グスコーの伝記

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グスコーの伝記 新宿編

 

 グスコーは生まれた時から新宿にいた。不法就労をしているベトナム系中国人の父親と期限の切れたビザを持つ白系ロシア人の母親の間に生まれた。彼らは労働基準局が飛び上がって驚く程の低賃金で懸命に働いたが、やっとの思いで得た賃金もほとんどがヤクザとその取り巻き連中にピンはねされていた。

 彼らは新宿人形町の区画整理にもれたポロアパートで生活していた。1LDKのアパートに風呂はなく、料金未払いのため、始終送電が停められた。共同のトイレには隣のパンク青年が置き去ったエロ本と難解な思想書が山の様に積まれていた。

 戸籍のない彼女は義務教育を受けることがなかったが、日本語の読み書きをパンク青年の書籍から、中国語を父親から、ロシア語を母親から教わった。彼女には弟がいたが、彼は勉強よりも料理や絵を書くことに興味があった。

 折しも日本は好景気で華やかであり、賃金のほとんどを吸い上げられている彼女達のような家庭は、それこそ無数にあり、その中で必死に貯えた預金を手に故郷へ帰ることを皆、夢見ていた。


 好景気は長くは続かなかった。不法滞在をしている彼らの仲間は、ジャパニーズマネーに絶望し1人、また1人と日本を去って行った。

 ある日、父親が建築現場で建材に挟まれ大怪我をおった。健康保険に加入していない彼は、百人町に住む外国人専門のモグリのヤブ医者にかかったが、敢え無くこの世を去った。両親が必死に溜めた僅かな預金は、そのほとんどが法外な治療費の支払いに消えた。

 母親は昼間の仕事の他に夜の仕事も始めた。疲れた彼女を支えるためにグスコーと弟はできる限りの家事を手伝った。幼い弟は父親譲りの中国料理を振る舞い、彼女達を驚かせたりもした。


 ある日、母親は腹部を刺されて皇居外堀に浮かんだ。近所の訳知り顔の大人たちは売春グループ同士の小競り合いだと話した。その日から一ヶ月間、グスコーと弟は母親が貯えてあったインスタント食品と缶詰めで過ごした。貯えていた食料が底を尽きかけた頃、パンチパーマと頬に引きつれたような傷跡のある、笑わない目を持つ男が彼女達を迎えに来た。弟は彼が懇意にしている施設へ、彼女は男に引き取られることになった。

 別れる前に弟は手書きの似顔絵を彼女に渡した。グスコーは大切にしていた日露辞書を彼に渡した。


 人形町のボロアパートからタクシーに乗り、男の住むマンションに到着するなり、グスコーは彼に押し倒された。丸一週間、外に出ることを許されずベットに押さえ付けられた後、今度は毎回違う男達に押さえ付けられた。男達の乱暴の意味が完全に分かるようになった頃、グスコーは笑わない男のマンションから逃げ出した。

 しかし行く当てのない彼女は、近所の公園で呆然としている所を男に見つかり、マンションへ連れ戻された。外に出ることができない程酷く顔を殴られ、気を失う程、乱暴された。

 顔の腫れが退いても、グスコーは男に暴行された。傷跡は外見では判別しにくい、足の裏や関節部分に残った。傷跡は表面に出ない分、彼女の精神に傷跡を残した。彼女は会話をしなくなり、その顔から表情が消えた。


 逃げ出す気力もなく、毎日違う男達とベットを共にするようになってから数カ月後、笑わない男に異変が起きた。彼は組織に属する構成員であったが、その組織同士の小競り合いがあり、男はその余波をマトモにあびてしまったらしい。

 ある日の朝、デリバリー配達員が、ピザとピストルと死を配達に来た。血まみれで動かなくなった笑わない男を見ても、グスコーは動揺しなかった。彼女に向けられたピストルの暗い銃口を覗いている瞬間さえも、彼女の感情に大きな変化を与えることはなかった。

 彼女は急激な環境変化と度重なる暴行から、感情の起伏が恐ろしく乏しくなっていたのだ。逆に言えばマトモな精神では、この環境下で生き残れなかったとも言える。

「何だ? 恐くないのか?」

 若い殺し屋は不思議そうに彼女の顔を覗き込んだ。

「・・・」

「ん? 何だって」

 殺し屋は彼女の口元に耳を近付けた。彼女はもう一度口を開いた。

「・・・」

 殺し屋はベットから薄汚れた毛布を引き出し、グスコーにかけた。そして毛布ごと彼女を抱き上げると、彼の車へと運び込んだ。殺し屋は、その時グスコーが呟いた言葉を、生涯忘れることができなかった。


 殺し屋の住まいは喜久井町の高層マンションであった。清潔な2LDKに付いた大きなベランダからは、大学の緑溢れる構内が見えた。都心の一等地であるこの場所に、この程度の部屋を確保するために、どの程度の収入が必要であるのかグスコーは分からなかった。

 殺し屋の部屋は清潔であり、生活に必要な品物以外、無駄なものは一切置いていなかった。

 グスコーが部屋に連れ込まれ、清潔な衣服と充分な食事を与えられた。しばらくの間、彼女の行動は制限されていたが、ベットに押さえ付けられてから、彼女は比較的自由に暮らすことができるようになった。

 殺し屋は一日中のほとんどを彼の部屋で過ごしたが、不思議とグスコーに閉息感は無かった。しばらくして外出は自由になった。逃げ出したくとも行き場のないグスコーは買い物などの用事が済むと、律儀に殺し屋の部屋へ戻った。二人の間には会話は、ほとんどなかった。グスコーは3日に一度はベッドに押さえ付けられた。

 殺し屋と共に住むために、グスコーが守らなければならないルールは、二つだけだった。冷蔵庫の中のワインを切らさないことと、部屋にある電話に出ないことである。電話が鳴ると殺し屋が受話器をしばらく取り上げ、一言も発しないまま受話器を置く。その後、殺し屋は2〜3日家を開けるのが常であった。帰ってくる時は出る時と全く同じ態度と服装であった。しかし、どこかで誰かが死んでいるのは間違いがなかった。


 食料品など買い出しのほとんどは、マンションの近くの高級スーパーマーケットで済ませていた。平均的な階層の人々が訪れることのない店内で、彼女は無造作に高価な食材を購入した。支払いは殺し屋から渡されたカードで行った。店内にいる男性は店員を含めて全てが、彼女に興味を持った。興味は彼女の経済状態だけではなく、彼女の持つしなやかな肉体にも集中していた。その視線をグスコーは完全に無視していた。

 物欲しげな視線は店内だけでなく、部屋に帰り着くまで彼女の肢体に絡み付いた。いつの日からか彼女は無駄な外出をしないようになっていた。


 ある日、彼女は買い物の途中、近所の公園に足を向けた。普段であれば真直ぐ帰宅する彼女が、寄り道をする気になったのは、園内から聞き慣れない音楽が聞こえてきたからである。見ればみすぼらしい身なりの老人が、古ぼけたギターをかかえていた。演奏は近くの喧噪に半分かき消されるように頼り無いもので、近くを通る大人は、老人を完全に無視していた。老人の周りに人陰はなかったが、園内にいる彼と同じような服装の浮浪者達だけが、様々な場所から彼の演奏に耳を傾けていた。

 グスコーは無遠慮に老人の前に立ちはだかった。通りかかる人々と浮浪者達は皆、絡み付くような視線を彼女に向けた。  

 老人は彼女に興味を示さなかった。同性愛者か不能者なのだろうと彼女は考えた。老人は園内の階段に座り、ギターで彼女の知らない曲を何曲も弾いた。ギターを弾き、詩も付けた。その言葉は日本語であり、彼女が知っているロシア語でもあった。

 彼の演奏は彼女の精神に不思議な潤いを与えた。老人はその後、数曲を弾き終わると、唐突に立ち上がり、その場を離れた。老人が去った後も、グスコーはその場に立ちすくんだ。

「あいつに興味があるのかい? それなら良いことを教えてやろうか」

 近くで彼らを見守っていた浮浪者の1人が、グスコーに話しかけた。浮浪者はニヤニヤと笑いながら、彼女に近付いていった。粘り着くような視線で彼女を見つめる。昼間でなければ、グスコーは公園の暗がりに引きずり込まれていたかもしれない。しかし彼女は全く怯む様子を見せなかった。

「あいつは2〜3日に一度、ここに来るんだ。時間はまちまちだけどな。あいつに興味があるなら、公園を覗きにくればいい。ただしあいつは、夜中にここに来る事が多いんだ」

 鼻白んだ浮浪者は、舌打ちした後、彼女の買い物袋からワインとチーズを抜き取って、その場を離れた。浮浪者があっさりと彼女から離れたのは、彼女から言い様もない不吉さを感じ取ったからである。事実、彼女に何か問題をおこせば、彼は人知れず、この世を去っていたかもしれない。


 それからグスコーは時間があれば公園に足を運んだ。深夜の公園に行くと3回に2回は老人に会うことができた。しばらくして彼女は、楽器屋でギターを購入した。ギターを抱えて部屋へ戻った彼女を見て、殺し屋は眉をあげたが、何も言わなかった。

 グスコーはギターと共に購入した教則本を片手に、コードの勉強を始めた。一通りの循環コードが理解できた後、公園に足を運んだ。

 演奏を終え、裸のギターを抱え、立ち上がった老人からギターを奪い取ると、彼女はおぼつかない手付きでギターを弾き始めた。周りの浮浪者が囃し立てる。グスコーの演奏はお世辞にも洗練されているとは言えなかった。老人は彼女が演奏を終えてから、始めてグスコーに話しかけた。

「その曲は、もう少し早いテンポで弾いた方がいい」


 それから彼女は老人の弟子になった。彼らの教室は深夜の公園であり、教材は老人の古ぼけたギターだけだった。グスコーはギターのテクニックと理論を独学で身に付け、理論以外のエッセンスを老人から学んだ。

 ある日、彼女がレッスンを終えギターを返そうとすると、老人は受け取らなかった。

「後は、一人で練習した方がいい。私の音楽は君の求めているものを与えられない」

 老人は寂し気に微笑んだ。

「全ての曲は憧れと愛情と憎悪を原動力に作られた。虚無からは何も生まれない」

 それから何度、公園に足を運んでも老人の姿を見ることはできなくなった。


 グスコーは殺し屋のマンションでギターの練習を続けた。簡単な作曲を行い、自分なりの詩を付けるようになった。殺し屋は何もいわなかったが、彼女の歌を気に入ったようだった。

 ある日を境に、殺し屋が部屋に帰ってこなくなった。家賃の督促がないところを見ると、この部屋は殺し屋の所有物だったのだろう。グスコーは一人でギターの練習を続けた。何ヶ月も他人と口を聞かない生活が続いたが、グスコーは気にしなかった。

 いつの日からか、彼女は老人がいた公園で、演奏をするようになった。初めは観客のいないステージであったが、次第に観客が多くなった。彼女の歌を聞くために公園へ足を運ぶ客が現れた頃、スカウトの声がかかった。初めは小さなクラブでつなぎの演奏をする程度であったが、演奏の回数が増える度に彼女の演奏時間は長く出演の順番は遅くなった。


 アルバム製作の話が入り、初めてのアルバムを作成した。彼女は老人に言われた通り、憧れと愛情と憎悪を込めた詩を幾つか作り、そのなかから憧れを歌った曲を選んで録音した。作ったアルバムは爆発的な売り上げこそなかったものの、時間をかけて少しずつ広まって行った。

 何枚かのアルバムを出したところで、雑誌取材依頼が頻繁に入るようになった。記者達は彼女の過去を知りたがったが、取材に応じたことはなかった。


 グスコーが18才になった時、事務所に病院慰問の仕事が入った。その日に空いているミュージシャンがいないという理由で、グスコーは病院で歌った。演奏の後、観客が握手を求めてきた。その中の一つ、小さな手が彼女の心を鷲掴みにした。

「また、歌いに来てね。僕、待ってる!」

 その少年は、グスコーの別れた弟に生き写しであった。翌日、グスコーは花束を持ち、一人で彼の病室へ足を運んだ。そこで彼女は数年ぶりに他人と多くの会話をした。少年は心臓に疾患を持っていること。彼女の出したアルバムは全て持っていること。彼女と同じくらい大好きな野球選手のこと。

 時間が過ぎ別れを渋っている少年を母親がたしなめ、彼女と一緒に病室を後にした。

「本当に今日は、ありがとうございました」

 若い母親は、病室を出るなり深々と一礼した。徐々に弱っていく彼の心臓は、移植するしか生存の可能性がないこと。発作が起こるたびに、彼から笑顔が消えていくこと。

「あんなに、はしゃいだ彼を見たのは久しぶりです。どうかこれからも、皆を励ます歌を歌い続けて下さい」

 人を励ますために歌ったことのないグスコーは、戸惑った。そこで愛情を歌った曲を選び、アルバムを作成した。その楽曲は、そこそこにヒットし印税が入金されるようになった。

 彼女は自分の取り分を、弟にそっくりな少年へ、匿名で全て寄付した。


 少しだけ自分の時間とお金が手に入ったグスコーは、弟の消息を調べることを始めた。横浜の港から彼の足取りはきれいに消えていた。彼女は彼を探すために曲を書いた。

 内容は彼女の過去と、弟の思い出をまとめたものとした。大多数の大人達に対する憎悪を歌ったものであった。また、自分の身体を切り売りするような生活を淡々と歌っていた。事務所は、その曲を聞いて売り出しを渋った。

 原因はアイドルでも通用する彼女の年令と容姿に、その詩があまりにもそぐわなかったからである。その曲で歌われている主人公の精神は余りにも激しく、不安定であった。

 何度か事務所側との折衝が続いた。事務所は彼女の作った曲ではなく、カリスマプロデューサーといわれる男の作った曲を彼女に与えた。この曲を成功させれば、メジャーデビュー確実であると、事務所は熱く語った。

 彼女は初めて、自分の意志で拒絶することを行った。カリスマプロデューサーとの打ち合わせに出席しなかったのである。その結果、彼女のステージは事務所が与えるスポットライトの下から、公園に戻った。


 彼女が公園で演奏を行っている時、かつてのマネージャーと出会った。彼はどうしても彼女を事務所に連れて帰らなければならなかった。たぶん、彼女のアルバムのどれかが売れ筋に乗ったため、放っておけば他所の事務所に彼女を奪われると思ったのだろう。

 強引に事務所に連れ戻そうとするマネージャーと揉み合い、彼女は車道へ押し出された。古びたギターとグスコーは車輪の下で粉々に壊れ、二度と詩を歌うことはなかった。


 しばらくして昼の公園で、彼女の作った詩が演奏されるようになった。演者は師匠である老人と、弟にそっくりな少年だった。曲は、これまでアルバムとして発表されたもの、それ以降、公園で演奏された作品、全てだった。

 伴奏する老人と少年が彼女の詩を歌う時、それは彼らの詩でなく、グスコーの歌になった。恐らくこの街では、誰が歌っても彼女の詩は、彼女の作品として認知されるのであろう。大勢の大人達は二人を完全に無視していたが、無目的に街に集まるグスコーのような少年少女達は、グスコーの詩を黙って聞いた。

 

 老人と少年の演奏が続く間、この街のグスコーのような少年少女達は、自分達の境遇を忘れ、未来を思う事ができた。虚無ではなく、憧れと愛情と憎悪を原動力に、この街を自力で渡っていくことが出来るように。

 

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