後編

 ――昔、地元の映画館でファイト・クラブという映画を、見たことがある。古い映画館だった。確か――その時は……信じられない組み合わせではあるが、ファイト・クラブとISOLAというホラー映画が抱き合わせて上映されており、俺は後者を見る為に、殆ど観客の居ない――居たとしても、それは精々映画の内容になんて微塵も興味のない、ただ二人きりになる場所が必要なアベック程度の――寂れた映画館へと足を踏み入れた。はっきり言うなれば、ファイト・クラブに対して、俺はなんの期待も抱いていなかった。

 けれど、どういう訳か俺は――本当の目的であったISOLAの内容を殆ど覚えて居らず、代わりに――というべきか、ファイト・クラブのことばかりを鮮烈に記憶している。それほどまでに、あの映画は素晴らしかった。一切の遠慮や忖度の類いを感じさせない暴力描写。男性性に属する人間にしか理解出来ないであろう、あの興奮と熱気の再現。舌を巻くような比喩の数々。

 ――神に捨てられた子供。口の中で唱える。映画の中で、主要人物の一人――タイラー・ダーデンが父親に捨てられた子供を揶揄して使った言葉。まだ人格の形成されていない子供にとって、父親というのは神にも等しい存在である。そんな父親に捨てられたのだから、それは神に見捨てられたのにも等しい――とまぁ、そういう理論だ。

 俺は後部座席で、哺乳瓶にしゃぶりつく赤ん坊を見ながら、ぼんやりとそんなことを思い出した。つい数時間前、サービスエリアで俺と森山が苦心しながら制作した粉ミルクは、赤ん坊の小さな――そのくせ、吸引力だけはある喉によって、数秒で吸い尽くされていく。――神に見捨てられたって、強かに生きていけるものなんだよな、子供って。

 そんなことを思いながら――趣味の悪いJ-POPを垂れ流していたカーラジオのボリュームを下げた。

「ねぇ、和志君」

 それまでうとうとと船を漕いでいた森山が――唐突に呼び掛けた。数時間前、千葉のファミリーレストランを飛び出して、もうすぐ二時間が経過する。その間、こいつが言ったことと言えば――「ねぇまだ着かないの?」と「あとどのくらい?」、それから「ねぇ和志君、こいつ漏らした」くらいのものだ。どうせまた、陸な事を言わないのだろう――。身構えつつ、「どうした?」と返事をしてやる。

「なんで、このバイト――引き受けてくれたの?」

 唐突な質問に、少しだけ、まごついた。質問の意図が分からない。このバイトの内容を知っている第三者から問われるのならば、多少知りたがる理由も理解できるが、まさか依頼してきた本人から訊かれるとは――。少し声が滞る。

「なんだよ、それ」

 回答する代わりに、苦笑して見せた。声と口角は――辛うじて笑っているかのように装えたが、如何せん顔の筋肉が強張ってしまっている――。けれど森山は屹度、それに気付いてはいないだろう――その瞳は、ミルクを飲み終えんとしている赤ん坊へと向けられていて、俺の方を微塵も見てやいない。

「いやぁ、ね」

 意味ありげな区切り方。不安から湧き上がる生唾を呑み込む。

「まさか、引き受けてくれるとは思ってなくて」

「いくら同期――あ、元同期か――まぁ、知り合いの頼みでも、殺人の片棒を担がされる、ってなったら――逃げ出すよ、普通は」

 少なくとも僕は、と吐き出すように呟きながら――森山は大きく伸びをする。その様子を見送り、バックミラーから視線を外すと、気が付くと高速道路の出口はもう目の前だった。

 勿論、理解しては居るのだ。もしこの先、森山が逮捕されて――そしてうっかり俺のことを話でもすれば(一応、森山は車に乗り込んで直ぐ、仮に自身が逮捕されたとしても、俺のことは話さない、と約束してくれたが)、俺も共犯とみなされ、そして逮捕されることを。そんな、充分あり得るだろうそのリスクに対して、50000円という金は、あまりにも安すぎるということも。

「金に目が眩んだ」

 冗談めいた口調で、戯けてみせる。森山は――睡魔に襲われているのだろう。さっきまでそうしたように、長い睫を伏せて、うとうとと頸を靠れている。

 金に目が眩んだ、なんて答えこそしたが、そうじゃないことは――俺自身が一番よく、解っていた。今、森山の腕の中で――叔父である森山と同じように眠っている赤ん坊、奏に対して少なからず俺は――シンパシーを感じている。

 それは、きっと――俺もまた、だからだろう。俺はある時期に世間の話題を掻っ攫った、体の良い捨て子入れ――改め、赤ちゃんポストに投函された子供だった。父親はおろか――母親でさえも、俺を必要としていなかった。そんな俺だから、自分と同じように――神から見捨てられ、暗い、人の眼の届かない場所へと押し込められたこの赤ん坊に、奏に自身を見立てていて(とはいっても、奏と俺には、母親に愛されていたか否かという大きな違いがあるのだけれど)、この赤ん坊が大人になれば、屹度自身の母親に――或いは叔父に問い掛けるだろう。〝どうして私には父親が居ないの?〟と。そのとき、問われた相手は正直に、何故彼女が生まれてきたのか、何故父親が居ないのかを知らせなければならない。彼女はきっと、自分の中に、不貞行為を働くような人間の遺伝子が流れていること。そして、父親が自分を、自分の母親の苦しみを知らないまま、のうのうと生きていることに心から傷付くだろう。――そんなことにならないように――例え今、俺と森山が例の男を殺したとしても、奏の身体にその遺伝子が流れていることには変わらないし、奏が将来、傷付く可能性が全くなくなる訳でもないけれど――森山の運転手として、カーエアコンが吐き出す煙草臭い息を受けている。

 ――そんなこと、言えねぇけど。

 噎せ返りそうになりながら、カーナビに目を遣る。黙り込んでいたそれが唐突に、『目的地付近です』なんて声を発したので――俺は慌ててブレーキを踏んだ。シートの背もたれに頭をぶつけたらしい森山が、素っ頓狂に「痛っ」と一声、叫んだ。


「あー……此処かぁ」

 後部座席から身を乗り出しながら――森山は、目の前にある一軒家をじっと見た。二階建ての小さな家。プラスチック製の鉢植えが、縁側で嫌に輝いていた。

 カーナビの画面上に表示されたランドマークがぴこん、ぴこん、という音を鳴らして点滅している。シートベルトを外しながら、森山が苛立った風に、五月蠅い、と呟いた。

「なかなか良い家住んでるじゃん」

 俺は答えない。それが単なる独り言――正確に言うなれば、今から森山が殺す存在、彼奴と呼ばれている件の男に宛てた嫌味――なのか、或いは俺に対して反応を求めている故の呼びかけなのかが判別できなかった。

 戸惑いを隠せない俺を無視して、時間は――森山の殺人計画は進んでいく。今だってほら、助手席と運転席の間から――徐に、赤子が差し込まれた。

「ちょっとこれ、持ってて」

 姪っ子をこれ、なんて言ってもいいのかよ、という疑問が即座に生じたが――それを言って、どうやら不機嫌らしい森山を刺激するのも些かナンセンスな気がしたし、それに何より、ファミリーレストランで、俺もまた奏のことを『これ』と呼んでしまった事実が脳裏に過ったため、俺は口を閉じたまま、赤ん坊を、森山の白い腕から取り上げた。

 礼も言わないままに、森山は車から降りる。俺も慌ててその後を追おうと――片手でシートベルトを解除し、些か苦心しながら(眠っている赤子を起こさないように何らかの作業を行う、というのはなかなかに難しい作業だった)――できるだけ音を鳴らさないようにして、降車した。

 見ると、森山は、それまで自身が乗っていたトラックの荷台――俺を迎えに来たその時から、碧いビニールシートの被せられたそれを漁っている。もしかしたら彼処には――チェーンソーなんかが置かれていて、森山は今からそれを使い――13日の金曜日さながらの惨状を成し遂げるつもりなのかもしれない。――嫌なようで、少し滑稽な想像が脳内で膨らむ。

 実のところ、そこから飛び出したのは、鉄パイプという――ある種の業種に就いている人間ならば見ない日はないだろう、在り来たりで有り触れた、つまらない物質だった。森山は――いつの間にやら軍手を嵌めた掌に、鉄パイプの表面をぽん、ぽん、と打ち付けながら玄関ドアへと向かっていく。――俺といえば、森山がこれからどうするのかを、自分が一切知らない、ということに気付き――思い返せば、森山に頼まれたのはこの場所までの移送であり、着いてからのことは一切語られていなかった――自身がどう行動するのが最善なのかが解らず、さながら白痴の子供が目に付いた人物の背を追い掛けるように、森山の後ろを歩いた。

 家の中からは――ワイドショーだろうか――テレビのひび割れた音声が聞こえてくる。森山は、金色のドアノブにそっと手を掛け――それを何度か上下にさせた。ガチャガチャ、という音が鳴るが、ドアが開く気配は微塵もない。舌打ち――それも、俺が今まで聞いたことがないくらいの、盛大なそれが森山の唇と唇の間から漏れる。

「目立つから、いやなんだよな」

 頭皮を掻き毟りながら、森山は庭へと回る。そして――さっと縁側の上に立つと、鉄パイプを思い切り振りかぶったのだ。刹那的に、色々なことが過った。此処は仮にも――とはいっても、人影は殆ど見えないが――住宅街だ。住人は近隣から鳴る大きな物音、それも硝子の砕ける音には人一倍敏感なはずだ。――そんな中で硝子をぶち破るなんて荒技に出たら、気付かれてしまう――。おい、待てよ――と俺が言えた頃には、既に窓硝子は割れていて、ガシャン、という音が辺り一帯に鳴り響いていた。

「何?」

 右手を出したまま――馬鹿みたいなポーズで停止している俺を、森山が振り返った。慌てて――周囲を見回す。幸いなことに――この音を聞きつけた人間は居ない様だ――周囲には相も変わらず、人っ子一人いない。

「なんでもない」

 苦く笑ってみせる。微かに凹んだ鉄パイプを引き摺りながら、森山は土足で――家の中へと踏み込んだ。俺は――それを踏襲すべきか戸惑ったが――もしこのまま庭に居続け、万が一にも近所の住民に、穴の開いた硝子の前で呆然としている姿を見られたら、確実に俺が犯人だと誤解――共犯なのだから、あながち、犯人であるという解釈も間違いではないのだが――誤解されかねない。

 隣家から――ベランダが開く時独特のきりきり、とした音が鳴ったので――俺は、丁寧に磨かれたフローリングの床に足跡を付けることに負い目を感じつつも――泥だらけのスニーカーで、木製のそれを踏み付けた。

「あいつはね」

 森山の言葉を横目に、リビングを見回す。嫌に掃除の行き届いた部屋。この部屋のテーマはきっと――日本人が思い浮かべる北米、だろう。なんとも趣味の悪い、カントリーな家具。

「今、謹慎中なんだ。だから――きっと、この家の中に居る筈だよ」

 ふと見ると、リビングのテーブルの上には、緑色の紙――離婚届、と名の付けられている、これまで数多の夫婦の仲を引き裂き、そして神に捨てられた子供を産みだしてきたのだろう用紙――が置かれている。

 テレビは付けっぱなしになっていて、先日発生したらしい汚職事件について――したり顔のコメンテーターがああでもないこうでもないと――取り留めのないような、なんだか本質的なところからズレているような、持論を述べている。

 森山は、部屋の中を見渡している俺を振り返り、「行こう」と、一声だけ発した。

 鉄パイプがフローリングのワックスを削り取る。俺は小さく頷き、自身が抱えている奏の方を見た。奏は、笑っている。これから、自分の父親が殺される、ということを理解していないのか、それとも理解していて、笑っているのだろうか。

 俺はそんな奏の頭を撫でてやると、既に歩き出していた森山の背を、慌てて追い掛けた。


 男は、隣の部屋に居た。俺と森山が窓硝子を割ったことにも――そうして、家の中に侵入したことにも気付いていない様子で――ただ、パソコンに向かい――甘ったるい嬌声を上げているのだろう(彼がイヤホンを付けていた為、俺と森山にはにはそれが聞こえなかった)女性を見ながら――自慰を、していた。森山は――音も無く、そんな彼の背後に忍び寄る。

 そうして――自身の手の中に輝いている、銀色のそれを、彼の頭目掛けて、振り上げた。――その数秒後に起こるであろうことは、安易に予想できた。自分の目の前で――酷く恐ろしく、そして悍ましいことが起きる、と――俺はその瞬間、確かに理解していた。その上で――俺は、その光景から目が離せなかった――。

 森山は、鉄パイプを振り下ろした。ゴン、という鈍い音が鳴り――彼の身体が――彼が座っている椅子とともに――さながらスローモーションの映像の様に、ゆっくりと床に倒れていく。イヤホンが、パソコンから半ば強引に抜き取られる。甘い――この状況に最も見合っていない甘ったるいまでの声が、部屋一杯に響き渡る。

 突如として床にたたきつけられた痛みと、後頭部を金属質のもので殴られた痛み――その二つに、彼が苛まれているのは、一目瞭然だった。それでも彼は、床の上で藻掻き、暴れていた。彼は、自身を突然に殴り付けた人間を視認するべく、振り返ろうとしていた――。

 何かが潰れるような音が、森山の足元から、鳴る。見ると――森山は、男がなんとか振り返ったところにすかさず鉄パイプを振り下ろした様で――森山の足元には、鼻が、眼が、かつては美しかったのだろう面影をどことなく残していた顔面が、そしてそれを形成するパーツが、ぐちゃぐちゃに潰された男が、転がっていた。

 それから――まるで何かに取り憑かれたかのように、森山は彼の身体に鉄パイプを振り下ろし続けた。頭部ばかりを殴っては、彼があっという間に死んでしまう、ということに気付いたのだろう。森山は、頭以外のありとあらゆるところ――腹部を殴り、腰を殴り、そして足を殴り付けた。その都度、彼は「うぐっ」だとか「ぐふっ」だとか――文字にしがたい、低くくぐもった悲鳴を漏らしながら、身体を震えさせていた。

 酷く楽しそうに――さながら、蛙や昆虫などの小動物を殺すことを楽しむ子供のような、無邪気さと狂気を孕んだ微笑を浮かべながら――森山は、彼を甚振り続けた。

 何処かの骨が折れる音。男の肉が潰れ、血が噴き出す音。それらが――彼が倒れて以来、ずっとこの部屋に響き続けている女の嬌声と混じり合って、さながら――最悪のシンフォニーを俺の鼓膜へ届ける。

 例えるならば、森山はその楽団の指揮者であり、また同時に、唯一の演奏者でもあった。森山が手を振り下ろす度、楽器である男の身体から音が鳴った。もしその音色が――ホルンのように壮大で、それでいてハープのように美しい物だったならば――俺がそうすることはなかったのだろうけれど――気が付くと俺は、祈っていた。普段ならば、貶め、軽蔑している神々に。この悪夢のようなオーケストラが一刻も早く終わるように、と。

 ――実のところ、俺がそうする必要は、全くと言って良いほどに、無かった。俺が求め、神々にまで請うた終わりは、意外とあっさりとやって来たのだから。

 そのとき森山は、彼の性器を潰そうとでもしたのだろう。彼の下腹部へ、鉄パイプを打ち付けていた。不意に――彼が「ぐあぁっ」という大きな声を上げた。それまで漏らしていた悲鳴とは違う――一体全体何が違うのか、それを具体的に言葉には出来ないけれど――一種異様なものだった。そう声を上げたきり――彼は何も言わなくなった。微塵も動かなく、なった。例え、森山が、彼の性器を粉砕したとしても、また。


「死んじゃった――かなぁ」

 そんなこと――硬直が始まりつつあるその身体を見れば、一目瞭然だろうに。すっかり動かなくなった彼の体を足蹴にしながら、森山はぼんやりと呟く。――その問いが、誰に宛てられた物では無い、ということは、その場に居る誰もが――俺だけでは無い。既に息絶えたかの男や、屹度、長旅に疲れてしまったのだろう――小さな寝息を漏らしながら、眠っている奏ですらも解っていた。

 男がすっかり動かなくなったことを確認すると、森山は、それまで固く握り締めていた鉄パイプをその場に放り投げ、自身の背後で――奏を抱いたまま、立ち尽くしている俺を、振り返った。

「帰ろうか」

 その白い肌は、明るい色に染められた髪は――男の返り血で、赤く汚れてしまっている。けれどもそれを拭うことも、そしてそれを気にする様子すらも、森山は見せなかった。そんなものが気に留まらないくらいの高揚感が――今、森山の身体を包んでいるらしかった。

 俺は、白い毛布にくるまった奏を抱き寄せると、大きく、頷き――未だ、女性の嬌声が響き続けているその部屋をあとにしようと、静かに踵を返した。


 帰り道は、存外あっさりと終わった。行きに起こったハプニングの数々は――例えば、奏の脱糞や、哺乳瓶の紛失なんかは――俺等の元にやって来てはくれなかったのだ。見慣れた町並に入った時、俺はなんだか、行きよりも短い時間で移動することができた、という満足感に襲われただが――どうやらそれは錯覚だったらしい、時計を見ても、時間は然程短縮できていなかった。

「和志くん」

 後部座席から、森山が呼び掛ける。前方を車が走っていないことを確認して、バックミラーを覗き込んだ。森山は眠っているかのように目を伏せ――背もたれに身を倒しながら、奏を抱いていた。その姿が――窓から差し込む夕日によって橙色に輝いている白い肌が、固定されたかのようにぴたりと動かない手と、それとは対照的に、まるで首の据わっていない子供のようにゆらゆらと蠢く頸とが相乗し――まるで死体のように見えて――俺はぎょっとする。

「ありがとうね」

 森山は、目を開けない。厭な予感がした。もしかしたら森山は――俺が帰った後直ぐ、死ぬつもりなのでは無いか、と。どうしてそう思ったのかは解らない。根拠らしい根拠なんて、勿論なかった。けれども、俺の動物的直感――実のところ、それが実生活で役だったことなんて一度も無いのだけれど――が、そう告げていたのだ。

「――なぁ」

 まだ、森山が何か言おうとしているのを遮り――声を出す。見切り発車だった。何を言うかなんて、決めていなかった。けれどもここで何も言わなければ、屹度後悔すると――俺は理解していた。

「あの、さ」

 我ながら酷い状態だった、と思う。声は震え、吃りに吃っていた。

 次の声を紡ごうと、舌の先で、必死に言葉を探る。

「俺は――……」

 俺は。森山のしたことを見て、森山の動機を知って、この目で見て、この耳で聞いて、――どう思った? 何を、感じた?

「お前のしたことは、間違ってないと――思うよ」

 稚拙な言葉だった。けれども俺なりの精一杯が、其処には詰まっていた。言葉足らずだったけれど、何もかも不足していたけれど。

 本当は、言いたいことが山ほどあった。俺の家庭環境のこと。俺が自分の両親について――片方は売春婦、そしてもう片方は誰なのかすらわからないという事実を知り、傷付いたこと。だから――なのか。森山がしたことを見ているうちに、何故か救われたような気持ちになったということ。例え世界の誰が敵になろうと、俺は森山のしたことは間違っていない、と主張し続けるつもりだということ。――けれど、それら全てを語り尽くすには、この帰路はあまりにも狭く、そして短すぎた。

 森山の方を、もう一度だけ、見る。森山は――何時かと同じように――目を丸くして、きょとんとした様子で俺を、バックミラー越しの俺を見つめている。栗毛が、夕日に当てられて――絹の糸のように、或いは獅子の鬣のように、俺の目には写った。

 森山は、やがて顔を綻ばせると「随分、気障だねぇ」と、笑った。俺はなんだか酷く照れ臭くなり――アクセルをぐっと踏み込んだ。解散場所である――俺の家は、もう視界に入っていた。


 俺が車を降りる間際、同時に車から降りた森山は――しわくちゃの茶封筒を――屹度、報酬金である50000円が、入っているのだろうそれを、俺へと差し出した。けれども、俺はそれを――首を横に振り、受け取らなかった。

 森山は大層訝しがり――それは他でもない俺が数時間前、このバイトに参加した理由を『金に目が眩んだから』と答えたせいなのだけれど――「本当に要らないの?」「あとから言われたって、俺困るからね?」と――車を発進させるギリギリまで俺に確認していたが、俺が一貫してNOの姿勢を保ち続けていたため――結局、森山はそれを俺に渡さないままに、そこから去って行くこととなった。

 森山とは、それっきりだ。俺から連絡を取ろう、という気は起こらないし、森山の方から連絡を寄越すこともない。事件から数日間は――テレビのニュース番組がこぞって森山と俺が起こした事件について報道していたが、それに対して『犯人逮捕』という続報は今のところ出ていないから、どうにか逃げ延びているのだろう、と思う。 


 俺の生活はさして変わらない。職業安定所と自宅を毎日往復し、職が見つからない現状に悶々とする。最近では、日雇い労働に身を落としている。勿論、将来――年老いてからも働き口が見つからず、日雇いすらもできなくなったときのことを全く考えなかったわけではない。ただ、どれだけ将来のことを案じ、思案したとしても――もし今死んでしまえば無意味だ、という結論に至ったため――はじめたのだ。

 けれども、どれだけやることが増えようと――俺の生活の根本的な部分は、変化していないように、思う。殺人事件、という重大な――殆どの人間はそれに直接触れることがない儘、その生涯を終える――イベントに参加したのにも関わらず、だ。これからもずっと、そんな人生なのだろう、とも、俺は思う。俺みたいな平々凡々な人間が、殺人事件の共犯となったということ自体、イレギュラーな事態だったのだろう。

 けれど、そんな俺の生活にも、変化があった。例えば、昭和の香が残る、レトロな商店街の片隅に。例えば、人が住んでいるのか住んでいないのか解らないような、ボロボロのアパートの壁に。大通りから外れたところにある、仄暗い路地裏に。――『父親への復讐、代行します』という物騒な文言の書かれたポスターを見掛けるようになったことだ。

 それは、何処かで未だ俺の知っている殺人犯が、その罪を問われることも無く飄々と生き残っている証であり、また同時に、俺が共犯となったあの事件が、確かに実在していることの、静かな証拠でもあった。

(了)

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チルドレン・アバンドンド・バイ・ゴッド KisaragiHaduki @Kisaragi__Haduki

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