#くねくねとかがやくもの

海野しぃる

くねくねと輝くもの

「怖い話ってほどのものじゃないんだ。ただ、昔ちょっと」


 俺はいつも飲み屋でそうやって話を切り出す。

 なんとなく刺激が足りなさそうだったり、心理的に不安だったり、そういう相手に話しかけては話題の尽きた頃に、酒の勢いを装って、少しずつ。


     *


 ずるっ、べちょ。

 ずるっ、べちょ。

 ずるっ、べちょ。

 粘液質の音を立てながら純白の菌糸類が田んぼの上でのたうち回っていた。

 菌糸類、まあきのこ。えのきとか、ムーミンのニョロニョロとか。

 だがそれは実に奇妙な光景だった。

 下手な操り人形みたいにみっともなく起きたり転んだりして、泥まみれになっていてもおかしくない筈なのに、それは美しい白い輝きを保ったまま、醜い泥の中で戯れていたのだから。


「お兄ちゃん、何が見えたの?」

「ユウスケ、お前は見るな」


 お祖父ちゃんからは田んぼの方をあまりジロジロ見るなと言われていた。

 だから弟には見せられないと思った。


「でも、お兄ちゃんだけずるいよ!」


 そう言って弟は僕から双眼鏡をひったくり、僕と同じ物を覗き込んだ。

 弟は声変わり前の甲高い悲鳴を上げながら双眼鏡を手からおとして逃げていく。

 馬鹿な奴だ。見るなとは言ったのだ。

 僕はまだ田んぼの中でくねくねと輝く白い菌糸類を眺めている。

 黴の菌糸のバカでかくて白いやつが、田んぼの中で粘液質の異音をあげながらまだ動いている。

 泥に塗れることはない。

 汚れを知らないくねくねとゆらめく菌糸類。


「ああ……」


 弟は気づかなかったことだろう。

 あの白いくねくねの上に、細くて輝く青い空の色をした糸が一本垂れ下がっていたことに。

 祖父ちゃんが見るなと言ったのはきっとそれのことだと思った。

 弟は見なかった。それでいいと思った。


     *


「ってのが、子供の頃の話だよ」

「えー、こわい」


 目の前の女はわざとらしく震えてみせる。

 彼女の頭の糸は黒く、頭上に向けて真っ直ぐに伸びている。

 人間の身体には糸がついている。じいちゃんにも、父さんにも、母さんにも、弟にも。黒い糸は人間の糸だ。死んだ人間をどこか遠くに連れて行く。


「似たような話が昔ネットで流行ったからね。田んぼの中でくねくねしたものを見るって、きっと似たような経験をした人が多かったんじゃないかな」

「その後はどうなったの? ネットの怪談みたいにあなたは狂ってもいないし、弟さんは無事なのよね?」

「どっちも元気に社会人だ。俺は爺ちゃんにトンカチで滅茶苦茶殴られたよ。俺だけ、理不尽だよなあ」

「だ、大丈夫だったの?」


 俺は思わず笑ってしまう。

 大丈夫なものか。本当ならとっくに死んでいる筈だ。

 両親が祖父を止めに来なければ、俺が墓の下に居た筈なのだ。


「強いて言えば少し飲みすぎたかもしれない」


 今日は失敗だなあ。こんなことでは警戒されてしまうかもしれない。

 けどそれが良いという相手も居る。


「どこか別の場所で飲み直さない?」


 女はそういう類だったらしい。俺にそう言って愛想良く微笑んだ。


     *


 するするする。

 しゅるしゅるしゅる。

 夢の中で、青い糸は俺の全身をくまなく覆っていた。

 最初にその青い糸に気がついたのは、俺を殺そうとした祖父が失敗した時だ。


「つれていかれる」


 大の大人であった祖父が泣きそうになりながら悲鳴を上げて、意識を失った。

 そのまま祖父の意識は戻らなかった。

 ボケていたのだろう。

 周囲はそう言った。


「可哀想に」


 父母は泣いていた。

 確かに可哀想ではあった。

 俺の身体に巻き付いていたくねくねと同じ空の糸が、俺ではなくてお祖父ちゃんを連れて行ってしまったのだ。

 あれはきっと人間が行くところではない。

 高校に入ってからすぐ、初めて出来た彼女が死んだ。糸に連れて行かれたんだと思う。ある朝突然居なくなっていたという。


「俺が……死んでおくべきだったんじゃないかな」

「兄ちゃんは悪くないよ」


 弟にそう言われた時、流石に胸が痛くなって、俺は生まれ育った土地を離れることにした。


     *


 俺は、ホテルの一室で夢から覚めた。

 もうとっくに朝だった。


「あ、目、覚めた?」


 そう言って女は笑う。

 なんて名前だったっけか。晩まで飲んでいた相手だっていうのに思い出せない。普段、こんなことはないのに。


「ああ、そういえばあなた。名前はなんて言うんだっけ?」


 相手に聞かれると俺は適当な偽名を答える。身分証も持ってきていないし、財布の中には最低限の現金しか無い。足がつくのは避けたかった。

 女からの質問に答えず、俺は勝手な話を始める。それは必要なことだった。俺以外の誰かを引っ張っていってもらう為に、俺以外の誰かにもこのくねくねを知っていてもらわなければいけなかった。


「糸はさ。繋がるんだよ。俺に近い奴に繋がる。そうして引っ張る。どこに向かうのかは分からない。どこに行ってしまうのかも分からない。いつも俺を引っ張っている。俺は嫌だ。俺は怖い。俺はあっちにいきたくない。つれていかれる」


 昨日の夜の記憶は無いが、必要ないと思った。

 もう、俺に絡まっていた糸は、女の方に移っていた。

 あの日と同じ空色の糸が、閉ざされたカーテンを透過して、いくつもいくつもいくつも、女の手脚型首胸背中腰まわりに、まるで縫い付けたようにぴったりと。


「何を言っているの?」


 答える必要はない。もうじき消える相手だし、居なくなっても惜しくもないような相手だ。そういう相手がよかった。糸は俺の身近な相手を連れて行くから。居なくなっても惜しくないような、身近な相手。男でも、女でも、構わない。


「私はそこには繋がってないよ」


 次の瞬間、青空色の糸、その全てが彼女の体をすり抜けた。

 代わりに全身がガクンと揺れる。

 まるで出来の悪い操り人形にでもなったみたいに、俺の身体は右へ左へ振り回されて、眠っていたベッドに何度も叩きつけられる。


「さようなら、お憑かれさま」


 指先、指関節、手の甲、手首、腕、肘、二の腕、肩甲骨、背骨、首、脳天、腰、太もも、ふくらはぎ。

 ハッキリと繋がれている感覚があった。これまではずっと、俺が他人に押し付けてきた側だったからだ。

 次の瞬間、クンと俺の全身が何かに吊り上げられた。

 あの日見たくねくねのように、俺の身体はまっすぐに伸び上がり、糸の先へと吸い込まれていった。


     *


 車椅子に座っていた。

 全身に力が入らない。

 ひどく眠い。


「……ありがとうございました」


 少し大人になったユウスケが、知らない女に頭を下げている。

 

「お兄様は発見した時にはもうすでにこのような状態で……」


 女が言ったことは嘘だ。けど、怒るつもりにはなれなかった。


「ユウスケ……」

「兄ちゃん、お帰り」

「こんな時に話すことではないかもしれませんが、お兄様はもう……」

「いえ、いいんです。家には少しばかり蓄えもありますし、あとは俺が兄の面倒を見ます。●●さんには大変お世話になりました」


 女は少しばかり残念そうに眉根を寄せる。

 名前が上手く聞き取れない。


「ユウスケ、糸が……糸が……」

「何を言っているかわからないよ、兄ちゃん」

「お兄様は衰弱なさっています。もう長い間一人でしたから……」


 糸が見えない。

 あの女に繋がっていた糸も、俺自身の糸も、ユウスケの糸も。

 視界がすっきりと広がっていた。

 舌がもつれて、意識も薄れ始めて、もうだいぶ曖昧な状態だったが、それでもなんとかして伝えたかった。


「一人じゃなかった」


 目の前の二人が視界の中から消えていく。

 懐かしい田舎の土の香りがしない。車椅子の感覚が無い。音が聞こえない。目も見えない。


「ありがとう」


 一人にしてくれてありがとう。


     *


 ずるっ、べちょ。

 ずるっ、べちょ。

 ずるっ、べちょ。

 単調なお囃子の音色によく似たリズムで、何かが這い回っている。

 珍しくもない話だ。君だって、よく見ているだろう。

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