青春のかすり傷

奔埜しおり

あまりにも楽しそうに聴いてくれるから

 冷たい水が、喉を滑り落ちていく。


 なんだか上手く寝付けなくて布団を抜け出したのは、深夜二時。

 隣で眠っている恋人を起こさないように、そっとそっと、静かに台所まで出てきて、冷蔵庫の水を一杯。

 シンクにもたれ掛かって、ボーッと壁を見つめる。


 恋人、そう、恋人なのだ。


 小学生の頃からずっと、お互い知り合いではあった。

 関係が変わったのが、中学生の頃。


 一度嫌いになったピアノを、好きになった出来事だ。





 祖母が昔、自分のピアノでカノンを弾いてくれたことがあった。

 真似をして弾いてみたら、思った以上に楽しかった。

 それがきっかけで習い始めたのが、小学一年生の頃。


 最初はよかった。

 先生は優しくて、少しでも弾けたら両親は手を叩いて喜んでくれたから。

 賞をとったことはなかった。


 たぶん、おそらく、いや絶対、俺は上手ではなかった。


 下手の横好き。


 それが俺のピアノだった。


 ずっとお世話になっていた先生に、家族が増えた。

 その関係で、新しい先生にお世話になることになった。

 厳しい先生だった。


 下手でも、楽しいことをやっていたい。

 そんな俺とは正反対の、やるならとことん上まで目指す人だった。


 爪が割れるくらい、練習した。

 何時間も、何日も。

 必死で。


 結果、俺はピアノを見ることさえ嫌になって、辞めてしまった。

 中学生のときだった。


 その頃からだった。



 未咲みさきが、よく嫌がらせを受けるようになっていた。

 いつも笑顔で、誰にでも優しくて。

 だけど、一番仲がいい友人、というものがいないような、未咲といえばこの子と仲いいよな、みたいな、そういう相手がいない奴だった。


 嫌がらせと言っても、いわゆる、物が隠されるだとか、暴力を振るわれるだとか、はみごにされるだとか、そういうものではなくて。

 俺が見た限り、普通に会話もするし、移動教室だって、一人のときはなかった。


 ただ、たまに漏れ聞こえてくる会話の中に、いる意味がない、というようなニュアンスの言葉がよく混じっていた。


 未咲はいつも笑顔でそれを受け止めていた。

 そうかな、と。


 言い返せよ、と思っていた。

 今思えば、俺が間に立てばよかったのだ。

 なのに、笑っているから、大丈夫なんだろうと思っていた。



 あの日。

 俺は日直で。

 一緒にやっていた奴は、部活が大会間近だとかで、日誌に名前だけ書いて帰りやがったので、一人で当番の仕事をしていた。


 黒板周りを綺麗にして、窓の鍵しめをして、日誌を書く。

 最後に忘れたことはないか一通り確認して――電子オルガンが目に入った。


 辞めてから、まったくピアノを弾くことも、雨の日に学校でオルガンを弾くこともなくなった。


 今なら、この教室には誰もいない。

 俺以外、誰も。


 外に音が漏れることくらい、少し考えれば、すぐにわかったはずなのに、そのときはなにも考えられなかった。


 誰にも聞かれずに、否定されずに、弾ける。


 ごくりと唾を飲みこんで、俺は電子オルガンに近づいた。


 コンセントを挿して、電源を入れる。

 軽く音を出しながら音量を調節して、さて、なにを弾こう、と悩みながらも、指は音を紡ぎ続ける。

 それは徐々に、覚えのある曲へと変わっていく。


 カノンだ。


 練習の合間合間に、何度も何度も弾いていた曲。

 ピアノを始めたきっかけの曲。

 先生が変わるまでは、ずっと弾き続けて、先生が変わってからは、弾かなくなってしまった曲。


 指が、覚えている。

 動いて、音を紡いでいく。

 たまに突っかかるけれど、でも、どんどん進んで、止まらない。


 気持ちいい。楽しい。

 心地のいい快感。


 最後の音。

 そっと指を上げたとき。


 聞こえるはずのない拍手が、聞こえた。





 時計の針の音で我に帰る。

 高校生になって告白したとき。初めて彼女が泣くところを見た。

 私なんかでいいのか、と、それこそしつこいくらい確認された。

 どうしてそんなこと訊くのか、なんて言わなくても、気づいた。


 大好きな物を、もう一度大好きになれたのは、未咲がきっかけだった。

 弾くことを否定しないのは、今はもう、未咲だけだ。

 それに、できる限りそばにいたいと思うのも、そばにいて心地がいいのも、彼女だけだ。


 俺がカノンを弾けば、いつも彼女は楽しそうに聴いてくれている。

 それだけで充分。


 だけどそれを言葉にするのは照れくさいから、俺はいつも、彼女にねだられて、鍵盤に指を置くのだ。

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