漂泊の民と大鹿の腸詰

 山越えを終えて、平坦な道が続く。歩きやすさならば山道と段違いだが、スヴェンと赤紫鱗の警戒は増していた。見通しの良い草原はやがて農地となり、ちらほらと点在する集落を避けるように歩かねばならない。

「畑に入るなよ、見咎められたら面倒だ」

「ん!」

 さわさわと波打つ青い小麦の畑にモルニィヤは興味を持っていたようだが、スヴェンが注意すると素直に頷く。彼女の長く青い真っ直ぐな髪は、スヴェンの手で一本に編まれた上で、首に巻いた後頭巾で隠されていた。

「おかさんー」

「んだよ」

「あついよぉ」

 気持ちは解るので嘆息だけで同意する。春が訪れて金陽の光が強くなり、歩いていれば僅かに汗ばむようになったのに、頭巾を被っているのは辛いのだろう。だがそういうスヴェンも、荷物から襟巻を取り出して首から顔半分を覆っている。――この辺りがもう、辺境では無いからだ。

 そも、只人とは集まらねば生きていけぬ者。人を纏める者が王となり、国を作り、広くなった領土を貴族に分け与えた。人が多ければ広い畑を開墾できるし、その腹を膨れさすことが出来る。それが、国という秩序の始まりだ。

 しかし漂泊の民とは、彼らが作る秩序の網から零れ落ちた者達だ。網の中で守られている者達にとっては、異分子でしかない。

「我慢しろ、この辺の集落を抜けるまではな」

「うー」

 疎まれ追い出されるだけならまだしも、普通に命を狙われる可能性すらある。大抵の国の法では、漂泊の民を殺しても罪にはならないのだ。泥棒だの物乞いだの、適当な理由と罪状をつければ咎められることはない。スヴェンには罪人の証である烙印もある、見咎められればすぐさま絞首台行きだ。モルニィヤは不満そうだったが、隣を歩く蜥蜴人にも諫められる。

「また人買いに目をつけられたく無いであろ。耐えよ」

「!!」

 息を飲んでこくこく頷くモルニィヤには、嘗て奴隷商人に捕まって売り物にされていた恐怖がまだ残っているのだろう。赤紫鱗も頭から被った布の下で不本意そうに息を吐いている。額冠と鱗が遠目に見え辛いよう、出来る限り体を覆っているのだ。蜥蜴人が迂闊に只人の里と近づき、魔と間違われて狩られるか、捕まって売り物にされることもあるという。彼自身の誇りとしては不本意だろうが、己を守る為に鼻先に皺を寄せつつも堪えていた。

「がまんする……」

「よし」

 頭巾をぎゅっと引っ張り、体を縮めてスヴェンの背にくっついてくるモルニィヤの頭を、腕を伸ばしてぽんぽんと叩き宥めてやった。


 

 ×××


 

 まだ青く穂も無い麦の合間を縫うように、出来る限り身を低くして進んでいくと、やがて小さな森にぶつかった。恐らく農民達が薪や狩りの獲物を確保するため、管理されている森だろう。此処も入ったことに気付かれれば咎められるだろうが、街道や畑よりはまだ身を隠せる可能性が高いので、躊躇い無く足を踏み入れた。

「――妙な森だ。只人の気配が強すぎる」

 入ってすぐに鼻先を空に向けて呟く赤紫鱗に対し、スヴェンは呆れたように頷いた。

「流石旦那、解るのか。この辺の森は集落の奴らが入って、薪も木の実も動物も、全部管理されてる。狩りもしねぇ方がいいだろうな」

「成程、つまりは畑と同じか」

 簡単な説明で納得したらしい赤紫鱗は顎を引くが、自然と共に生き竜の息吹を繰る蜥蜴人にとって、違和感しかない地なのだろう、鼻先に皺が寄ったままだ。モルニィヤも少し戸惑ったように、枝葉で埋まった空を眺めている。

「……あんまり、げんきないね、みんな」

「貴様にも解るか。樹竜マザラの息吹は既にこの森に無し。根幹と枝葉を捻じ曲げ続けた成れ果てだ。最早枯れぬように只人が益を注ぎ続ける他あるまいよ」

「そういうもんかい」

 スヴェンの目には、割と明るく豊かそうな森だと見えてしまうが、巨人や蜥蜴人にとっては死に体の森らしい。勿論そうしなければ大勢の人が飢えるからこそ、貴族や王が管理をしているのだろうし、その是非について自分が言うべきことでは無いので口は閉じたままでいる。

 ……しかし、暫く下生えの少ない森を歩き続ける内、奇妙なものを見つけて足を止めざるを得なかった。

「……鹿、だな。もうくたばってやがる」

「だが、狩りの獲物ならば何故捨て置かれている? 解せぬ」

 森に放置されている、かなり大きな鹿の死体だった。首から体中に残された複数の矢以外に外傷は無く、他の獣に荒らされてもいない新しい死体が、何故ここに残されているのか。狩人や密猟者ならば、内臓か毛皮だけでも持って行く筈だし、折れていない矢は回収するものだ。何とも不気味な状態に、スヴェンは眉を顰めた。

「おとさん、おかさん、このこ、どうするの?」

「普段なら、ばらしていただくとこだが、どうも妙だ。盗んだと思われるのも癪だし、置いてくしかねぇな」

「已むを得ぬ。埋めることも出来ぬが――『土竜トォデオの顎に迎えられんことを』」

 せめて、と言いたげに赤紫鱗が吐息のような声で埋葬の祝詞を掲げ、鹿の額に軽く赤土をかけ、種を一粒其処に埋めた。命を地に帰す蜥蜴人なりの弔いらしい。

 警戒しながら進むと、異変は更に増えた。僅か百歩も離れぬうちに、真新しい兎の死体をまた見つけてしまったのだ。それだけでなく、鼬や鳥も。皆、矢を射かけられて死んだり、死にかけているもの達が徒に放置されていた。

「どうなってやがる。この森の獣全部に、病でも流行ってるのか?」

 それならば領主の判断で、家畜や領民にまで病が届かぬよう殺す判断がされるかもしれない。ただそうだとしても、死体を放置するのは悪手だ。他の獣を呼び、更に蔓延する可能性とてあるのに、一体何をしているのか。

「おとさん、おかさん、どうしよう」

「モル?」

 痛まし気に事切れた動物たちを見下ろしていたモルニィヤが、不意に顔を上げてスヴェンの袖を掴んで引く。何を感じたのか、彼女の顔は髪に負けないぐらい蒼褪めて、うろうろと視線を彷徨わせていた。

「みんな、おこってる。もっとおおきいこが、くるかもしれない」

「――真か。なれば、急ぎこの森を抜けるぞ」

「何が、来るってんだ?」

 状況が拙いと気づいたように、赤紫鱗も獣達を弔う手を止めて、折っていた膝を伸ばして立ち上がる。このふたりがこれだけ警戒しているのなら従わない理由が無いが、意味が解らずに問いが口から出た。モルニィヤが更に口を開こうとした瞬間、はっと息を飲み――

「おかさん!」

「っぐ!?」

 叫びと同時、モルニィヤの手に突き飛ばされた。彼女の力が強いのは折り紙付きで、スヴェンの体は軽々と弾き飛ばされ地面に転がり――ぱっ、と視界に広がった青い髪の中に、紅い血の玉が散った。

「――モル!!」

 叫ぶと同時、モルニィヤの体が地面にどさりと倒れる。彼女の肩口に突き刺さっているのは、立派な羽根で飾られた太い矢だった。衝撃でモルニィヤのフードが外れ、青い髪が地面に水のように広がっている。そこまで目線で追って、スヴェンは舌打ちをして手元の小弓を構える。

「誰だ!」

「下がれ! “増進”!!」

 誰何の声を上げると同時、赤紫鱗が杖を構えてふたりの前に立ちはだかり、力ある祝詞を吐息の音で発した。すると複数の木の幹に巻き付いていた蔦がずるずると蛇のように伸び上がり、再び飛んできた矢を弾き、絡め取った。しかしやはりこの森では上手く力を借りられないのか、蔦はすぐに地面に落ちてじわじわと枯れてゆく。それでも赤紫鱗は油断なく杖を構え、スヴェンも息を殺していると、森の奥から複数人が近づく足音が聞こえた。

「何だ、今のは!」

「妙な術を使う。蜥蜴のまじないか?」

 枝葉を掻き分けて現れたのは、森の中にしては随分と小奇麗な格好をしている男達だった。どう見ても野盗や密猟者の類には見えないが、着飾った青年たちを守るように、鎧を纏って弓を番えた男達が油断なく構えている。

「漂泊の類か? まぁ、獣とそう変わるまい。私に10点だ」

「まだ死んでいないだろう、得点にはならん」

「鹿を二頭取られたからな、これから巻き返すさ」

 青年達は、スヴェン達が武器を構えているのに警戒する様子も無く、楽しそうに会話を続けている。彼らも弓を持っているが、構えることすらしない。それでも、命を奪う鏃は他の者達から未だ向けられているし、倒れ伏したままのモルニィヤの傷は心配だが動くことが出来なかった。

「……こ奴らは、何だ。戦でもなく、狩りでもなく、獣や我等に弓を向けているのか。何の為に?」

 牙の間から零れる赤紫鱗の小声に、ほんの僅かな困惑が混じっていることに、スヴェンだけは気づけた。赤紫鱗だけでなく、殆どの蜥蜴人にとって彼らのやっていることは意味のない行動なのだろう。そして、こういう人の悪意や害意については、自分の方が詳しいと知っているので、舌打ちを堪えて小声で返す。

「多分、この森を領地にしてる貴族の餓鬼共だ。一番殺せた奴が勝ち、っつう趣味悪い遊戯をしてるんだろうよ」

「今一度問う。何の為に」

「楽しんでんのさ。俺らも獲物に含めてな」

 貴族の連中はそういう遊びをすることがあるとは知っていたが、何と悪趣味なことかと気分が悪くなる。もっと大きな国では、捕まえた罪人達を獲物として放ち、それに矢を射かけることもあるらしいと聞いた。しかしどちらにしろ、食べない獣を殺す意味が解らないし、自分達がその的にされるなど御免被る。

「――度し難し」

 どうやら相棒の気持ちも同じなようで、ぎり、と乱杭歯を軋ませ、ぎょろりと蠢く灰色の瞳が怒りに染まった。恐らく彼はもう退く気は無くなったろうし、スヴェンも気持ちは凄く良く解るが、この状況は拙い。赤紫鱗の術は強力だが、一日で使える回数の制限があるし、相手の数が多すぎる。眠りや雷の術を使っても、全員を巻き込めなければこの距離で矢を射かけられて終わりだ。

 どうする、と冷や汗を堪えて必死に頭を回すスヴェンの服の裾が、きゅ、と弱く引っ張られた。

「……おかさん、おとさん」

「モル?」

 小声で答えて視線だけ下に向けると、倒れ伏したままのモルニィヤが顔を持ち上げていた。肩にまだ矢が刺さったままで痛むだろうに、潤んだ瞳で二人を見上げ、か細い声で必死に訴えてくる。

「にげ、て、おおきいの、くる」

「……?」

「! 伏せよ!!」

 赤紫鱗が叫び、杖を捨ててスヴェンの首を掴み、地面に伏せた。考えるより先に、スヴェンもそのまま抵抗せず地に転がるまま、モルニィヤに覆い被さる。

 それと同時に、ずん、と地揺れが起こり、貴族達が何事か、と驚いて声を上げる前。スヴェン達の真上を、とても大きな何かが飛んで、貴族達の前にずしゃりと落ちた。。

「……!」

 モルニィヤの大きな体をどうにか隠すように伏せたまま、スヴェンは視線だけをどうにか持ち上げ、それを見て――息を飲む音を必死に堪えた。

 それは、まるで一塊の山のように見えた。

 体を覆う毛足は、長く伸びた草と蔓と葉で出来ており、蹄は人の頭と変わらぬほど巨大。本来不動である筈の植物たちが、虫か蛇のように蠢き合い、その体を形作っていた。めり、めり、という音と共に、恐らく頭部であろう場所から枝、否、幹が生えていく。正に鹿の巨大な角のように枝葉を広げ、葉が生い茂り、また枯れていく。時が早回しされるように、目まぐるしく。

 その、あまりにも現実離れした恐ろしい姿に、スヴェンは動けない。漂泊の民になる前から旅暮らしを続けていたけれど、こんな姿の魔にお目にかかったことはない。モルニィヤは恐怖からか、スヴェンの胸に縋りついてぎゅっと目を閉じているし、赤紫鱗はふたりに覆い被さったまま、ぶつぶつと祈りを捧げていた。

 この地で生きてきた貴族の青年達も、こんなものを初めて見たのだろう、恐慌して口々に悲鳴を上げていた。

「な、なんだこの化け物は!」

「何をしてる、矢を射かけろ!」

 上ずった声で命じるとともに、我に返った兵士達が次々と矢を放ち、その緑の体に突き刺すが、何の痛痒も齎していないように小山の体は揺らがない。「愚か」と小さく呟いた赤紫鱗の声がスヴェンの耳に届いた。

【―――――looOOOOOO!!!!】

 その、獣なのか樹なのか解らない生き物が、雄叫びを放った。否、地響きと言った方が正しい、びりびりと空気を震わす音だ。それに呼応するように、森が蠢き、ぞわぞわと枝葉が揺れ、地が罅割れ――

「ぎ、ああああ!!」

 その怪物から伸びた根が、地面を蛇のように走り、突き破り、愚かな狼藉者を貫いた。自分が攻撃されたと理解しているのか、矢を射かけた者から順番に。

「た、た、たす――ひがっ」

 懇願の悲鳴を上げて逃げようとした貴族の一人が、鞭のようにしなって伸びた角のような枝に米神を突き刺され、がくりと頽れた。もう一人は腰が引けながらも剣を抜いたが、振り落ちてきた無数の葉に、あっという間に体を切り刻まれて倒れた。その場にへたりこんだ最後の一人は、伸びてきた根に巻き付かれ、みしみしと骨を軋ませ、じわじわと血肉を吸われ、干からびたように萎れ――事切れた。

 その場に動くものがいなくなり、次は自分達か、とスヴェンも覚悟をしたが、怪物は動かず留まったままだ。纏った枝葉や草木は何度も芽吹きと枯れを繰り返し、それが段々と収まって――体もどんどん縮んでいって、どさり、と倒れた。たっぷり三十回、呼吸を繰り返してから、漸く赤紫鱗が体を起こし、それに近づく。

 倒れていたのは、沢山の矢が刺さったままの鹿の死体だった。恐らく、最初にスヴェン達が見つけたものだと思われるが、その体は先刻見たものと全く変わらぬままだ。

『樹竜マザラよ、怒りを鎮めて下すったか』

 ぐるぐると喉を鳴らして精霊語を呟く赤紫鱗も、動揺と興奮が収まらないのだろう。死体の傍に額ずき、もう一度祈りを捧げている――命が助かったことを感謝するかのように。

「……おかさん、いたい」

「っ、モル! 大丈夫か!?」

 その有様を呆然と見ていたスヴェンも、モルニィヤの呻きに我に返った。身を起こし、娘の上半身を抱き上げる。肩口に突き立った矢はそこまで深く刺さっていなかったが、充分痛いだろう。少しでも綺麗な布を荷物から取り出して、傷口に当てながら矢を掴む。

「ちょっと痛ぇぞ、我慢しろ」

「ぅ……っううう!!」

「よし、頑張った。旦那!」

 一息に抜き取るとやはり痛かったらしく、青い瞳からぼろぼろ涙を零すが、嗚咽を必死に堪えている。傷口を布で押さえながら手早く水で洗ってやり、赤紫鱗を呼べば、祈りを終えたらしくすぐにこちらへ戻ってきた。

「他者を守る為に刻んだ、貴様の傷に敬意を表する。――”治癒”」

 鱗に覆われた手を翳して祝詞を唱えると、ふわりと蛍のような光が舞って、モルニィヤの傷に降り注いでいく。出来てすぐの傷だったからか、見る見るうちに穴は塞ががり、何処にあったか解らないほどになったので、漸くスヴェンは安堵の息を吐いた。

「はぁ……ったく、馬鹿。いくらお前が丈夫だからって、庇われる程鈍っちゃいねぇよ」

「うー? もういたくないよ?」

 彼女が巨人であるが故の治癒力でもあるのだろうが、子供に庇われて傷を負わせるのは据わりが悪すぎた。まだ潤んでいる目を瞬かせて、当然のことだと言いたげな娘の額をぴん、と指で弾いてやる。

「いたぁい!」

「やっぱ痛ぇんだろ」

「ちがうう!」

 からかわれたと解ったのか、ぷんぷんと腕を振り上げるモルニィヤを宥めつつ、改めて惨劇の場に足を向けた。残っているのは人と鹿の死体だけで、あの狂乱が嘘のように森も静かだ。

「……っと、やべぇな」

 死んだ連中がこの領地のお偉方ならば、いずれ誰かが探しに森に入るだろう。この場にいたら間違いなく犯人扱いだ。幸い人の手によるものではなさそうな死体のため、逃げればただ獣か魔に襲われたと納得されるだろう。手早く荷物をまとめて背負い直す。

「旦那、行けるか?」

「暫し待て」

 赤紫鱗は先刻の怪物が通り過ぎたことにより地面に落ちた大きな枝を一本拾い、もう動かない鹿の四つ足を蔓で括りつけ始めたのでぎょっとする。

「おいおい、そいつ持ってくつもりかよ? また動き出したらどうすんだ」

「否。最早マザラの怒りは過ぎた。戦い抜いた此れを、ただ打ち捨てるも、この度し難き者達に奪われるも許せぬ」

「もる、てつだう!」

 モルニィヤも怖がらずに棒の片側を担いだので、本当に危険は無いらしい。大荷物にやれやれと肩を落とすが、こういう時の相棒は何を言っても聞かないことは良く知っているので、諦めて他二人分の荷物を自分で持つことにした。

 

 

 ×××

 

 

 森は先刻よりも力を失っていた。マザラの怒りにすべてを注いでしまったのだろうと赤紫鱗は思考する。肩に負った枝にかかる鹿の重みは、この怒りを受け止める器となった戦士の証だ。あのまま放っておくわけにはいかなかった。

「たとえ滅びに向かう森といえ、食らいもせず命を奪うは許されざること。故にあれらは、樹竜マザラの怒りを買った」

 いつになく饒舌になってしまったが、赤紫鱗とてこのような形の竜の怒りは初めて見た。だが竜の怒りは魔の触りよりも恐ろしいと、竜人達は誰もが知っている。

 神は世界の骨、竜は世界の肉。神は巨人や只人を作り魔を零したが、竜は鱗を剥がして竜人を生んだ。世界を膿まず、食い潰さず、ただ正しく命を廻し、いずれ原初の七竜の御許へと還る。それが竜人の在り方だ。教えられなくとも、誰もが当然と信じる生きるための導だ。

「あんなとんでもないのが、魔の類じゃねぇのかい」

「否、否、否だ」

 見当違いな相棒の言葉をぴしゃりと遮る。スヴェンは不満げに口を尖らせたが、自分の知らないことについて彼は謙虚なので、黙って続きを待っている。付き合いの長くなった彼の好ましい部分のひとつだ。

 スヴェンと旅を始めて漸く知ったが、只人は竜の息吹を感じ取るのが非常に不得手らしい。余程才のある者でなければ、竜の存在を無きものとして暮らしていると言われ、目を剥いたのも懐かしい。棒を背負い直し、歩きながら尚も言葉を紡ぐ。

「この鹿は恐らくあの森で一番大きな鹿であった筈。子も孫も多い、長く生きた命であった筈。それ故にマザラの怒りを受け取る器となった」

「おっきいの、いっぱいおこってた」

 共に鹿を担いでいるモルニィヤが頷く。巨人は竜人よりも竜の息吹に親しい。未だ世界が混沌に沈んでいた頃、水竜ナヤンブと伴侶の海原神が作り上げた原初の「ひと」だ。その強靭さ故に長く生きる彼らは、海から地上へと上がり、大分血が細くなったとしても決して力は消えていない。

「故にせめて、この血と魂を晒し捨て置くことは許し難し。祈り捧げ、肉と骨を食らうが正しき弔いぞ」

「食うのかぁ。どうすっかなぁ」

 スヴェンはほんの少し嫌そうな顔をしたが、食べられるものを捨て置くのは彼とて御免被るだろう。食える時に食えるものなら何でも食っておかねば、道半ばで倒れ伏すのが漂泊の民だ。そしてこの相棒ならば、この敬虔なる戦士の亡骸を美味なる料理に出来るであろうという期待も勿論あった。



 ×××

 


 森を抜け暫くは速足で歩くと、領地の証である塚がある川の畔まで辿り着いた。ここを超えればもう追手はかけられまい。浅い場所を選んで如何にか川越えを果たし、漸く大きな鹿を下ろすことが出来た。

「首は弔わねばならぬ。後は貴様の好きにせよ」

 そう告げてから赤紫鱗は鹿の首を自前の刃で切り落とし、立派な角も落としてから首だけを土に埋めた。僅かに盛りあがった土にひたりと手を置き、祝詞を捧げる。

『樹竜マザラの御許へ。我らが血と肉と魂を受け、今暫しの眠りを。誇り高きつわものよ、いずれ会おう』

 スヴェンの耳には唸り声のようにしか聞こえないが、赤紫鱗は目を被膜で閉じたまま祈りを終え、塚の上に一本瑞々しい葉のついた枝を刺し、赤土と水をかけた。これで正式な弔いは終わったらしい。それを見届けて、スヴェンも大きな鹿へと向き直った。

「さてと、ちょいと面倒だが――やるかぁ」

 ぼやくように呟きながら、手早く腹を割いて内臓を取り出す。病や蟲でもいたら危険なため、よく見てはみるが、時間が経っているはずなのに腑は生き生きとしていて、それなのに血抜きが既に終わっているかのように錆臭さが少なく、逆に不気味だ。しかし食うことに何ら問題は無さそうなので、多少のことには目を瞑る。此処で飯が食えなければ次、いつ食えるか解らないのだから。

「肝と心臓と……この辺は串焼きでいけるか。旦那、皮剥いだら出来るだけ干し肉用に切ってくれ。残った奴はこそいで鍋に」

「心得た」

 赤紫鱗も慣れたもので、骨から削った刃を使い綺麗に毛皮を剥いでいく。モルニィヤも河原に生えている背の高い枯れた草を集め、焚火を起こしていた。

「おかさん、たきび!」

「おう、ありがとな」

 何せ火打石を使わなくても、ほそほそと何か二言三言告げれば自然と炎が灯るのだ。便利なものだと思いつつ、捌いた内臓を削った枝に刺して遠火で焼く。残った臓腑は胃と腸で、どちらも川に漬けてざぶざぶと洗った。胃袋は水筒にも加工できるが、今日はちょっと使い方が違う。

「して、何を作る」

 大きな薄切り肉を乾かすために石の上に並べ終えた赤紫鱗が、細切れの肉がたっぷりと入った鍋を差し出してくる。これだけあれば充分かと思い、スヴェンもひとつ頷いて続けた。

「出来るだけ肉を細かく砕いてくれ」

「これ以上にか?」

「あんたの爪ならすぐ終わるだろ。この前言ってたじゃねぇか、腸詰の中身にするんだよ」

「ほう。時間がかかると宣っていたが」

「急ぎで作るし、干し肉よりは先に終わるさ」

「ちょーづめ!」

 いつになく相棒の眼がぎらりと輝いたので、やはり忘れてはいなかったのだろう。モルニィヤもぱあっと顔を輝かせている。素直なふたりに苦笑しつつ、長い腸を川の水に漬けながら扱き、中身を全部綺麗にした。皮膜が透き通るぐらいになったのを確認して、かじかむ指を堪えて河から上げる。春になったがまだ水は冷たい、肉が悪くなりにくいので作業としてはありがたいのだが。

「如何程か」

「上等」

 赤紫鱗が鋭い爪でがしがしと握り潰した挽肉を差し出してくる。充分細かくなっていたのでにやりと頷き、岩塩を削り入れ、この前遊牧民の老婆に教えて貰った実の粉も混ぜて更に練る。こちらもモルニィヤが膂力で手伝ってくれたので、すぐに終わった。

「よし。んじゃこいつを、胃の中に入れて、こう――」

 胃袋の細い口を切り、砕いた肉を詰める。逆側の出口に腸の皮を伸ばして被せると、棒を使って少しずつ胃を絞って、中身を腸に少しずつ押し込んでいく。入れすぎると破けたり、逆に空気が入って後で火を入れると破裂したりするので、加減がかなり難しい。それでも、ふたりが見守る中少しずつ肉を捻じ込んでいき、適当な長さで捻って止める。どうにか掌から少しはみ出すぐらいの腸詰を、十本ほど作ることが出来た。

「成程。面倒な過程を経るものだ」

「でも、そうするとおいしい! んだよね?」

「――は」

 すっかり「解っている」娘にスヴェンが耐え切れず笑うと、赤紫鱗もくはっと牙が並ぶ口を開けた。

「んで、後は干した後茹でるんだが、まぁ日持ちはそこそこするし今日は――」

 焼いた内臓だけでいいか、と言おうとしたのだが、赤紫鱗とモルニィヤの瞳が、今日は食べられないのか、という驚愕で見開かれたのを見て、一瞬葛藤し、保存食は干し肉のみにしようと諦めた。自分とて疲れたし、今日は豪勢にいこうと覚悟を決める。

「……鍋洗ったらまぁ、半分ぐらいは茹でて食っちまうか」

「然り」

「やったぁあ!!」

 深く顎を引いて赤紫鱗が頷き、モルニィヤが諸手を上げて飛び跳ねたので、敗北感を持ってスヴェンは鍋を川に沈めた。


 

 ×××


 

 湯の中でゆらゆらと動く腸詰を、モルニィヤと赤紫鱗はじっと目で追う。先刻しっかり火の通った臓腑の串焼きをぺろりと平らげたのに、まだ足りないようだ。中に入っている腸詰は六本。スヴェンは火加減を見ながら、破けないよう湯の中で腸詰を転がして――やがて、つやつやに膨れたそれをざぶりと皿の上に掬い上げた。

「おかさん、もうたべれる!?」

「ん、ちょい待て」

 一応作った者の特権として、熱さを堪えてゆであがった腸詰の端をぐっと齧る。作ってすぐのおかげか皮は柔めで弾力があり、中に閉じ込められた肉と油が弾ける。やはり血抜きは完全では無かったらしく少々癖はあるが、痺れ実のおかげで不快ではない。はふ、と湯気を吐いてから飲み込み、ぐいと口を拭った。

「よし、食っていいぞ」

「たべるっ!! あぐ、ん、ほぃひいぃ!!」

「ほれ、旦那も」

「有難く。――む、美味也」

 肉刺に刺して差し出した腸詰にすぐさま噛みつくモルニィヤが、口回りから溢れた肉汁も気にせず歓声を上げた。皮の歯応えが赤紫鱗の口に合ったらしく、彼も一度に半分ほど噛み千切ってごくりと飲み込み、満足げに鼻から息を吐く。

 あっという間に一本目を食べ終えたふたりはすぐさま二本目に手を伸ばす。それをやれやれと呆れた目で見ながら、スヴェンは自分の分をじっくりと味わう。この調子では、残りの四本は明日にでもふたりに食いつくされてしまうだろう。

 作るのにこれだけ手間がかかる上、あっという間に無くなってしまうのは全くもって面倒臭いが――ここまで嬉しそうに食べて貰えるのなら、また強請られた時、多分自分は作ってしまうだろう。様々な感情をこめて、スヴェンは溜息を吐いた。


 

 ×××


 

『原初の七竜、樹竜マザラよ。鱗の一枚、爪の一欠け、我に与えられし糧として、この魂が枯れ落ちるまで共に戦わん』

 食事が終わり、焚火以外の光が空に僅かしか残らない夜の中。残った鹿の角と骨を地面に並べ、赤紫鱗は蹲るように座りこんで祈りを捧げていた。やがて体を起こすと、自分の持っている年季の入った蔓の杖を掲げ、其処から解いて伸ばした細い蔓で骨を括りつけていく。最後に杖の頭に、大きく広がる鹿角が飾られることになった。

「豪勢にしたもんだな」

「樹竜マザラに捧げられた命の欠片、我に与えられた僥倖ぞ」

 洗ってなめし終わった鹿の毛皮に針を通していたスヴェンに聞かれ、杖を掲げて赤紫鱗は満足げに頷く。彼にとってはこの杖の価値が如何程かとても解らないのだろうが、縫い終わったらしい鹿皮を持って立ち上がると、赤紫鱗の肩に被せてきた。

「よし、大きさは合ってるな」

「忝い。貴様の手管は本当に見事だ」

 竜人は縄を綯うことがあれど、布を織ったり裁縫をする文化は無い。赤紫鱗が普段身に着けている装束も全て獣皮だ。風を通さぬ毛皮の外套は、また冬が巡ってきた時に助けとなるだろう。有難く賛辞を告げると、相棒は小さく舌を打ちながら苦笑した。

「褒めても何も出ねぇぞ」

「また腸詰を作る機会があろ」

「やっぱりかよ! 面倒だっつってんのに」

 悪態を吐きつつも、スヴェンの口元が緩んでいることに気付いているので赤紫鱗は何も言わない。美味なる物を作ることに関して彼の腕を信用しているし、彼自身も喜ばれるのは悪くない、と感じていることをとうの昔に知っているからだ。見透かすような視線に気づいたのか、ばつが悪そうにスヴェンは目を逸らし、小さく歌いながら焚火の傍で地面に絵を描いているモルニィヤの元へと戻った。

「……モル、腕見せてみろ」

「んん?」

 不思議そうな娘の腕をぐいと引き、肩口を確かめている。治癒の息吹をかけた上、巨人の生命力の強さはもうあの程度の傷など全く問題は無いであろうに、やはり彼は心配らしい。白く傷の無い肌をそっと撫でて、安堵の息を噛み殺しているようだった。

 守るべきものを守って負った傷は、赤紫鱗から見て誇り高き傷であるので、傷口まで癒す必要は無いと正直感じていたが、恐らく相棒は酷く気に病んでしまうだろうから、治癒の息吹を使うこと否は無かった。

「流石旦那、良い腕してるぜ」

「傷を得てすぐであったこと、そして何より貴様の生命力が故だ。我が研鑽は未だ遠く及ばぬ」

 事実を述べたが、スヴェンは信じるつもりは無いらしく軽く鼻を鳴らしただけだった。モルニィヤは服を直されるまで大人しくしていたが、離れようとしたスヴェンへ無造作に手を伸ばす。身の丈に見合った大きく柔い子供の掌が、ぺたりとスヴェンの頬に触れた。固まる相棒を他所に、まるで獣が傷口を舐めて癒すような柔らかさで、モルニィヤの指先が辿る――スヴェンの頬に刻まれた咎人の焼き印を。

「おかさんのきずは、なおせないの?」

 眉を下げて悲しそうに、こちらを見て呟く娘の声に、詫びる為に顎を引く。負ってすぐならばまだしも、嘗て刻まれた傷を癒すことは、更に不得手だ。里を出るまで、戦いに依らぬ、誇りを持たずただ刻まれる傷というものがあることを知らなかったが故の、己の未熟。

「許せ、モルニィヤよ。いずれ、必ずや、この傷は癒す」

「いいっての。そりゃ、こいつのおかげで面倒は多いが今更――」

「やだ。いたいもん」

 いつも通り、嘯いたスヴェンの声音を、モルニィヤの声が止めた。火傷で刻まれた悍ましい痕を、何度も撫でて、青い瞳を潤ませながら。

「モル」

「おかさんのきず、いたいもん……」

 自分の傷より他人の傷を痛がるなど、漂泊の民にとっては無駄な荷物でしか無いことだと、赤紫鱗も解っているが。先刻、彼女の傷を案じたスヴェンとしては、吐いた唾が天から落ちて来るに等しいだろう。言い返せない内に、腰を上げ、モルニィヤの手が引いたところに自分の手を翳した。

「旦那、」

「諦めろ。貴様の誇りは今や貴様だけのものに非ず。我と、この幼子すら掲げるものになったぞ」

 己を冷笑する癖のある男にそう告げると、いよいよ反撃が出来なくなったらしく、スヴェンは唇を噛んで不満げに押し黙った。抵抗はもう無いと判断し、小さな祝詞と共に、夜闇に癒しの光を灯す。

 もはや痛みも無い冤罪の証が、昔よりもほんの少しだけ薄くなっていることに、まだ相棒は気づいていないだろう。己の研鑽が成し遂げ続ける結果による、膨れた腹だけでない満足感と共に、赤紫鱗は身の内で再び七竜へと感謝の祈りを捧げた。

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漂泊の民と野営料理 @amemaru237

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