愚弟の宿題

小鈴なお 🎏

愚弟の宿題

 令和元年秋、東京都千代田区一番町、佐藤家居間。

 小学校二年生の我が弟が父の逆鱗に触れ、一ヶ月間のゲーム禁止の沙汰を受けた。

 学友とマインクラフトで遊ぶ約束だけは果たしたいだの、カブ価のチェックだけはご容赦頂きたいだのといった願いは一切聞き入れられず、刑は即日執行されることとなる。

 めったに怒らない父と、希にお叱りを受ける段になっても大体は母がとりなしてくれる甘やかし二段構えの佐藤家にあって、前代未聞の事態であった。

 事の次第は以下の通り。この年は日本各地が台風に見舞われ、大きな被害をもたらした。甚大な被害を受けた千葉では、ブルーシートの家々が今なお復旧に至っていないという。幸い我が佐藤家に被害はなかったものの、連日伝えられるニュースに暗い気持ちになっていた。

 その中でひとり興奮に打ち震えて大喜びしていたのが愚弟、佐藤拓さとうたく。へりくだった意味での愚弟ではなく字面そのままの愚かな弟である。テレビの痛々しい映像を前に笑顔を炸裂させ、早く次の台風が来てほしい、と興奮する姿はとても人様にお見せできる代物ではなかった。年の離れた姉としてその教育の一端を担うべき私、佐藤小春さとうこはるも看過できずにやわらかく諫めるが一向に改める気配がない。

 渋面を拵えつつも口頭で注意するに踏みとどまっていた父母だったが、愚弟がさらなる雨を願って大量の逆さてるてる坊主を居間に飾るに至り、父の堪忍袋の緒が切れた。母もその時ばかりは止めに入らず、件の裁決に達したわけである。




 それから一年弱、令和二年の夏休みは新型コロナウイルスによる休校の影響で大幅に短縮された。

 八月二十三日、例年より早く訪れた夏休み最終日。当然のごとく愚弟の夏休みの宿題は真っ白である。

 プリントの類いは午前のうちに片付けた。すぐ終わるならさっさとやっておけばいいのにと言いたくもなるが、我が身を振り返ってみるになかなか強く出られない。

 一昨年晴れて希望の大学への進学を果たしたものの、日々の講義や単位取得に苦労しているのは私も同じである。そして、その苦労の大半はレポートやら試験の対策やらをぎりぎりまで保留してしまう我が身から出た錆であることも否定できない。

 建築の設計を生業としている父がこういったことに口を出してこないのも、少なからず身に覚えがあるからだろう。父は時節、大量の図面やら模型やらを金曜に持ち帰ってくる。しかし、すぐに自室で作業に邁進するわけではない。家の掃除を始めだし、近所の喫茶店にたてこもり、土曜はもちろん日曜になっても仕事を始める気配が現れない。日曜夜になってようやく部屋に戻ってなにかしらごそごそやりだし、月曜の朝には目の下を紫にしてふらついた足取りで事務所に向かう。

 間際にならないと力が出ないというのが佐藤家のDNAということであれば愚弟に非はない。

 しかし、いくらやむを得ない事情とはいえ血の定めなどというものを世間様は考慮してくれない。下知のあったものは提出しなければならない。愚弟は午後も宿題に取り組んでいる。夏休みの小学生が苦しむ課題筆頭といえばやはり自由研究。好きになにかやれ、但し完成品は教室前に並べるので相応の出来でなければ恥をかく、というのは齢一桁の児童にとってやはり酷な課題である。




 その一桁の脳みそを持って彼が取り組んでいるのはコンタ作り。

 ここで言うコンタというのは土地の高さ、起伏を模型で表したもののことを指す。Contourは等高線。Contourの模型といった意味合いをコンタと略すのは略しすぎではないかと思うし、父がそう称しているだけで一般的な略称なのかどうかは分からない。

 発泡スチロールの薄い板の両面に紙を貼ったものをスチレンボードと言い、建築模型の材料に使う。そのスチレンボードに貼り合わせた地形図のコピーを仮止めし、等高線に沿って切る。それを木製パネルの上に重ねていくと、土地の高低が段々となって直感的に理解できる模型ができる。

 スチレンボードの接着には本来専用ののりを使用すべきものだが私を含め姉弟にその使用は許されていない。健康を害するおそれがあるというのがその理由だ。他に、スプレー糊を使う手もある。これについても、私が幼少のみぎり洗面所脇の壁一面にスプレーを施し、スパンコールで星座を描いてしまったかどにより使用禁止となっている。随分と叱られたはずだが、なぜかその星座ははがされずにそのまま残っている。

 と、いうわけで愚弟が使うのは古来よりの定番ヤマト糊。少し前まで大流行りだったらしいタピオカで作られた、由緒正しきでんぷん糊である。

 カッターも父のやたらと尖ったよく切れるカッターは使わせてもらえない。お道具箱から取り出した、黄色い工作用のカッターで作業を進めている。

 コンタは、縦横の縮尺が1/100000、但し高さについては10m毎に厚さ3㎜のスチレンボードを貼り付けているので3/10000と強調されている。さらに愚弟が急に思い付いたことなので準備ができず、たまたま父の手元にあった残りしか在庫がない。A2の木枠全体のコンタを作るには材料が少し心許なく、父の助言で荒川と多摩川の間を作り、時間や材料にもし余裕があれば他の場所を作るという方針となった。そこまでで終わってしまっても、武蔵野台地の模型として体裁はとりつくえるだろう、とのこと。

 坂だらけのここ番町や麹町、さらには平河町や九段に武蔵野の名を冠し、しかもそれが台地となると相当の違和感がある。それでも地形としての区分で言えば武蔵野台地という呼び名で問題ない。「武蔵野」と言うと仲間はずれにされる我が一番町もそこに「台地」が付くと仲間に入れてもらえるのだ。

 愚弟が自由研究の課題にコンタ作りを始めた理由は聞いていない。昨年の仕置きが堪えたのか、幼心に反省のつもりだったのか、そもそも全く関係ないのか。洪水が起きたときにどこが危ないか、といった着想から始めた課題だろうと言ったら少しかいかぶりすぎか。やり始めてしまえばこういったみみっちい作業は愚弟の得意とするところである。今も黙々と作業を進めている。

 



 居間に広範な領地を確保して作業をすすめる愚弟の仕事は、覗くつもりがなくても目に入る。丁寧に等高線に沿って切り進めていたらしいコンタは、すぐに一応の形を作っていく。父の助言に沿った武蔵野台地はほどなく完成しそうだ。

 コンタの東端は中央区、江東区を越えた江戸川区。標高の低い地域がよく分かる。西は青梅まで。こちらは武蔵野台地からの余白があまりなく、過度に山が目立たないようにしてある。武蔵野台地が主役になるように切り取られた、綺麗なバランス。こうなるよう仕組んだのは図面を用意するときの父の差配だろう。この程度の助力であればとがめ立てされるようなことはあるまい。

 地形を表した図は日本全体を表したものを思い浮かべてしまい、関東平野が一面真っ平らな感覚でいた。

 武蔵野台地には明らかに台地といって差し支えない存在感がある。しかし、幾多の川筋によるひびわれと、高いとはいえない標高をさらに頼りなくする高低差が心許ない。確かな存在感と今にもくずれおちていきそうな頼りなさの同居は、日本人の美的感覚によく合っていると思う。コンタで確認できるひびわれや低地は、実際にその地を歩く者に適切なスケールの高低差からなる景観の変化を提供することだろう。

 愚弟の自由研究の出来を疑うつもりはないが、ネットでも地形を確認してみる。関東の地形を検索すると国土地理院で公開されているデジタル標高地形図なるものが出てくる。こちらの画像は綺麗なCGで、南の多摩丘陵や北の利根川流域とも比較しやすく、カラーで分かりやすい。

 愚弟が作ったのは武蔵野台地だけなのでその南北は真っ平らである。だがもうスチレンボードも端切れしか残っていない。素直に武蔵野台地のコンタ、ということでよかろう。

 精度でCGの画像に勝てるとは思えないが、それでも真っ白な階段で作られたコンタはなかなかに壮観であり、カラーのCGとはまた趣の違う良さがある。

 狭山湖近辺の等高線が入り組んだあたりが若干怪しいか。さらに細い川筋を青鉛筆で描いてごまかしているところがあるが、こちらもお目こぼし頂きたい。とはいえ見比べても大きな誤りは無く、他に愚弟の制作物にケチをつける箇所はなさそうである。賢弟とはいかないが名前で呼んでやるぐらいは許されるのではないか。よく頑張ったぞ、拓。




 拓の自由研究がまとまりそうなのを見てゆったりと湯につかる。

 風呂からあがると、拓はまだコンタの続きを作っていた。今は標高が低い部分に絵の具で青色を塗っている。有楽町から東側は真っ青だ。

 見ると、コンタの皇居のあたりになにか円筒状のものがのせられていた。もう今ではみかけることはなくなったが、昔父が携えていたカメラのフィルムを収めるプラスチックケースのような形とサイズ感。

「なにこれ」

「安全地帯。台風が来たときとか」

「洪水が起きても大丈夫ってこと?」

「そう。ここに逃げればみんな助かる」

「そっか」

「かっこいいでしょ?」

 全然かっこよくない。こんな江戸城再建案が出たら満場一致で却下だ。だが、心意気は買いたい。台地のすみっこに設けられた避難所。これなら落ち着き次第台地に逃げられるし悪くない。

「うん、かっこいいよ」

 褒められれば誰しも嬉しいものだ。得意になった彼は自信を深める。

「お父さんたちもほめてくれた。明日はこれ持ってく」

 武蔵野台地のコンタと、謎の江戸城避難どころ。

 この自由研究を仕上げた拓が災害のニュースではしゃぎまわることはもうないだろう。

 少し分かりにくいけれど、担任の先生が彼の成長に気付いてもらえたら嬉しい。

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