ほんの何回かだけだけど、張り詰めた神経がたわんでいたあの頃になぜか激昂されて←😩🤷♀️(そのほうがいいよ)と思ってしまったことがある。民衆を縛りつける倫理や道徳がグッと汗ばみ可視化されるようなとき、私は私の生存権を保護するそれらを取っ払って目の前の相手にハグしてあっけなくほろりと崩れてなくなってしまえばお互い気持ちがいいだろうなと心底思えた。そこに付随する痛み、面倒な臭みのことを忘却してしまえるのが私の自分自身に甘ェところで、ずっと哀しいやりきれない目をして怒っている他人に見下ろされている状況がなんとももの悲しく、あー私はこの光景をまたどこかで思い出すことになるんだろうなと予感したことをよく憶えている。
学校がなければよかった。別に構わないからという態度で人間と接すること、それは相手によっては蔑ろにするのと同等の行為なのだと、知りたくもないことを知った。知りたくもないことを知った。知りたくもないことを知り、何遍も何遍も思い知らされて、抉るようにじっくりと、わたくしはわたくしの独りでいるべき輪郭を授かりたもーた。
当たり前のことを言い逃してきたからなのかなぁ。約束は守ったほうがいいと思っていることや、信頼にこたえたいと思っていること。誰かを傷つけないで済むのなら、それが一番素晴らしいと思ってるよ。まるで善人みたいだから信じてもらえないけれど。それだって、ただ闇雲に世界を走り回って得体の知れないどうぶつのような扱いを受けていた頃の自分が不憫でならなくてそう思わずにはいられないというだけで…そういった〝分からない〟の数々がワタクシお得意のだんまりを誰にも取り除けないほど丈夫に育ててきたのだとして。 あんなにもけなげなまねっこがけちょんけちょんに失敗するのなら、どうせならもっと、痛みのすくない形で独りぼっちになれたらよかった。でもネ。私にだって、みんなには分からないんだなと困り果ててしまうことが常々あったんだヨ。
同じ荷物を背負いながらへんな目的地を目指す私に〝アイツは自分を大事にしていない〟とか、どよめいていたみんなに、それでも「私は君たちより先に大事な約束をしてきてる」とは言えなかった。動機がなんであれ〝キミを想ってのことだ〟と動き回る人びとに「失望には慣れているよん✌️」と、「信頼と期待の区別がつく」などとは、どうしても言うことができなかった。もしか、そういうのが最小限の私の罪かもしれないな、そしてクソでかい災いの元になりました。
でもわたしたちが約束をしてきたのはそういうものだったでしょう。晒け出した途端に情けない目に遭ってしまう気持ちは、おさない頃、誰もが抱えていたのではないですか。いつ手放したのかも計れないほど普通に、〝普通〟だと──手垢まみれの適解にもたれている人間たちに説明したって仕方がないことはあるんだよと、私は先生からでも親からでもない。遠くにいる天使たちに教わりました。
『君たちはどう生きるか』を観た。素晴らしかった。感動した。私はやはり胸を張って生きていかなければならないのだと思った。責任なんて無いよ。誰も他人の生き死にに責任を負えない。それでも言うのだ。生きろ、死を忌むな。光の中にいて、影をよく見て備えるんだと。わたしたちに、猛る風の只中で伝えてくれる。それを無下にしたくない。
〝あなたが信じたことは正しかった〟と、胸に手を当てて言ってみせる、それが自分にとっての解だと思ったのなら、グジグジ…ちょっとしつつでいいから、丁寧に。一歩ずつ、ゆっくりとでも行きましょう。
自分の命になんの保証も触れてくれなくなる、どーしょーもない夜があり 過去の記憶にしがみつかないとかんたんにおかしな方向へ攫われてしまうなと分かるので、わたくしは目をつぶり、どうにも思い出している。…それでも惨めではないぞ、チビちゃんだろうが気高い生きものになろうよ、な! と、 誰かと挨拶できる夢がもしみれたら辛いかもしれない……うれしいかもしれない、とか、ガクガク揺れつつ今日という今日を迎えに行くのよ。
それということで、バイバイ。また挨拶できたらいいですね。