あまりにも楽しそうに弾いてくれるから

未咲みさきってさ、いる意味ないよね」

「え?」


 どういうこと?

 そう訊き返そうとして、飲み込んだ。

 だって、トドメを刺されたくないから。


「確かに。いたらそれはそれで楽しいけど、さ」

「そう、かな」

 

 ケラケラと笑う二人。

 つられて、私も笑う。

 笑わないといけないと、そう思ったから。


 生きる意味ってなんだろう。


 たぶん、一度は皆考えたことがあると思う。

 そしてきっと、なにか答えを見つけるのだろう。


 それを探すのが生きる意味だ、とか。

 存在するだけで意味がある、とか。

 そういう。


 私だって、考えなかったわけじゃない。

 ずっと考えてた。


 成績は中くらい。

 容姿も平均的で、性格だって、まあ、普通だ。

 そこらへんに何人でもいるような、つまりは、いつだって替えが効くような、そんな存在。


 中学二年生。

 学校にも慣れて、受験があるわけでもなく、気楽な一年。

 兄は今大学受験真っ盛りで、両親だってそちらに手いっぱいだ。

 成績優秀な兄だって、そうなのだ。

 私が受験生になったらどんなに家族に迷惑をかけることになるか……想像するだけで寒気がする。


 家に帰ったって、兄は予備校でいないし、両親は共働きだ。

 土日は休みだけれど、でも、どことなくバタついている三人の邪魔をしたくなくて、手伝えるとき以外はずっと部屋にいる。

 どんなに勉強しても、平均点より少し上がるか、下がるかするだけ。

 そんな私を責める人は、家族にはいないけれど。

 褒めてくれる人だって、誰もいない。


 多めにもらっているお小遣いは、参考書代と友達とのあれやそれで消えていく。


 遊びに行っても、こうやって休み時間に話していても、会話に混じることはそうそうない。

 ただ、その会話に応じて表情を変えて、相槌を打つだけ。

 だって、私の話なんて聞いて、誰が得するんだろう。


 話したい話なんてないし、なにを話せばいいのかわからない、私の話なんて。


 それよりも、誰かの話を聞いていたい。

 だって、楽しいから。

 楽しいものの、はずだから。


「あ、そういえばさ」


 話が変わる。コロコロと。

 そのくらいの価値なのだ、私がいてもいなくても変わらない、という話は。

 気に病むことはない。

 考えるだけ、無駄なのだから。

 昨日見たテレビの話、動画、流行りの音楽やアイドル。その話題と同レベルか、それ以下。


 確かな重さを持った液体が、お腹や心臓、肺に徐々に徐々に注がれていくようだった。

 息が苦しい。

 身体がだるい。


 いる意味がない。

 いてもいなくても変わらない。


 何度も何度も私の体内に液体を注いでいく声が、怖かった。

 重たかった。



 きっかけなんてなくて、ああ、疲れたな、と思った。

 先生に言われて、多目的室の掃除をしているときだ。


 大きな窓。

 その向こうにあるベランダ。

 そして、果てなんて見えない、空と雲。


 気持ちよさそうだな、と思った。


 誘われるように窓を開けば、風がふんわりとスカートを揺らしていく。


 どうせ、いてもいなくても変わらないんだ。

 それなら、いなくなってしまったほうが、いい気がした。


 あの友人たちもわざわざ私に話しかけることもなくなるし、家族だって、私の受験に巻き込まれることはなくなる。


 考えれば考えるほど、これはいいことなのだと思った。

 無意味な私ができる、意味のあること。

 一歩、踏み出しかけたときだった。


――音が聞こえた。


 足が止まる。

 懐かしい音だった。小学生の頃、よく同じクラスのあの子が、雨の日に弾いていた曲。

 窓を閉める。

 そのまま導かれるようにして、足を進める。


 教室のドアは開いていた。

 そっと中を覗きこむ。


 いつかのあの日と同じように、拓也たくやくんが電子オルガンを弾いていた。

 唇が弧を描いて、指は舞うようにして音を紡いでいる。


 拙いけれど、ぬくもりのある、決して上手とは言えないけれど、でも心地のいい音。優しい音。


 音が止んだとき、つい拍手をしてしまった。

 ギョッとした表情でこちらを向いた彼に、しまった、と思ったけれど、もう遅い。


「え、あ、えっと……聞いてた?」


 恐る恐るといった様子で確認する彼は、可哀想になるくらい強張った表情で。

 正直にうなずこうか迷ってから、私は口を開く。


「よく小学生の頃、弾いてたよね。カノン、だっけ?」


 瞬間、彼は素早くオルガンの電源を切ると、蓋をしてコンセントを抜いて、そのまま自分の机へと駆けだした。

 ポカンとしてしまった私は、荷物を持った彼が教室を出ようとしたところで我に帰り、慌てて彼の腕を掴む。

 彼は元々大き目の目をこれでもかというくらいに大きく開いて、こちらを振り向いた。


「あのカノン、好きだよ」

「へ?」


 豆鉄砲を喰らった鳩みたいな、そんな拓也くん。

 クルクルと変わる表情は、なんだか面白くて、可愛い。


「で、でも俺、下手くそだし」

「なんだか、温かくて、優しくて、私は好き」


 伝えないといけないと思った。

 いつも穏やかに、楽しそうに教室の電子オルガンや音楽室のピアノを弾いていた彼が、突然苦しそうに弾くようになって、終いには一切触れなくなってしまった。

 今を逃せば、彼はもう二度と弾いてくれないんじゃないか。

 そんな予感が、私の口をするすると動かしていく。


「そ、んなこと言われても……」


 困ったように眉を八の字に下げたと思えば、ふい、と向こうを向いてしまう。


「ね、もう一回弾いて?」

「は?」

「アンコール!」


 クイッと腕を軽く引っ張れば、少し迷うような間を置いたあと、仕方ないな、と彼がオルガンのほうへ向かう。

 そっと手を放す。


 結局、先生が来て怒られるまで、彼はカノンを弾いてくれた。





 懐かしい夢を見た。

 胸が、胃が、鈍く痛む。

 苦しいけれど、優しい夢だ。


 拓也とは、それ以来よく話すようになった。

 意味なんてないかもしれない、会話たち。

 だけど、少なくとも私にとってそれは、とても価値のある大切な時間だった。


 あの頃の友人たちとは、今はもう会っていない。

 高校で別れて、それっきりだ。

 友人と呼べる友人は、もっとあと、大学と職場で出会った。


 寝返りを打って初めて、隣に敷いてある布団が空なことに気づく。

 そっと起き上がって、眠い目をこすりながら部屋を出る。



 布団の主は、台所にいた。

 ボーっと壁を見つめていた彼は、私が入ってきたことに気づくと、ごめん、と謝ってきた。


「起こした?」

「ううん、起きちゃっただけ」

「そっか」

「うん」


 彼が水の入ったコップを持っていることに気づいて、私もコップを出しきて水を注ぐ。そしてグイッと喉に流し込んだ。

 冷たい水が、身体中に沁みわたっていく、心地のいい感覚。


「変な時間に起きたときに飲む水ってさ、なんか優しいよね」

「そう?」

「うん」

「未咲が言うなら、そうかも」


 小さく笑う拓也に、私は微笑む。


 家には、キーボードが置いてある。

 本当は電子ピアノだとか、もっと欲を言えばピアノが欲しかったのだけれど、これで充分だと、拓也が言ったので渋々引き下がった。


 二人の休みが重なったときに、お願いすればいつでも拓也は弾いてくれる。

 あの頃と比べれば随分と上手くなったけれど、でも、拓也のカノンはあのときと変わらず、優しくて温かな音がする。

 彼が音を奏でるのはそのときだけだ。

 曰く、趣味として触るぐらいがちょうどいいのだとか。


 ぽすっと彼の肩に頭を乗せる。

 ふんわりと香る彼の香りに、ふふっと笑えば、どうしたの、と問われた。


「なんかね」

「うん?」

「ここにいてもいいんだなあって、しみじみしてる」

「当たり前」


 重くはない。でも、抱きしめられるみたいな、そんな安心感を与えてくれる言葉。


「拓也」

「ん?」

「好きだよー」

「……水で酔っぱらわないでくれるかな」

「拓也は?」


 サラッとかわせば、数秒間があったのち、俺も、と小さな声で返してくれた。


 まだ、あの日々を思い返しても鈍い痛みを感じるのは、きっとかさぶたになったか、なっていないかの境目だからなのだと思う。

 だからこそ、いつか、あれはかすり傷だったって、強がりでもそんな風に言えるようになれたらいい。


 勢いよく水を飲んで、コップをシンクに置く。

 そしてギュッと、拓也に抱き着いた。

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