漂泊の民と芋虫炒め

※タイトル通り虫食注意



 海から離れて暫く、漂泊の民にとって、覚悟しなければならない季節がやってきた。――冬だ。

「ったく、最悪だな……」

 思わずスヴェンがぼやいてしまう程に、仰いだ天から降り注ぐ雪は尽きることはない。足元はすっかり白く覆われ、一歩踏み出すだけでも一苦労だ。歩みを遮る白く柔らかな地面は、百害あって一利なし。だからこそ漂泊の民だけでなく、旅人は出来る限り雪を避けたがるが、自然は全く持って気紛れで容赦がない。

「モル、大丈夫か?」

「ん、へーき。つべたいけど」

 モルニィヤも手製の毛布を外套替わりにして凌いでいるが、やはり裸足では寒いことに変わりはないだろう。襤褸布を裂いて足に巻いてやり、応急処置をする。皮膚は少し赤くなっていたが、巨人はそんなところも強いのか、歩く足に遅滞は無い。

 しかし問題は、赤紫鱗の方だった。

「旦那、もう少し辛抱してくれ。歩けるかい?」

「……む、」

 短くない付き合いでスヴェンにも分かっていたことだが、彼は寒さにすこぶる弱い。だからこそ、ここ数年の旅路は冬に近づけば近づくほど南に降りて、寒波を避けることが当然だった。だからこそ、まだ冬の初めであるのにこの大雪は完全に計算外だ。残念ながら彼の占いも万能ではないらしい。

「迂闊。……氷竜の気紛れに囚われたか」

 座り込んでいた木陰から立ち上がる動きは酷く緩慢だ。元々暑い密林の中に住まう種族であるが故か、喋れば口が凍ると言いたげに顎も僅かしか動かない。鱗に包まれた腕を担いでやり、どうにか立たせた。

「こりゃあ一日止むか解らねぇ、もう少し移動した方がいいぜ」

「……然り。貴様の手は、煩わせぬ」

 そう言って、どうにか自力で歩きだすものの、凍った足を無理やり動かすかのように、足取りは重い。不安を押し殺しながら、スヴェンも雪道へ足を進めた。この周辺に人里の記憶は無い、何とか日が沈む前に雪を凌げる場所を見つけなければ。



 ×××



 最悪なことに、金陽が中天から傾き始めると風も出てきた。モルニィヤは頑張って歩いているが、やはり赤紫鱗の歩が遅れ出す。それでも、スヴェンが前にこの街道を通った記憶を頼りに進むと、岩肌が剥き出しになった崖に小さな洞窟を見つけた。

「よし、今日はここで――旦那!?」

 振り向いたところで、モルニィヤの遥か後ろ、濃い色の鱗が蹲って雪に突っ伏したまま埋まりかけていることに気づき、慌てて駆け寄る。モルニィヤもそれで初めて異変に気づいたらしく、悲鳴を上げた。

「おとさん!」

「旦那!」

 縮んでしまったような体をどうにか支えると、触れた鱗がひやりと冷たい。彼の表皮がいつも湿って冷えていることはスヴェンも知っているが、まるで氷のように冷たく感じるのは初めてで、ぞくりと心臓が震えた。

「……、モル、そっち支えろ。運ぶぞ」

「う、うん、うん。おとさん、だいじょうぶ?」

 不安を堪えて唇を噛み、ぐっと雪を踏みしめる。モルニィヤの体格と膂力のお陰で、大きな重い体もそこまで労せず運ぶことができた。

 運び込んだ洞窟、というには浅い窪みは冷えていたが、それでも風雪を凌げる。一番奥に赤紫鱗の体を座らせ、隣のモルニィヤと一緒に就寝用の毛布でぐるぐる巻きにした。

「モル、旦那にくっついとけ。一緒に包まってていいから」

「うん、うん、おかさんは?」

「薪取ってくる、火が無いと無理だろこれは」

 腰に護身用を兼ねたナイフを刺し、他の荷物を置いて立ち上がると、泣きそうな娘の声が引き留めてきた。

「おかさん!」

「……大丈夫だって。なんか食えるもんあったらついでに取ってくるわ」

 大きな青い目を潤ませている娘の頭をくしゃりと撫でてから、は、と声と口元が引きつらないように注意して笑い、踵を返す。未だ雪が降り続く外は大分暗くなりはじめていた。あまり猶予は無い。外套の襟を立てて口元を覆い、雪の中に踏み出した。



 ×××



「……おとさん、おとさん」

 そっと隣で蹲ったまま、動かない蜥蜴人に声をかける。ぺたりと肌にくっついた鱗は、ひんやりと冷え切っている。赤紫鱗の瞳は皮膜に覆われていて、ぴくりとも動かない。泣きそうになるのをぎゅっと堪えて、鼻先にそっと指を翳すと、僅かだが吐息を感じて安堵した。

 モルニィヤには分かる。今この地は、氷の竜に支配されている。金陽の力が弱くなると、どんどん翼を広げてやってくるものだ。うっすらとしか覚えていないが、寝物語に聞いたことがある筈。

 世界を司る竜達にも、力の強弱がある。赤紫鱗の体に満ちている水と樹は、氷に支配されてしまう。だから今、動けなくなっているのだ。氷の竜は、火や闇と比べ物にならないほど容赦がなく残酷だと、モルニィヤは知っている。弱いものから順々に、食べられて凍ってしまうのだ。

「っ、ぅうう……!」

 恐怖と不安が喉をついて、唸り声をあげた。ぎゅっと冷たい体に抱き着くが、こちらの温度は届かずに、自分の体がどんどん冷えていく。スヴェンが帰ってくる前に、なんとかしなくては。

『――、今この場所だけでいいから。助けて、助けて、炎を頂戴』

 小さく小さく、精霊語で歌う。何度も何度も、恐らく眠ったままの炎と地に呼びかけるように。

 外の雪は何も変わらず降り注ぎ、風は冷たいままだけれど――洞窟の中の空気が、僅かに緩んだ。モルニィヤは安心して、どんどん歌を紡いだ。

『助けて、助けて、もう少しだけ、氷の牙を退けて――』



 ×××



 枯れた枝葉を大ぶりのナイフでざくりと切り落とし、束にして纏める。森が近いお陰で、どうにか今必要な分の薪を揃えることができて、安堵の白い息を吐いた。多少湿気ってはいるだろうが、贅沢は言えない。

「さて、後は飯か……、どうすっかなぁ」

 流石のスヴェンもぼやきしか零せなかった。非常食にもそんなに余裕がない状況だが、冬の森にすぐ食べられる食料は殆ど無い。冬の獣もこの天気では隠れているだろうし、一人で狩れる腕もなかった。

 少し考え、暗くなってきた辺りを見渡すと――樹皮から樹液が溢れた跡がある樹を見つけて、眉を顰めながら呟く。

「……無いよりマシか」

 ふうと息を吐き、ナイフをぐっと樹皮に突き立てる。皮を剥ぐようにべりべりと刃を動かし、穴を広げ――お目当てのものをやっと見つけた。急がなければ、雪はまだまだ降り続いているし、あまり離れては道に迷う危険もある。時間はあまり無かった。



 ×××



 日が完全に沈んだ頃、スヴェンは洞窟へ帰りついた。

「モル、起きてるか? ――お」

 足を踏み入れた瞬間、火も焚いていない筈なのにほんの少しだけ中を暖かく感じたので、驚く。ずっと冷えた外に居たから感覚が狂ったのかもしれない。毛布に包まったままのモルニィヤは眠っておらず、おかさんおかえり! といつも通り声を上げたので安堵する。

「旦那は?」

「まだねてる、けどたぶん、だいじょぶ」

 根拠のない言葉だったが何故か自信に満ち溢れていたので、スヴェンの不安も僅かだが払拭できた。持ってきた枝葉に火を起こすと、そこまで湿気っていなかったのか、すぐに炎が上がったのも有難い。焚火の熱がゆっくりと洞窟内に広がっていき、赤紫鱗の瞼の被膜が僅かに動いた。

「旦那?」

「……、む。……面倒を掛けたようだな、済まなんだ」

「おとさん!」

 ぱっと顔を輝かせて抱き着くモルニィヤに笑い、スヴェンも焚火の前に座り込んだ。一時はどうなることかと思ったが、水色の瞳には生気が戻っていた。とりあえずは難を逃れたことに息を吐き、改めて調理を始める。

 焚火の周りに、洞窟内に僅かに転がっていた石を置き、簡易の竈にして鍋をその上に乗せた。油壷から僅かに残っていた種油を敷き、ゆっくり温めている内に懐に仕舞っておいたものを取り出す。

 一見木の実にも見える茶色い殻に覆われた、この地域で良く見られる蛾の幼虫だった。丸々と太っており、蛹になりかけているものだ。その尻端を少しナイフで削り、内容物の黒いものを取り出す。糞便の類で、これがあると味が良くない。

「おかさん、それなぁに?」

「まぁ見た目は悪いし、味もそんなにだが、食えなくはねぇよ」

 スヴェンとしてもあまり手を出したい食材ではないのだが、背に腹は代えられない。栄養価は高いし、冬でも手に入りやすい貴重な食料だ。温まった鍋の上に芋虫達を無造作に放り込み、油で軽く炒める。せめてもう少し味が欲しいので、残り少ない塩と蜂蜜を混ぜて味付けをした。

 やがて表面が透き通り照りがでた辺りで火から降ろし、無造作に一匹口に放り込む。ぷちりと口の中で弾け、バターのような柔らかい中身が舌に広がる。蜂蜜のおかげで口当たりは良くなってはいるが、やはり少し苦い。

「ん、まぁ良し。食っていいぞ」

「たべるー! ん、おいひぃ!」

 幸いモルニィヤの舌には合ったようで、旨そうに噛みしめている。ほっと息を吐き、一番大ぶりなものを指で抓んで、赤紫鱗の鼻先へ差し出した。

「食えるかい?」

「……ああ、貰おう。……、美味也」

 動きはまだ緩慢だったが、差し出された舌に虫を置いてやると、僅かに口の中で転がしてごくりと飲み込んだ。食べる元気があるのなら、本当にもう大丈夫だろう。冷えて竦んでいた心臓が漸く正常に動き出したように感じ、スヴェンも肩の力を抜くことが出来た。



 ×××



 外の雪は激しい。ごうごうと鳴る風の音が煩い。

 せめて朝まで火が持つよう、薪をぎりぎりまで節約しなければならない。流石にこの状況で追加の薪は探せないだろう。

「んー……んんー……」

 薄暗い洞の中を見まわす。モルニィヤは赤紫鱗にずっとくっついたまま、小さく鼾を掻きながら寝息を立てている。まるで歌を歌っているかのようだ。今日の夕飯だけではとても腹は満たせなかっただろうに、我儘も言わず大人しくしていた。

 隣の赤紫鱗は、小さく深く、呼吸を繰り返している。風とモルニィヤの鼾に掻き消されそうなその音を必死に聞き取りながら、スヴェンは寝ずの番を続けていた。

 ……もし明日も、雪が止まなければ、もっと酷くなれば。非常食も残り少ない、何より薪が尽きたら限界だ。火が無ければとてもこの寒さに耐えることが出来ない。雪に埋もれて外にも出られなくなる可能性すらある。

 明日をも知れぬ暮らしは、漂泊にとっては当たり前だけれど。普段は意識して目を逸らしている「死」が、この底冷えのように這いずって近づいてくるのが解る。ぞくりと震える背筋をただの寒気と信じ、小さい焚火に枝を一本放り込んだ。

「……薪は足りるか」

「っ」

 不意にぼそりと、蜥蜴人訛りの低い声が聞こえて一瞬驚き、ふっと気が緩んだ。

「大丈夫だ、明日になったら取りに行くさ」

「……雪が、止まねば、難しいであろ」

 赤紫鱗の声はやはり途切れ途切れで、本調子ではないことが容易に知れた。それでも今の状況が、かなり拙いということは彼も理解しているらしい。薄暗い洞窟の中ならば顔色も分かるまいと、意識的に声を明るくして続けた。

「ま、何とかするさ。あんたは無理せず休んでなよ」

「……此処で眠りにつく方が、氷竜に魂を食われる」

 ぎり、と赤紫鱗の爪が、洞窟の床を僅かに削った。蜥蜴人の誇りを誰より強く持つ彼にとって、今の有様は度し難いのだろう。気持ちだけなら解らなくも無いが、下手な誇りで命を失う方がずっと勿体ない。一つ溜息を吐いて、スヴェンは寒さで固まった膝を伸ばし立ち上がった。

「……何を――」

 訝し気な赤紫鱗の声を無視して、モルニィヤとは逆の、彼の隣にどさりと腰を下ろす。お互い毛布に包まったままだけれど、触れた硬い体はやはり冷えている。

「さっむ。難儀だなァあんたも」

「……、冷えるであろ。離れよ」

「こっちが奥だろ、入り口から来る風が寒ぃんだよ」

 言い訳しながら、冷たい体に寄り掛かる。体温ならばこちらの方が少しは高いだろう。……このまま冷えが極致に達しても、少しでも温もりを絶やさないように。

「どうせ火の番なんだ、あんたは気にせず寝てくれ。温石代わりにはなるだろ」

「……、借りが出来たな」

「返して貰うさ」

 当然だろうと言外に込めて返すと、ぐるる、と気難しい蜥蜴人は喉を鳴らした。多分笑ったのだろう。

 やがて静かな寝息がもう一度聞こえてきて、スヴェンはそのまま一晩を明かし――、モルニィヤが独特の音程で吐いていた寝息が、原初の七竜に捧げる歌であることには、二人とも全く気付かなかった。そのおかげで、明日の金陽が昇る頃には、雪がすっかり止んで凍りつき、歩き出すことが容易になることも。

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