悪魔の心臓

Meg

悪魔の心臓

 人はどうすれば恐怖に勝てるのだろう?

 亡霊の心臓を撃ち抜き、首を切り落とし、のどを締めるには、どうすればいいのだろう?

 ジョウゼフ・コンラッド

 

 ある地方都市の、そこそこ大きな病院でのこと。

 

 郡山勇雄こおりやまいさおは、三年前のある日を思い出す。

 あの日のあの時は、そう、夕方ごろ病院の診察室にいて、患者の診察をしていた。外は曇り空で風がビュービューと吹き荒れ、今にも嵐になりそうだった。

 

「これなら退院できるでしょう。よくがんばりました。元気になってよかった」

 白い壁、四角い診察室。丸椅子に腰掛け、郡山は温和な笑みを浮かべて、患者に向かってやさしく告げた。白衣で眼鏡、中肉中背で中年の医師の郡山は、いつも柔和な笑みを浮かべ、誰にでもやさしい言葉をかけ、よく人から好かれていた。

 患者は笑顔で会釈し診察室を去った。入れ違いに白衣に禿頭、眼鏡、痩せた初老の院長が入ってきた。

「やあ郡山君。がんばっているね」

「院長。ありがとうございます」

「患者からの君の評判は病院一だよ。次期院長は谷上先生に決まっているが、君の方がふさわしいかもな」

 郡山は苦笑した。

「やめてくださいよ。僕は上に立つ人間には向いていないです。第一あの谷上先生との権力争いはおっかなくて心臓が持ちません。僕は……」

 突然郡山の胸に激痛が走り、胸を押さえ倒れた。郡山がおぼえている限りでは、院長がしきりに何かを叫んでいた。その内に風の音は強まり、雨が窓ガラスを激しく叩きつけ始めた。


 夜もふけた頃、強風と雨が窓を叩いていた。外から見える木々は、強すぎる風によって今にも折れそうだった。嵐がやってきたようだ。受話器を持った眼鏡、白衣、中肉中背の中年の男、郡山は、三年前のあの日と同じ嵐によって、忌まわしい記憶を想起させられたことに苛立ち、ふいと窓から目をそらした。

 誰もいない病院内の狭いスペースに、デスクが置いてある。その席にふんぞりかえった郡山は、デスクトップのパソコンをいじりながらムッとした顔で固定電話の受話器に向かって話をしていた。かつてのいつも浮かべていたやさしい笑みは微塵もなかった。画面には診察記録のデータが写っていた。右足を上下に激しくゆすり、無意識の内に少しでもイライラを解消しようとしているのが見てとれる。

 三年前のあの日を境に、人が良いと言われていた郡山はすっかり変わってしまった。やたらと気が大きく大胆で、不遜な男になってしまった。温和さや、やさしささえもどこかへ消え去ってしまった。

「おい、診察記録を見たぞ。例の末期ガンの患者なんで受け入れた。どうせすぐ死ぬぞ」

 電話の相手は部下の医師だ。郡山からすると、とにかくお人好しで感情的な使えない医師だった。

「この病院は患者の死亡率が低いのが売りなんだ。……助かりそうな患者を選んでるだけ?この病院の院長は俺だぞ。俺に逆らうとどうなるかわかってるのか?……たたられそう?それが本心か。この臆病者が!」

 郡山は怒鳴りながら固定電話の受話器を乱暴にデスクに叩きつけた。そしてため息をつき、パソコンの画面を見たまま、思い直したように再び受話器を取り、看護師長の番号を入力した。診察記録を見ている内に、強い疑念がわいたのだ。

「おい、看護師連中の欠勤が続いてるぞ。どういうことだ?……みんな最近流行りのウィルスの院内感染を怖がってる?ふざけるな。俺は看護師どもが来ないから毎日直々に患者に処置までしてやってるんだ。さっさと出勤させろこの役立たず!」

 またも郡山は受話器を乱暴にデスクに叩きつけた。すると携帯に着信音がした。画面を見たまま郡山は面倒そうに電話を受けた。

「もしもし?お前か」

 郡山の妻からだった。郡山にとっては、気の弱い、従順すぎるつまらない女だった。

「何の用だ?仕事中に電話するなといつも……秋介が熱?」

 秋介は郡山の一人息子だった。息子のことごときで仕事を邪魔されたことに、郡山は舌打ちした。

「不安がって俺に会いたがってる?私も怖いから早く帰ってきてほしい?そうか、だが俺は帰れないんだ。……人でなし?あなたは変わってしまった?3年前心臓病で手術する前はもっと暖かい人だった?知るか。俺は仕事で忙しいんだ。戯言には付き合ってられん」

 郡山は乱暴に会話を打ち切り電話を切った。三年前がどうのといわれると余計に腹が立つ。自分は昔とは違う。『あの出来事』によって、せっかく昔のヘラヘラと弱っちい自分と決別し、強く合理的な男になったというのに。

「どいつもこいつも臆病者!心臓が弱すぎる。いい加減にしろ!」

 郡山がひとりごちると、デスクの上の固定電話のベルが鳴った。郡山は舌打ちして受話器をさっと取った。おそらく携帯での通話を一方的に打ち切られた妻が、病院の番号まで電話してきたのだろう。

「おいお前。何度も言ってるだろ」

「……ア……シ……」

 聴き慣れた、甲高い妻の声ではなかった。男の低いかすれ声だ。いたずら電話か?それにしても郡山はよく聞き取れず怒鳴った。

「ああ?はっきり言え」

「ア……シン、ゾウ……」

 一瞬だけ、パソコンの画面になぜか天井の画像が現れた。その中心には、無表情で青白く痩せた、シワだらけの老いた男の顔があった。

 電話がぷつんと切れた。パソコンの画面は元の診察記録のデータに戻っていた。

「しんぞう……心臓……?」

 受話器を持ったまま郡山は呟いた。稲妻の白い光が部屋を照らした。彼はふたたび三年前を思い出す。

 

 激しい雨風の音がした。郡山が目覚めると、棚に無数の薬品のある部屋にいた。郡山には見覚えがある。ここは院長室だ。院長は薬剤にも造詣が深く、院長室でみずから薬の研究をしているのだ。

 郡山は胸がひどく痛んだ。荒い息で胸を押さえ起き上がると、立ちながらレントゲンを見ていた院長がはっと振り返った。院長の前の大きなデスクの上には、液体の入った無数のフラスコが置いてあった。端にはコーヒーの入ったカップがあった。

「大変だよ君。心機能障害だ。どうして今まで症状がでなかったんだろう。今すぐに心臓移植をしないと助からんぞ」

 はじめは言葉が理解できず、郡山はただぼんやりとした。そして次第に顔を歪ませた。

「そんな。僕死にたくないよぉ。ママぁ。秋介ぇ」

 郡山は院長に向かって妻と息子を呼び泣き出した(当時の彼は妻のことをママと呼んでいた)。院長は鎮痛な面持ちで言った。

「私も君を死なせたくはない。しかし……。都合よく脳死の者でもでてくれれば別だが」

 都合よく郡山のために脳死する者など、いるわけない。

 郡山は泣き喚いた。院長が肩を落としていると、デスクの上の固定電話のベルが鳴った。

「もしもし、すまないが今は取り込み中でして」

 院長は郡山に背を向け、デスクの上の固定電話を取った。郡山は泣きながら、院長のデスクの端にぽつんと置かれた、コーヒーの入ったカップに気づいた。院長は電話に夢中でカップに見向きもしていない。それを見て、郡山の中である考えがシャボン玉のように浮かんだ。

 もしもカップの中に毒が入っていて、飲んだ院長が脳死してくれたら?

 どうして気の弱くお人好しの彼に、そんな恐ろしい考えが起きたのか、本人でもわからなかった。冷静に考えれば、すぐにその行為は周知され、刑務所行きになるに決まっている。コーヒーを飲む前に院長自身が気づくかもしれない。第一周囲の疑いの目をうまくかいくぐって院長の心臓を手に入れたとしても、自分の体が拒否反応を起こすかもしれない。ばからしい考えだ。

 それでも彼は、その恐ろしくばからしい考えをどうしてもぬぐい去ることはできなかった。確かなのは、生存の欲求は生物の内面を良くも悪くもまるっきり変えてしまうということだった。

 病院近くに、雷が落ちたようだった。

 彼は震えながら、なるべく音を立てず薬棚から数種類の薬を取り出し、コーヒーに混ぜた。薬については、幸か不幸か郡山もそれなりに造詣が深かった。院長は電話に夢中で郡山の行動にちっとも気づいていなかった。それに雨だの風だの雷だのの音もうるさくて仕方なかった。


 嵐の音がさらにうるさくなった。郡山は何食わぬ顔でパソコンに向かい淡々と仕事をしていた。

 さっきのはいたずら電話に違いない。『あいつ』であるはずは絶対にない。『あいつ』はとっくに……。だが、もし仮に何かの偶然が重なり、『あいつ』が生きていたのだったら?

「仮にそうだったとしても、……そうだとしても俺はまったく怖くないがな。俺はあれ以来心臓が強くなった。おかげで院長の座を巡ってあの狡猾な谷上にも勝てたんだ」

 すべてはあの体験、『あいつ』のおかげだ。

 ふと、郡山はメールが来ているのに気づいた。

「ん?メールが来てるな。見ないアドレスだ。差出人は、devil……?」

 見たことがない名前だった。郡山はゆっくりとマウスをクリックし、メールを開いた。メールには短くこう書かれていた。


 返シテ 今カラ イクカラ

 

 天井に一瞬だけ誰かの顔が現れた。無表情で青白い痩せた、シワだらけの老いたの男の顔だった。

 郡山は上を見上げた時には、その不気味な顔はきれいさっぱり消えていた。

 雷がしきりになった。


 三年前のあの時も、雷がこんな風にしきりになっていたか。

 床には院長が倒れていた。院長の骨に皮が張り付いたような手にはカップが握られていた。カップからはコーヒーが飛び散り、床にシミを作っていた。

「ごめんなさい院長。僕死にたくない。心臓をください。ごめんなさい」

 郡山は罪悪感で胸がはち切れそうだった。そもそもうまくいくかもわからない。それでも、それでも……。

 稲妻の白い激しい光の中、郡山は院長の前で泣きながら手を合わせた。


 それから郡山は、恐るべき機転と度胸でうまく周囲をごまかし、自身の体に拒否反応も起こさせず心臓の移植の手術を成功させた。それだけには飽きたらず、次期院長に確定していた谷上医師と争い、院長の座まで得てしまった。まさに奇跡の所業、悪魔の所業であった。


 郡山の知らぬ内に、彼の額の汗腺から冷や汗が滲んでいた。

「『あいつ』は手術の後すぐに埋葬させた。とっくに虫の餌だ。ばかばかしい」

 自分に言い聞かせるように、冷静に郡山は言った。だがはたと、額から流れる自分の冷や汗に気づいた。

「ばかばかしい」

 郡山は乾いた唇で静かに呟いた。

 ダァンと大きな音をたてた稲妻に、郡山は思わずびくりとした。

「ばかばかしい。ばかばかしい!」

 苛立って郡山は怒鳴った。彼は自らの中の恐れを恥じ入った。そしてそれを否定せねば気が済まないという思いがムラムラと湧き上がった。郡山はデスクの引き出しからナイフを取り出し構えた。あまりにも医師や看護師が言うことを聞かないと、彼はこれを使っておどしをかけるのだ。

「俺に怖いものなんかないぞ。心臓が違うんだ。かかって来い」

 

 一時間もたった頃だろうか。嵐の音が徐々に遠のき、しんとした沈黙がおりた。

「……ふん、俺としたことが」

 郡山は冷静さを取り戻し、ナイフを引き出しにしまい座った。自分としたことがくだらない幻聴や幻覚に惑わされたと、彼は思った。そしてふたたび、仕事に戻ろうとした。

 ダァンとひときわ大きな轟音のすぐあと、稲妻で部屋一面が真っ白に光った。郡山の首元にひんやりとした何かが当たった。郡山は飛び上がった。

「シンゾ、ウ、カエ、シテ」

 真上から声が聞こえた。郡山がばっと振り仰ぐと、青白い、シワだらけの老人、まぎれもない院長の顔が、郡山の眼前いっぱいに迫っていた。骨に皮が張り付いたような冷たい手が、郡山の首元をつつっとなでた。郡山の悲鳴が部屋に響き渡った。

 

 郡山は冷や汗をたらたらと流しながら、床の上ではっと目を覚ました。そして上半身を起こし心臓に手を当てた。ぬくもりはあった。外の嵐の音も、雷の音も完全に消え去っていた。

 夢か。

 郡山は顔を引きらせ、ヒッヒッとけいれんのような笑いをもらした。

 が、突然彼は心臓をおさえ倒れこんだ。

「うっ、うう」

 郡山はのたうちまわった。

「うう、う、ごめ、んなさ、い院長、う、マ、マ、秋介、うう、こ、こ、わいよ、死にた、くな、い、死にたくない、死にたく……」

 郡山は動かなくなった。

 

 後日解剖の結果、郡山の死因は極度のストレスによる心臓発作と診断された。彼の心臓はといえば、彼の体内にきれいに残っていた。

 

 悪魔とは、善良の心である。

 悪魔を殺す方法はたった一つ、自分を殺すことである。

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