漂泊の民と羊の肋肉焼き
風雪を乗り越えて山道をどうにか抜け、漸く金陽の輝きが暖かく辺りを照らし出す裾野まで降りることが出来た。水の枯れた渓谷を歩いていく内、地面は柔らかい緑に覆われ、穏やかな風がそよぐようになった。
風に吹かれても首を竦めなくて良くなったのは有難く、スヴェンは荷物を背負ったまま軽く伸びをする。
「随分急に温くなったな、有難ぇ」
「氷竜の翼が遠ざかった。火と土と風の竜に感謝を」
「おとさん、おかさん、おはないっぱいさいてる!」
同じく安堵の息を吐き、己の信奉する竜達に祈りを捧げる赤紫鱗に対し、モルニィヤは呑気に声を上げる。言葉の通り、柔らかい下草の中に白くて丸い花が群生しており、それらを食べる為なのか少し離れた場所に毛並みのいい羊が何頭も見えた。
「冬の終わりにしては良く太っている。今宵の夕餉としよう」
「ごはん? つかまえるの?」
「一頭でも獲れたら、暫く飯に困らねぇな」
「やったー!」
雪の森を無理やり抜けて、食料はほぼ尽き、全員空腹だ。ここで肉が食えるのは僥倖でしかない。あまり身を隠せる茂みもないが、群れから一番外れた場所にいる一頭へ赤紫鱗は狙いを定め、じりじりと近づくと自前の杖を振った。
『――誘眠』
身の内で祈りを捧げ、渾身込めた竜の歌は確かに効果を発揮し、丸々とした羊はがくりと膝を折って倒れた。また慎重に近づいた蜥蜴人が祈りを捧げてから、短剣を首に刺すのを確認して、スヴェンはモルニィヤと共に近づき、過ちに気づく。
「……やべ」
「おかさん、どうしたの?」
その羊の首に、長い毛足に隠れてはいたが、明らかな人工物である紐が結わえ付けられているのを見つけてしまったのだ。思わず口元を覆って天を仰ぐ。もしかしなくても、これは――
「コラアアアー!! お前らァアアアー!!」
谷間に響く嗄れた絶叫と共に、坂の下から物凄い勢いで走ってくる人影が見える。容姿は白髪を束ねた老女にしか見えないが、足腰は矍鑠としている上、干し草を掻く為か、大きな熊手を振り翳していた。
「この羊泥棒共がァアアー!! 許さんぞォオオオオオオ!!」
「ひぇっ」
「モル、下がってろ」
巨体の蜥蜴人に怯むことなく、鬼気迫る顔でやってくる老婆の顔と叫びに吃驚して、怯える大きな娘を背に庇う。冷静に杖を構えようとする相棒へ手を翳して止めながら、スヴェンは取り敢えず敵意の無さを示す為に両手を上げて見せた。
×××
若干、いやかなり揉めたが、只管下手に出た結果、最終的にもう殺してしまったことは仕方ない、と怒りの老婆は渋々とだが折れた。家畜という概念が蜥蜴人には無い風習の為、いまいち理解できていなかった赤紫鱗も、スヴェンの懸命な説明の末、この谷にいる羊は彼女の所有物であると納得し、詫びの礼をしたのも大きかっただろう。気づかず狩ってしまったという主張が認められた形になる。
「この大きさになるまであたしらが、どれだけ苦労して育てたと思ってんだ!お代はきっちり払って貰うよ!」
「面目ねぇが金はねぇよ、金目のものもな」
「フン、漂泊にそんなん望んじゃいないさ。羊一頭、肉と毛の分しっかり働きな!」
彼女は夫と共にこの渓谷に住んで長く、羊を飼って毛糸を紡ぎ生活をしているらしい。倒した羊を赤紫鱗が背負い、大分開けた谷の入り口まで辿り着くと、申し訳程度の柵に囲まれた小屋が見えた。どうやらあれが、老婆の家だろう。騒ぎに気付いたのか、家の中から彼女とそう年は変わらないだろう老爺が出てきて、慌てた足取りで近づいてきた。
「メリヤ、どうしたんだい、この人達は一体」
「羊泥棒だよォ! とっちめてやったのさ!」
「不可抗力だっての……」
苛烈な妻と違い、夫は辺境住まいにしてはかなり穏やかな男だった。妻の怒りを受け止めつつスヴェンの懺悔に頷き、寧ろ妻の方を心配していた。
「もしこの人達が本当に泥棒や強盗だったらどうするんだ、危ないだろう」
「フン、あたしを舐めんじゃないよ! こんなガキ共と蜥蜴野郎なんざ、鉄熊手で一撃さ!」
実際、老人二人でこんな辺鄙な場所に暮らしていれば、腕っ節が必要なのは当然かもしれないが。己の得物を掲げて胸を張る老婆に対し、老爺は溜息を吐いて頭を下げた。
「無事で良かった……。それにうちの羊は、昼間は谷で好きに遊ばせているし、解らなくても無理はありません」
「意図は無くも、貴様達の財を奪ったは承知。埋め合わせるための詫びはしよう」
ずいと鼻先を突き出して真摯に告げる赤紫鱗の容姿に、老爺は僅かに臆しているように見えたが、それでも安堵の息を吐いた。彼としても羊を一頭潰されたことについては困っていたのだろう。
「では、糸紡ぎと解体を手伝っていただければ。どちらも中々、老体には辛いものですので」
×××
小屋は老夫婦二人が寝るぐらいにしか使っていない小さなもので、毛刈りや糸紡ぎの作業も全部外で行っているようだった。
「毛刈りはあたしがやるから、あんたはそっちの乾いた毛を紡ぐんだよ!」
きりきりと言い放ちつつ、死んだ羊のたっぷりの毛をさくさくと刈っていく老婆の手捌きはとても速い。長年羊を育て、共に生きてきたが故の腕前だろう。あっという間に羊を丸裸にして老爺に預けると、自分は刈った毛を盥に沈めて洗いにかかった。汚れを取って油を馴染ませ、紡ぎやすくするらしい。
それが既に終わって乾かしてある羊毛を紡ぐのが、スヴェンに与えられた仕事だった。ごわごわとした塊の毛をブラシで梳き、束にしてから指で寄り合わせた糸を独楽に結わえる。平らな場所でその独楽を回転させると、自然と糸が引っ張られ、くるくると糸が紡がれる。それを独楽の軸で巻き取り、再び伸ばして紡ぐ、その繰り返しだ。以前キャラバンに追従した時の手伝いでやったきりだが、見様見真似でもこの程度は出来る。
「ふん、まあまあいい手つきじゃないか」
「流石に売れる程の腕はねぇよ、手慰みだ」
そう嘯くが、元々器用なスヴェンの手際は良い。一度コツを掴むとどんどん早く出来るようになり、あっという間に糸巻きが一本出来上がった。老婆の方もその手際に満足しているようだが、未だ苛立ちは完全に消えないらしく、解体の為に離れた他の面子をぎろりと睨んでいる。
「あっちの女は何も出来ないのかい、すっかり遊んでるじゃないか」
悪態を吐く不機嫌な老婆に肩を竦め、スヴェンもそちらを見れば、青く長い髪を揺らしたモルニィヤが羊達を引き連れて、よく解らない言葉というか音で歌を歌っている。一応羊の世話の範疇には入るだろうから許して欲しいところだ。
「悪いな、見た目よりかはガキなんだ。あんまり器用でもねぇ」
「……ま、漂泊ならそういう奴も多いだろうね」
容姿は背の高い成人した女にしか見えないだろうが、中身は十にも満たない子供だ。辺境を少人数でうろついている時点で訳ありだと老婆も解っているのだろう、それ以上口は出さなかった。
「だったらその分あんたに稼いでもらうよ! 今日中にその山は全部終わらせな!」
「へいへい」
未だどっさりと積まれている羊毛に辟易しつつも、スヴェンは新しい独楽を手に取る。……なんとも居心地悪く、軽く指で頬の焼き印を掻きながら。
×××
死んだ羊に改めて軽く祈りを捧げ、赤紫鱗は解体用の刃物を手に取った。
「内臓は腸詰に使うので、寄り分けておいてください」
「心得た」
血抜きをしてから皮を丁寧に剥ぎ、腹を裂いて腸を取り出す。大物ではあるがやり方は普段の狩りと全く変わらず、手際よく終えることができた。その様子を見ていた老爺も感嘆の声を上げている。
「お上手ですね。蜥蜴人には家畜の文化があまり無いと聞いておりますが」
「身の造りは水牛とそう変わらぬ。容易いことだ」
端的に答えて肉を捌いていく。塊肉は干し肉にするのだろう、老爺が丁寧に薄切りにしていった。細切れの肉はもっと砕いて香草と練り、洗った腸に詰めて茹で上げるらしい。初めて聞く調理法なので、後で相棒に教えようと赤紫鱗は思う。彼ならばいずれ作れるだろうと本気で思っているからだ。
「この、骨付き肉は如何とする」
「肋肉は今日焼いてしまいましょうか。若い人が多いし、全部食べてしまえるでしょう」
「ごはん!?」
残った肋骨に付いたままの肉を並べて逡巡している時、耳聡いモルニィヤが斜面を駆け下りて戻ってきた。後ろからは羊達がメェメェと鳴き声を上げて続いていて、老爺が驚いたように皺の下から目を見開いた。
「お嬢さん、随分と羊に好かれるのですね。この時間ならまだ皆方々で草を食んでいるのに」
「うん! みんな、うたすきだから! ねぇおとさん、ごはんは?」
モルニィヤがずっと歌っていたのは、樹竜マザラに捧げる歌だ。おかげでこの辺りの草花が生き生きと葉を揺らし、羊達もそれに気づいて食べに降りてきたのだろう。只人には解らぬことかと思い赤紫鱗は沈黙を守り、空腹の娘を宥める為にスヴェンを呼ぶことにした。自分と彼女の腹を満たせる一番の方法は、彼が持っているのだから。
×××
羊の肋骨についた肉をそのまま焚火に翳す。味付けについては老婆が岩塩と、皺のついた木の実を粉末にしたものを持ってきた。少し貰って舐めると、ぴりっと辛い味が舌先に走る。
「山に生えてる、葉の小さい背の低い木の実を乾燥させた奴さ。肉に合う味だよ」
「へぇ、そりゃいい事聞いた」
実の形を覚えて、今度見つけたら取っておこうとスヴェンは思いつつ、大ぶりの肋肉に塩と香辛料を振る。後は火が通るまでじっくり待つだけだ。
小屋の中には炊事場は無く、老夫婦も料理はいつも外の竈で行っているようだった。赤紫鱗とモルニィヤは焚火の前に陣取り、肉の焼け具合を只管待っている。香ばしい匂いが辺りに広がり、モルニィヤはもう涎を垂らさんばかりだ。
「おかさん! まだぁ!?」
「もう少し待て。生焼け食ったら腹壊すぞ」
「ううー!」
座ったまま足をばたつかせて我慢するモルニィヤに、老婆が呆れたように溜息を吐く。
「全く、餓鬼かい。本当なら仕事してない奴に食わせる肉は無いんだよ!」
「まぁまぁ、彼女のおかげで羊を集めるのが楽だったから。ちゃんとお嬢さんも手伝っていたよ」
未だ不機嫌な老婆に睨まれて幼子は肩を竦めるが、老爺がとりなしてくれたおかげでほっと息を吐いている。軽く青い頭を撫でてやってから、漸く食べ頃になった骨付き肉をモルニィヤに渡してやった。
「ほら、これもう食っていいぞ」
「わああい! あぐ、んん、ほいひぃいい!!」
「ふむ……、美味也」
「確かに、こりゃいいな」
一口齧るとぴりりと辛い香辛料が肉の味を引き立てて、何本でもいけそうだ。スヴェンも浮かれてしまい、ついつい手が伸びてしまう。
久しぶりの肉にモルニィヤも赤紫鱗も満足げで、一度声を発した後は只管口に肉を放り込んでいく。赤紫鱗はその牙で、ごりごりと骨まで齧り飲み込んでいた。モルニィヤも真似をして骨をがじがじ噛んでいるが、まだそこまで顎は強くないようだ。
「うぅー、かたぁい」
「無理して食うな、歯ぁ折れるぞ」
「何、十も年経れば骨毎食らえよう」
「全く遠慮も何もない奴らだね……!」
肉を貪る招かれざる客人達に眦を吊り上げる老婆は、眉を下げた老爺にずっと宥められている。
「メリヤ、そんなに怒らないで。干し肉作りもおかげで早く終わったのだから」
「これから春になるってのにそんなに干し肉はいらないだろ! ほらシュード、あんたも食べな! これはうちの羊肉なんだからね、勿体ない!」
「……おかさん、おじーちゃんとおばーちゃん、なかよくない?」
自分の分を食べきってしまい名残惜しく骨をぺろぺろ舐めているモルニィヤに、自分の最後の取り分を渡してやりながら、老夫婦に聞こえないように声を潜めて答えた。
「いやぁ、ありゃ犬も食わねぇ夫婦喧嘩って奴だ」
「いぬ?」
「只人ではそう言うのか。伴侶の間は竜でも見えぬ、ということであろ」
「りゅう?」
スヴェンも赤紫鱗も自分の知っている諺で答えたが、モルニィヤは首を傾げたままだった。
×××
――まだ薄暗い中、スヴェンは目を覚ました。
当然老夫婦の小屋に客人を寝かせる場所などなく、近場の岩陰でいつも通りの野宿をしていたのだが、囲んでいた焚火は既に白い煙を棚引かせるだけになっている。モルニィヤは久々に満腹になったおかげで、丸まって大平楽な寝息を立てているし、胡坐をかいたまま赤紫鱗も腕を組んで目の被膜を閉じている。谷底の端から僅かに金陽の光が覗いているので、もう火の番の必要は無いだろう。身を起こすと、目の端に動くものを捉えて自然と目で追った。
小屋の中から音も立てずに出てきた影がひとつ。痩せぎすだがぴんと伸びた背筋のまま、ゆっくりと歩いていく。
……このまま寝直せば、何事も無く朝を迎えられるだろう。少し悩む、悩むが、昨夜から感じていた違和感が形になりそうな気がして、スヴェンは我慢できず立ち上がってしまった。護身用のナイフを一本だけベルトに挿すと、足音を出来るだけ殺して影の後を追う。
やがて谷の岩間、日の殆ど差さない陰に、小さな広場に辿り着いた。
其処には人の頭程度の石が整然と並んでおり、自然と墓であることを理解した。ご丁寧に、谷で見かけた白い花が一輪ずつ供えられている。僅かに臆する心を堪え、その墓の前にぼうと佇む老爺に声をかけた。
「爺さん」
「おや……これは、すみません。起こしてしまいましたかな」
不意に声をかけたにも関わらず、老爺に驚きや怯えは全く無かった。寧ろ昼間と同じ、穏やかな声音も顔も変わらないのに、ぞくりと背中が冷える気配がする。彼が昼間も腰に下げていた薪割り用であろう鉈が何故か酷く恐ろしく、乾いた喉に無理矢理唾を通しながら、あくまで軽く問う。
「いや、こっちも目が冴えちまってな。ここは、墓かい?」
「ええ。此処は、罪人達の墓です。この土地に住んでいた、盗賊達です」
さらりと言われた言葉に、小さく息を飲む。並んだ石には苔が生えているが、どれも皆汚れ方は似たり寄ったりだった。極端に古かったり新しかったりするものが無い。つまり、これだけの数が殆ど同時期に死に、葬られたということだ。
「……まさか、あんたが?」
「昔の話ですよ」
有り得ない、と言外に込めて問えば、にこりと、何でもないことのように、老爺は笑った。
「この谷は街道から外れる上、見通しも悪い。賊が伏せて旅人を襲うのはよくあることでした。……それがたまたま、私を北の監獄に護送する馬車だったのは、幸運と不運、どちらだったのでしょうね」
腕を軽く掻きながら、老爺は少し意外そうに首を傾げる。
「あまり驚かれませんね。私が物騒な人間だと、既に気づいておられたのでしょうか?」
「いいや。ただ――あんたも奥さんも、これを見ても何も言わなかったからな」
気圧されぬよう、意識的に軽い声で答えた。自分の頬に刻まれている、大分薄くなったが消えることはない罪人の焼き印に触れながら。
余程の隠れ里で無いのなら、辺境とは言え罪人の印を知らないわけがない。大概の盗賊などは何処かしらに、これを付けられているからだ。
「全くびびってなかったから、自分も印持ちか、見慣れてるかのどっちかだと思っただけさ。あんたが此処までやべぇ奴だとは気づいてなかったよ」
「成程、お恥ずかしい」
漸く、老爺がほんの少し緊張を緩めた。彼は彼で、十二分に突然の狼藉者たちを警戒していたのだろう。もし荒事に発展するようなことがあれば、この見通しの悪い墓場で一人ずつ始末していったのかもしれない。今更ながら背筋に汗を掻いた。
「こう見えても、昔は裏の世界で名が売れておりまして。監獄への護送馬車も、そこそこ豪勢だったのです。其処を盗賊が狙いました。私と鎖で繋がれていた兵士が最初に殺されたのも、運が良かったと言いましょうか」
そう言いながら捲られた老爺の腕には、スヴェンと同じ形の焼き印が押されていた。名が売れている癖に一度の罪の証しか無いということは、それだけ強かに逃げ仰せて捕らえられないほど、腕が立ったということだ。
「それで全部、返り討ちかい」
「若かったのですよ」
「……婆さんの方は?」
一瞬、老爺の目が光ったような気がしたが、堪える。その時には後ろから、聞き覚えのある爪付きの足音が聞こえたからだ。
「そちらの方も、お気づきで?」
油断なく笑顔のまま視線を向ける老爺に対し、杖を構えたままの赤紫鱗は小さく鼻を鳴らして答えた。
「それとは違う判断だ。草の上を歩く際、貴様は常に足音を殺すように動いていた。背中に目があるかのように、こちらの動きを読んでもいた。警戒せざるを得ぬ」
「……成程。癖を消すのは難しいですね」
笑みを自嘲に変えて笑う老爺に、赤紫鱗は一歩前に出て尚も続けた。
「もう一つ。貴様は我の体裁きだけでなく、杖と触媒に常に気を配っていた。殆どの只人は我の鱗と爪と牙しか見ぬ。我が術師であると見抜き、警戒していたが故であろ」
只人が蜥蜴人に遭遇して警戒するのはまずその体躯と異形だ。この老爺は赤紫鱗の実力を正確に見抜いた上で、隙を見せなかったということだろう。
ぴり、と緊張感が走る中、スヴェンは敢えて大きく溜息を吐いた。此処で諍いが起これば、真っ先に死ぬのは恐らく自分だ、ぞっとしない。血の気の多い相方と得体のしれない老爺に巻き込まれたくはないのだ。
「――あんたの名前を俺は聞いてねぇし、顔を覚えてられる頭もねぇよ」
自分達とて脛に傷持つ身、声高に役人に売るつもりもない。そもそも漂泊の民が訴えたところで耳を傾ける者など滅多にいない。それを言外に込めると、老爺も苦く笑って答えた。
「私は、ただ――貴方がたがメリヤに余計なことを仰らないのなら、それで構いませんよ」
漸く白んできた狭い空を見上げて、老爺はぽつぽつと語った。
「すっかり辺りに動くものが無くなった頃、丁度この谷を、羊を連れたメリヤが通りかかったんです」
良い草場を見つけて定住するつもりでいた逞しい遊牧民の女は、死体に囲まれた血まみれの男を見て叫んだという。
『あんた、大丈夫かい! 怪我を見せな!!』
「……返り血だらけの私が、大怪我をしていると勘違いして。周りに倒れている賊達を、私の仲間だと勘違いして。きちんと埋葬しなければと、この墓を作ったのも彼女です」
「昔っから、そそっかしかったんだな」
「ええ、本当に」
スヴェンの混ぜ返しに老爺は柔らかく笑い、其処で漸く赤紫鱗も構えていた杖を下げた。相手から戦意が無くなったと判断したのだろう。
「行き場が無いのなら、羊の世話を手伝えと言われて――自分が、他の人間を殺めなくても生きていけることを、初めて知ったのです」
まるで照れ臭そうな青年のような顔で、老爺は笑った。まるで今の生活が、夢のようだと言うように。
×××
三人で小屋の前まで戻ると、モルニィヤと老婆が井戸から水を汲んでいるのに出くわした。
「シュード! どこをほっつき歩いてたんだい、今日の水汲みはあんたの仕事だろう!」
「ああ、ごめんよメリヤ。ついお客人と話し込んでしまって」
「モル、手伝ってたのか」
「ん! かめいっぱいにした!」
褒めて、と言いたげに下げてくる幼子の頭をぽんぽんと叩いて労っていると、朝から不機嫌そうな老婆は一度小屋に戻り、手に色々な荷物を抱えてすぐ出てきた。
「ほら、いつまでも家の前に居座られたら迷惑なんだよ! これを持ってとっとと山を下りな!」
そう言って渡されたのは昨日スヴェンが紡いだ糸巻きと、一夜干しした肉の束だった。
「こんな糸、売り物にならないからね、好きに使うがいいさ!」
「こりゃ有難ぇ」
確かに碌に売れはしないだろうが、毛糸があれば縄も綯えるし服も編める。全く損は無いので有難く荷物に仕舞った。
「それと! 干し肉は蓄えだけど、こんなに食いきれないからあんたらが始末しな!」
「ありがとー、おばーちゃん!」
食べ物を貰ったことでモルニィヤがぱあっと顔を輝かせてお礼を言う。老婆は変わらずフン、と鼻を鳴らすだけだったし、客人に出て行って欲しいのは事実なのだろうけど、羊を奪った漂泊に対してこの振る舞い、本当にどうしようもないお人好しだ。成程、こんないい女だからこそ、名も知らぬ老爺は此処で生きることを選べたのだろう。
「んじゃ、そろそろ行くかぁ。世話になったな、婆さん爺さん」
「財を奪った借りは、必ずや返そう。またいずれ、この地に導かれた折に」
「フン、期待しないで待っとくよ!」
「おじーちゃん、おばーちゃん、ばいばーい!」
「お気をつけて」
しかめっ面のままの老婆と、安堵の混じった笑顔で手を振る老爺に見送られ、三人は軽い足取りで谷を下り始めた。
「……良いのか」
声が恐らくあの二人に届かなくなった辺りで赤紫鱗がぽつりと呟く。スヴェンはいつも通り、口の端を歪めて笑いながら言った。
「どうするってんだ? あの爺さんがとっ捕まったのだって、昔の話だろ。わざわざ何が出るか解んねえ藪突かねぇよ」
本気で言ったのに、相棒は何故か呆れたように鼻先を空に向けて息を吐いた。
「なれば何故、あの男の後を追った。彼奴の隠した物に触れねば、何事も無く我等も去れたであろ。寝ている竜の鱗を剥がすな」
「う、……悪かったよ、旦那」
我ながら、興味に負けた軽率な動きだったと、改めて思う。こんな性格では長生き出来ないという自覚があるので、何も反論できない。……危険があったとしても、すぐ後ろを相棒がついてくることも解っていた、という甘えがあったことも悔しいから口には出さなかった。
黙ったスヴェンに留飲を下げたのか、赤紫鱗は眉間の皺を僅かに緩め、ぐるぐると喉を鳴らした。
「世話の焼けることだ。これで雪山の借りは返したぞ」
「へいへい」
「おとさん、おかさん、なんのはなしー?」
先行していたモルニィヤが振り向いて不思議そうに問うてきたので、二人同時に緩く首を振った。
「なんでもねーよ。急ぐぜ、今日中に山から下りてぇ」
「ん! がんばるー!」
「時に、腸詰という調理を貴様は出来るか、否か」
「どっから知識仕入れたんだよ……流石に無理だぞ、時間も要るし」
「おかさん、ちょーづめってなに!? きょうのごはん!?」
「あーくッそ、面倒臭ぇ……!」
耳敏い娘に迫られて、耐え切れず叫んだスヴェンの声が、羊が草食む谷間に響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます