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ツケ


よくない状態に入った。気軽に言えば鬱ともいうし、病的に言えばゾーンともいう。心の健康の面で考えると、結局よくないことであるのには変わりないが。よくない。外に出ようか。でも寒いしな。

先日、あるミュージシャンのインスタライブを聞いた。彼の曲は一曲だけすきだ。特に作詞。立ち居振舞いもすきだ。バンドマンという型に囚われていると思われないようなカッコつけ方をしようとして、結局は〝ああバンドマンぽいわ〟と思われるようなカッコつけ方をしちゃっている。ライブ前の円陣。拳の合わせ方。ていうか前髪。そこんところすべて見透かされちゃうようなかわいげがすきだ。つまり器量が無いのに器用でいようとしている。かわいげがあって、すきだ。

そのミュージシャンは野心家で〝もっと大衆的になりたい〟というようなことを言っていた。ただし自分たちのやり方で。自分たちが信じているやり方で売れたい。それはそうだ。もっぱら同意。そしてそれが何より難しい。

ゴッホは晩年〝自分は間違った時代に生まれた〟といったそうだ。そしてその答え合わせをするように、彼の死後何十年か経ってから、彼は偉大な芸術家として認められだした。人を評価するのはいつだって人で、時代はそっけないぐらいあっという間になんの未練も懺悔もなく流れていく。よそ見していても置いていかれはしないが、時代が洗練された新しいファッションスタイルを身に着けていくなかあんただけがボロ臭いもんぺを羽織ったままでいる。それで「ダサい」「みっともない」と人に評価されて、懐古主義という大手の旗を振って対抗しようがなんでもいいが、めそめそ泣いたってなんにもならない。あんたは変わっていかないぜ。時代はどんどん変わっていくんだから。
ゴッホは当時にはまだ受け入れられないへんぴな服を身に着けたまま死んだ。そして死後、彼の服は洗練された一つの個性として認められたわけだ。浮かばれない。ほんとうに人って好き勝手やりおる。自分が信じる美しさがその時代に合っていないと気づいたとき、人は真に絶望するんじゃないだろうか。ちょうど〝自分は間違った時代に生まれた〟って具合に。

なにか上に羽織ることはあれど、このへんてこな服を脱ぎ捨てようという気は自分には毛頭ない。自分が信じる美しさは常に時代に包まれているという感覚があるので、自分はこの先、真に苦しむことはあれど、絶望することはない。だって死んだ後に評価されても分かんないでしょう。こんな時代に生まれちゃったら生まれちゃったで、振り回される前にその袖引っ掴んで振り回してやろうと思う。〝バカめ、いつから振り回している気でいた?〟なんつって、好き勝手暴れてやっても足りないぐらい。だって自分たちは、時代がコンマ百年後には忘れちゃうぐらいずっと短命烈火な生き物なんだから。

ようは、驕ってはいけないということだ。自分のバイブルにもなった映画作品が、インターネット上で散々酷評されていると後々知ったときに感じた鬱屈を忘れてはいけない。
彼が言う〝大衆〟がいったいどこからどこの範囲を指しているのかは分からないし、無粋な推測もしたくないが、全ての人に称賛される作品など在り得ない。かといって、自分の作品を称賛してくれる人だけがいる世界に閉じこもってはいけないと思う。そんなの見せかけの大衆であり、真心ある家族の前でお遊戯的ファッションショーをするようなものだ。盲目的で閉鎖的な場所からはなにひとつ美しいモノなんて生みだされやしない。

なるほど、自分が思う〝大衆〟は〝時代〟と同義なんだな。

あ、書き忘れていたけれど、これは脳内でごちゃごちゃと喧しい音を立てて犇めきだした考えや疑問をほっぽりだすための置き場みたいなもので。十分もかけて書いていないので、読みにくいことこの上なしかもしれない。酒があればきっとこんな考えもぷちぷちとアルコールの臭気放ちながらいい具合に消えてくれるんだろうけれど、生憎まだ未成年なので、こんなまだるっこしいやり方でしかいまはじっとしておいてほしい考えを落ち着かせられないんです。すみません。じゃあせめて公開すんなって憤慨してる人もいるかもしれないけれど、そんな人はよくぞここまで読んでくれたなどうもありがとう。これは予行演習なんです。自分が信じる美しさを美しいままにしておくための。

結局は人がいないとダメなわけで。服だって人前に出るから着るわけで。これがわたしのセンス! つって蛍光色のサインペンさながらに街を闊歩する人には多少の憧れとつまんない苦笑を送ったりするわけですが、あれもきっとマジで世界中の人が称賛してくれるなんて思っていないはずでしょう。たぶん。思ってたらすごい。マジで。
悪く言う奴には言わせておけばいいって考えは自分の心を全方位守ってくれる高性能な盾だけど、なにから守っているのかなんのための盾であるのかを忘れちゃダメだ。人はほんとうにかわいい生き物だから、そのうち悪口だけでなく自分の身を慮ってくれてるが故の飴と鞭の鞭的な批判もまるで聞かん坊に弾くようになり、そしたらその盾はもう心を守るための全方位防御壁じゃなくて、ただ盲目的に閉じこもるための壁になってしまう。
それが俗に言う〝大人〟という生き物なんだけど。悪い科、悪いほう目の。


人と関わるのを避けてきたツケがここできたかーと気が滅入っている。
自分は人を信じていない。人と人は分かり合えない。自分さえ信じてやれずに、と思うときは多々あるけれど、自分すら盲信したくはない。少しずつ信じることで、誰も信じない。そんな風にひねた生き方をしてきて、やっと見つけた〝信じれる美しさ〟が対大衆でないと成り立ちません! とか、ほんとうにまあこの世界はうざったいぐらいによくできてるよなぁと笑ってしまう。

これから向き合っていかなければならないんですね。生まれてからいままでずっと着てきたへんてこでところどころ破けたこんな服を着たまま、自分は生きていかなくっちゃ。
とりあえず、死ぬときに〝自分は間違った時代に生まれた〟なんてこれっぽっちも思わないような人生を送りたいですね。がんばります。すみません。

1件のコメント

  • はじめましてななこです。いつもしゃりさんの文章拝見しています。同じく高校生です。

    これを読んで脳内に浮かんだことを言葉にしてもザクザクと大鉈で切り取ったような文章にしかならないけど書きたいので頑張って書いてみます
    たしかに自分が信じる美しさを美しいままにするためにまだ未成年の私が使えるコマンドって限られてて、仮に逃げるを選んだってずっとずっと頭の中には残り続けるもので、文章にして自分から切り離して永遠に消えないように置いておく作業は大切だと思います。揺らがないと自己暗示するために。頭を沸騰させてダメにしないように。だから何って言われちゃいそうだけど共感したんです。すごく。解釈が間違ってるかもしれないけどいいんです。私の頭がそう捉えたんだから。
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