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スーサイドアパシー

最近は低気圧が続いていて、熱された鉛玉が頭蓋の中で弾けているような最低な頭痛に苛まれて久しい。昧爽の空が白んでくる頃に微睡んでいると動悸が激しくなり、こめかみ辺りの血管がドクドクとわたしの懊悩を嘲るように震えだす。まるでそこらを走ってきた後みたいに息が切れてきて、体温が上がる。元々人よりも平熱が高い。今朝計ってみたら37.5℃あった。世界から拒まれてしまう熱量を抱えながら現実を手放すためのしょうもない眠りにつこうとする。現実が意識から遠のいていく過程は、死ぬ間際の走馬灯がそうであるらしいように、その日一日に見聞した現実がぼやけた脳裏に取り留めのない順序で映し出されていく。

健常でいたい人々は怒りながら否定するけれど、どうも人々は誰かの死に興奮しているように見えてならない。自分自身、誰かからの自慰的な同情を買いやすいほの暗い領域にいたことがあるから了解しているけれど、人々は誰に文句を言われたとしてもなお正当性を勝ち取れるような詮索を手ごろな愉悦として捉えている。原因が明確な事故や事件より、生者からの解釈が無限に許容されている自殺のほうに興奮する風潮が人々の間で渦巻いているのはきっとそういう訳なんだろう。池に落とし込まれた餌に群がる鯉を連想して、池の底に沈んでいる鯉がいたとしても表には見えないなと独りでに考える。

詮索が雑多に溢れかえっている最中で黙っている自分は、誰に愛されることも無いまま朽ちていくのかもしれない。家庭というのは小さな社会集団で、もっと大きくなっていくと学校なり会社なり、現代に生きる人間ならば誰しも対峙しなければならない世間という強大な敵に変容していく。RPGでなぞらえるところの最初の村が家庭だとするなら、そこで打ちのめされて自室のベッドにのびている自分は竜の里や王都になんて行けない、誰の記憶にも残らない、世界のあらゆる物語からの落伍者なんだろう。
誰それが死んだと下品に興奮した様子で言う会社帰りの人。そうらしいねと苦笑交じりの相槌を打つ今日は休みの人。どうしてだろうと神妙な感じで呟く買い物袋を下ろす人。三点リーダーばかりを打っている自分。十中八九と言っていいくらい世間がこういう場合に吐くお決まりの台詞。〝あんなに上手くいってそうだったのに、なにが駄目だったんだろう?〟もしも本気で言っているとするならばマジで馬鹿だと思うし、恰好で言っているならそれはそれで最低だと思う。

なにが駄目だとかどうしてだとか本人を差し置いて詮索し続けていずれ解が出るとか思い上がっているような奴らには一生理解できないだろう。本人すら理由が分かっていないことだって時としてあるというのに、これでは彼らは真正の考えナシみたいで、いちいち彼らからもたらされる言葉や示される態度に傷ついたりしている自分が馬鹿らしく思えてくる。○が貰えない代わりに×も下されないと油断してあれこれ分かりやすい似非の真実を独断と偏見で当て嵌めていくほど下品な行為はないと思うし、自分の身近にいる人間もテレビ画面から放映される遠い人間もみんな等しく下品だ。そして、恐ろしい。

生きていた頃の喜びも悲しみも苦悩も達成も、彼らの詮索のためなら嘘にされたり、或いは真実だとされたりする。それを真っ向から否定できる人間はもういないからだ。声を失くした人間に対して世間はここまで苛烈になれるのかと、昨今の世間の有り様を傍観していると、戦う意志のようなものを否応なく喪失してしまう。

自分にはどうにもできないほどの悩み。それは自らを取り巻く環境そのものだったり時代そのものだったり、時には生まれ持った己の命こそがそうだったりすることもあって、そんな中で、たとえば〝あなたは環境も時代も命もそんなに恵まれているのにいったいなにを悩むことがあるの?〟とか尋ねられた時の絶望がいったいどれほどのものとなりうるか、そういう下品な連中には知る由も無いのだろう。知らないこと自体は悪いことじゃない。寧ろ、絶望を知らないことは健康に生きていくうえでとても大事だ。良いことだ。ただ、想像しないことはいっそ悪だと言っていい。自分の持ち札に絶望している時に〝いいえ、もっと劣っている人なんかはたくさんいるんですよ〟などともっともらしく言われたってなんの慰めにもならない。

人の痛みを想像する。それはあくまで実体験には遠く及ばないささやかな力だけれど、それさえあれば、ほんの少しでも想像すれば、ずけずけと詮索することが本人にとってどれほどの絶望となりうるかぼんやりとでも予測がついて、取り返しのつかない過ちを犯す前に口を噤めるはずだ。自分には分からない。いままで自分に絶望を与えてきた人々には想像するという考えがそもそも浮かばなかったのか、想像したうえであんなことをやってのけていたのか。いままでは前者だと思い込んでいたけれど、本人の苦しみは本人にしか分かりませんがなどとのたまいながら昼下がりの詮索を続ける人々を見聞して、どうもその気力すら落ち込んできた。

誰も誰かの気持ちなんて分からない。それを踏まえたうえで汲み取ろうとすることは人の気持ちに対して全能になりたがる傲慢なある人々にとってはもの足りないのかもしれないけれど、諦観は時には何よりもの思慮として人の心に寄り添うことがある。自分には分からない。どうしてこういった類のことを、さも明快な解が待ち受けているかのように、乱れの無い熱量によって詮索し続けることができるのだろう。みんな、自分は自分を死なせないという自信で燦然と漲っているように見える。燦然と、その光は浅ましく歪で醜い。少なくとも自分の身近にいる人間や、遠くからみんなの気持ちの代表として放映される人間は大概にしてそうだ。放り込まれた餌に夢中になって池の水面に群がる鯉を連想する。底に沈んでいる鯉は水面には現れないまま朽ちていく。

動悸がする、息が切れる、体温が上がる。

人はだれも自分の愛するものを殺すという。人はだれも明快なばかりじゃ在り得ない。自分を嫌う気持ちだけが人を破滅的な死へと推し進めるわけじゃない。だからこそ苦しいのだ。複雑なものを抱えることはいつだって苦しい。自分のように自分の言葉が誰からも信用されない人間は永続的な呻吟懊悩に苦しめられる羽目になる。理解者がいないことはいつだって苦しい。理解なんてされないと気づいていながら、理解しようとされていることにもまた気づいてしまえば、耐え難い苦しみが自身を襲い、その苦しみはまるで餌に群がる魚のように、その身が心が塵一つ残さず食い潰されるまで止むことをしない。

自分の心が赴くままの居場所を求めている。安寧と幸福と静寂がある居場所を求めている。だから恐ろしい外界へと発ちゆけずに、自室のベッドでのびながらどこかへ行きたいどこへも行きたくないという望みと恐怖に板挟みにされながら停滞している。
心が赴くままの居場所へ行くためには、未知と、恐ろしい闇を体験しなければならない。その先に光がある。そのことを知っている人間が、或いは知らずとも不意に気づいてしまった人間が、この世界に自分の居場所は無いんだと見切りをつけてしまったら、その時に取られる行動は必然的に一つになってしまう。
ある人は言った。苦しいことの後には素晴らしいことが待っている。本心からの言葉だったのか、鼓舞を目的とした悲しい呟きだったのかどうかは分からない。苦しいことが地続きになって襲い掛かってくる現在、それは眠れない子どものための口約束のような、優しいばかりで不確かなばかりの言葉に思えてしようがないけれど、それでも誰かの心に寄り添う祈りとしてその言葉がどこかに残るとするならば、ともすると、それだけが唯一の救いであり、解になりうるんじゃないかと思う。

頭は痛いし動悸がするし吐息は熱い。人々が活動を始める明け方に眠りについて、静かな夜にひっそりと息づく。最低な日々と言ってまったく遜色ない日々の中で、また独りでに池の底に沈む鯉のことを思う。誰にも知られないまま朽ちていくのはさびしいことだ。それでも池の水面に現れるようにはできていない自分のためにどこかへ向かわなければならないんだとぼんやり考える。

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