リグレット

柚木呂高

リグレット

 依言イー・イェンは特別美人ではなかったがカオリナイトのように白く、また少し高揚するだけで皮膚が桃色になるのが儚くて愛おしかった。


 あの頃の香港は今のように整然としておらずまだあらゆるものが雑然としていたし、私の生活は王家衛ウォン・カーワァイの映画で夢見たようなネオンで照らされた花椒のごとき痺れるロマンチックな事件があるわけでもなく、ただ漫然と消費される学生時代といった様相を呈していた。だがそれは極彩色ではないものの、ある種の美しい思い出として私の中に刻まれたのだった。


 日本での学生生活から逃げるように高校生の頃から中国の学校に通っていた私は、家賃の安さから大学に通う頃から九龍城の東頭村道辺りに住むようになった。友人たちには「よくあんなところに住めるな」などと言われたが、住めば都といったところで、部屋も小綺麗にされていたし、近所付き合いも良好だった。


 とは言え私は噂に聞くような夜の九龍を練り歩いていたわけではないし、その暗部というものにも全く関わりがなかった。複雑に入り組んだ道は狭くて暗くてジメジメしていて、その雰囲気、風景、空気感だけが私の知る九龍であり、それ以上でも以下でもなかった。


 依言イー・イェンとは大学に入ってから知り合った。友達の家の飲み会に来ていた彼女と話すと、映画はスコリモフスキが好きで、音楽はマンチェスターが好きだなんてまるで運命だと思った。私たちはすっかり仲良くなって、最初は共通の友人達と会うだけだったのが、次第に二人だけでも会うようになった。九龍の外れのタイ料理屋に行って、センレックを食べるような日々。ジャスミンの香りの思い出。


 私は新しく買ったNew Orderニュー・オーダーの"Republicリパブリック"というレコードを一緒に聴こうと依言イー・イェンを家に誘った。なんだかおしゃれでスマートにキメたように聞こえてしまったら申し訳ないのだけれど、本当は誘い文句を他にも「映画VHSが幾つもあるよ」とか、「好きな日本の作家の本を色々読んで見て欲しいな」とか見苦しくたくさん投げかけて、少し渋る彼女を半ば強引に半ば呆れさせて呼ぶことに成功したのだった。


「もっと薄汚い部屋だと思ってたわ」


 開口一番そう言った彼女はしげしげと私の狭い部屋を眺め回しながら物珍しそうにしていた。やはり映画のVHSやレコードやCDのコレクションに目が行くようだった。私はレコードに針を落とすとビールを冷蔵庫から出して依言イー・イェンに渡した。


「座るところなんだけど、そのネジが緩んでいるボロいスツールかベッドしかないんだよね」

「スツールに座るから大丈夫よ」


 第一歩としては失敗と言わざるを得ない。不公平な選択肢で先を急ぎすぎたようなあまりにも下心が見え見えな質問に我ながら赤面した。しかし音楽は良かった、彼女はビールに促され首を緩やかに揺らして耳を傾けていた。そして印象的なフレーズを聴くと、お互いに目が合って微笑みを交わす。素晴らしい時間だった。


 酔い醒ましに彼女を私のお気に入りの屋上に誘った。暗い階段を登っていくと、外では太陽が沈もうとしていた。暮合に朱に染まる香港を背景に依言イー・イェンはタバコに火を点ける。この薄汚い灰色の九龍に於いて彼女は如何にも閑雅に煙を纏って、まるで一輪の花が咲いたようだった。


 夜も更けて、そろそろお別れの時間かと思うととても寂しかった。先程までの楽しい時間や美しい場面も忘れてただただこの別れの時間を先延ばしにしたいという気持ちだけになっていた。そこに下半身の期待がなかったと言えば嘘だし、正直に言えば彼女が帰るまでに一線を越える気が満々だっただけに、尚更残念だった。私からはそろそろ時間大丈夫? なんて聞くのが怖いので、何も言わずにいると、遂に依言イー・イェンが口を開いた。


「あのさ、もう暗いし」

「うん」私は極力不機嫌な声にならないように気をつける。

「夜の九龍は治安が悪くて危ないって言うから」

「うん」

「帰るのが怖いから泊めて欲しいの」


 私は多分相当ににやけていたと思う。こんなのは我慢するのは無理だ。だって、好きな女の子、しかも人生で初めて仲良くできた女の子だ。それが今日私の家に泊まるというのだから嬉しい以外の感情は全て吹き飛んでしまう。このときばかりは九龍に住んでいて本当に良かったなどと思ったものだ。


 そして私はその日の夜に初めて女性の体を知って、初めて依言イー・イェンの桃色に高揚する肌が美しいことを知ったのだった。


 九龍の私の部屋には誰かしら常に遊びに来ていた。部屋は四六時中煙がもうもうとしており視界が悪く、みんながそれぞれ持ち寄ったレコードがかわるがわる流れ続けていた。私はここで仲間たちと一緒に未知の音楽を共に発見したし、私たちの喃語には時折詩が宿り、青春は強い彩度で脳に焼き付いた。


 ある日、依言イー・イェンはマリファナが吸ってみたいと言い出した。


「ニュージーランドに留学した友人がマリファナを覚えたらしくて、私は酒に酔うようなものでしょう、と言ったら、酒とハッパの区別もつかないなんておかわいそうに、なんて言うのよ。私、悔しくなっちゃって、これは是が非でも試してやろうと思って」


 そういうわけで私と友人たち、そして恋人の依言イー・イェンで相談してどこかでマリファナを調達することにした。どうやって手に入れるかとみんなが頭を抱えていると友人の一人である李元鵬リ・ユァンペンが「俺が九龍の知り合いの売人に話してみようか。」と言い出した。


 李元鵬リ・ユァンペンは私の仲間内では唯一のメタル好きで、仲間内随一の美青年だった。あるとき彼が沖縄で入れ墨を入れたいと言ってきたことがある。沖縄の彫師による鯉の滝登りは活きが良く、色鮮やかだからという理由らしい。私は皆目見当がつかないから、東京の幼馴染の繋がりで彫師の知り合いを紹介してお茶を濁したところ、どうやら本当に渡日したようで、暫くあとに彼は見事な鯉を左足に、龍を右足に刺して、満足気に帰国した。しかし彼の家は少し厳しい家庭だったので、入れ墨がバレるやいなや、折檻の末に丸坊主に髪を剃られた上に柱に縛り付けられて一日飯抜きの罰を受けた。私たちはそのエピソードを酒を飲みながら笑って聞いていたのだが、ビジュアルを重んじる彼としては野球少年のような頭をひどく恥ずかしがっているようで、それがいっそう面白かった。この話は今でもことあるごとに揶揄される話だ。


 私は李元鵬リ・ユァンペンと一緒に九龍の普段行かないような区画に立ち入って、秋生チョウシンという男に会った。悪いことをしようとしているという背徳感と怖い人に会っているという緊張で腹痛に似た感覚を抱えている。秋生チョウシンは読んでる本から目も上げずに私と李元鵬リ・ユァンペンの話にふんふんと頷いていたが、私たちが次に何を言えば良いのか判らなくなって黙ってしまうと初めて視線をこちらに向けた。


「つってもおめえ、東頭村道の品行方正な学生だろ。九龍の食堂でも評判良いんだぞ。俺は商売相手を選ぶんだよ。変な遊びを覚えずしっかり勉強しろ。どうしてもって言うなら俺には頼むな」


 思ってもいなかった言葉に私は驚いて、自分の優等生のレッテルが恨めしく思ったが、悪い人でもこういう温かい言葉を言ってくれるものなのだなと意外に打たれたようだった。彼は再び本に目を落とすと、空いている左手をひらひらさせて、私たちを追い払うような仕草をした。彼の読む本の表紙には"神经漫游者"と書いてあって、仄かな共感を覚えたのであった。


 家にインターネットもないようなときだったので、私たちは藁をも掴むような気持ちになって、九龍の食堂や路地で近所の人たちを手当り次第捕まえてハッパを買える場所はないかと聞いて回った。こうなってくるとどうしても手に入れてみたい。誰もがその効果に興味を示すと言うよりは、意固地になっているような状態になっていた。


 九龍の外で、外国人向けにマリファナを売っているインド人がいるという話を漸く聞くことができて、私たちは夜の香港を歩いた。いつなんどき何かしらの事件に巻き込まれるのではないかと戦々恐々としていた。みんなナメられないように堂々と顔を上げて歩いてはいたが、お互いの距離は非常に近く、それこそ九龍のように稠密ちゅうみつとしていて、体を強張らせて守りを固めているような雰囲気がどうしても滲み出ていたように思う。


 やっと見つけたインド人と会えるとお互いに発音の悪い英語で値段を交渉する。1gあたり400香港ドルで、相場も量もわからないので、友人たちでお互いに目を合わせてお金を折半すると、5gほど購入した。「サンキュー」などとインド人がいうので、私たちも「サンキュー」と返した。


 私たちは足早にその場を去って、私の家に向かう途中、どんどんみんなの歩みは早くなって、見ると一様ににやにやと笑っている。妙な達成感で顔の筋肉は緩み、互いに指差したり手を叩いたりして喜んでいる。やがて私たちは走り出して、大声で笑った。秋生チョウシンがテラス席で近所のお爺さんと象棋シャンチーを打っているところに私たちを見つけて手を振る。李元鵬リ・ユァンペンと私は肩を組んで今しがた買った大麻を誇らしげに秋生チョウシンに見せびらかす。


「おめえら本当に買ったのかよ」

秋生チョウシンに頼らなくても手に入れてやったぜ!」李元鵬リ・ユァンペンが中指を立てながら言った。

「ボラれてんじゃねえだろうな」

「わかんない!」私はとにかく嬉しくて、そう答えた。


 それから私たちは部屋に戻って早速マリファナを楽しんだ。何しろ初めてだったからそれが質が良いものなのか悪いものなのか全然判らなかったけれど、ストーンはちゃんと味わえた。煙を深く吸って息を止めているときに依言イー・イェンと目が合って、お互いに変な顔をして笑わせようとした。笑って煙を纏った依言イー・イェンはきれいだった。


 青春は後悔と恥で塗り固められている。しかし時が経つにつれてまるでそれが最良のもののように輝くのだ。今もマリファナの香りを嗅ぐとあの頃の思い出が蘇る。薄暗く汚い路地、犇めき合う建築、夕日を背に灰色の上で煙を吐いて佇むあなた。

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リグレット 柚木呂高 @yuzukiroko

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