風が吹いていた。白々しく乾いた砂が不穏な気配を察知したように微動した。

 そこは海辺の夕だった。燦然さんぜんと照り輝く太陽が漁火いさりび然とした陽を波及させて、爆撃で死んで浮上してきた魚の鱗のような夥しいほどの煌めきを、藍鉄あいてつ色の波がさざめき立つ海に白いままついえた燃え殻のように散らしていた。

 それは海に映し取られたまま昧爽まいそうの空へと移り損ねた星々の殻のようでもあった。なんにせよ、どこへも行けなさそうだった。終わりの気配が揺蕩っていた。

 夜でもなく、夕とも言い切れない曖昧な狭間の刻──浜辺に点々と落ち窪んでいた足跡を辿る一人の少女は、穏やかな波の音に輪郭をならしつつ、今日もまた一日が終わるとぼんやり思った。

 場違いな鍵穴みたいに真っ黒い足跡を、一つ、見つけた。海風に暴れる夕刻の髪を軽く押さつけて、空いていたもう片方の手で、恐る恐る、鍵穴の中を探ろうとする……と、

 少女は夕色に燃ゆる両の眼を炯炯けいけいと見張って、よろめきながら後ずさった。唐突に、音も無く目の前の砂浜に横たわった見知らぬ影に虚を突かれたのだ。不意打ちが効きすぎたあまり声も出なかった。まるで猫みたいだと、自分で自分が可笑しくなった。

「あ……」

 影の持ち主の姿を燃ゆる逆光の最中に認めた時、少女は思わず声をついた。

 その姿はいっそ影よりも影らしく、まるで真っ黒なシルエットみたいに見えた。目を細めながらでなければ、遠方から煌煌と届く逆光に視界を焼き尽くされてしまって、きっとまともに直視することもできなかったはずだ。だけど、そんな粗い解像度でも感じるくらい、その人はどこか人っぽくなかった。なんというか、人にしては存在が稀薄な感じがした。大気中に揺蕩う柔らかなシーツ然とした夕陽もその稀薄さを前にすれば荒々しい光線に様変わりした。

〝こんにちは〟

 少女は黙って、得体の知れないシルエットを視つめた。

〝そんなに見つめて、どうかしたの?〟

 少女は眉をひそめて視つづけた。いまも絶えず恐れをなしたように震える砂から逃げられ続けている影の領域が蠢いて、不意に取れそうなくらいの落胆ぶりでがっくと首を項垂らせたシルエットは〝あぁ〟と掠れた声を洩らした。

〝そうか。君も武器を持ってるんだ〟

「そんなの持ってない」

〝じゃあ、どうしてそんなにこわい眼で見つめてくるの? 僕に、なにかへんなところでもある……〟

「べつに、なにも」

〝ほんとうに?〟

「強いて言うなら、ぜんぜん強くなさそうなところが、わたしからしてへんかもしれない。人間にしては存在感が稀薄すぎるし、すぐに傷がついてしまいそうだから、おっかなびっくりな態度を知らずの内に取っちゃうのかも。分かんないけどね。それと、眼をこわくしてるつもりなんてないんだけど。ちょっと、失礼じゃない?」

 震える砂浜に立ち尽くす真っ黒なシルエットは、物も言わずに少女を視た。唐突に鳴った猫の咳のような音に虚を突かれて、少女はまた一歩、二歩と、警戒心の著しい猫みたいに後ずさりする。もしかすると、肺に留めきれずに洩れ出た笑い声だったのかもしれない。

 少女は不審がって黙り込んだ。男の声は皺くちゃだった。おまけにどの音の初めも震えていたし、語尾はインクの枯渇したペンで描いたみたいに掠れていた。声は全体的に若さが足りていなくて乾涸びていたけれど、それでも、風体はあんまり老いてはいなさそうで、むしろ少年っぽい青い力が迸っているように感じが取れた。

 さながら足りていなかったピースのように淀みなく逢魔が時に合致する真っ黒なシルエットは、この世界のすべてを一新できそうな炎を波及させる太陽と、それを悠然と受け止める暗くて眩い海を向いた。死んだ魚の鱗みたいな煌めきが稀薄な視線に呼応したようにギュラギュラと光を照り返した。

〝終わるには美しすぎる景色だ〟

「そうかな。おぞましい感じがする景色だよ」

 少女は不貞ふてたように俯いた。つむじに刺さる視線があんまりにも朧げで、少女は不意に沸き立った苛立ちの澱に身を任せて、一生懸命、砂を蹴った。

「終わるには、って、もう死ぬことにしたの?」

〝……違うよ。ただ、ここにいるのを止めるんだ。会いたい人が待ってる場所に帰らなくちゃなんない。君も、こんな寂しいばかりの場所に一人でいないで、自分の居場所に、もう帰ったら……〟

 大きな手負いの獣のような、荒々しくて苦しげな息遣いが波の音に呑まれ続ける。少女は数歩、詰め寄って、苦々しげな顔で吐き捨てた。

「馬鹿らしい。死んだ後になにかがあるとか信じてるの?」

〝…………〟

「生まれ変わりとか、天国とか地獄とか、もうこの世からいなくなっちゃった人たちとか……そんなのが在るって、ましてや待ってくれてるとか信じてるの? 馬鹿らしい。ほんとうに馬鹿らしい。死んだらなにもないんだよ。どうしてそんなことが分からないの」

〝……あるさ……〟

「ない。ないったらない。わたしのお父さんも、あなたがこれからやろうとしてるみたいに、ここにいるのを止めたの。もう、ずっと昔のこと……わたしたちからしたら昔だけど、お父さんはそれなりおしまいになったから……そんなのって、これ以上のことがないくらいに卑怯だ。わたしたちの命はこの世界で完結するようにできてるんだから、端からどこへも行けたりしないんだよ。無理だよ。無駄だよ。無意味なんだよ。だから、」

〝あぁ〟

 ふと、真っ黒なシルエットが小さな歪のように蹲った。

 弱い所を見られることをなによりの侮蔑と感じる孤高の獣のように、よろめきつつ、胸を押さえながらも、真っ黒なシルエットはなんとか体勢を立て直していく。苦しげな呼気と共に離されていった手のひらは、やはり真っ黒に染まっていた。

〝……じつを言うと、僕もそう思うよ。ずっと……ほんとうは、僕らはどこへも行けやしないんだって、ずっと、ほんとうはずっと思ってた〟

 真っ黒なシルエットがひしゃげるような恰好で空を仰いだ。

〝そうだよなぁ〟

 いまにも消え入りそうな声で呟いたきり、真っ黒なシルエットは稀薄な命を巡らせる脈が通った手首を目元に押し当てて、すべてを失くした後のように茫漠とその場に立ち尽くした。

 いま、かいじゅうの内側には、決して色褪せない心像風景と、それに纏わる愛だけがあった。

 それだけで幸せと言い切るためには、かいじゅうの心はもう、悪い魚に食べられすぎてしまっていた。

〝寂しくないわけ、なかったんだな〟

「そんなに寂しそうに、どうしたの」

 少女は共感性の心痛に耐えかねて、か弱い両腕を差し伸べた。

 ──この人は誰かの温もりを求めているんだ。かつてのお父さんがそうだったように──もしも手を差し伸べれば絶対に受け入れてくれるはずだと、苛立ちと思いやりに揺らぐ少女は信じて疑わなかった。

 少女は、真っ黒なシルエットの正体がかいじゅうだとは気がつかなかった。

 小ぶりな両肩に熱い手のひらが押し当てられた。少女は目を見張って、逆光の最中にぽっかりと空いた真っ赤な口内を見つめた。

 けほ、と、猫の咳のような音が洩れた。

〝どうか僕を〟

 ──パンッ。

 一瞬だった。真っ赤な口内から色が溢れた。少女はよく分からなくて、取りなすように曖昧な笑みを貼り付けた。

 ──おいっ! あれはかいじゅうか?

 ──分からない。人か?

 少女はあっけない破裂音の正体に気づいて、気づいてしまったほうがよく分からなくて、表情を元にも戻せないまま、ただ茫然とそこに立ち尽くした。小さな拳を胸の前に構えた恰好のまま、なにかをこいねがおうとしていたかいじゅうが砂浜にくずおれる音を聞いた。

 少女はうつ伏せに倒れた身体を揺さぶってみて、真っ黒いシルエットがべっとりと付着した手を不思議に見つめ、無言の内に引っこめた。

 どさり……という、名も知らないこの人が生んだ最後の音が、いつまで経っても内側でこだまして止まなかった。

 重たい肉体が残ったことと、あっけない命が去り退いたことを報せる、そのあまりにも静謐でいて鮮明な、それは最後の声を継ぐ音だった。

 かいじゅうはあの時、泣いていた。少女は猫の咳のような音を立てて、あまりに荘厳な熱が籠もった涙を一筋、流した。奇跡のように光る涙が降り落ちても、かいじゅうは戻ってこなかった。

 世界を燃やし尽くすことを諦めた太陽はそっけないはやさで海の彼方に沈んだ。今日もまた一日が終わっていくのだ。この人は永遠に取り残されて、どこへも行けずに終わったのだ。

 ──ずさ、ずさ、ずさ……。

 少女はぼやけた思考を無理やり醒めさせて、浜辺の砂を震わせながら迫ってくる四つの足音のほうを向いた。猟銃を携えて近づいてくる二人の大人……少女は粟立つ肌を凍りつかせた。そして、安堵の温さに凍りを解いた。

「どうしよう、凪ちゃん。この人死んじゃった……」

「おーい、なすみ! 大丈夫? もうちょっと撃つのが遅かったら、かいじゅうに咬まれちゃってたよ! たまたま近くを通りかかっただけなんだけど、まさかこんな場面に遭遇するとは思っても……あ、こんにちは。えっと、この子はあたしの友だちです。かいじゅうなんかじゃないです」

「なんだ、やっぱり人の子供か」

「きみ、襲われてたのかい? 怪我はしていない? 怖い思いをさせて悪かったね。これはさっき仕留め損ねたやつなんだ。今日はもうこんな所に一人でいるのは止して、友達と一緒に帰りなさい」

「はい。危ないところを助けていただいて、ありがとうございました。ほら、なすみもお礼をちゃんと……ちょっと、なすみ? どうしたの?」

 可哀想に、恐怖から溢れた涙の跡をまっさらな頬に一筋、光らせる少女は、呆然といった恰好で凪と呼ばれた少女の顔を見上げていた。

 凪は口をへの字型に曲げて「へんなの」と、友だちの、血がついていないほうの手を引き上げた。二人分のお礼を告げて、どれが誰のものなんだか判別もつけられないほど乱雑についた足跡を更に曖昧にしてしまうように、元来た道を戻っていく。

「あの人たち、わたしがかいじゅうかどうか、分からないようだったよ」

「そう。じゃあ、あたしが言わなきゃ危なかったね」

 波の音が幾度も鳴り響いて、いつの間にか踏んづけていたらしいかいじゅうの血が砂に乾いて、一歩一歩と残っていく轍にも滲まなくなってきた頃──ようやく口を利いた友だちを振り返った少女は、得意げな笑みを口元に浮かべた。手を引かれているほうの少女は俯いて、なぜだか暗い顔をしていた。

 やがて、独り言のように呟いた。

「ねぇ、かいじゅうは人間とほんとうに違うの?」

「え? なに、そんなの当たり前じゃん。みんな言ってるよ。かいじゅうは生まれた時の体の構造がそもそも人間とは違ってて、危なくておっかない生き物なんだって」

「でも、凪ちゃんはかいじゅうと話したことないでしょ」

「ないよ。そんなの願い下げだよ。あはは、どんまいだったね、なすみ」

「違うよ。わたし、わたしね? 怒らないで聞いてほしいんだけど、わたしは……かいじゅうを危なくておっかない生き物だとは思わなかったよ」

「ちょっと、いったいどうしちゃったの。驚きすぎて頭がへんになっちゃった?」

「茶化さないでよ」

「いいけど。でも、やっぱりへんだよ。かいじゅうを危なくもおっかなくも思えなかったなんて……だって、かいじゅうのせいで人間はこれまで幾度も危ない目に遭ってきたんだよ?」

「そんなの、わたしは知らない」

「でも、そうなんだよ」

 あの音の気配が次第に背後へと遠ざかっていった。元となる絵をなるたけ同じ風に写生した絵を手元に置いて眺め続けるように、少女の内側ではしかし、いまも絶えずあの音がこだましていた。それはまるで、もうこの世界から去り退いた魂が最期に放った叫び声が、ある一人のちっぽけな少女の内側でめったやたらに残響しているようだった。

「凪ちゃんは、かいじゅうになにか嫌なことをされたりした?」

「ねぇ、なにが言いたいの?」

 なんだか危なげな変化をみせる友だちを、もう海に棄てられて後は魚の餌となるのを待つだけのかいじゅうからなおも遠ざけるように歩いていた友だちは、ついぞ立ち止まった。

「凪ちゃんは、かいじゅうと話したことないでしょ」

 波の音が意図せずして気を遣えたように、沈黙をざざんざざんとすげ替えていく。

「お父さんのことを話したの。わたしのお父さんは色んな人に追い込まれて、とうとう、ずっとあった居場所にもいられなくなった」

 どこかから命を奪う音がする。少女はやるせない怒りを押し留めようとするように目を細めて、ぎゅっと下唇を噛んだ。

「そんな風に大事なものを奪う権利が、わたしたちにあるの? かいじゅうたちにも大事な居場所があったのに、そこで待ってくれている誰かがいたはずなのに、わたしたちがそれを奪うの?」

「だって、仕方が無いんだよ。人間はかいじゅうを追い払うことで快適な未来を築いていけるんだよ。だって、なすみは人間でしょ。人間に生まれたんだからそれでいいじゃん」

「いい?」

「うん。人間だから、いい……あたしだからいいけど、他の子にそんなへんなこと言うのはだめだよ。かいじゅうの仲間だと思われて、いっぱい嫌な目に遭っちゃうよ」

 揺らぎつつある少女はむりに笑んで、強い力を籠めて少女の項垂れている手首を引いた。途切れ途切れの足跡を辿るようにして歩かされている少女は「人間ってなんなのかな」と、独り言のようにまた呟いた。

 だけど、今度はほんとうに、届かなかったようだった。

「……ねぇ、凪ちゃん?」

「……なに?」

「もしもわたしがかいじゅうだったら、その時は、人間のいまと変わりないように、友だちのままでいてくれる?」

「なんでそんなこと訊くの? やっぱり、へんだよ」

「へんでもいいよ。凪ちゃん、わたしがかいじゅうでも……」

「そんなこと考えても意味ないよ。だって、なすみは人間だもん」

「わたしは、凪ちゃんがかいじゅうでも友だちのままでいるよ」

 急いたように先を行く少女は、それでもずっと歩調が心許なさそうで、とうとう、力無さげに立ち止まった。絶え間なく響く波の音がすげ替わる最中、少女は「うん」と小さく頷いて──また、心許なさそうに、今度は鈍く歩きだした。

 少しその気になって見渡せば、世界のあちこちで狼煙が立ち昇っていく情景が眺められた。夜空は雲一つ浮かべていないのに、まるで黒くけぶった煙が垂れ込めているかのように重たそうで、涙が出てしようがなくなりそうなほどに、いまこの小さな体で慟哭を鳴らす心情さながらににがい感じがした。

 少女の内側では、絶えずあの音がこだましていた。それが幾らかにがさを曖昧にしてくれていたから、少女は絶対に、この音を止ませてはいけないんだと信じた。

 あのかいじゅうが最後に希いかけて、そして潰えた言葉の先を紡いだこの音が名も知らぬ少女に忘れ去られずに、世界のどこかで鳴り続けていること──それこそ、あのかいじゅうが追い込まれた果てにたった一つ見出したにがい望みだったんだと、とある人間の少女は信じた。

 少女は火のように熱い手のひらを握り返して、光を求めて空を仰いだ。もうどうにもならないほどに溜まった煙を透かした遥か遠方で、稀薄な燐光を帯びた一番星が秘密の信号のように点滅していた。

 少女は微かに笑んだ。それから、ひたと目を瞑った。口も噤んだ。

 とあるかいじゅうの少年を忘れないでいる少女は、憎らしいような、安堵したような、悲しいような気持ちを閉じ込んだまま、誰かにバレてしまわぬ内にと、人の街へ帰っていった。

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かいじゅうの孤独 井桁沙凪 @syari_mojima0905

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