妻の喪失
「…寝ナクてモ大丈夫ナノ?コルク…」
いまだ眠気を纏ったまま、はっきりとは覚めきれずにいるコルクの肩上で、ポトフが心配そうにそう声を掛けた。
男が店の中に入って来てすぐの事。
男のそのただならぬ雰囲気を察したコルクは、ポトフを連れて店の外へと出た。
店の前には彼が準備したと思われる立派な馬車が止まっており、馬車の前にはその男と同様の農夫のような格好をした中年の男が手綱を握っていた。
男がその馬車の荷台へと乗り込んだのを確認したコルクは、同じくその馬車の荷台へと登っていった。
その馬車は乗客を乗せる専用には造られていないようだったが、それでも数名が乗り込んだところで、まだまだ余裕がありそうなくらいの広さは誇っていた。
「…私は運送業をしていてね…」
ちょうどコルクと向かい合せとなるような形で荷台の壁へともたれかかりながら座った男が、コルクに向かってそう呟いた。
…道理でこんな立派な馬車を所有している訳だ…
コルクがその男の言葉に合わせて再び馬車の内部を見渡していると…
「よいしょ。」
そう言ってイザベラが何食わぬ表情で馬車の荷台へと乗り込んで来た。
「えっと…あなたは一体何をなさっているんです?」
そんなイザベラの行動を、呆れた表情で眺めているコルク。
一方のイザベラの方はというと、コルクのそんな態度になど全く構う様子すらなく、コルクの横の床にちょこんと腰掛けながらこう答えた。
「…もちろん、私もついて行くんです。一週間以上も待たされたっていうのに、これ以上他のお客さんに順番抜かしをされてしまってはたまりませんから。」
そう言ってにっこりとイザベラが微笑むのと同時に、馬車は目的の地へと走りだしたのだった。
◇◇◇
「今朝、家に帰ったら妻の様子がおかしくてね。先日会った時には普通だったんだが…あまりにも突然の事で私自身も相当驚いているよ。」
馬車をしばらく走らせた後、ようやく男がそう言って言葉を漏らした。
コルクは馬車に揺られる心地良さで時折意識が遠のきそうになりながらも、そんな男の話に静かに聞き入っていた。
彼の名前は、ロビンソン・K・シュタイン。
馬車は今、男の故郷である町へと向かっていた。
グルバの町————…
キジマ魔法堂のある町から三つ先の町にそこはあった。
ナキリ山脈の麓にあるグルバの町は、その広大な土地と土壌の良さから野菜をはじめとした沢山の作物が特産品として採れる事で有名であり、現にコルクもオーナーが薬品を作る際に使用する材料を取り寄せる為に、何度かこの街を訪れた事があった。
この街ではロビンソンのように馬車で地方に農作物を売りに行く運送業を生業としている者達が多く在住している。
多分この馬車も、ロビンソンが普段から仕事に使用していたものなのだろう。
荷台の端には小さな野菜のくずやちぎれた古い値札のようなものが多数残されていた。
細やかな砂利道の上を、軽快に進んでゆく馬の
「奥さんの様子がおかしくなったのには、何か原因となるような事があったのですか?」
険しい表情のまま、静かに床を見つめ続けているロビンソンに向かって、コルクが突然そう尋ねた。
「…それが全く。実は私は仕事の都合上、しばらく家を留守にする事が多くてね。今回も久しぶりに帰ってみるとすでに妻の様子がおかしくなっていてね…だから恥ずかしながら私には妻がおかしくなってしまった原因というものが、全く思い浮かばないんだよ。」
そう行って男は困り果てた様子で自分の頭を掻きむしると、ズボンの後ろポケットからあるものを取り出した。
「…ただ…おかしくなってしまった妻の足元にはこの封筒が落ちていてね。妻のこの異変には、そちらの店が何か関係してるんじゃないかと思って向かってみたんだよ。」
そう言ってロビンソンからコルクに手渡されたのは、一枚の白い封筒だった。
その封筒を、隣にいたイザベラが覗き込む。
ロビンソンからその封筒を受け取ったコルクは、すぐにその封筒を裏返して刻印を確認してみた。
封筒の裏には確かに黄色い縞模様の刻印で封をされた形跡が残されている。
「…これは、確かにウチの店の封筒ですね。」
その刻印を確認したコルクは、ロビンソンに対してそう答えた。
—————キジマ魔法堂。
店の象徴となる刻印が”黄色の縞模様”である事からその名前がつけられた。
封筒の刻印が自分の店の物である事を確認したコルクは、そのまま封筒の中も覗いてみる。
本来であれば注文書や領収書を手渡す際などに使用している封筒ではあったのが、生憎コルクが現在手にしているこの封筒の中には何も残されてはいなかった。
「…ちなみに奥さんがおかしいというのは…?」
「…見てもらえば分かる。」
そう言ってコルクからの質問に答える事もなく、ロビンソンは止まった馬車の荷台からそのまま外へと飛び降りて行った。
ロビンソンに続いて地面の上へと降り立ったコルクは、いまだ荷台に残されていたイザベラに向かってそっと手を差し伸べると、彼女が馬車からゆっくりと飛び降りる動作を優しく手伝った。
イザベラが地面へと着地した瞬間に、ふわりと彼女の履いているスカートの裾が揺れる。
その緩やかな優しい動きに、この場所の気候の良さを自分の肌で実際に感じながらコルクは辺りをゆっくりと見渡してみた。
馬車が止められたその場所は、グルバの街並みから少し離れた郊外にある普通の民家だった。
…よほどこまめに手入れをされているのだろう。
市場に出せるほどの量はないとはいえ、それでもその広大な庭では様々な花や野菜が均等に植えられており、たわわに実ったそれらの作物達は、太陽の光を一心に浴びながらその葉や実などを懸命に風にそよがせている。
畑の向こうには小さな小屋が建ててあるようだが、それはきっと農作物や農具を入れておく場所として使われているのだろう。
「入ってくれ。妻はこの中にいる。」
そう言って男は自宅の扉を開いた。
その瞬間、コルク達が乗って来た馬車は、農夫の手綱さばきを合図にその家の前を軽快に走り去って行った。
男に案内され、家の中へと入ったコルクとイザベラはそのまま周りを見渡した。
家の中は綺麗に整頓されており、窓辺やテーブルの上へと飾られている色とりどりの花達のおかげか、その家の中にはわずかに甘い香りが漂っていた。
「…奥さんは花が好きなんですね。」
そう言ってテーブルの上に飾ってある花の花弁へと触れ、そっと匂いを嗅いだコルクの後ろで、イザベラはふと壁に掛けられているフードへと目を止めた。
…このフードは確か…
そう思ったイザベラの脳裏に、あの日キジマ魔法堂に訪れたあの婦人の姿が目に浮かぶ。
「妻はこの部屋の中にいる。」
そう言ってロビンソンがその部屋の扉を開けたその瞬間————…
「…うっ」
突如部屋の中からコルクの鼻先へと押し寄せてきたそのむせ返るような花の匂いに、思わずコルクは自分の頭に巻いていたターバンの端で口を押さえると、急いでその部屋の中へと入り、そのまま勢いよく窓を開いた。
コルクは、ターバンで口を押さえたまま窓から顔を出して大きく咳込んでいる。
フードに見とれていた事で、コルクの異変に気がつかなかったイザベラがようやく部屋の外から中を覗き込んだ。
部屋の中には満開に咲いた水色の花の鉢植えが、所狭しといくつも並べられている。
その数は、数十個といったところか。
…まるでお花畑…
よくぞここまで大量の同じ鉢植えを準備できたものだなとは思いながらも、部屋の外から中を覗いていたイザベラの率直な感想はまさにそれだった。
コルクが勢いよく窓を開けた事によって、突然部屋の中へと吹き込んで来た強い風が、その部屋のカーテンを高く舞い上げる。
その強い風によってイザベラは思わず顔を背けた。
『…アァ…コノ人はモウ…』
その瞬間、イザベラの耳へとそんな小さなポトフの呟きが届いた。
それはあまりにも冷静で、そして穏やかなはずなのに、何故か沢山の哀しみを纏ったような切ない言葉だった。
ポトフのその言葉の意味が全く理解できないままに、イザベラはゆっくりと顔を上げた。
風が過ぎ去ってゆくのと同時に、高く舞い上がっていたはずのカーテンが、ゆっくりと元の位置へと戻り始める。
その瞬間…カーテンによって遮られていたはずの女性の姿が、徐々に露わとなってきた。
…ギィ…ギィ…ギィ…
椅子に座っている彼女のゆっくりとした前後運動に合わせて、揺れるロッキングチェアの足元からは床が軋むような音が規則的に響いていた。
「こんにちは。お邪魔していま…す…」
ようやくその女性の姿を捉え始める事のできたイザベラが、そう言って彼女に向かって声をかけたその瞬間————…
イザベラは、思わずその場で自分の口を両手で強く押さえ込みながら息を呑んだ。
先程までの吹き抜けるように強い風とは対照的に、今では優しくそよぐ小さな風が、窓際のカーテンをわずかに揺らして続けている。
不規則に揺れる、真っ白なカーテンレースから見え隠れしていたのは…
まるでミイラかのように痩せ細った、あの日イザベラが出会った妙齢の婦人であった。
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