第32話 大地の虎は日暮れを見る
一虎は、夢を見る。
幼い日の記憶。同じ年に生まれた子供は15人。15人で、墨天坑で集団生活をしていた。
毎日2個ずつ与えられる不味い携帯食料。子供には適切な量のカロリーと栄養を。
たまの外出は目隠しをして、墨天坑から少し離れたところで開放される。
なぜなのかは、わからない。友人のサクマとアビは、何も気にせずに太陽の下を走り回る。
いつか、大人になればわかるのだと思う。一虎少年もそれに混じる。
一虎少年は本を読む。地上が燃やし尽くされる前の物語。希望があった時代の話。
理想郷の人間は、どのような体つきをしているのか? 予想図として描かれていた。
少ない資源で生きていける、小柄な体格。目は大きく、表情が分かりやすいため意思疎通のトラブルがおきにくい。共感にまつわる脳の部位が発達している。
夢物語だった。大人になって、アビは墨天坑の奥深くに行った
一虎ももう、大人だ。
目の下に墨を塗る。消し炭を動物の油脂で固めたものだ。鏡の中には飢えた目をした虎が一頭。子供の頃の顔とは見違えるような風貌。
一虎の朝は、地上の民の『お世話』から始まる。
地上の民は理想郷の人間ではない。
小柄な体格は栄養失調のため。脳も表情も崩れている。目が大きく見えるが、それは瞳孔が開きぎみになっているからだ。
隈も酷いので、目の下を黒く塗って誤魔化すものもいる。本来、これは眩しさを軽減するためのものである。
『喫煙』テントを開ける。重なったまま眠る男女、脱力して動けない男、口の端を吐瀉物で汚しながら動かず一点を見つめ続ける女。みんな成人だ。
この光景は子供に見せてはいけない。子供がいない世界で、一虎は行き場のない嘲笑をひとつ、吐き出す。
灰と、あらゆる汁を掃除する。毎日する。
このテントから出られない人間が、どれほどいるか。先週3人増えた。そして2人は、ここから運び出された。
テントから出ると、朝日が見えた。世界で一番綺麗な景色は夕暮れだが、朝日も嫌いではない。
蒼電塔の管理人たちが来る。配給が始まる。
地上の民に与えられるのは、固形食糧3つ。そして葉巻が3本。
医療スタッフの一虎には、固形食糧4つ。働き者の一虎くんには、十分な量のカロリーと栄養を。葉巻は無い。
午前中、シラフの友人サクマに出くわす。
「今日は珍しく元気だな」
サクマは、子供のときに作った熊のお守りをいつも首にさげている。一虎も虎のお守りを作った気がするが、どこかになくしてしまった。
サクマは草原にキャンバスを立てて、絵を描いている。顔料の作り方は新人類が教えてくれた。
「これは、新人類が信じている火の精霊熊。これが、神話に出てくる日を喰らう怪鳥、これは、救いの神虎……」
サクマはおもむろにポケットから煙草を取り出す。そして無尽ライターで火をつける。
「ああ、夕日だ……」
酔って見る夕日は綺麗だ、色が何倍も鮮やかに見える、とサクマは語る。
嘘だ。
サクマの絵は狂っている。恢色の太陽。それを喰らう鳥は左半身しか描かれていない。新人類の信仰に、そのような記述はない。
サクマは、もう目がほとんど見えていないのだ。命も、もう長くない。先月の検査で、一虎が自ら調べたことだった。
「綺麗だな。眩しい」
一虎は太陽を見た。まだ日は高い。
昼。塔の民と共に、新人類の村に向かう。たくさんの固形食糧でリュックはいっぱいだ。
新人類の老人。
「もうかりまっか?」
塔の人々とともに、家に帰る。たくさんの葉巻でリュックはいっぱいだ。
「ぼちぼちでんな」
塔台守の誰かが呟く。
夕方も、一虎は地上の民の『お世話』をする。
喫煙テントを開く。あらゆる汁と滓を掃除する。人々の健康観察をする。
体温、心拍数、血圧。瞳孔に反応。
今日はひとり、テントから運び出すことになった。
死亡者の名はサクマ。死因は吐瀉物による窒息死。
珍しいことではない。ただ、シオンから『ハッピーエンド』を奪えてさえいれば、結果は変わっていたかもしれない。
「“蓬莱の民は、最後に皆でハッピーエンドを服用しました。誰一人、健康被害も見当識障害も起こしませんでした”」
シオンはそう言っていた。
一虎は、深くて大きな穴を掘る。シャベルで大きな穴を掘る。今朝、サクマが絵を描いていた場所だ。少し迷ったあと、離れた場所に小さな穴をもう一つ拵えた。
サクマの遺体を横たわらせて、熊のお守りを握らせる。
よく乾いた木を集めてきて、動植物の油脂も投入する。よく燃えた。たくさん煙が出た。
サクマのポケットに残っていた煙草に火をつける。遺体を焼くそれとは違う、大嫌いな煙の匂いが、少しだけ意識を覚醒させる。
数十秒の躊躇と、数回唾液を飲み込んだあと、一虎はそっと葉巻に口をつけた。
久方ぶりに味わう、固形食糧以外の味。苦味の中にささやかな甘い風味。
一虎は、先程拵えた小さい穴に勢い良く嘔吐した。分かりきっていたことだった。
一虎は、なぜか体質上この煙に酔うことはできない。しかし、だからといって塔や坑の中で生きていけるような精神性ではない。
塔の人々のように達観はできないし、墨天坑の人々のようになるには一虎は地上のことを知りすぎた。
できることなら、この煙だけでも味わいたい。
地上の民は、物質的な酔いを享受している。
しかし、他の2つも同様に酔っているのではないか?
墨天坑の愚神派たちは、「自分達には世界を救える。地上の民も塔台守もその道を探している」という嘘に酔っている。
塔台守たちは、「墨天坑の愚神たちに嘘を、地上の民に食糧と草を、宇宙の誰かに救いの声を届ける」という使命に酔っている。
ならば、一虎は?
酔えない虎は、何に酔って生きていけばいいのか? シオンを取り逃がし、ハッピーエンドを手に入れられなかった虎は、何に縋ればいいのだろうか?
「“ハッピーエンドが効かない者は居ませんでした”」
シオンはそう言った。
「……少し、冷えるな」
数日前介抱したサクマは、寒がっていた。気がつけばもうとっくに日は落ちている。
「まぁ、風邪を引いてもいいか」
一虎は火葬の火から少し離れて、横になる。雲一つない。満点の星空だ。塔の民は、この空の向こうに救いを求めている。
忌々しい景色だ。
目を閉じる。瞼の裏では、火葬の幻聴が夕陽の幻を連れてくる。
また日暮れを見たい。明日も、その先も。
そうだ、人類の日暮れを見よう。誰よりも長生きしよう。
夜が来る。
テントのまわりでは、篝火が焚かれる。
墨天坑は老朽化が進んでいる。電力供給が復活しようと、あまり住みたい場所ではない。
大地の民は地上で眠る。地上で救いの夢を見る。
そしてまた朝が来る。サクマは骨と、灰になった。一虎は2つの穴を静かに埋め戻し、黙祷を捧げた。
今朝の『お世話』は掃除だけで済んだ。灰と膿と脂汗と土と涙で、顔と手がぐしゃぐしゃだ。石鹸で洗う。
鏡の中には、ただの人間がいた。
配給の固形食糧をカバンに入れる。
「一虎ちゃーん」
ウミノが駆け寄ってくる。
「昨日は資料読みふけってもうて、言いそびれたんやけど、」
ウミノはポケットから小瓶を取り出した。
「これ、シオンちゃんから預かっててん。『きっと、これを一番必要としているのは一虎さんですから』やってさ」
小瓶の中身は合成甘味料だった。
久しぶりに、朝食をウミノととる。
ウミノが持ってきた弁当は乾した肉、今朝摘んできた果物。
一虎の朝食はいつもの固形食糧、そして合成甘味料。
一虎は、ビンの中身をバサバサと食糧に振りかけた。
「って甘……ッ!」
「食べてから言えって釘さされてるねんけど、シオンちゃんから伝言。『ひと振りで充分ですよ』やって」
「してやられた」
吐きそうなほど甘いエナジーバーを、一虎は、もそもそと食べ切った。
一瞬の、ささやかな笑みがそこにあった。
シアンの彼方 山猫店長 @wildcatmaster
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