぇ。」

 いよいよ激しくなってきた二人の喧嘩を止めに、か弱い声で割り入ったのは、小さなわらべである。その小さなわらべは、二人の着物の裾を握り、ひとみから大粒の涙を流している。

「……富さん。」

 二人がそう言って悲しそうに見詰めるわらべは、その通り、富さんでもあった。不思議なことに、元よりわらべのようなところのあった富さんは、あの夜以来、心だけがわらべに戻ってしまったのである。どうしてなのかは、それもまた、俺には分からない。

「仲直りに、みんなでお団子屋さんごっこをしましょ」

 そう言って笑い、広い庭の池の方に駆けて行く富さんの後ろ姿はやはり、俺の目には小さなわらべにしか、うつらないのだった。

「……鬼を斬ってめでたしめでたしなど、お伽噺の中だけよ。」

 そう言って庭の砂を蹴る一郎さんは、どうやらまだその怒りが収まらぬようで、眉間にしわを作り、梅干しのような赤ら顔で屋敷へと戻っていく。

「……ふんっ、けったくそわりぃクソ兄貴じゃ」

 背を向けた兄弟の影が、少しづつ遠くなる。

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