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メイアイ


どこへ行くにも、自分、自分、自分。人が増え、社会があらゆるルールでがんじがらめにされた。猫や犬の寿命が20年で人間の寿命が80年そこそこなのは、心臓の鼓動の回数なんかとは関係なく、生命力の消費量の差なんじゃないかと思う。社会的なステータスだとかしゃらくさいことに左右されず、畜生達は感覚に従って生きている。お腹が減ったら狩りをする。眠かったら寝る。人間にも備わっている機能だけれど、人間は感覚に従属するのではない、感覚を従属させようとする。あれをやらなければならない。だから食事は後回し。これをやらなければならない。だから睡眠時間を削る。そのくせ、安息を求めて休日には美味しいものを食べたりたっぷり寝貯めしようとする。意味不明だ。

自分というものがあるから苦しいのだ。痛みも辛さも悲しみも、すべてはそれを受け取る自分がいるせいで生じる。端から自分がいるせいだ。──やはり愛し、希望を抱く。安らかに存在しなくなることよりも、苦痛の中で生きるほうがよい。ミゲルが『生の悲劇的感情』で綴ったように、自分は存在する以上主観的に無価値ではあり得ない。すべての元凶である自分は『自分』という存在に価値があるんだと錯覚させ、自分を喪失する唯一の機会である死を忌避させようとする。

『自分』とは人の命にかけられた呪いだ。人は『自分』に価値があると思い込んでいる。たとえ自分の愛せる自分になりたくて、他者から離れることを選んだとしても、あくまで『自分』が相対的に成り立つものである以上、それは空虚な自分っぽいものでしかない。赤ん坊のころから自分を自分だと認識できていただろうか。自分は無数の他者の鏡に映る像だ。言葉も所作もすべては周囲の人間を倣って獲得したものに過ぎない。

一人で死ねばよかったのにね、という言葉を近頃よく見聞する。昔は意固地になって哀しんでいたけれど、最近は諦観に喘ぐようになってきた。人は一人では生きていけない。そうなのだ。人は一人なら生きていかなくてもいい。嫌なことから逃れられる。自分から解放される。それは案外安らかな幕引きなのではないか。でもいまはなるたけ苦痛の中で生きていたいと思う。だとするなら、たとえどれだけ恐れても、他者の鏡に映る像に消沈しようとも、誰かに会って、話をしなければならない。もう籠もりの時は過ぎた。「あなたと話がしたいです」と伝える力を持とう。それでぐずぐずと進むのだ。いつか自分を暖めてくれる居場所が見つかると信じて。

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