勇者史外典 第一章 上里ひなたは巫女である
朱白あおい/電撃G'sマガジン
第1話「巫女たち」
![巫女たちの沐浴](https://cdn-static.kakuyomu.jp/images/upload/gs_magazine/uehina_001.jpg)
人間は、「いつか自分が死ぬ」ということを、誰も本気で信じていないという。
アタシの読書好きの友人が言っていたのだけど、たとえば精神分析学の創始者ジークムント・フロイトでさえ、「人間は自分の死を正確に想像することができないゆえに、自分が死ぬという事実を本気で信じることができない」とか、そんなことを述べたらしい。
人生は薄氷の上を歩くようなものだ。人間が信じてさえいない「死」は、いつどこでその凶々しい大口を開いて人間を呑み込むかわからない。
二〇一五年に起こった災害――災害なんて生易しいものじゃないけれど、それ以外に表現が思いつかない――だって、そんなことが起こるなんて誰も信じてもいなかった。けれど、それは起こった。
バーテックス。
そう呼ばれる化け物たちが突如として天より現れ、多くの人間の命を奪い、文明を崩壊させた。
そんな中、一部の少女たちに特別な力が芽生えた。
バーテックスに対抗できる力――それを発現した少女は『勇者』と呼ばれる。
勇者や民を導くための神託を受ける力――それを発現した少女は『巫女』と呼ばれる。
アタシ、
「寒いっ!! もう無理!! 絶対無理! 死ぬ!」
二〇一九年三月、冬の寒さが強く残る初春の早朝。アタシは巫女の日課の
「安芸さん、まだ入って二分しか経っていませんよ……」
苦笑気味にそう言うのは、同じく滝で水垢離をしている
「二分あればカップ麺だって出来上がる! だいたいスレンダー体型のアタシは体脂肪率が低いから寒さに弱いの。というか、一人許せん奴がいるでしょうがっ!!」
アタシはすぐさまその『許せない奴』のところへ駆け出した。
「え、安芸さん! どこに行くんですか!?」
後ろから上里ちゃんも追ってくる。
アタシは大社の浴場のドアを勢いよく開けた。
その先には、アタシたち巫女が冷たい滝の水を浴びながら苦しんでいる間、一人だけ悠々と湯船に浸かっている少女がいた。
「アタシも風呂に入れろーー!」
言うが早いか、湯船に飛び込んだ。
「ちょ、安芸先輩! 急に入って来ないでください!」
飛び散ったお湯に顔と髪を濡らしながら、彼女――
「ふふ、私も入らせてもらっていいでしょうか? やっぱり水垢離は体が冷えますから」
上里ちゃんも後からやってきて、湯船に入ってくる。
「うむ、よいよい。上里ちゃんも入るがよい」
「なんで安芸先輩が許可を出すんですか。さっさと出て行ってください。湯船が狭くなります」
花本ちゃんがアタシをジト目で睨む。
「あ、すみません、ご迷惑でしたら私が出て行きます」と上里ちゃん。
「いえ、いいのよ、上里さんはゆっくり湯船に浸かって体を温めて。風邪を引いたらいけないわ」
「ちょーっと花本ちゃん。アタシと上里ちゃんで態度が違いすぎない?」
「先輩、人の価値は決して等価ではないんですよ。個人にとっての主観的価値は、特に」
「難しい言葉で馬鹿にされた気がする!」
湯船の水をすくって、花本ちゃんに引っかけてやった。しかし、彼女の涼しげな顔をほんのわずかたりとも歪めることはできなかった。
とはいえ、アタシを本気で湯船から追い出そうとしているわけではないから、花本ちゃんも本気でアタシを嫌っているわけではないと思う。
……多分。
……きっと。
……そうだといいなぁ。
「だいたい、花本ちゃんだけ滝垢離免除で、お風呂に入るだけでOKっていうのがいけないのよ」
花本ちゃんもアタシや上里ちゃんと同じく巫女だから、神に仕える者として日々体を清める必要があるのに。
不満げなアタシに対し、彼女は淡々と答える、
「私は水に入れませんから」
そう。彼女は水恐怖症なのだ。膝までの深さのぬるま湯に入るのがやっとだから、滝垢離なんてとてもできない。昔、初めて滝垢離をした時、花本ちゃんは嘔吐して気を失ってしまった。それ以来、彼女は身を清めるために、湯船に浸かるだけで良しとされている。
「そもそも身を清めるためにはぬるま湯に浸かるだけで充分なんです。私たちは修行者ではないんですから、敢えて苦行をする必要はありません。それに儀式の簡略化もよくあることです。神社に入る時には、軽く手を洗って口をすすぐでしょう? あれも身を清める儀式を簡略化したもので、それだけでもいいんです」
「ほう……さすが花本ちゃん、神社の娘。詳しいね。その正論を偉い人たちに言ってやってよー!」
花本ちゃんは元々神社で生まれ育った子だ。そのせいで、神様だとか儀式だとか、そういう宗教的なものに詳しい。
「無駄ですよ。彼らが信じているものと私が信じているものは違う。彼らには彼らの信念があるんでしょう」
彼女は冷めた口調で言って、首を横に振る。
アタシたちの会話を聞きながら、上里ちゃんは腕を組む。やめなさい、中学生にしては大きすぎる胸がさらに強調されてしまうでしょうが。
「そうですね……私から大社の神官たちに話してみましょう。寒い季節まで滝で水垢離をするのは、巫女の皆さんの体にもよくありません。花本さんと同じように、お湯の沐浴で済ませてもらうようにお願いしてみます」
「お、いいね! 上里ちゃんが言ってくれれば、大人たちも聞いてくれそう!」
なんと言っても、上里ちゃんは巫女たちの中で一番強い力を持っている。大社にとって一番重要な巫女だ。そんな彼女の要求ならば通るに違いない。
「もしどうしても滝垢離が必要だと言われたら、私だけでやります。それで他の巫女の方々が免除されれば……」
「え、それって上里ちゃんだけ、あの滝垢離をやるってこと?」
「はい。いざとなれば」
アタシは盛大にため息をついた。
「それなら、アタシも一緒にやるわよ。年下の子だけに、きついことやらせるわけにはいかないしさ」
「そうですか。ありがとうございます」
上里ちゃんは穏やかな笑顔を見せて頭を下げる。
あーあ、アタシが滝垢離を逃れたかったのに、結局逃れることはできなさそう。きっと彼女の言い分は通るだろう。上里ちゃんは、大人たちとアタシの両方ともの顔を立てて、双方とも飲まざるを得ない落とし所に納めてしまったのだ。
上里ちゃんと話していると、時々こういうことが起こる。アタシたちの味方であり、大社の味方でもあり、できる限り対立しないよう、できる限り中立に、物事を収める。
自分を真っ先に犠牲にしてでも。
そうできるところが上里ちゃんの、健気でもあり、同時に少しだけ怖いところだ。
二〇一五年に出現した
四国には、土地神の集合体と言われる『
現在、バーテックスへの対策は、神職たちで構成された『
大社はバーテックスに対抗するために勇者と巫女を集め、管理下に置いた。四国にいる勇者は五人で、全員が香川県の丸亀城を拠点に生活している。巫女の数は勇者より多く、勇者のお目付役として丸亀城で暮らす上里ちゃんを除き、全員が大社の施設内で生活している。
巫女たちの中でも、特に中心になっているのは、三人。
一人は上里ひなた。勇者・
もう一人は花本美佳。勇者・
そしてアタシ、安芸真鈴。勇者・
ところで、勇者はここまで挙げた四人の他に、もう一人いる。勇者・
上里ちゃんは普段は丸亀城に住んでいるけど、今日は珍しく大社に来ている。
「そういえば、今日は上里ちゃん、なんで大社にいるの?」
お風呂から上がり、髪を乾かしながら尋ねた。
「もうすぐ勇者たちが結界外を調査することになっていますから、調査ルートの確認や打ち合わせのために呼び出されたんです」
「……本当にやるんだ、結界の外の調査」
少し前に、勇者たちは『丸亀城の戦い』と呼ばれる、バーテックスとの大規模な戦いに勝利した。その後しばらく、バーテックスの四国襲来は起こっていない。そこで、四国が平和を保っている今のうちに、勇者たちに結界の外を調査させようという計画が提案されていた。どうやらそれが実行されるらしい。
四国を守る結界ができてから三年半以上経つ。その間、バーテックスの脅威のために、四国の外がどうなっているのか、一切調査することができなかった。
去年の夏までは、長野県の諏訪に人がわずかながら生存することが確認されていたけど、あれから半年ほど経った今、諏訪がどうなっているのかもわからない。
花本ちゃんは着替えながら、不安そうに眉をひそめる。
「上里さん、人間が結界の外に出て大丈夫なの? 結界外には毒素が充満しているという噂もあるし……」
「先日、勇者の皆さんが結界のほんの少しだけ外に出て、土壌と大気と水の状態を調べたんです。そしたら、汚染は起こっていないどころか、以前よりも環境状態が良くなっていたらしいです」
上里ちゃんの言葉を聞いても、花本ちゃんの顔は暗いまま。不安は晴れないようだった。
早朝の清めの儀式が終わったら、アタシと花本ちゃんは教室へ向かった。上里ちゃんだけは、大人たちと結界外調査のことを話し合いに行く。
アタシたちが教室に入ると、他の巫女たちはもうほとんど揃っていた。滝垢離の後にお風呂に入っていたせいで、他の巫女たちよりも遅くなってしまったみたいだ。
やがて授業開始の時間になると、二十代半ばくらいの白衣の女性が教室に入ってきた。彼女が元巫女の神官・烏丸久美子だ。烏丸先生は神官としての仕事の他に、巫女たちの教師もやっている。
「あー……じゃあ、今日の授業を始める」
烏丸先生はいつも気だるげだ。彼女は巫女として大社に入る前、大学院生でかなりの才女だったそうなのだが、とてもそんな雰囲気はない。
巫女たちは、下は小学生から上は高校生までいて、年齢もバラバラだ。そのため全員に一律で授業をすることはできない。だから基本的に、みんな教科書や参考書で自習をして、わからないところを個別に烏丸先生が教える、という授業スタイルになっている。
生徒は全員巫女だけど、ここでの勉強は大社に入る前に学校でやっていたことと変わらない。巫女という特別な力を持つとはいえ、アタシたちには教育を受ける権利がある。だから、普通の学校と同じ授業科目を受けることになっている。
烏丸先生が小学生の巫女たちに算数を教えている間に、アタシは隣の席に座っている花本ちゃんをチラ見した。彼女は険しい表情でノートを見つめていた。元々明るい性格じゃないけど、やっぱり明日から勇者が結界の外へ調査に行くのを心配しているのかな。
アタシはノートの端に『勇者たちのことが心配?』と書いて、花本ちゃんに見せる。
彼女も自分のノートにシャープペンを走らせる。
『環境は問題なくても、バーテックスがどれだけいるかわからないんです。もし郡様に何かあったら』
『花本ちゃんは心配症だね。大丈夫だって、勇者たちはめちゃくちゃ強いのよ。乃木ちゃんなんか、もう人外に片足突っ込んでるまであるし』
『郡様は他の勇者様たちより繊細ですから。安芸先輩は、伊予島様と土居様が心配じゃないんですか? 仲良いんですよね?』
『別に。あの子たちも勇者の力を持ってるんだから、やれるでしょ』
『冷たいですね』
何か言い返そうかと思ったけど、やめておいた。
そういえば、上里ちゃんはどうなんだろう。上里ちゃんと勇者の乃木ちゃんは、小さい頃からの幼馴染で、家族みたいに仲がいい。上里ちゃんは、乃木ちゃんたちが結界の外に出ることを心配していないのだろうか。
夕方には学校の授業は終わる。
普通の女子中学生としての時間は終わり、ここからは『大社の巫女』としての時間だ。
そんなことをやって、日が暮れて、夜。
夜食は巫女のみんなで食堂に集まって食べる。上里ちゃんも結界外調査の打ち合わせが終わったのか、食堂に姿を現した。
巫女たちには、仏教の修行僧のように「肉食厳禁!」といった感じの食事制限はない。とはいえ、大社に入る前とまったく同じかというと、そういうわけでもなくて、出てくる料理は基本的に薄味で野菜と魚料理中心だ。まるで健康診断に引っかかった大人向けみたいな食事。健康的で若いアタシたちにとっては、ちょっと物足りない。
みんなで「いただきます」を言って、それぞれ食べ始める。
神様に祈りの言葉を捧げたりだとか、堅苦しいことはしない。
「本来は」花本ちゃんが言う。「神道にも食前の祈りの言葉とかあるんですけどね。もちろん大社の大人たちもそれを知ってるはずだけど。その祈りの言葉は、『神樹教』の教義とは合わないんでしょうね」
花本ちゃんは、大社が教える宗教大系のことを神樹教と呼ぶ。以前、「それって神道と何が違うの?」とアタシが尋ねたことがあった。花本ちゃんは、一神教とか多神教とか教派神道とか古神道とか、よくわからない用語をたくさん使って説明してくれた。アタシは「あーなるほどねわかる」と答えながら、一割も理解できていなかった。花本ちゃんもアタシが理解できていないことを理解していただろう。
とにかく、日本の神様すべてではなく、四国に出現した神樹様を一番に信仰しているから、神樹教とでも呼ぶべきなのだとか。
花本ちゃんは昔、親から教わった祝詞を唱えて、大社の神官から「その祝詞はふさわしくない」と注意されたことがある。そんな経験を持つ彼女には、いわゆる『神樹教』は、神社の神道とは違うものに見えても仕方ないのかもしれない。
食事が終わったら、巫女たちは宿舎に戻る。全寮制の学校みたいに、巫女は全員この宿舎で寝泊まりして暮らしている。
巫女たちには二人で一部屋を与えられていて、アタシと花本ちゃんはルームメイトだ。今はアタシとの生活にも慣れたようだけど、最初花本ちゃんはアタシと同じ部屋なのがすごく不満そうだった。アタシのことが嫌いだったというわけではなく(そうだと信じたい!)、寝る時に他人が
部屋の中で授業の予習復習をしたり、漫画などを読んだりして過ごし、夜九時には消灯の時間を迎える。巫女たちは朝起きるのが早い。だから寝るのも早い。
うーむ、実に健康的。
これが大社の巫女たちの日常である。
では、お休みなさい。
…………。
……。
「……………………………………お休みできるかーーーっ!」
アタシはベッドから飛び起きた。二段ベッドの上の段に寝ていたので、勢いよく起きた拍子に天井に頭をぶつけた。
「何やってるんですか馬鹿なんですかうるさいですよ」
頭を押さえて涙目になっていると、ベッドの下から冷たい花本ちゃんの声が聞こえた。下段のベッドで寝ていた彼女も目を覚ましてしまったようだ。
「九時に就寝って! 良い子か、アタシたちは! 小学生か!」
「良い子でいいじゃないですか。それに小学生の巫女だっていますし」
「ダメなの! アタシたちは花の中学生なんだから、もっと不健康じゃないとダメなの! 夜中にコンビニやファミレスに行ったり、クラブに出入りして危うく補導されそうになったりとか、そういう青春イベントが欲しいの!」
「クラブはもちろん、コンビニやファミレスもこの辺りにはありませんよ」
冷静かつ的確なツッコミだった。
「わかってる……。でも、今日は珍しく上里ちゃんだって来てるんだし、もうちょっと夜ふかししてたいじゃない。というわけで、上里ちゃんの部屋に行こう!」
「今からですか……」
不満そうな顔をしながらも、花本ちゃんはベッドから起きてきた。一緒に来てくれるらしい。キミのそういうところ好きだぞ、花本ちゃん。
というわけで、上里ちゃんの部屋にやってきた。
彼女は普段は丸亀城に住んでいるから、大社にいる時は来客用の部屋を使っている。だから他の巫女たちと違ってルームメイトはおらず、彼女は一人で部屋にいた。
アタシたちが来た時、上里ちゃんはアタシたちが何も言わずとも察して、「神官さんたちには内緒ですね」と笑顔で部屋に入れてくれた。包容力の権化みたいな子だ。年下だけど、彼女の精神年齢はきっとアタシより上に違いない。
「でも、せっかく来てくださったのに、何もおもてなしできませんね……。ゲームや遊ぶものもありませんし……」
上里ちゃんが申し訳なさそうに言う。
「気にすることないわよ。こんな時間にいきなり来ようとする安芸先輩が悪いんだから」
「フッフッフ。二人とも、人生の先輩たる三年生を舐めてもらっちゃ困る。アタシはちゃんと遊べるものを用意してきたわ! じゃーん! カード麻雀!」
トランプカードのケースに似ているが、それよりかなり大きめサイズのケースを、アタシは掲げて見せた。
説明しよう! カード麻雀とは、カードゲームのような感覚で麻雀を遊べてしまう便利アイテムである。麻雀牌を描いたカードを使って、麻雀を遊ぶのである。牌を打ち合う感覚がないため、やや物足りなさがあるものの、カードなので気軽に持ち運べる便利さが魅力である。
「あ、麻雀はいいです」ばっさりと花本ちゃん。
「私もちょっと……」上里ちゃんも気まずそうに言う。
「えー! 麻雀やろうよ! 徹夜でとは言わないからさ!」
「安芸先輩。何度も何度もやろうと誘われ、その度に私は同じ答えを返してきましたが……私たちは麻雀のルールをまったく知りません。というか、中学生で麻雀ができるのは、実家が雀荘の安芸先輩くらいです」
「大丈夫、教えるから! アタシが教えるから!」
「そこまで興味を持てません」
花本ちゃんはクールだ。絶対零度だ。氷結女だ。
アタシは大社に来る前は、父が営んでいた雀荘で、よく大人たちと麻雀をやって遊んでいた。しかし、大社に来てからは、周りに麻雀をできる人がいない。
「麻雀はともかくとして、せめて飲み物やお菓子くらい用意できればいいのですが」
心苦しそうに言う上里ちゃん。
「じゃあ、持ってきちゃおうよ」アタシはニヤリと笑みを浮かべる。「食堂の厨房に行ったら、飲み物と食べ物くらいあるでしょ。お菓子もあるかも」
しかし、この部屋から食堂までの道のりはそこそこ長い。
しかも途中で見回りの大社職員に見つかってしまったらアウトだ。
「三年以上、この宿舎で暮らしてきて、職員たちの見回りルートと時間はだいたい把握してる。アタシたちなら、できる!」
ミッション・スタートだ。
このミッションは、けっこう楽しかった。
三人で上里ちゃんの部屋を抜け出す。スマホのライトも懐中電灯も使うことができない闇の中で、アタシを先頭に足音を立てないように歩く。曲がり角に来たら、少しだけ壁の向こうに顔を出して、廊下の先に人がいないかを確認。声を出せないから、ハンドサインで上里ちゃんと花本ちゃんに『OK』の合図を出して、三人で先へ進む。
そして厨房へ到着。
冷蔵庫からペットボトルの麦茶を取り出し、紙コップも拝借。
牛乳と卵と食パンがあるのを上里ちゃんが発見し、「飲み物だけじゃ寂しいですよね」と言って、あっという間にフレンチトーストを作ってしまった。ちょっと小腹を満たすお菓子代わりだそうだ。調理道具の片付けまで含めても、十分もかかっていない。
すごい家事スキルだ。上里ちゃんはきっといいお嫁さんになるだろう。尤も、上里ちゃんと結婚するためには、四国最強乃木若葉という高すぎる壁を越えないといけないのだけれど。
ちなみに、帰り道で失敗した。廊下を歩いていた烏丸先生に遭遇してしまったのだ。先生の見回りの時間ではないから、トイレか何かに行く途中だったのかもしれない。しかし、烏丸先生は何も言わなかった。アタシとばっちり目が合ったから、間違いなくアタシたちに気づいていたのだが。けれど、先生は面倒くさそうにあくびをすると、見なかったふりをして歩き去ってしまった。あの人は教師としての自覚があるのだろうか。
部屋に戻ってきて、麦茶を飲みながら、フレンチトーストをつまむ。
それからしばらく、三人でいろいろなことを話した。
花本ちゃんは上里ちゃんに、「最近の郡様はどんなふうに過ごしてらっしゃるの?」とやたらと尋ねた。体調を崩したりしていないか、どんな戦果をあげたのか、最近はどんなゲームをしているのか、など……。
「本っ当に、花本ちゃんは郡ちゃんのことが大好きだよね」
「当たり前です。私の勇者様ですから」
花本ちゃんは、最近郡ちゃんがプレーしているゲームを上里ちゃんから聞くと、すべてメモ帳に書き込んだ。郡ちゃんと会った時に、会話の話題にするため、彼女がプレーしているゲームはできる限りすべてプレーするのだとか。
でも、花本ちゃんは郡ちゃんに何度くらい会ったことがあるのだろうか。大社で暮らす巫女と丸亀城で暮らす勇者では、普段の生活の中で接点はない。アタシも球子や杏ちゃんとは、年に1、2回会うくらいだ。
郡ちゃんが勇者の力を発現した時に、彼女を見つけたのは花本ちゃんだから、その時には会っただろう。でも、その後は? アタシは大社で三年以上も花本ちゃんと一緒に生活してきたが、彼女が郡ちゃんと会ったという話を聞かない。
まあ、アタシが気にするようなことじゃないか。
「そういえば上里ちゃんさ。勇者たちの結界外遠征だけど、心配じゃない? 乃木ちゃんたちのこと」
「そうですね、私は若葉ちゃんたちを信頼していますが、やはり心配でないわけはないです。ですから、私も一緒についていくことにしました」
「え!? 上里ちゃんも行くの!? 危なくない?」
巫女の上里ちゃんは、勇者たちと違って戦う力を持たない。バーテックスに襲われたら、ひとたまりもない。
「神樹様からの神託がある可能性もありますから、巫女は最低一人は同行しないといけないんです。だったら私が行きますと言いました。それに……みんなが帰ってくるのただ待っている方が、もっと不安でつらいですから」
「…………」
アタシは何も言えなかった。
数日後、勇者たちと上里ちゃんが結界外の調査遠征に出たことを聞いた。
その日アタシは、授業が終わった後、大社の近くにある小さな山に登った。
次の日も。
その次の日も。
山の上からは海が見える。海の向こうには四国を取り囲むように、植物状の組織でできた壁がそびえ立っていた。あの壁が、四国を守る結界の外と内を分ける境界線だ。
壁の向こうにはバーテックスと呼ばれる化け物たちが大量にいる。その中を、戦闘能力的には普通の人間と変わらない上里ちゃんは、旅をしているのだ。
怖くないはずがない、いくら乃木ちゃんたちが守ってくれるとしても。
アタシは目を瞑る。
約三年半前、バーテックスを初めて見た日のことは、今でも鮮明に思い出せる。
不気味な白い巨体の化け物は日本中に現れた。アタシの目の前にも。あの時、死が大口を開けていた。死はいつでもアタシを呑み込むことができた。
あの日以来、アタシはバーテックスを間近で見ていない。でも、もしあの化け物がまた目の前に現れたら、アタシは恐怖で動けなくなって泣き
「はぁ、はぁ……ここにいたんですね」
声が聞こえて振り返ると、花本ちゃんの姿があった。山道を登ってくるのに疲れたのか、肩で息をしている。
花本ちゃんは呼吸を整えて、ズレていた眼鏡を直し、アタシに尋ねた。
「何をしているんですか、こんなところで」
「いや、別に……海を見たくなって」
「心配なんですね、土居様と伊予島様のことが。私のことを心配症だなんて言ってたくせに、本当は安芸先輩の方がよっぽど心配症じゃないですか。知っていますか、安芸先輩みたいな人のことを、ツンデレというんですよ」
「そっ、そんなんじゃないわよ! 別に心配なんて……」アタシは否定しようとして――やめた。「ううん、そうよ。心配してる。すっごく……」
「ほら、最初から素直にそう言えばよかったんです」
「ちょちょちょっと! なんでアタシが怒られてるみたいな感じになってるの!?」
「くだらない強がりを言うからです」
納得いかない……。
アタシはため息をついてその場に座り込み、空を眺める。スカートが汚れるけど、気にもならなかった。
「ねえ。花本ちゃんはさ、上里ちゃんみたいに、勇者たちの傍にいたいと思う?」
「さあ……どうでしょう」
彼女も空を眺めながら、答えた。
「アタシにはさ、天恐の弟がいるの」
バーテックスに襲われた人々の一部はPTSDを発症した。その中でも、バーテックスが現れた空を過剰に恐れる症状を示す人が多かった。症状が重い人は空の下を歩けなくなり、外出することもできなくなる。幻覚や幻聴に悩まされ、発狂してしまう人もいるらしい。その症状はただのPTSDとは異なる可能性があると言われていて、区別するために
「弟はかなり症状が重くてね、ずっと病院に入院してる。本当だったら、アタシはお姉ちゃんとして、あの子の傍にいてやらないといけないと思う。でも、アタシはずっと大社にいて、あの子にはほとんど会いに行けてない……」
「大社の巫女だから仕方ないですよ。もしかして安芸先輩は、その子の治療を優先的に行ってもらうために、巫女になったんじゃないですか?」
「でも、本当は巫女になるより、あの子の傍にいてあげる方がよかったんじゃないかとも思うんだ。それと同じで――アタシは上里ちゃんみたいに、球子や杏ちゃんと一緒にいた方がいいのかもな、とも思っちゃうんだよ」
勇者たちはバーテックスと戦っている。いつ命を落としてもおかしくない。
最悪の事態は想像したくもないけれど、会えるうちにできるだけ多く会っておくべきじゃないのか。いつ会えなくなるか……わからないんだから。
「何もできませんよ」花本ちゃんは淡々と言う。「安芸先輩には何もできません。弟さんの傍にいても、天恐を治療できるわけじゃない。勇者たちの傍にいても、上里さんみたいに巫女の能力が高いわけじゃないから、何もできないでしょう」
「……あはは、ひどい言い方」
「事実です。安芸先輩はこの大社にいて、自分にできることをやるべきです。それが何より弟さんのためにも、勇者様たちのためにもなる。先輩は一番合理的な行動を取っています」
「…………」
言い方はひどいけど。
もしかして、彼女なりにアタシを励ましてくれているのだろうか。
「……つまり花本ちゃんは、アタシが大社にいるべきだって言ってるのね? そんなに花本ちゃんはアタシに傍にいてほしいってことかな?」
「違います」
「えー、だってそうでしょう? さっきのはアタシにここにいてほしいってことじゃん。花本ちゃんはアタシのことが大好きなんだねえ」
「戯れ言を言ってると殴りますよ」
「ひどっ!」
![真鈴と美佳](https://cdn-static.kakuyomu.jp/images/upload/gs_magazine/uehina_001m.jpg)
まあ、でも……
確かに彼女の言う通りで、アタシは医者でも心理学者でもないから、弟を治療してやることはできない。上里ちゃんほど巫女の能力は高くないし、何よりも彼女ほどの精神力がないから、勇者たちの役に立てることは少ないだろう。今回みたいな結界外遠征だって、アタシだったらバーテックスへの恐怖心で同行することはできなかったかもしれない。
「官を侵すの害は寒きよりも甚だし」花本ちゃんはつぶやいた。
「どういう意味?」
「自分の職分を全うするのが重要だということです。
そうなのかな。
そうなのかもしれない。
アタシはまた空を見上げる。
青く晴れ渡った空は、広く、深く、美しい。人類社会を崩壊させた化け物を降らせたとはとても思えない。あの事件の前までは、空は人間にとって希望や吉祥の象徴だった。今は凶々しい憎悪すべきものだが、それでも美しさは以前と変わらない。
「あーあ、なんでこんな大変な時代に生まれて来ちゃったのかしらねえ、アタシたちは」
普通の時代に生まれていたら、この空の美しさを素直に感じることができただろう。
女子中学生らしい青春を
アタシだけでなく、球子や杏ちゃんだって……
「私はこの時代に生まれてよかったと思っていますよ」花本ちゃんは迷いのない、清々しささえ感じる口調で言った。「だって、この時代に生まれたおかげで、郡様に出会えたんですから」
その翌日、勇者たちは四国に帰還した。
勇者と上里ちゃんたちは無事で、誰かが怪我をしたりすることもなかったそうだ。
アタシと花本ちゃんは食堂で昼ご飯を食べながら話す。
「上里ちゃんたち、思ったよりも帰ってくるの早かったね」
「そうですね……」花本ちゃんが
アタシたちも詳しいルートは聞いていないけど、大阪、名古屋、東京といった主要都市や、人間が生存している可能性がある諏訪、さらに東北や北海道まで調べることになっていたはずだ。
たった三日程度の時間で、それだけ多くの箇所を調査ができたとは思えない。
「途中で引き返してきたんだよ。上里に神託が下ったらしくてな、四国に間もなく危機が訪れるから早く帰れって」
そう答えたのは、たまたま同じく近くで食事をしていた烏丸先生だった。
「え? でも、アタシたちにはそんな神託、なかったと思いますけど……」
「ああ。大社の巫女で神託が下った者はいない。だが、上里は神樹に一番気に入られている巫女だからな、彼女にだけ神託が下ったとしても不思議じゃない」
さすがは上里ちゃんだ。でも、四国に間もなく訪れる危機ってなんだろう?
「とりあえず大社は、その危機が何かってことを調べてる。それと勇者たちが結界外遠征で持ち帰ったサンプルの調査もしているよ。まあ、どれだけのことができるかわからんが、私たちもやれるだけやってみるさ」
そう言って烏丸先生は、食事を終えたトレーを持って、席を立った。
「大人たちも大変だ」
アタシは去っていく烏丸先生の背中を見ながら独りごちる。
巫女たちは神樹様に仕え、その神託を聞くことが仕事だけど、それ以外についてはやはり子供なので、大したことはできない。いろんな調査だとか対策だとかは、大社という組織がすべてを担っている。
「大社に入って三年以上経ちますけど」花本ちゃんが不満げに言う。「私は未だにこの組織が一体なんなのか理解できません。私に言わせれば、この組織は歴史上
――――――――――――――――――――――
続きは2021年11月30日発売の単行本
結城友奈は勇者である 勇者史外典 上 をチェック!
勇者史外典 第一章 上里ひなたは巫女である 朱白あおい/電撃G'sマガジン @gs_magazine
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。勇者史外典 第一章 上里ひなたは巫女であるの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。