チルドレン・アバンドンド・バイ・ゴッド
KisaragiHaduki
前編
「ちょっと貴男、これ――虫の脚が入ってるんだけど!」
怒声にも似た、どことなく得意気な声で、俺は我に返る。
――どうやら、自身でも気付かないうちに、居眠りをしていたらしい。本場のイタリアン――とはいっても、俺はイタリアに行ったことはおろか、本格的なイタリアンを食べたことすらないので、あくまで人伝に聞いた話ではあるが――と比べると、遙かに低品質で粗悪なイタリアン擬きの匂いが蔓延したファミレスの中を――怒声の主を求めて、俺はぐるりと見回す。
「どうなってるの――?! 衛生管理が不十分なのね、この店は?!」
その張った声の主は、すぐに見つけられた。髪に――どことなく、過ぎ去った70年代の面影がある――老いに老いきった、中年の女。
五月蠅い、とさえも思わなかった。ポケットから携帯電話を持ち出す。9時30分。俺がここに来てから、まだ15分しか経過していない。
にわかに熱を帯びた――果たしてその理由が、俺がつい数秒前まで渋々、熱々のドリアを突いていたからなのか、或いは俺の体温が触れたからなのかはわからないが――スプーンを皿の縁に置く。
窓の外に意識を向けた。職業安定所の、体温の感じられない無機質な建物――そして、そこから覚束ない足取りで出てくる、死んだ顔の若者が、駐車場に停車している――ワンボックスカーに吸い込まれるようにして向かっていくのが、見えた。俺は知っている。――かのワンボックスカーには、少し頭の禿げ上がった、初老の男が乗っていて――職業安定所から出てくる人間の体格だとか、顔つきだとかを品定めすると、「あんちゃん、良かったら日雇い、やらねぇか?」などと声を掛けてくるのだ。幸いにも俺は、このひ弱な身体――知り合い曰く、風が吹くどころか、少し空気が流動しただけで折れてしまいそうな肉体のお陰で、そんな経験をしたことはなかったが――何度か、俺と同時に
清掃が行き届いているのだか行き届いていないのだかわからない――傷とシミだらけのテーブルの上では、ポケットの中からついさっき引きずり出した――くしゃくしゃになってしまったレシートがエアコンの風に煽られて、揺れている。その様は――3ヶ月前、俺が最後に見た職場の様子とよく似ていた。
――3ヶ月前、会社が倒産した。
ある日、俺がいつも通り出勤すると――三台のうち二台が故障しているコピー機をはじめとして、社員の数に対して多すぎるデスクと椅子や、訳の分からない標語がいくつも連ねられているポスター、俺が自前で買ってきて――犠牲者である同僚たちへの労いとして設置したコーヒーメーカーのみならず、ゴミ箱や、社内で一番可愛い女の子が寝る間も惜しんで縫い、社員全員に配ったボックスティッシュケースまでもが――忽然と、消えていた。
唯一残されていたのは――常日頃から、無能を絵に描いたようなかの社長が自信の権威を示し、威張り散らす為の道具として用いていた――『社長』という間抜けな文字が刻まれた三角錐と――「当社は本日限りで倒産しました」という――最低で最悪の文面の綴られた、コピー用紙のみ。
はじめは――何が起こっているのかわからず――これらの所業を一晩にして成し遂げたのだろう社長に只管電話を掛けたり――予てより社長の愛人ではないか、という疑惑のあった広報部の女子社員にメールを送ったりして――その場に広がっている現実から目を逸らそうと躍起になった。しかしながら、社長は1回たりと電話に出ることはなく――(というよりかは、俺は――1回目に電話を掛けた時、携帯電話から聞こえてくる『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』というアナウンスを耳に入れてから、社長当人と連絡をとることを諦めた)愛人(と言い切るのは大変心苦しいが、態々『愛人では無いかという噂が立っていた女子社員』と言うのは時間が掛かるので)から帰ってくるのは「私もよく知らないの」という味気ない返信ばかりで――俺は漸く――自身が新卒以来5年間勤めていた会社が倒産し――自分が仕事を失った、ということを悟った。
それから数ヶ月間は、求職の為に駆けずり回った。そう、それこそ――あの職業安定所に足繁く通っては――そして持って居る資格の少なさだとか、俺が求めている条件だとか――俺が勤めていた会社のせいで自社が大損害を食らったから、だとかの――尤もらしいような、そうでもないような理由で門前払いされたりしていた。
そんな不甲斐ない俺に、唯一評価できる点があるとすれば――日雇い労働に身を落とさなかった、ということだろう。曰く、日雇い労働というのは麻薬のようなものだ。脳を停止させ――現場監督という不必要に偉ぶっている人間の指示に従って、ほんの数時間肉体を働かせるだけで、報酬を得ることが出来るのだ。その楽さと容易さに魅入られ、年老いて、雇ってくれる現場が少なくなっても、尚――日雇いしかできない、という男を俺は何人か見たことがある。
けれど――そんな強がりが出来なくなる位――最近の俺には、余裕がなくなっていた。俺の両親――とはいっても血の繋がっていない養父母ではあるが――昨今耄碌し始めていた彼らが、俺が労働によって得、そして将来のためにと貯めていた金を残さず――訳の分からぬ新興宗教につぎ込んでしまったのである。
――俺は、何が何でも働かなければならなかった。
カウベルの音がして、貌を上げる。髪を金色に染めた女と――その女の子供だろう――中学生くらいの少女が連れ立ってレジの前に立っていた。なんで学校があるだろう時間にこんなところに居るのだろう、だとか――娘は学生の筈なのに、どうして耳にピアスを開けているのだ、だとかの疑問点はやや在ったが――少なくとも、その少女と母親が俺の待ち合わせている人物ではない、ということは――寧ろ、それだけははっきりと解る。
勤め先が倒産し、その上生活費まで両親によって使い込まれた俺は、生まれつき持ち得てしまった――いつだって肝心な時に俺の邪魔をしてきたプライドのために、日雇い労働という社会に排除されかけている存在が最期に残された、社会の一員としてやり直すための手段に身を落とすこともできず――ただ餓死を待つほかに方法がない程、困窮していた。そんなある日のことだ。アドレス帳の片隅に登録して――以来、自分からメールを送ることはおろか、何かが送られてくることの一度としてなかった、『森山裕哉』という連絡先から――「アルバイトしない? 此処から中野まで運転してくれれば、50000円払うんだけれど」という――時代が時代なら――そう、喩えば今が学生運動やテロが頻繁に起こっていた70年代だったならば、着信拒否はあまつさえ――通報さえされかねないようなメールが送られてきたのは。
「おとーさん、見て、あの人――」
隣席から声が聞こえてくる。出来る限り――俺がそちらを見ていることを悟られない様に覗き見ると、つい数分前には口の周りをデミグラスとケチャップで汚していた男児が――屹度、俺のガラパゴス携帯――ガラケーが珍しいのだろう。子供からの呼び掛けに応じず、ひたすらパスタをフォークで巻き取っている父親と覚しき若い男性の服の裾を掴みつつ、俺を指差していた。
男児の髪は栗毛とでも形容しようか――日本人にあるまじき明るさとゆるやかなカールが存在している。その栗毛は、俺が30分もの間(色々なことをつらつらと考えているうちに、時間が経過していた)今か今かと待ちわびている人間――森山裕哉のそれとどことなく似ていた。
ふと想起して、
そんな存在が、なんだって――尽くしていた会社が潰れ――流石に彼奴だって、かつて自分が勤めていた会社が潰れたことくらいは知っているだろう――無職生活を謳歌しているであろう――同僚に――それも、酷く疎遠の――たった数時間、車を走らせるだけで50000円を払う、という割の合わないアルバイトを頼もうと思ったのかは、その理由は未だによく解らない。
携帯に内蔵されている時計が13、という文字を表示したのとほぼ同時に、俺はまた――40分前、この店に来た時にしたのと同じように――窓の外を見た。
ついさっき俺を指差し、母親と覚しき女性に注意されていた男児が、これまたついさっき、彼のことを注意していた女性と手を繋ぎながら、ワインレッドのミニバンに戻っていく様子が見てとれる。
ふ、と俺は――前に窓の外の様子を窺ったときには見受けられなかった車が一台、増えていることに気付いた。今にも爆発してしまいそうな――至る所が凹み、拉げている――よくもまぁこの見た目で車検が通ったものだ、と言いたくなるような――ボロボロの軽トラック。セロハンテープで微かに補強したあとの見える窓ガラスを挟んだ向こう側に、見覚えのある――しかし、微かに色がくすんだ気もする――栗毛が覗いている。
――待ち人来たる。俺は慌てて目を逸らす。何も後ろめたいことなんてしていないのだから、そのままあの運転手――もとい、森山を見つめていても良かったのだけれど、何だか俺が奴のことを待ち望んでいたかのように思われるのは――たとえそれが事実であっても――些か、癪であった。ドリアの上で、既に乾燥を始めている海老をスプーンで突く。ついさっき、母娘が入店した時と同じように――カウベルの音が、頭上から聞こえてくる。
「すいません、待ち合わせ、なんですけれど」
森山独特の、惚けたとも腑抜けたとも違う奇妙な口調。
店員の女が『あ、それではあちらの方かもしれません』と言いながら、視線を俺に向ける様が想像できる。現に――その声は、今、慥かに俺の鼓膜を震わせている。
「ありがとうございます」
森山の声が礼を言う。ほぼ同時に、ゴム製のスニーカーがワックスの掛けられた床の上を滑る時にしか聞かないような、ぎっという音が俺に近付いてくるのが、聞き取れた。小エビの殻を奥歯で噛み潰しながら、俺は微かに顔を起こす。
――其処には、森山裕哉が立っている筈だった。明るい、現代社会ではそうそう見掛けない――明るい色の髪をハーフアップにして、これまた日本人離れした端正な顔に、余裕に満ち満ちた笑みを浮かべて、立っている筈だった。
「やっほー。久しぶり――荒井田和志、君」
――結果から言うなれば、慥かに、其処には森山裕哉が居た。俺が想像していたのと寸分違わない、現代日本の中に埋もれさせていくには惜しい、美しい容姿を持った青年が――俺のかつての同僚が――隙間なくタトゥーの入った掌をひらひらと蝶のように動かしながら、立っていた。
けれど――森山には、付属品があった。そのシルバーアクセサリーだとかの類いが一切ついていない白魚のような指には似つかわしくない、モデルかと見違えてしまうほどにすらりとした肢体には似つかわしくない、付属品が。
――森山裕哉は、赤ん坊を抱いていたのだ。
「お前――それ――」
森山が投げ掛けてくれた挨拶に返答するのも忘れて――俺は口をあんぐりと開けて、目の前の人物――森山に見入っていた。驚愕のあまり開かれた手から、ついさっきまで握られていたスプーンがするり、とすり抜け落ちていく。カン、という耳障りな音が――一瞬、静寂が支配したファミレス店内にさながら、静けさの終焉を告げるかのように鳴り響く。
屹度、森山は――俺が「それ」と呼んだものの対象がなんなのか解らなかったのだろう。鼻の先でも眺めるような目つきで俺の視線を追い――そしてそれが、自身の抱いている赤ん坊に向けられている、ということに気付くと、「あぁ」という嘆声を漏らし、そして、小さく笑った。
彼が腰を下ろす。ビニール製のソファが、腫れぼったい音を鳴らしつつ――微かに凹んだ。
「これ、って――随分酷いなぁ」
ごめん、と――森山に聞こえたか聞こえなかったか、それくらいの声量で呟き、俺はついさっきまでしていたように、俯く。テーブルの下に、俺が落としてしまったばっかりに――興味を向けられなくなってしまったスプーンが、蛍光灯の光を反射させている。その自己表現は――もう少し状況が違っていれば、滑稽――或いは、健気なものとして消費できたのだろうが、生憎、俺にはそんな余裕がない。
脚を動かし、「僕は此処に居るよ」と煩わしいまでのアピールを繰り返しているスプーンの柄を、蹴り飛ばす。音の一つも立てないまま、それは――光の一つも差さない――方向へと滑っていった。
「姉貴の子供」
え? と、言葉を呑み込みながら、俺は顔を起こす。数秒ほど考えて、森山のその言葉が、ついさっき俺が投げ掛けた――問いかけの形を取っていなかった問い掛け――『お前、それ』に対する回答である、ということに気が付いた。
「姉貴って――梓さんか?」
森山は些か、物憂げに頷く。この場で――『姉貴』或いは『梓さん』と呼ばれている、森山の姉を、俺は確かに知っていた。というのも――俺の目の前の人物、森山裕哉は、長野の田舎町からその身一つで上京し、そして大手証券会社に就職した姉のことを誇りに思っているようで――たった一週間の新人研修で一緒になっただけの俺にまで、その話を何度も語って聞かせていたからである。
「梓さんの子供――梓さんは? お前、真逆この子供抱いたまま俺とドライブにしゃれ込もう、ってんじゃないだろうなぁ」
洒落た言い回しができた、と、にやけてしまいそうになるのをぐぐっと堪えながら、俺は自分で自分を讃える。きっと、森山も、俺のセンスに脱帽――とまではいかなくても、「洋画に影響されすぎ」程度の返事はくれるだろう――。期待しつつ、俺は森山の表情を――何も、こそこそする必要なんてないのにも関わらず――盗み見た。
けれど。俺を迎えていたのは――森山の、気が抜けたような微笑ではなく、ましてや「なんだよそれ、ジョークのつもり?」という軽口でもなく――まるで、白痴でも見るかのような目つきと――戸惑いから「え」の形に歪んだ色素の薄い唇――そして、不自然な形で俺に突き付けられた細長い指、たったそれだけだった。
「えぇ――君――普段、テレビとか見てないの? ニュース、とか――」
俺はまた俯き、小さく首を振る。働いていた頃ならば兎も角――預金を勝手に使われてしまってすぐに、テレビは質に入れたし、新聞を買う余裕もなくなっていたので、ニュースの類いなんかは殆ど確認していなかった。インターネットに接続しようにも機器が――スマートフォンはおろか、パソコンさえも持ち合わせていなかったので――ネットニュース、と呼ばれるものを読むことも叶わず。
――自己がどれほどまでに社会から隔離された生活を送っていたのかを思い知らせられているのが堪らなく恥ずかしくて――俺は奥歯を噛み締める。
森山は、そんな俺の様子を暫く、信じられない、とでも言いたげに見つめていたが――俺の顔面が段々と熱を帯びていることに気が付いたのだろう。苦々しく笑って、「今時、テレビとかなくても――案外なんとかなるもんね」と呟き、俺に微笑んだ。苦笑、という言葉のよく似合う――気遣いと、憐憫に満ちた微笑だった。
「姉貴、ねぇ――」
重苦しい息――思えば、森山は此処に来てから、溜め息ばかり吐いているような気がするが吐かれる。ソファに深く身体を凭れさせながら、森永は――それまで指先で弄んでいたナイフとフォークをそっと、数時間前の俺が――このドリアは美味しいから、森山が来たら取り分けてやろうなんて暢気なことを考えていた俺が確保していた空き皿へと立て掛けた。カチャリ、という間の抜けた音が鳴る。
「逮捕、されたよ」
――はじめ、俺にはその言葉の意味が分からなかった。その単語が――『逮捕』という言葉が――テレビも久しく見て居らず、それに加えて、殆ど人と会話することのない俺にとってあまりにも不慣れな言葉だったからかもしれない。ただ、俺は薄らぼんやりとした気持ちで――逮捕という言葉の不可思議な発音を口の中で只管繰り返していた。が、やがてその意味に気づき――「えっ」という言葉を――森山がその事実を明かした3分後に口から飛び出させた。森山は「タイムラグが酷いなぁ」と言って、少し、笑っていた。
森山当人曰く、森山の姉――森山梓は、至って平均的なOLだった。
東北の片田舎から上京して、そして、千葉の――少なくとも、その近辺に住む人間でその会社を知らない人間はいない、というほどの大手証券会社に就職し――彼女の人生は順風満帆であった。――ただ一つ、彼女に、妻子のある恋人がいる、という難点にさえ目を瞑れば、まさしく彼女は完璧な女性、と言えただろう。
けれども梓さんは、OLとしてだけではなく、愛人としてもまた、優秀な女だった。恋人である彼の秘密を誰にも漏らさず、そしてまた、彼の妻に対して自身の存在を匂わせることはせず彼の家庭の平穏を乱すことなく、彼からの寵愛を受けていた、らしい。もし彼女に非があるとしたら、それは――避妊をきちんと行わなかったこと、くらいだろうか。
……彼女の妊娠が発覚すると、彼女の恋人は、すぐに姿を眩ませた。メールアドレス、電話番号、住所、そうしてSNSのアカウントなどといった連絡先の全てを変更し、彼女が自身と連絡が取れないように努力――果たしてそれを努力と呼ぶべきなのかは甚だ疑問だが――した。また、彼はそれだけではない。自身の妻に愛人の存在を知らしめ、そうして愛人を訴えさせた。(森山は――この男について語る時、少しだけ不機嫌な声色になった。当たり前だろう、自身の姉を弄び、挙げ句自身の懐まで暖めたような男のことなんて語りたくないに決まっている)
つまるところ、彼女は、示談金によって――有り金を殆ど持って行かれてしまったのだ。それだけではない。彼女の恋人は、彼女が勤めている会社に、彼女が不倫をして居たこと、そしてそれによって訴訟を起こされていることを伝えた。とばっちりを食らっては堪らない、とでも思ったのだろう。証券会社の上層部は、それから3日と経たないうちに、梓さんを解雇した。
きっと梓さんは、途方に暮れただろう。今まで一生懸命に働いて手に入れた賃金を――そして失われたそれを再び手に入れる手段である職を――そのどちらも、一遍に奪われてしまったのだから。それに、彼女には――もう一つ、問題があった。妊娠である。金銭が――そしてそれを稼ぐ手段もない梓さんは、堕胎をすることも出来なければ――だからといって、産み育てることもできない。彼女は屹度、悩んだだろう。男の俺が想像できないくらいに悩み、苦悩したのだろう。――その果てに出た結論が、公衆便所で赤子を一端産み、そしてその後、コインロッカーに押し込める、という常人には些か理解しかねる解決策だったとしても――俺は彼女を責める気にはならない。
一応、梓さんの名誉の為に断っておくと――梓さんは子供を殺すつもりなどは、毛頭なかったらしい。梓さんには、兎に角お金がなかった。自分ひとりの生活費でさえ、それまでの貯金を切り崩してなんとか工面していた位だったのだから、もし子供を産んだとしても、そのままその子を育ててやるためのお金は、全く――と言って良いほどになかったのだ。だから、コインロッカーに入れることで――誰かにその子を拾って貰おうとした。そしてその拾った相手に――金がなく、育ててやれない自分に代わって、子供を倖せにして貰おうとした。――その妊娠が発覚したばっかりに、恋人も、貯金も、仕事さえも失ったのに――それでも、我が子の倖せを願っていたのだ、梓さんは。
しかし、そんな梓さんの思いは、そんな事情を微塵も知らない警備員には伝わらず――彼の目には屹度、梓さんは『子供を遺棄しようとしている無責任な女』として写っただろう。梓さんはあっという間に取り押さえられた。そして、保護責任遺棄罪で起訴され――留置場へと送られた。
警察に呼び出され、例の赤子――なんでも名前は奏というらしい――を引き取って欲しい、という話と――梓さんが何故そんな行動に走ったのかを聞かされた、森山は――あ、一応言っておくと、姉の方ではない。弟の裕哉の方だ――その話を聞いて、ものすごく、腹が立ったらしい。何故、姉ばかりが責められなければならないのだろう、と――。姉は、子供を捨てようとした女として、全国に顔を晒され、挙げ句刑務所に入れられたというのに、不貞を働き――その責任を全て姉に、梓さんに押し付けた男はなんの咎めもなく、のうのうと生きている。――そのことに、森山は凄く、腹が立ったらしい。
「というわけで――和志君には、彼奴の家まで僕を運んでもらいます」
聞きたいことは山ほどあった。なぁ、と呼び掛ける。森山は――空中で手を遊ばせている赤子に向けていた視線を――視線だけを俺へと向けた。
「その人に会って、お前――どうするの? まさか、その子を育てる様に言うのか? それとも――慰謝料を払わせるとか――」
森山の目的が、その何れでもないことは、俺だって解っていた。案の定、森山は――まるで、俺が昔、初代アメリカ大統領の名前を言えなかったときのように――目を丸くして、俺を見返した。
「殺すよ」
予想通りの言葉だった。森山は、あっけらかんとした口調で「当たり前じゃん」と言葉を付け足すと、右手に奏という名のだろう赤ん坊を、左手にレシートを持ち、立ち上がった。まるで、それが当たり前なことであるかのような森山の態度に――愕然としている俺を置き去りにして。
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