潰葬 ―言い訳―
沙里が言っていた。
粉々になりたいらしかった。
人を傷つけた記憶、人に傷つけられた記憶。
気に入らない身体、好きになれない心。
あやふやな現実、見えすいた将来。
そんな全てをぜんぶ砕いて、誰からも忘れられて、指先でつまんで放したふりかけのように風に散らしたいと言っていた。
地味でぼんくらなわたしと違って、沙里は学年の人気ものだった。わたしが舐めくさったゴマフアザラシみたいにへらへら笑うのに対して、沙里はいつも陽射しを含んだダリアの花みたいに燦々と笑うのだ。
それがどうしてそういう、わたしなんかが考えそうなことを、わたしなんかに言ってきたのだろう。ひとつ残らず共感したけれど、ひとつ残らず同意できなかった。
だからわたしは苦笑いして、こう応えたんだ。
ねぇ沙里、そういうのはわたしの台詞だと思うんだけど。
そうしたら、沙里は「……ごめんね」とひっそり笑った。
沙里といちばん仲がよかった茉子や美奈にその話をしてみたら、急に恐いぐらいの真顔になって、いやいや沙里がそんなこと言うはずないよと言われた。(しかもあんたなんかに)とにらみをきかせて。
わたしだってそう思うよ。
まるでうそつきみたいに扱われて、今のわたしは引っ込んだ涙の代わりに口をとがらせて、花に囲まれて燦々と笑う沙里の遺影をにらみつけている。
うそだというなら、昨日沙里が突然亡くなって、今この斎場でたくさんの人に悲しまれて、見送られようとしていることの方が、よっぽどうそくさいのに。
どうして死んだのかはわからなかった。急な病気か、事故か、それとも。
悲しい顔をしたご家族や沙里の友だち、先輩や後輩たち、さっきわたしがご機嫌を損ねてしまった茉子と美奈。その誰にたずねるのも、今はただ、失礼な気がした。
お見送りの会場は風もなければ彩りもない。くすんだクリアファイルに挟んだ風景画みたいにのっぺりしている。誰も喋らない。鼻をすする音が、雨上がりの庭先から聞こえる滴りのようなリズムで響いている。
無責任だった。そこにある何もかもが。
遺影の中の沙里の笑顔も、それを収めた黒い額縁も、壇上を埋め尽くす花たちも、母さんに着せてもらった喪服でここに立っているわたしも──したたり落ちるほどの言い訳で塗りたくられている。
この世界でわたしだけが持つらしい沙里の言葉と、わたしが吐いただけのうそ。
そのふたつを隔てる仕切りはどこにあるのだろう。
斎場から出る。小高い岡の上だから、見上げればほんの少し星がちらついていた。
母さんが言葉もなく前を歩く。
その喪服と夜の境界線が、ゆらゆら溶けては現れる。
駐車場の隅に停めていたワゴンRのロックを解除して、母さんが運転席に座り、わたしは後部座席に座る。車は静かに走り出し、山道を滑るように下る。5分もすれば町に出る。海沿いの国道、家まであと少し。
ここで降ろして、と母さんに言った。母さんは何も聞かず車を路肩に停めて、降りるわたしの背中に「気をつけてね」とだけ声をかけた。
夜の海岸通りに降り立って、海沿いの歩道を歩いた。手すりの向こうはもう海面で、そっぽを向いた大きな猫の背のようだった。
海から遠吠えのような風が吹いている。洗い物の溜まったシンクから漂ってきそうなゴミ混じりの潮の臭い。街路樹の土、それから最近作りたてのウッドデッキからのわざとらしい木の臭いも混ざりあっている。
もう夜空に星は見えなくなっていた。わたしは目が悪い。それに、対岸の暗がりに腰かけるチキンラーメンの固まりみたいな化学工場がまぶしくて、臆病ものの星たちは逃げてしまったのだろう。
ばかみたい。こんな雑な光景じゃ、感傷にも浸れやしないよ。
へらりと笑ってしまった矢先だった。錆びた手すりにもたれた時、わたしの頭の中で声がよみがえる。
──あたしさぁ、と切り出した沙里の声が。
ちょうどこの場所で、どうやらわたしだけに、沙里はあんなことを言ったのだ。
そのままわたしの意識は夜風にさらわれて、ほんの数週間前の記憶へと浮かんだ。
変わらないのは、海岸通りの海に面した錆びた手すり。
そこへ寄りかかった沙里とわたし。頭の後ろから海の向こうへと、りんご飴よりも真っ赤な夕焼けに乗って、すぐ隣にいる沙里の長い髪がはためいていく。
実は、沙里と2人で話したことはほとんどなかった。仲は良かったと思うけれど、沙里が暖かい川に暮らす可憐なエンゼルフィッシュだとしたら、わたしは深海を漂うぬぼーっとしたシーラカンス。それぐらいお互いの
わたしが、沙里と同じ水槽の中に存在することができた、最初で最後の17分間。
照らされている、沙里の横顔。その表情を覚えているのは、へんなぐらいに軽やかだったから。
粉々になりたいんだよね、と話し始めた沙里。
あれは何か……ふりしぼられたSOSだったのだろうか?
“いいえ”──と、わたしのはるか頭上で、クールなカモメが確かにそう鳴いた。
“たぶん、それは違うんじゃないかな”──。
カモメもそう思うのなら、そうなのだろうね。
わたしはそう、100回は繰り返した言い訳の、101回目を重ねていく。
そもそもおこがましいのだ。わたしなんかが沙里が死んだ理由を勝手に想像して、勝手に詮索して、勝手に納得して、勝手に決めつけるだなんて。
うまく言えない、でも。
ダリアの花みたいに笑った沙里は、とてもきれいだった。それ以外のどんな意味づけも、属性も、推理も、物語も、光も、影も……わたしに言わせれば、ただ沙里を汚すだけの、余計な脂肪でしかないよ。
風が吹いて、わたしの意識は地べたにおろされた。
夜の海、絡み合った臭い、対岸のきらめき。
沙里の言葉と夕陽に照らされていたあの横顔。わたしはそれら記憶の全てを、海へと吹き抜ける夜風に放り投げた。
「あれは気のせいだったんだ」
そう口にする。
「あの言葉に意味なんかなかったんだ」
そうはっきりと声に出す。
そうしたら、あの出来ごとの残像は無口な風に揉まれて、右に左に引き裂かれて、裏切られたまぼろしのようにちぎれていく。
わたしはそれを取り消そうとはしなかった。
目の奥がつんとする。それでも、取り消そうとはしなかった。
──全部わかってるよ、本当は。茉子や美奈じゃなくたって、わたしにも。
いつもの沙里なら、あんなことを言うはずないってことは。
わたしにだけあんなことを言っておいて、そこに何のメッセージもなかっただなんてことは。
誰からも忘れられたい──だなんて、そんな最大で最強なわがままを叩きつけるべきだった相手は、絶対にわたしなんかじゃなかったはずだよ。
でもね、沙里。
こうなった以上、あなたはあなたの言葉の責任をとるべきだと思う。
つまり、消え去っていく沙里のまぼろしに、わたしは手を伸ばさないし、合掌したりしないし、涙だって流してあげない。
それが、わたしからの手向け。
風に乗って散らばっていくには、そういう全てが、あなたの重荷になるだろうから。
それでも、涙がこぼれてしまうのは、わたしも、わたしの言い訳の責任をとらされているからだ。
ごめんね、のひと言を、必死でのみこんだ。
これが沙里の望んだことなのだと、わたしはそう信じたかった。
潰葬 ─言い訳─ 了
短編集『かいそう』 文長こすと @rokakkaku
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