「ま」
枕木きのこ
「ま」
「じゃあ、行ってくるね」
「んー」
起き抜けの気の抜けた私の返事を、
寝巻のままキッチンへ向かう。グレーの大きなスリッパを文字通り引き摺る形で移動していると、うっかりなにかに躓いた。
——?
足元に視線をやると、なにかが落ちているのがわかる。手のひらほどの大きさの、黒くてもにゃもにゃした形の物体。動いていないから、虫ではないと思うけれど、それも確定的ではない。逡巡ののち、ええいままよと顔を近づけると、そこに落ちていたのは「ま」だった。明朝体の、ぬるりとした「ま」であったのだ。
私が学校で文字を習い始めたころ、両親は共働きで家を空けていることが多かった。幸い、二駅隣に住んでいた父方の祖母がわざわざやってきて、おままごとや勉強に付き合ってくれていた。
祖母は結婚するまで、教員をしていたという。子守りの中で彼女が話していた「不思議なこと」を、私はその明朝体を眺めながら思い出した。
「時折、ポンっと人の頭から文字が抜け落ちてしまうことがあるの。うんと昔、私の『先生の先生』が教えてくれた。それはほとんど、人の目には見えないのだけれど、どうもね、見えてしまうこともあるようなの。『先生の先生』は、私が仕事の壁にぶつかって『ふ』を落としてしまったことに気付いてくれてね——」
たしか、そんな話だった。
つまるところこの明朝体の「ま」は、私か、誠人さんから抜け落ちたものになる。寝ている間に誰かがやってきて落としていったのかもしれないけれど、それにしては部屋がきれいだ。「ま」が抜けてしまったら、もっととんでもない状況が想像される。
私はようやく寝室のドレッサーから眼鏡を持ってくると、今度こそまじまじと「ま」を見つめた。小さな会社の事務員として働いている手前、明朝体は見慣れたものではあったが、オブジェでもなく、印刷紙でもない、しかし質感のある「ま」は、なんとも言い知れない気味悪さがあった。
これがどちらの物か、早めに判断を下したほうがいい。何せ誠人さんは颯爽と会社へ向かっていった。——私はそそくさと冷蔵庫を漁ると、適当な野菜や肉を引っ張り出して料理を作ってみたが、指を切ってしまうこともなく、調味料を間違えることもなく、無事に完成する。どうやら私の「ま」は抜けていないようだ。
となるとよりまずい。私は今日は仕事が休みだったが、彼は大事な商談を任されていると言っていた。しくじれない案件でナーバスになっているとも。
「これがうまくいったら、そしたら——」
明言しなかったが、ひと月前、彼は私の目を見て、そう言った。
交際八年。同棲四年。周囲の友人らはもっと少ない年数でどんどんと独身を捨てていった。顔を合わせるたび「まだ付き合ってたの?」「なんで結婚しないの?」と問われるばかりだった。私だって知りたい。しかし焦らせるわけにもいかない。そもそも早く結婚したから偉いわけじゃない——などと心の内では想いながらも、「なんでだろうねえ」と笑ってごまかしていた日々に、彼が決着をつけてくれると、——そう思っていた。
夜になって帰宅した彼は、酒に酔っぱらっていた。ひどい匂いだ。転んだのだか、スーツの膝が破れて、血が滲んでいる。
「どうしたの」
誠人さんはなにかを呻いたが、ろれつが回っておらず全く聞き取れなかった。聞き直したところ、嘔吐した。
ソファまで何とか引き摺り、水を何杯か飲ませていると落ち着いたようだった。右腕で視界を遮り、左手で腹をさすっている。
「——ひどいもんだ」
自嘲気味に漏らした声音が、今度は嫌にはっきりと聞き取れてしまう。
私はキッチンからソファに近寄って彼の左手を握った。
「あれだけ何度も確認したのに……」
彼がぼそぼそと言うところ——普段使いの腕時計が電池切れで止まってしまい出発が二十分も遅れ、慌てて飛び出したものの電車を間違え、最寄からの道をパニックで見失い、地図アプリを入れたものの使い方がわからず人に聞き、到着したのに名刺も名札も忘れ、資料はバラバラに留めてしまっていた——と、そんなことらしかった。
今までの彼ならそのうちのひとつも犯すことはないだろう。どれもこれも、彼の「ま」が抜けてしまったせいだ。
「ごめん。ごめんな……」
憔悴した声音で彼は言った。
私は頭の中で、祖母の話の続きを思い出している。
「でもね、『先生の先生』が言うに、一度抜けてしまった文字を戻すことはできないの。歯と一緒ね。もと在ったところにぴたりと嵌るけど、そこで固定されることはもう二度とない。残念ながら専門医もいない。生えてくることもない。もう二度と戻らないの——」
誠人さんは疲れた様子だった。私はパッと立ち上がると、トイレに駆け込んだ。
何度も喉に指を突っ込んで、突っ込んで突っ込んで——。
「誠人さん……」
「——もう、別れよう。俺はもう駄目な奴だ」
「やめて。もう全部わかったから。私のために、わざと『ま』を抜いたのね」
言うと、彼は勢いづいて半身を起こした。起こした後で、酒が回ったらしくすぐに苦悶の表情で頭を押さえる。
「何を言ってるんだ」
「いいの、もうわかってるから。——私、別に今の暮らし、全然不満じゃないよ。そりゃ、何度か愚痴っぽく結婚の話を持ち出したこともあったけれど、そんなの全部ただの愚痴だよ。結婚したい! ってすごく思ってるわけじゃない。人妻になるより、誠人さんの隣に居られればいいの。——私のために、わざわざ駄目な奴にならなくていいの」
私は手に持っていた明朝体を放った。
誠人さんは、自分に結婚への願望がないことにだんだんと気付いていた。子どもを欲しいと感じたこともないし、何なら、私への苛立ちもそれなりに持っている。これからの何十年を、他人と一緒に暮らしていくことに、不安もあったし、不満もあった。
そんな中、私は友人らの結婚話を広げて、「早くしないのってすごく言われる」とかといった内容のことを彼にぶつけてしまっていた。
誠人さんの中では、すでに八年、私の時間を無駄にしてしまった——と感じていた。商談の話は、彼の中で「結婚」への足掛かりではなく「離別」への言い訳だった。私のために、私の時間を無駄にしないために、好きだけど、別れる。その言い訳だ。
——これは、うぬぼれのように見えるけれど、全く持って真実である。
「おい、これ——」
誠人さんは私の放った明朝体を見つめていた。
「うん。私、『み』抜いたの」
■
「それから、私はどんどんと落ち込んでいった。ああ、私の『ふ』はもう戻ってこないのねって思うと、なーんにもする気が起きなくなっていって。でもね。『先生の先生』は言ってくれたわ。『文字を戻すことはできないけれど、君を支えることはできるから』って。腑抜けた私を愛してくれたのよ。それが、おじいちゃん」
「へえ、すてき!」
■
——それから私はもう何も明らかにすることはなかった。彼は仕事を辞めることを進言したけれど、恵まれた環境のおかげで引き留めてもらえた。相変わらず間抜けだけれど、自分の身勝手で棒に振った商談の分を少しでも取り戻そうと、一生懸命恩を返そうと奮闘している。
一年経つ頃に、存外呆気なく私たちは結婚した。私たちの間に子どもができたからだ。八年も九年も一緒にいると感覚は「恋人」より「家族」のほうが近く、却って結婚へのきっかけがなくなっていってしまうものだけれど、正真正銘新しい家族を迎えるには、私たちはきちんと家を作ってあげるべきだと思ったのだ。
裕福な暮らしとは言いがたかったけれど、私は変わらずあの家から家族を見送っている。それは、幸せなことだ。
玄関口に飾られた家族写真の横には、あの日の「ま」と「み」が並べてある。
「ほら、学校遅れるよ」
「うん。行ってきまーす!」
「ほら、パパも」
「うん。行ってくるね」
——扉が閉まる間際、リビングからの通り風がふと、「ま」を倒した。
倒れたその先に、誠人さんがいる。
振り返る彼の横顔が、そのいつも通りの笑顔が、どこか胡乱に見えたけれど——きっと気のせいだろう。
「ま」が差したけれど——この「ま」は、違う「ま」——そうでしょ?
笑みを返そうとしたときには、玄関の扉は、重苦しく閉まった。そのあとで、私は倒れたゴシック体の「ま」をそっと飾り直す。
私はもう、「み」ない人。
「ま」 枕木きのこ @orange344
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