夫の異変

…この家の中が、あの香り以外で満たされるという事が、こんなにも幸せな事だったなんて、思いもしなかった。


この数日間、部屋中に充満する強いワスレソウの匂いのおかげで、ようやくあの忌々しい香りを忘れる事ができた。


それはマリーにとって、久しぶりに感じる事ができたとても穏やかな気持ちだった。


…もしかしたら、これで誰も恨まなくて済む

のかもしれない…


そう思っていたのも束の間…


いまだ意識がはっきりとせず、深いまどろみの中にいたマリーは、夢と現実の狭間で思い出したくなかったはずの過去の事を思い出しはじめていた。


夫の帰りが遅くなったのは数ヶ月ほど前からだった。


運送業という仕事上、天候や仕事の内容に左右されて予定よりも夫の帰宅が遅くなるという事はこれまでにも何度も経験している事だった。


だが、ここまで毎回帰宅が遅くなる事なんて事は、この数年を遡ってみても今までにない出来事だった。


マリーが夫の異変に気がついたのは、本当にふとした瞬間だった。


以前の夫であれば、長い旅先から帰宅した直後というのは必ずマリーの入れた紅茶を飲んで、一息ついてから湯浴みに行っていた。


だがある日から突然、彼は帰宅するや否やマリーとの挨拶もそこそこに一直線に風呂場へと駆け込んでしまうようになっていた。


一度風呂場に行ってしまえば、あとはいつも通りの夫に違いないのだが、久しぶりに帰ってきた夫と紅茶を飲みながら、旅先の他愛もない話を聞くそのひとときに幸せを感じていたマリーだっただけに、その夫の異変はとても寂しく、そして理解しがたいものであった。


ある日夫が湯浴みをしている最中に、彼が脱ぎ散らかした服を洗濯しようと、夫の服をまとめた際に、マリーの鼻先へとある匂いがふわりと届いた。


それは仕事終わりの男性の作業服から香るにはとても不自然なくらいに甘い匂いで、マリーにとってもあまり嗅ぎ慣れない香りだった。


…まるで若い女が好んでつけるような香水の匂い…


そう思ったその瞬間…


マリーの中で眠っていた女の直感が一瞬にして心の奥にある沸々とした怒りを湧き上がらせながらマリーの表情とその全身を強く強張らせていた。


本来であれば夫が帰ってくる予定だったある日、夫から「仕事先でトラブルがあった。少し帰りが遅くなる」との手紙が届いた。


最近ではもっぱら夫が仕事先からよこしてくる手紙はいつもこんな内容ばかりだったので、マリーはその手紙の内容に正直うんざりしていたのだが、それでも手紙の最後に記されている彼からの“愛している”の一文と、いつも手紙と共に添えられている小さな花だけがマリーの支えとなっていた。


”この花を僕だと思って大切にしてね”


ふといつも肌身離さず持っているそのカードに目を通す。


それは若き日のロビンソンがマリーにプロポーズした際に花と一緒に添えられていたメッセージカードだった。


…あの人は昔から、私に花を送るのが好きだったわね。この花もきっと旅先で見つけて摘んできたに違いないわ。


そんな事を思いながら、マリーは夫からの手紙に添えられていた小さな花を、大切そうに自分の手帳へと挟んだのだった。


翌日、市場へと買い物に出かけたマリーは、一人で街中を歩いている夫の姿を発見した。


…もう戻って来たんだわ!


マリーは咄嗟にそう思ったりもしたが、夫は昨日仕事で帰りが遅くなると手紙をよこしたばかりで、その手紙に記されていた場所もここから3日はかかる街だった。


手紙の内容からしてみれば、どう考えても今この時間に夫がこんな場所にいる事など、とても考えられるはずがなかった。


マリーがそんな風に不審に思っていると、夫はふいに人目を気にしながら小さな路地の奥へと入っていった。


普段であれば気軽に声を掛けるところであったが、夫のそのあまりにも違う挙動に、マリーも思わず物陰に身を隠しながら夫の跡をつけて行った。


路地を抜けた夫は、ある小さな家の前で立ち止まった。


そして険しい表情で周囲をしばらく見渡すと、そのドアを数回ノックした。


そのノックは普段自分たちが何気なく使用しているようなノックとは違って、少しリズミカルな、まるで誰かと示し合わせている暗号のような音だった。


そのノックに応じるかのように、その家のドアが勢いよく開く。


家の中から現れたのは、若い金髪の女性だった。


ドアを開いたその女性は花のように可愛らしい笑顔で夫を招き入れた。


まるで新鮮な果実のような若々しさ。

家事や仕事に追われ、いつの間にかマリーが手放してしまっていた美しさがそこにはあった。


夫が家へと入るその瞬間、若い女性はいてもたってもいられないといった様子で夫の首元に抱きつき、そしてそのまま夫と熱いキスを交わした。


物陰からその様子を眺めていたマリーは、憎しみと悔しさで歯を食いしばりながら、自分のスカートの裾を強く強く握りしめたのであった。


「良かった!マリー!気がついたんだね!」


そう言って目覚めたマリーをロビンソンが強く抱きしめた。


気がつけば。

いつの間にかマリーはいつも自分が座っているロッキングチェアからベッドの上へと移動させられていた。


目覚めたマリーの手の中にはスカートではなく、手元のシーツが強く握られていて、その事からも先程の忌々しい光景が、ただの夢であったのだと再認識する事が出来た。


ふと見渡せば、あんなに置いてあったはずのワスレソウは全て片づけられ、部屋中の窓が開けられていた。


落ちかけた陽に伴って、冷たい風が部屋の中へと吹き込んでくる。


…あぁ…あの花達がこの部屋からなくなってしまったから、あの時の嫌な思い出が蘇ってしまったんだわ…


そう思った瞬間、マリーの表情が哀しみと虚しさで激しく歪んだ。


部屋の中の異変はそれだけに留まらず、見知らぬ少年と、そして何故かあの日キジマ魔法堂で出会った少女と鳥が、何やら忙しそうに動きまわっている。


「とりあえずここに置いてあったワスレソウは全て処分して、換気も済ませておきました。奥さんの意識も戻った事ですし、ひとまずはこれで大丈夫でしょう。」


まだあどけなさが残るその少年は、マリーとロビンソンに向かってそう伝えた。


そう話す少年の肩の上に乗っている鳥の姿を見たマリーは、本来であればこの子があのキジマ魔法堂で、自分に魔法道具を販売する予定だったんだろうと密かにそう理解していた。


「良かった、マリー!君に何かあったりしたら私は…!」


そう言って再びマリーを強く抱きしめたロビンソンの声はすでに涙ぐんでいる。


「…嘘つき。」


マリーはロビンソンの腕の中で、彼には聞こえないくらいの小さな声でそう呟いたのだった。


       ◇◇◇


「初めて魔法道具というのを実際に見ましたが、結構怖いものなんですね。」


帰りの馬車の中で、イサベラが不安そうな表情でそう呟いた。


外はすでに暗い闇の中へと包まれていて、馬車の荷台の中を一台のランプの灯りだけが照らしている。


…魔法道具さえあれば、どんな願いも叶えられる————…


そんな希望を胸に抱きながら、はるばるこの地にまで足を運んできた彼女だっただけに、今回のマリーの豹変ぶりはよほどショックなものだったようだ。


「どんな道具にも使い方っていうものがあるでしょう?このランプだってこうやって灯りとして使えば便利な機能がある反面、ひとたび倒してしまえば炎が舞い上がり、この馬車に火をつけることだって可能なんです。要は使う人の心掛け次第って事ですよ。」


そう言ってコルクは灯りがともされないままに床に置き去りとなっていたランプの埃を、その手で軽く払うと火打石で火をつけて荷台の壁へと吊るした。


「どんな薬にも使い方次第によっては毒にも薬にもなりうる。魔法道具だって同じ事ですよ。」


コルクが吊るしたランプにより、一層荷台の中が明るく照らされはじめた。


『デモアノ人、オーナーから渡サレタ葉っぱヲ使わナカッタンダネ。』


「どういう意味ですか?」


ポトフの言葉にコルクが思わず顔をしかめる。


『アノ時、オーナーは多分ペドロはワスレソウを渡スダロウケド、アノ女性は過剰使用ノ危険性がアルカラッテ、ワスレズノ葉っぱをペドロの店マデ届ケルヨウニ言ワレたンダ。多分ペドロもチャントあの人二渡シタト思うンダケド…』


「ペドロ!?まさかあのご夫人にワスレソウを渡したのはペドロなんですか!?」


ポトフの言葉をそこまで聞いたところで突然コルクが驚きの声をあげた。


驚きのあまりその場で立ち上がったコルクの動きに合わせて、ランプが荷台の壁へと映し出していたコルクの影が大きく揺れる。


「おかしいと思ってたんです!ポトフは別として、オーナーは今、直接魔法道具を客に売ることは出来ないはずですからね。…てっきり僕の帰りが遅いんで他の魔法商人でも紹介したんだろうなとは思っていましたが…まさか彼女に紹介した相手がペドロだったなんて…」


そう言って考え込むコルク。コルクの動揺に合わせて彼のその宝石のような瞳は小さく揺れ動き、その表情もかなり曇ってしまっている。


「どういう事ですか?…あのワスレソウを渡したのがペドロさんだったら何か都合が悪い事でも…」


そう言って心配そうにコルクの顔を覗き込むイザベラ。そんなイザベラに対して、コルクは溜息をつきながらこう答えた。


「大ありですよ。ペドロは同じ魔法商人でも普通の魔法商人ではないんです。”似て非なるもの“…我々はそう認識しています。オーナーもそれを十分理解しているはずなのに一体何故…」


そう言って自分の顎に手をやりながら深く考え込むコルク。


「急ぎましょう。確認したいことがあります。」


馬車がキジマ魔法堂の店舗前にたどり着いたその瞬間、そう呟いたコルクは急いで馬車の荷台から飛び降りたのだった。

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キジマ魔法堂2〜在りし日のワスレソウ〜 むむ山むむスけ @mumuiro0222

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