僅光
サパー
僅光
帰りのショートホームルームが終わると、教室の空気はがらっと変わる。
放課後特有の解放感が教室を満たし、授業時の静けさが嘘のように、あちこちで騒がしい笑い声や叫び声が弾けて他愛もない会話に花が咲く。
放課後を迎えたクラスメイトたちは、束の間の自由をせいいっぱい楽しむかのように友人との会話に勤しんでいた。
話しているのはみんな日本語のはずなのに、色んなところで言葉が重なり合って、耳に届く音はまるで全く違う言語を話しているみたいだ。
「うるっさいなぁ」
帰りのショートホームルームからずっとぽちぽちとスマホをいじっていた佐川涼助は、がやがやと耳に入ってくる雑音にほぼ反射的に悪態をついた。
ただ、それは彼の本心ではなかった。
涼助はどこかかったるいこの弛緩し切った空気が嫌いではなかった。むしろ、賑やかなこの空気がクラス全体を優しく包容してくれているような気がして、どことない安心感を感じていた。
今月は通常の七限授業に加えて、毎日2時間にわたる、休校期間中の遅れを取り戻す特別補習があった。
だから毎日朝から夜までずっと教室で勉強ということになってしまい、みんな友だちと話すなどして少しでも息抜きしていなければ、ハードなコロナ禍の学校生活をやっていくのは不可能に近い。
そしてそういう授業とか、縛り付けるものから解放されて、みんなの「自由」が一番詰まった時間が、放課後なのだ。
「りょーすけぇー」
馬鹿みたいに大きな声で、誰かが涼助の名前を呼ぶ。
声のする方向を降り向こうとした時には思いっきり脇腹をどつかれる。痛みよりも早く、一瞬で衝撃がやってきて、誰が、と疑問に思った時には、俺にそんなことをやってくる人間に大抵見当がついていた。
「いてーよ、直輝」
ムッとしつつ後ろを振り返ると、学生鞄を手に持って、いたずらな笑みを浮かべた男子生徒が立っていた。
ナチュラルブラウンに染めた髪はワックスでしっかり固められていて、少し着崩した制服との相乗効果で、お世辞でも模範生徒とは言い難い印象を与えている。
「お前、よくそんな格好で美化委員の生徒指導にあわなかったな」
つい先ほどくらった脇腹への痛みもすぐに忘れて、涼助はそんなことを口にする。
「美化委員の見廻ルートと巡回時間はしっかり頭に記憶してあるからな」
整えた眉を微動だに動かさず、いきなり真顔で直輝はそんなことを言うものだから、涼助は絶句した、と言うよりも呆れた。
こいつならやりかねない、そう思ったからである。
「おいおい何マジになってんだよ、そんなわけないだろー?」
すると、うすい端正な唇から白い歯が覗いて、直輝がわはは、と大きく笑う。
対照的に涼助は、直輝の毎度の調子の良さになんだか急にまともに相手するのが面倒くさくなってきたので、直輝を適当にあしらうことにする。
「はいはい、じゃあ、そんなわけないですね」
「いや、流石に適当すぎね?それは」
尚もツッコミを入れながら一人で笑っている直輝のことはひとまず無視。
変に反応したら、またべらべらと1人で話し出すに決まっているのだ。
いそいそと涼助は机の引き出しから教科書をリュックに移す。三年にもなると派生科目も多くなるため、重くなって大変だ。
しかも明日から夏休みに入るので、今日はなるべく沢山の教科書を持ち帰らねばならなかった。
「俺が美化委員に告げ口してもいいんだぜ?」
最後の教科書の束を掴みながら——本当はその気はないのだが——わざと意地悪な質問をすると、直輝は一度、うぐっと言葉に詰まりつつも、すぐに体勢を戻して余裕ありげに胸を張った。
「そう言う奴ほど実際には言わないもんなんだぜ?」
その言葉は明らかに虚勢だったし、ここで話を終わらせるのも何だかつまらない。
何かこいつを揺するネタがないだろうかと考えていると、頭の中で妙案が浮かび、涼助はにやりと心の中でほくそ笑む。
「実は美化委員の顧問が、俺の部活の顧問だったんだよなあ」
噛み締めるようにそう言うと、直輝は今度こそげっ、とまずそうな顔をした。
「……え、嘘だろ?熊切センセイって剣道部の顧問だっけ……、」
無言をもって肯定と為し、追い討ちをかけるように、手元にあったスマホのラインを開いて、熊切、と書かれた個チャをすっと直輝の前に差し出す。
するとそれを見た途端に、直輝の顔色がみるみると青ざめていく。
あの先生に指導されるのだけはまずい、とひどく動揺しているのが丸わかりだ。
ただ、その直輝の気持ちには涼助も同意できるところがあった。
あれだけ図体のデカくて、人を刺すような鋭い眼光で睨みつけるあのクマ(涼助が勝手にそう呼んでいる)に指導されたい人間なんて、日本中をくまなく探してもいるはずがないからだ。
一言で言うならば、昭和の親父、という言葉が合う厳格な先生だった。しかし今はもう、令和。生徒に怒鳴りつける指導法は時代遅れなんですよ。
ほぼそれを考えたのと同時に、涼助は部活で面を付けて指導していた、剣道部顧問としての熊切先生の姿を想起していた。
自分よりも頭一つぶん大きな身長に、がたいの良い体格。面の隙間から覗く極限まで冷却された視線。
稽古する時はいつも、そんな先生の威圧的な態度に怯えて、少しでもあの先生の逆鱗に触れないように精神をすり減らしていたものだ。
それでも毎回お約束のように床に這いつくばるまでしっかり絞られていたわけだけど。
でも、もうあのクマと戦うこともないんだよなあ。
引退するまでは地獄の象徴としか捉えていなかった記憶が、今になれば稽古の辛さも忘れて懐かしく思えてくるから不思議だ。
失ってから、初めてその大切さに気づくなんてことは、人間にはよくあることなのかもしれない。
休校が明けて、最初に部活で顧問へ集合した時、熊切先生はいつものように淡々とした様子で、「お前たちは今日で引退だ」と静かに言った。
もちろん、インハイ中止は休校期間中に既に決まっていた。
休校中に、家のリビングでインハイ中止のニュースが流れた時は、何を言われたのか分からなかった。魂が抜けたようにずっと、ぼけーっと光るテレビの前に立ち続けていた。
インハイ中止の実感などまったく掴めないまま、集合の日を迎えた。なんとなく、今日言われるな、とぼんやり予想はしていた。
だから、先生がいつも通りの様子で言ってくれたのは、変に同情されて悲しい顔をされるよりずっと良かった。いつも厳しいあの先生にまで悲しそうな顔をされたら、もう耐えられる自信はなかったから。
そういうところが、あの先生なりの優しさだったのだと、今ならわかる。
でも、先生、
涼助は、長い休校期間ですっかりマメが治り切った両の手のひらを見つめる。
その優しさのせいで、俺は今も、実感できていないんです。
引退したっていう実感が。
俺にはまだ、部活を引退したっていう実感が、湧かないんです。
✳︎✳︎✳︎
「俺、お前のこと親友だと思ってるから。マジで」
先程とは打って変わって弱腰な態度に変化した直輝が、さっきからずっとこんなことを言いながら、涼助に胡麻を擦っていた。
実際、最初から美化委員に告げ口する気なんてさらさらないのだが、漫画みたいにあからさまな直輝の露骨な態度と表情が可笑しくて、涼助は思わず吹き出してしまう。
こいつはいつも、調子がいいのだ。
一方、笑われた直輝は、なんだか納得のいかないような、不満を滲ませた表情をしている。
「何だよ、いきなり俺の顔見て笑って」
ふすっ、とふてくされている直輝の様子もまた、面白いので取り敢えずこのまま放置。
涼助は教科書を詰め込んだリュックを背負い、椅子を引いて立ち上がる。すっと目の位置が高くなったおかげで教室全体の様子が視界に入った。
直輝としょうもない応酬をしている間に多くの生徒が既に下校してしまったようで、あれだけ騒々しかった教室も、今や残っている生徒が一目で数えられるほどにまで減っていた。
このままいつまでも教室に残っていては、見回りに来た先生から小言のひとつでも言われてしまう。
受験生なのにこんな時間まで残って、などと小言を言われるのだけは勘弁だ。
「早く帰ろうぜ」
よいしょ、と有名なスポーツブランドの刺繍の入った大型のスポーツリュックを肩に背負う。
三年生になってまだ2ヶ月ほどしか経験していないずっしりとした重さに、肩がまだ慣れきっていない。
そのあまりの重量に、ちゃんと計画的に少しずつ教科書を持ち帰ればよかった、と涼助は後悔するが、どうせそんなことを言っても冬休みにはその教訓も忘れているに違いないのだ。
「ま、いいんだけどさ」
直輝はそう言うと、気持ちを切り替えたのか、両耳にエアポッズをさし込んでビリーアイリッシュのバッドガイを口ずさみながら先に教室を出ていく。
音程がずれていて、テンポも滅茶苦茶で、お世辞でも上手いとは言えない。
でもそれを聞くと、今って本当に放課後なんだなあ、という実感を感じている自分がいることに、涼助は気づいた。
大きく息を吸って、蜂蜜みたいにかったるくて甘い、放課後の味を肺に取り入れる。
ああ、放課後だな、と涼助は思う。
けれど、教室にはもう誰もいない。こういう景色を見ると、涼助の胸はちくりと痛む。
休校前はまだ2年生だった涼助たちも、もう3年生だ。あっけないほどあっという間に過ぎ去った時間を実感するたび、心がぎゅっと締め付けられるような気持ちになる。
あまりにも突然に奪われた空白の時間を嘆くつもりはない。
ただ、どうしよもない虚無感に、埋没するだけだ。
✳︎✳︎✳︎
「昴がいねえ!」
下校しようとする生徒たちでごった返す昇降口前のたまり場で、直輝が叫ぶ。
「いや、さっきラインで昇降口前って言ってたから絶対ここにいるはず!」
涼助も自分の声が周りの喧騒にかき消されないように、声を張り上げた。
さっきまでいた教室も相当騒々しかったが、全学年の集まる昇降口ともなると、やかましさはその比ではない。
お祭りのようにわいわい、がやがやしていて、お前ら本当に7限プラス補習を受けたあとの人間なのか、と疑いたくなるほど爆発したようなエネルギーに満ちていた。
今日は7月31日。
月末の定例職員会議があるので、休校明けから段階的に再開した部活動も今日ばかりは顧問が不在になる。
そのため、今日はほとんどの部活がオフなのだ。
しかしそのせいで、昇降口前は部活のない下級生たちと三年生の下校時刻が被ってしまい、友人と待ち合わせをしようとしても津波のような人波に呑まれてしまいそうな始末だ。
昴、というのは涼助と直輝と馬の合う友人で、二人とは高一、高二、と同じクラスだったのだが、高三のクラス分けでとうとう昴とはクラスが離れてしまった。
そんな彼から、教室を出て階段を降りている最中に『昇降口前にいる』というラインがあり、(もちろんそれは一緒に帰ろう、という意味のメッセージであるので)2人は昴と合流するため昇降口前で彼の姿を探しているわけなのだが——
「おい!涼助、こっちこっち‼︎」
声のする方に顔を向けると、遠くで直輝がぶんぶんと手を振っていた。
やべ、と思う。どうやらいつのまにか下校する生徒たちの群衆に呑み込まれてだいぶ直輝と離れてしまっていたらしい。
道の端っこをつたってどうにか直輝の元にたどり着くと、直輝の隣に眼鏡をかけた、涼助たちよりも少し身長の低い細身の男子生徒が立っていた。
「おお、久しぶり、昴」
邪魔なマスクのせいで、はぁはぁ呼吸を整えるのに苦労しつつもどうにか挨拶すると、その少年——神野昴も、控えめな挨拶を返す。
「よ、佐川、久しぶり」
眼鏡をくいっと上に上げながら話す癖はまだ変わっていないようだ。
「それにしても、すごいやかましさだな」
横にいた直輝が、昇降口の人でごった返す光景を見てそんな感想を口にした。
「まあ、一応明日から夏休みだからな」
淡々とした口調で昴が答える。
——夏休み。夏休みか。
今年の夏休みは、涼助たちにとってやや特別だ。
まず、そもそも今年の夏休みは夏休みと言えないほどに短い。
その理由は言わずと知れたコロナのせいだが、明日からお盆休みまでの2週間が、今年の東高の夏休みである。
それでもうちは公立高校なので、これはまだ良い方だ。
厳しい私立だと、お盆休みの1週間しか夏休みがない、という悲鳴をSNS上で聞いた覚えがある。
つまり今年の夏休み=お盆休みである。以上より、証明終了。
そして一番重要なのは、もちろん涼助たちが高三であるということだ。
夏は受験の天王山と言うように、毎日勉強、勉強、そして勉強の毎日を送らねばならない。
そんな最悪なこれからの未来を予想してしまい、涼助はうわー、と頭を抱えた。
「あー、今年の夏、マジでやだわー」
「受験なんてなければ良いのになー」
直輝も賛同して、受験勉強への愚痴大会が始まる。愚痴の一つや二つでも言ってなければ、メンタル勝負の受験学年なんてやってられないのだ。
「しかも今年から共通テストだからな」
ぼそっと昴が口を開く。
しかしさりげなく呟いたその言葉が、ずーんと涼助たちの気分をさらに重くさせた。
「問題はそこなんだよなあ」
「俺、この間の模試やばかったもん」
口々に溢れ出てくる不満を言い合う。
なぜよりによってコロナ禍にある今、大学の入試を変えてしまうのだろうか。
ただでさえ授業が遅れ、学校の授業はただの詰め込み学習。そんな状況で大学入試改革とか、ふざけているようにしか聞こえない。
正直、涼助にはまったく受験を乗り越えられる自信がないのだ。
「でも、昴は成績良いからどこでも行けるだろ」
口を尖らせて直輝が言う。
そうだった。昴は俺たちの中ではおろか、学年でもずば抜けて賢い部類に入るのだ。
噂によると、教師たちもその進学先に期待しているとか。
「そうだよ、指定校推薦でもどこでも狙えるんじゃないのか」
涼助が追随すると、昴の顔色がやや曇った。
「うーん。私立は無理だなー。たぶん」
厳しそうな表情をする昴を見て、涼助はしまった、と思った。
母子家庭なのだ。昴は。しかも彼は3人兄弟の長男で、学費の高い私立は厳しいはずだ。それなのに、俺はどこでも行けるんじゃないか、なんて言ってしまって。
忘れていたとはいえ、昴の家庭事情を知っていたのに、それを聞くなんて最低だ。
涼助は自分の気の利かなさを呪った。
「すまん。そんなつもりじゃなかった」
涼助が謝ると、直輝もそのことに気づいたのか、すまん、と小さく謝った。
すると昴自身はそれほど気にしていたわけでもなかったのか、それとも急に深刻そうな面持ちになった2人に驚いたのか、微笑を浮かべながら別にいいよ、と言った。
「ほら、全員揃ったんだし、帰ろうぜ」
昴が正門に向かって歩き出す。
それを追うように3人で横になって、人混みに紛れる。人の熱気でまみれる下校時の喧騒とは対照的に、涼助は静かな頭で考える。
馬鹿だなぁ、と涼助は思う。何で昴へ配慮できなかったんだろう。本当に気が利かなくて、このままもうすぐ大人になってしまうのかと思うと、思わずゾッとする。
あと2年でもう、俺たちは大人なのだ。
ふと、見慣れた空を見上げる。オレンジに染まりつつある空が、そこにある。
もうすぐ、大人かあ。
現役高校生の身からしてみれば、そういうことはなかなか実感しづらい。もしかしたらそれは、自分が高校生の証とも言える制服に包まれていることによって、外の世界から守られているからかもしれない。
あと、この慣れ親しんだ下校の道をどれくらい歩くのだろう。
涼助はそんなことを考える。
あと、どのくらいこの道を歩いて、この道を歩かなくなる時間を経て、俺は大人になるんだろうか。
このまま、俺は大人になるんだろうか。
ふわり、と優しい風が涼助たちを追い越す。
でもやっぱり、そういうのはまだ全然予想できないし、予想なんてしたくない。
もうちょっとだけ、この季節を味わっていたいんだ、俺は。
✳︎✳︎✳︎
西に傾いた太陽が、見える限りの地平線を赤く染めていた。
昼間はあれだけ明るかった空も、今はもうそのほとんどが迫りくる夜の気配にじわりじわりと浸食されつつある。
最後に残った斜陽の周りだけが、それでもまだ、昼を取り戻そうとしているみたいに眩しい黄金色の光の残滓を放っていた。
涼助たちは、ゆったりと流れる江戸川の土手を歩いていた。
彼らの通う東高は、千葉と東京、埼玉の県境に流れる江戸川のほとりにあり、ちょうど埼玉と東京の境目の対岸に位置するところにある。
交通の便の悪いところに高校があるため、最寄りの駅に行くには時間がかかる。そのため狭くて入り組んだ住宅街のルートよりも、開けてルートの短いこの土手の遊歩道を通学路にするのが東高生の通例だった。
涼助たちは校門を出てからというもの、ずっと口を開くことなく、とぼとぼと綺麗に舗装されたアスファルトの上を歩いていた。
一学期の最後で話す話題はたくさんあるはずなのに、まるでみんなで示し合わせたみたいに誰も声を発するものはいなかった。
リュックが重い。
無言で何も考えずに歩いていると、真っ先に頭に浮かんでくるのはやはりそれだった。
肩にのしかかる確かな重みが、長い授業で疲労した体力をさらに削ろうとしてくる。
じんわりとした浸透するような痛みの中で、涼助は、だんだん視線を落としていって自分の足を見つめる。
下校って、なんだか考えことするのに向いてるよなあ。
ふわっと頭に浮かんだのは、そんな当たり障りのないことだった。
登校時よりも下校する時の方が考え事には向いている。下校時は、登校する時よりもどこか心がしんみりしているから、というのが長い学校生活で培った涼助の見解だった。
そしたら、一学期の終わりで、明日から夏休みを迎えようとしている今日のこの下校時は、やはり一学期の振り返りみたいのをするべきなのだろうか。
振り返りねえ。
小さく涼助はため息をつく。
一学期にあったことと言っても、コロナのせいで毎日勉強だけのつまらない生活を送っていただけだ。
行事もなく、部活も引退。振り返ることなど何もないはずだ。
何の学校行事もなかったのだから、振り返ることなんてあるはずがない。
このまま帰ってさっさと寝て、明日から短く勉強だけのつまらない夏休みを迎えるだけだ。
でも、だとしたら、この重苦しい沈むような感情は何なのだろうか。
冷静な自分が、静かに指摘する。
何で俺は馬鹿みたいに、こんなに考えごとをしているんだろうか。そもそも何も悩むことがなければ、何も考えなくていいはずなのに。
考えるってことは、何か考えさせる原因があるはずなのだ。
放課後の教室に安心感を覚えたり、友人との些細な会話に満足したり、帰りながら未来のことなんか考えて。そんな以前だったら自発的に考えないような、らしくないことまで考えて、一体俺は、何がしたいんだ。俺は何を思っているんだろう。
静かな風に、土手の草木がざわめく。
でも、たぶん、一つ理由があるとしたら、当然それはコロナだろう。
コロナが、俺たちの学校生活をまるっきり変えてしまったから。
けれど、それだけではない気がした。コロナはこの、今の掴みづらい感情に、絶対影響を与えているだろうけど、それはきっと手段であって目的ではないというか、さらに別の理由もあるような気がする。
自分の気持ちなのに、よく分からない。
自分の気持ちだから、よく分からない。
複雑に絡み合った感情は色んなところで固く結ばれていて、その一つ一つをほどくのはとても困難だ。
でも、それが知りたい。
休校明けからずっと続いている、この圧迫感のある重苦しい感情を、一学期のうちに精算してしまいたい。
一学期最後のこの帰り道で、決着をつけたい。
そんな思考がだんだん強くなって、涼助の頭を支配する。それはぐるぐると周り、大きな渦となる。
でも考えれば考えるほど、その気持ちがよく分からなくなってしまう。知りたい感情の原因は一時的に遠のいて、その断片を掴むことさえ難しくなる。
飴玉を喉で詰まらせたような不快感、異物感を、ここ最近ずっと感じ続けていた。
今まではまったく感じたこともないその感情は、意識するととても胸が苦しくなるような、大事な何かを丸ごと失ってしまったような気がして。俺は、
俺は——
「涼助」
突然、直輝に名前を呼ばれて、はっとする。そこで涼助の思考の世界は途切れて、現実の世界へと引き戻される。
「後ろ」
言われるままに後ろを見ると、3人で広がって土手の上を歩いたせいで、狭い遊歩道を塞いでしまっていたようだった。
1年生だろうか。元気の良さそうな4人組が、自転車に乗りながら、立ち止まっている。
「あ、ごめん」
言いつつ道の端にさっと寄ると、その後輩4人組は、ありがとーございます、なんて、威勢のいい返事をして、からからとペダルを踏んで、ぐんぐんと先に進んでいってしまう。
いやー、明日から夏休みだな。
風にのって、元気な声が耳に届く。
そうだな、ウチの部活練習きついんよ。
いやいや、ウチに比べればまだまだだってー。こっちなんてオフ休み中に2回しかないんだぞ。
今まさに、沈もうとしている太陽の最後の光が、からからと笑いながら道を進んでいく後輩たちの背中を真っ赤に染める。見ているこっちが眩しくなるくらい、真っ白な制服のワイシャツを赤く照らす。
あ、
ぽろり、と声が落ちた。
真っ直ぐと前を見据えた力強い眼差し。空を飛べそうに思えるくらいに軽くなる体。ワイシャツから覗く、エネルギーを全て凝縮したようなたくましい腕。
涼助はそこに、自分を見つけた。
どこにでもいそうなその後輩たち。確かにそれは、2年前の涼助たちの姿だった。
部活終わりなのにあり余ったエネルギーを発散するように、馬鹿みたいな大声でしょうもない話をして、気になる女子の会話で盛り上がったり、「今」を真っ直ぐに捉えた後輩たちの姿は、昔の涼助、そのものだった。
確かにあの時の俺たちにとって、「今この瞬間」がすべてだったんだ。
背後から差し込む斜陽も、自分を後押しするような力に感じて、毎日毎日が刺激の連続で。生きることに夢中で。
ああ、
涼助は、空に嘆いた。全身から、力が抜けていくようだった。
やっと、実感した。コロナで、失った確かな時間を、その時間の価値の大きさを。
部活を引退したことも。学校行事が中止になったことも。
山のように一気に実感が押し寄せてきて、苦しくなった。泣きたくなった。
それくらい、たった一瞬すれ違っただけの後輩たちには、見ているこっちが気づかされるほど溢れるパワーに満ちていた。
いくらでも突き進んでいけるような、確かな希望をたたえた瞳がそこにあった。
その眩しさに、鷲掴みにされたように涼助の胸は苦しくなる。
もっと、ちゃんと青春をしとくんだった。
滝のような後悔ばかりがどっと押し寄せる。もっと部活も死ぬ気で取り組んで、行事も楽しんどけば良かった。後悔しないように、一生懸命向き合えばよかった。
オレンジを絞るように、ぎゅっと心臓が苦しくなって、さらに後悔は大きくなるばかり。
それでも、あの時の自分は、その時を一生懸命に生きていたんだ。部活やって、行事も楽しんで、家に帰ったらベットに倒れ込んで。
それでもこんなにも後悔するのはきっと、もう俺たちはそれを味わえないからだ。
これからあと1年以上在校する後輩たちはきっと、部活のインハイだって、学校行事も体験できるんだろう。
だけど俺たちは今年が最後の年で、すべてが中止になったからもう何もない。
もう、部活も、行事も、学校を形づくるものすべてが引き抜かれ、残ったのはつまらない勉強だけの日々。
こんな状況で、受験を迎えられるとは思えないし、やる気が出るわけない。
いつだって人間はその時間が過ぎ去ってからその大切さに気づくんだ。
キツイなあ、
せめて最後のインハイだけでも出たかった。
せめて最後、文化祭だけでもやって終わりたかった。
そしたらそこでちゃんとけじめをつけて、文句なんて言わずに、切り替えてしっかり前を見るから。
ふと、放送で行われた終業式の、校長の言葉を思い出す。
『皆さん、ほとんどの学校行事がなくなってつらいと思います。だけど君たちは若い。君たちには大きな大樹のようにみなぎるパワーがあるのです。今、ここで諦めなければ、その先には無限の可能性が広がっています』
こつん、と爪先に小さな衝撃を感じた。視線を落とすと、それは小さな石ころだった。
涼助は、思いっきり足を振り上げて、その石を遠くに蹴り飛ばす。
ころころと跳ねるように転がった石は、真っ暗な道の暗闇に溶け込むように姿を消す。姿を消して、見えなくなる。
それを見て、また、気が重くなる。
一体この先のどこに、無限の可能性っていうものがあるんだろうか。
✳︎✳︎✳︎
時々吹くそよ風が、土手に生える丈の高いイネ科の植物を優しく揺らして、さわさわ、という心地の良い音を奏でる。
遠くの交通量の多い国道から時々車の走る音が届いては消える。高台から見ると低いところにある住宅街は、ぽつぽつと中の明かりが目立つようになってきている。
夕陽は沈み、とうとう夜がやってこようとしていた。
「明日から、夏休みだな」
最初に沈黙を破ったのは、昴だった。さっき通り過ぎた後輩たちと奇しくも同じ台詞。
「そうだな」
静かに直輝が頷く。
さっきまではたくさんいたはずの東高の生徒たちも、今や誰一人として見える範囲の土手の上にはいない。
きっと、とっくに俺たちを抜かしていったか、下の道に降りたのだろう。
そんな生徒たちとは正反対に、涼助たちは馬鹿みたいに遅く歩いていた。
とぼとぼと。いつもよりも遅く。
曇りがちの空はとっぷりと黒色に染まり、人気のない土手は、しんと静まり返っている。まるで明日から8月とは思えない静けさだった。
「何か、つまんなかったな、この一学期」
誰にいうでもなく、空に向かって直輝が呟く。
「そうだな」
今度は、昴が頷く。
「学校が始まったのは嬉しかったけど、自己紹
介もしないで始まっちゃったから俺、クラスメイトの名前、全然覚えてないもん」
「そうだよな。特に、女子。顔と名前が全然一致しない」
「そうそう。みんなマスクつけてるし。それに昼休みも葬式みたいに全員で前向いて食べないといけないから、マジでホント、ここ学校なの、って疑うレベル」
寂しそうな表情で、直輝は空を見つめた。つられて涼助も空を見上げる。
首都圏の空は、全く言っていいほど星が見えない。それはもちろん街が明るすぎるからだ。
でも、少しくらい星とか見えたら、まだ青春っぽいのに、と涼助は思った。
「そう言えば、涼助」
「ん?」
突然自分に話が振られたので、正直驚いた。
「最近C組の波岡さんとはどうなの?」
真面目な顔で、直輝がこちらの表情を窺う。
くそ、と思う。忘れていたことをいきなり穿り返されて、嫌な気分だった。
「別れたよ。それも4ヶ月前に」
ぶっきらぼうにそう答える。
「何で?可愛かったじゃん、波岡さん」
どうしてだよー、と少しも躊躇わず聞いてくる直輝。
その声音から他意がないことが伝わってくる。いつだって直輝の声は、湿っていない。
「単に、性格の不一致だよ。不一致」
努めて平常な声で、涼助はそう返す。
別れのきっかけは、休校期間中に遊びに誘われたことだった。
いつも通りの甘い声で、カラオケに行こうよ、と誘われた。いつも上目遣いでこちらを覗いてくる仕草は、それなりに可愛かった。
今どきの女子高生って感じで、甘いスイーツが好きで、ファッションに興味津々で、いつも柑橘系の香水の香りがした。
けれど誘われたのはちょうど、インハイの中止が決まった頃だった。最後のインハイに全てをかけていた俺にとって、彼女と遊びに行くなんてことは、とてもじゃないけど器用でない俺にとって不可能なことだった。
もちろん、そんな精神的余裕なんてこれっぽっちもなかった。まずそもそも、俺がその事実を飲み込めていなかったから。
だから別れた。
何度も強引に遊びに誘ってくる彼女は、きっと休校で溜まっていたストレスをただ消化したかっただけなのだと思う。というか、そうだって分かっていた。
彼女の気持ちは分かっていても、ただ毎日が無気力で、毎日毎日彼女の誘いを一向に了承せずにいたら、別れよう、と提案された。
俺もそれが良いと思ったから、別れた。ただそれだけのことだ。
ひとしきりかいつまんで話すと、直輝は本当にすまなそうな顔をした。
「知らなかった。ごめん、勝手に人の心を傷つけるようなこと言って」
「いいんだよ、いつか別れるような気がしてたから」
それは涼助の本心だった。
青春の思い出にするために付き合う奴なんていくらでもいる。彼女は確かに可愛かったが、それだけだった。彼女はたぶん、恋に恋していたのだ。きっと。
でも、自分だってそうだった。自分だって毎日が「今」の連続としか認識していなかった。楽しいことが好きな普通の高校生だったのだ。
そしてそれは、今でも一緒だ。
暗闇に真っ直ぐに伸びる、アスファルトの道をゆっくりと歩く。
涼やかな風が吹けば、土手に生えた雑草がざあざあ、と音を立てる。夕暮れに聞いた時よりも、その音はどこか他人事だった。
そういう意味では、コロナは日常というものの大切さを教えてくれた。
いつもは全く見向きもしないような、一瞬で通り過ぎていくような一瞬に意味があるということを教えてくれた。
だけど別に感謝するつもりはない。
コロナがなければ、なかったに越したことはないのだから。
だけどもし、平常な日常が続いていたら、自分はきっとそれが当然だと思って生活していたんだろうな。
再開した学校の様子を思い浮かべる。休校明けの学校は、喪失した青春の穴を埋めるように、一生懸命に以前の学校を演じていた。
制限された中でも、以前の学校を取り戻そうと、必死に努力している雰囲気を隠せていなかった。
涼助たち高校生にとって、高校はすべてだ。狭い世界の中に、たくさんの喜怒哀楽がみっしりと詰まっている。
そんな世界で、仲の良い友人たちと過ごす生活は今までの人生の中でも格別だ。
今生きている、という実感が痛いほどパワーを与えて、血液は脈々と波打って、自分はなんでもできるような気持ちになってくる。
けれど、同時に涼助たちは自覚している。
もうすぐ高校生と呼ばれる季節が終わり、大人になること。大人になって、社会に出ていかないといけないということ。
夢のように柔らかな高校生活が、終わってしまうこと。
それだけはみんな、ちゃんと敏感に感じ取っている。
いつかこの制服を脱いで、大きな社会へと踏み出さなくてはならないことを知っている。
みんな、この時間が限りあるものだと自覚しているから、一生懸命、今を謳歌する。
今を精一杯に楽しまなきゃって思う。
今までの人生で一番輝く瞬間を、「青春」と名づけて、人生の思い出にする。
ただ、それは通常の話で、一般論。
今年はそういうことが、すべて叶わない。
思いっきり、思い出を残すことができないのだ。
嫌な汗がぷっつりと分泌して、じっとりと肌をつたう。どうしよもない後悔と、むなしさがまた、再燃してくる。
重苦しい感情で、息が詰まる。
たとえ不謹慎だと言われても、俺はインハイをやりたかった。文化祭も、合唱祭も、体育祭もやりたかった。
大人たちは、『亡くなっている人もいるわけだから、君たちが悲劇のヒーローになってはいけない』と言う。
正しい。全くもってその通りだと思う。
分かってる。頭では理解している。インハイも行事も、全部中止になったのは、全部ウイルスのせいで、しょうがないことだって、頭では分かってる。
分かってるいるのだ、全部。頭では。
涼助は、重いため息をついた。
せめて、誰かを恨めたら良かった。
誰かが悪ければ、自分の感情を全て押し付けて、納得させることだってできたはずだ。
けれど悪いのはウイルスで、高校生にとってどうしよもない相手だった。
為す術はなく、自分たちの高校生活が破壊されていくのを見ることしかできない。
涼助にとって、そういう現実を受け入れなければいけないことが一番つらかった。
深く沈んで圧迫するような感情。
現実をちゃんと受け入れないといけないと思っていても、頭はずっと切り替えることができないまま延々とぐるぐる渦を巻いて。
夢が消えて、楽しみにしていたものがなくなって、一体俺はいつまでこの暗闇を進み続ければいいのだろう。
あと、どれくらい我慢したら、この感情から解放されるのだろうか。
浅く、呼吸をする。
リュックが、重い。
肺に入ってくる空気が重い。惰性で歩き続けている体は、地球の真ん中から強力な引力に引かれているみたいに重い。
涼助は、ゆっくりと空を見上げた。
誰か、誰でもいいからさ、
こんな状況から、こんな苦しい感情から、
救ってくれよ、
「なあ、直輝、昴」
自分でも、意識せずに声が出た。
2人の視線が、涼助を捉える。
追い詰められた最後に頼ったのは、やっぱり
そうだ、俺には、仲間がいる。
同じ境遇に立たされた、仲間がいる。
一人で延々と考えて、視野を狭める必要なんてなかったんだ。
「2人は、どう思ってるんだ」
心の中で燻り続けた疑問は、驚くほど滑らかに形になった。
何を、と言わなくてもきっと彼等には伝わっていて、それがとても嬉しかった。
ぐっと直輝が涼助の目を真っ直ぐ見つめた。そしてすぐに破顔する。
「やっと言ってくれたんだな」
直輝は嬉しそうだった。
「なんだよ、聞いちゃいけなかったのかよ」
「佐川って一人で抱え込むタイプじゃん。今日だって、ずっと黙りこくってたから」
昴も横から指摘する。言われてはじめて気がづいた。
きっと、始めから俺が悩みを抱えて考え込んでいるのを知っていて、2人はわざとそっとしておいてくれたのだ。
「なんだよ、初めからわかってたのか。俺が一人で悩んでたこと」
「そりゃあ、まあ。ずっと土手歩きながら話しかけんなオーラ出してたから。そっちから言いだすまでそっとしておこうかな、と思ってた」
お前の行動原理くらいわかってるんだよ、と直輝が笑う。
「変な気なんか使わなくてもいいのに」
「別に気なんかつかってねぇよ」
ふすっと涼助が言い返すと、昴は笑みを浮かべながら、眼鏡を上にずらした。
「一回、座ろうぜ」
直輝がそう言って、土手の傾斜に腰を下ろす。夜露のせいで制服が濡れるが、そんなことは気にならなかった。
「こっからだとよくスカイツリーが見えるな」
江戸川を挟んだ東京の空を貫くように、淡い青色にライトアップされたスカイツリーが見える。
その周りにはたくさんの高層ビルが林立していて、昼みたいに明るい東京の町を見ていると、そこが全国で今一番感染者の多い場所には思えない。
「俺はさ、やっぱり嫌だよ、今の学校は」
東京の街を眺めながら、直輝が静かに話し出す。
「特に、文化祭が無くなったのが本当につらい」
言われて、ああ、そうだったな、と思い出す。直輝は一年の頃から文化祭実行委員に入っていて、今年は委員長だった。
「2人とも、覚えてるだろ。去年の、俺の失態」
そのことは前に、直輝本人から聞いたことがあった。
体育館発表の3年生の劇の公演中に、急な機材トラブルがあって、その公演が中止になってしまったという事件。
その時の、体育館発表の責任者が直輝だったのだ。
「あれが、俺の責任だったってことはもちろん分かってる。もう今年は、俺が迷惑をかけた先輩たちはいないけど、それでも今年、ちゃんと文化祭を成功させて終わらせたかった。委員長として、最後をしっかり成功で終わらせたかった。なのに……、なんかもう、ひどすぎるよな」
なんか、ひどすぎるよな。
その一言に、直輝の気持ちすべてが凝縮されている気がした。
去年の文化祭を思い出す。お祭り騒ぎの熱気に包まれた校舎を、大声で駆け抜ける。
それが馬鹿なことだとわかっていても、みんなではっちゃけて、笑って、一つのものを作り上げるのが、何よりも楽しかった。
でも、きっと直輝は、そんな俺よりもはるかに文化祭を楽しみにしていたのだ。
それなのに、実行委員長として臨むはずだった最後の文化祭は、中止になった。
夜空を見上げる直輝の顔は、やはりどこか寂しそうだった。
「でも、お前も、同じだろ」
横を向いた直輝が、涼助を見つめる。
「ああ、そうだな」
あれだけ強く後悔していた部活の話題が出てきても、それほど大きくこみ上げてくるものはなかった。まだその話題がちゃんと解決したわけではないけれど、直輝と話していると不思議と心が落ち着くのだ。
「俺もけっこう、部活に命かけてたからな」
なんだか、もう部活をやっていたのが遠い遥か昔のことのようだった。
ぎゅっと手を握ると手のひらに治りきったマメの感触が伝わってきて、今までのこの感情の発端はやっぱり、インハイが無くなって引退することになった感情に起因していたんだな、とやっとはっきりと気づいた。
部活はインハイが中止になって、あっという間に3年生は引退になった。学校生活を彩る行事さえも、今年は全て中止になった。
それなのに、受験という大きな障壁は例年と同じようにそこにある。
文句をいう暇もなく、受験勉強に取り組まなければならなかった。部活の引退とか、行事の中止とか、そういうのをしっかり整理する暇もなく、世界は回り続ける。
こんな状況でも、進路のことを考えなくてはいけない。けれど真っ暗な現実には何の光を見つけることすらできない。
そしてたちまち置いてきた部活や行事の虚無感が追いついて、絡まって、重くなっていって、どすんと心の奥底に沈んだ。
それらは全部、不条理な現実に対する、どうしよもない悲嘆の感情だったのだ。
対岸の工業地帯の光に反射して、きらきらと輝く江戸川の川面を見つめながら、直輝がさらに言葉を紡いでいく。
「でもさ、俺は思うんだよ。たぶん、青春ってみんないつか終わるものだって分かってる。分かってるから、自覚しているから、この一瞬を精一杯生きようとするんだよな」
やっぱり、俺たちは似ている、と涼助は思った。それは、ちょうどさっき自分も考えていたことだったから。
「確かに、そうだな」
素直な言葉が口をついて出る。直輝が、何かを思い出したように頬を緩める。
「俺さ、ずっと思ってたんだ。コロナで文化祭とか行事がなくなって、無気力になってた時、ため息ばかりしてた」
「ああ」
「ため息の数だけ色んなものを諦めて、妥協して、大人になっていくんだな、ってずっと思ってた」
「うん」
「だけどやっとわかった。べつに諦める必要なんてないんだ」
夜空を見上げながら話す直輝の口調ははきはきしていて、その横顔はとても清々しかった。そして、とても大人びて見えた。
「高校生なんてまだ長い人生のほんの序の口だろ。だからこれから機会ならいくらでもある。ここで諦めなければ、この先できっと笑える日が来るはずなんだ」
それに、と直輝は続ける。
「まだ対戦相手と戦っていもいないのに諦めるって、なんだか感染症ごときに敗北したみたいで、嫌じゃないか?」
いつもの涼助をからかう時の挑戦的な表情を見て、これは自分のために言ってくれているのだと、涼助はそこで気がついた。
「だから、俺は涼助はべつに悩む必要なんてないと思う。諦めさえしなければ、道は必ず開けるなんて、めっちゃくさい言葉だけどな」
直輝の放つ言葉の一言一句は少しの抵抗も感じさせないほどにすっと心に染み込んできて、涼助の心に光を灯す。
確かに、そうだ。そうだよな、
先の見えない暗闇の中に放り出されて、すべてが終わったと思っていたけど、すべてはこれからなのだ。これからの行動によって、過去の出来事の意味も変化していく。
これからが大事なのだ。
救われた気分だった。
べつに諦める必要はないんだ、その言葉はありえないくらいすとん、と腑に落ちた。本当に、今まで何で悩んでいたのか分からなくなってしまうくらいに。
「昴は、どう思ってるんだ」
今度は、左隣に座る友人に尋ねる。
「なんだよ、直輝が良いこと言っちゃったから俺の言うことなんかないじゃないか」
少し拗ねた様子で昴が愚痴る。
「なんか、他にもあるだろ、昴なら」
涼助がそう尋ねると、いきなり昴はぷい、と顔を背けてしまう。
「ぜったいに笑わないなら教えてやる」
「笑うわけないだろ」
断定するように言い切ると、昴は視線を江戸川の水面に落として、口を開く。
「俺は学校生活ってよりも、コロナ禍の社会全体が嫌だった」
予想外のスケールの話が急に出てきて、涼助は少し驚いた。
「社会の仕組みが嫌だってことか?」
「少し、違うかな。コロナ禍で日本っていう国自体の脆さに危機感を覚えたんだ」
眼鏡をくいっと上に戻して、少し照れたように視線をずらす昴。
しかし、涼助は稲妻に打たれたかの如く大きな衝撃を受けていた。
国とか、日本とか、そういうスケールの大きなことを今まで考えてみたことがなかったから。
勝手に、そういうのはまだ先だと決めつけていた。
しかし、あと2年もせずに俺たちは成人して、選挙権が与えられるのだ。
急に、昴の小さな背中が大きく見えてくる。
「お前、すげえな」
感じたことが、そのままごろっと口に出てしまった。
「べつに、そんなすごいことじゃないだろ」
そしてその言葉をさも当然のことのように言うから、本当にこいつは凄い。
「日本って先進国だって思ってた。でも当たり前だけど、日本にだって悪い点はいっぱいあるんだ。コロナの対応の遅さとかもそうだったけど」
一言一言を、噛みしめるように昴は話す。
その瞬間、涼助は見つけた。
その瞳に、確かな炎があるのを。
すれ違った後輩たちと、同じ色の希望の炎がそこにあるのを。
「だから、俺は国家公務員になりたい。官僚になって、この国を変えたい」
目の中で煌々と燃えるその炎は、一途の光の本流となって、真っ暗な夜の空を照らす。
明るい、何よりも明るい圧倒的なその光が、涼助の根底の何かを根本から揺さぶった。
「母子家庭だから、順当な大学に行って、王手の大企業に就職すべきなのかもしれない。馬鹿みたいかもしれないけどさ。でも、俺は、本当に成りたいと思ってる。変えたいんだ、今の日本を」
はっきりと、昴は言い切る。確固たる意志が、その言葉一つ一つにこもっていた。
俺の求めていたのはこれだ。
未来への希望だ。
真っ暗な先の見えない状況の中で、煌々とひかる星を求めていたんだ、俺は。
救われた。感謝を伝えたかった。涼助は最大限の感情を込めて、言った。
「お前なら、なれるよ」
はっと驚いたように昴が涼助の目を見つめる。
本当に、こんな身近なところにたくさんのヒントが転がっていたなんて。
「お前に合ってる。昴なら、官僚になれる」
普段なら言うのも恥ずかしい言葉がするっと出る。たぶん、今日だけだ。
言われた昴は、照れたような笑ったようなで、結局いつものように眼鏡をくいっと上げて、決め台詞を言うみたいに格好をつけた。
「確かに、『下を向いていたら、虹は見えない』って言うからな」
「誰だよ、その名言」
完全に昴自身の言葉じゃないっと見切った直輝が、すかさず突っ込む。
逆に昴は、なんでそんなこと言っちゃうんだよ、みたいな顔をして、つまらなそうに口を開いた。
「ディズニーだよ。ウォルト・ディズニー」
言われて納得した。確かにウォルト・ディズニーだったらそんなことを言いそうだ。
「今は僅かな光かもしれないけど、諦めずに進んでいけば、いつかこの瞬間を「青春」って名前をつけて振り返る時が、きっとくるんだろうな」
「うん」
「ああ」
昴の言葉に、あっさりと亮介と直輝は頷く。何故なら、そんな気がしたから。
自分たちが老人になるのは、これからうんざりするほど後のことだけれど、確かに振り返った時、自分は今この瞬間を「青春」と振り返るだろう、そんな確信があった。
「でも、もしかすると、今俺たちがこうやって土手に夜座り込んでる時点で、これって十分青春っぽいんじゃないか?」
「そうかあ?」
「どうだろうなあ」
3人で他愛もないことを話し出す。
馬の合う友人と話しているとき、自分はとても素直になれる。ほんとうに高校でこいつらに会えて本当に良かった、涼助は思った。
「あ、やば」
腕時計を見た昴が、声を上げる。
「今日、塾あった」
「何時から?」
「7時30分」
「やば、あと5分しかないじゃん」
「死ぬ気でダッシュして間に合わせる」
ばっ、と昴が立ち上がって、アスファルトのサイクリングロードを駆け出す。
「じゃあ、また明日」
涼助と直輝の返事を待つこともなく、昴は汚いフォームで走り始めている。
「ホントに馬鹿だなあ、昴は」
そう言う直輝の横顔は、穏やかだ。
「俺たちも帰ろうぜ、涼助」
「ああ」
✳︎✳︎✳︎
遠くに、走り続けている昴の背中がぼんやりと見えた。もう大分、駅に近付いたから、この調子で行けば、駅前にある塾には充分間に合うだろう。
涼助はふと空を見上げた。やはり何度空を見上げてみても、黒に染まった空に星は見えない。
けれど、涼助は星を見つけようとは思わなかった。
諦める必要なんてないんだ
下を向いたら、虹は見つけられないだろ
何故なら、星はもう既に自分の心の中にあるから。
ずっと動かない、眩しい星が、光を放っているから。
もし、また悩むことがあったら、こいつらに相談すればいい。諦めそうになったら、またここに星を見にくればいい。
そしたらきっと、自分はまた歩き出せるから。混沌とした暗闇の中でも、光を見失わずに歩き続けられるから。
涼助は、街灯のないアスファルトの道を、まっすぐに見据えた。
光のない土手の道は、夜の空気に沈むように真っ暗で、先が見えない。
それでも、その暗闇に向かって、新たな一歩を確実に踏み出す。
【了】
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僅光 サパー @Supper
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